第26話希望と暗い歴史

 エレーナとスターシア、そしてバレンティーナといったトップライダーとの差を目の当たりにして、自分の未熟さを思い知った愛華であったが、元々謙虚な姿勢でレースに取り組んでいたので、いつまでも落ち込むような事はなかった。確かに少しは自信を持ち始めていたが、決して過剰な自信ではなく、少しでもエレーナやスターシアに追いつけるよう、努力を欠かしたことはない。


 ラグナセカのラストスパートについて行けなかった事で、エレーナをがっかりさせてしまったのでは、という如何にも愛華らしい心配をしたが、勿論その事でエレーナは落胆などしていない。


 ただ単独でトップになってからのペースダウンを注意された。エレーナには、あの時愛華が中途半端に迷っていた事は知っている。しかしその迷いが一番危険だと、愛華に対して珍しく強く言った。


「ライダーにとって、迷いは最悪の思考だ。迷いは間違った決断よりが悪い」


エレーナの言葉は愛華の心に刻み込まれた。



 それ以外エレーナは口にしなかったが、愛華がそのままトップでチェッカーを受けていれば、バレンティーナとエレーナのポイント差はもう少し小さかったはずである。

 レースに「もし」も「れば」もないが、レース中の迷いは絶対禁物である。ポイントを取りこぼすだけならいいが、瞬時の対応が求められるレースの世界では、迷いは最悪の結果を招きかねない。



 愛華のライディング技術そのものは充分にGPでも通用するレベルに達している。予選のタイムを見れば明らかだ。コースによってはエレーナたちをも上回っている。ただレースの走りがまだ身についていない。予選とレースは違う。


 単独で走るタイムアタックは、自分のベストのラインを走れる。マシンの特性と自分のスタイルに合わせ、コースに対して理想の走りを追究する競争だ。


 だが、決勝レースでは相手がいる。チームメイトもいる。ストレートでは、スリップストリームによって、マシンの性能以上のスピードに達する。パスするためにベストとは違うラインを走る。ライバルは抜かせないように、こちらの狙うラインを塞いで来る。


 コーナーへの進入速度が速くなれば、ブレーキングポイントも変わる。走行ラインが車体一台分もずれれば、クリッピングポイントも変わって来る。アクセルオンのタイミングも、相手の動きを読まなくてはならない。


 理想の走りなど出来ない。それどころか、同じコーナーでも毎周違うコーナーリングをするようなものだ。レースでは、絶えず変化する状況に対応するテクニックと判断力が要求される。相手と心理の探り合いもある。


 これには経験が必要だ。教えられるものではない。ラニーニとの競り合いで少しは感じたろう。愛華には高い運動能力としっかりとした基本がある。今は少しでも多くの経験を積ませてやりたい。何しろ最高のチームメイトとライバルたちが揃っているのだ。新人には過酷ではあるが、理想的な環境である。



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 ラグナセカの翌週のインディアナポリスでは、愛華とスターシアが序盤から全力でエレーナを引っ張り、レース終盤で唯一喰らいついていたラニーニを愛華が抑えている間にエレーナが逃げ切り、今季三勝目をあげた。


 アップダウンの少ないインディアナポリスのインフィールドは、練習してきたツェツィーリアの滑走路と同じようなフラットで、愛華にとって走りやすいコースであったが、ゴール直前でラニーニにかわされたのは悔しかった。スタートからスターシアと共に全力でエレーナを引っ張ったため、タイヤもエンジンもボロボロになっていた。エレーナの優勝に貢献出来た喜びは大きいが、べつのところでライバルに負けた悔しさも感じていた。今回、最後までラニーニにチームオーダーを出さなかったバレンティーナは、新しい車体にこれまでのエンジンを載せたマシンで挑んだが、セッティングが決まらず、愛華から少し遅れて5位でレースを終えた。



 この結果、エレーナは再びバレンティーナとのポイント差を縮め、逆転タイトルに期待を残した。




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『ジュリエッタのtype‐12のオーバーヒート対策は、一向に原因が掴めず、社内でも早く見切りをつけて新設計のエンジンを搭載すべきとの声もあるが、シーズン中に間に合う見込みはない。現在、インディアナポリスで使用した旧型エンジンを搭載したものとは別に、信頼性を優先した改良型をテスト中。パワーは若干落とされているが総合力では上回り、今も念入りなテストを重ねている。オーストラリアGP終了後、ライダー全員イタリアに戻し、本番同様のテストをする模様。順調に進めば、日本GPまでには間に合う見込み』


 スベトラーナは、キーボードで打ち込んだ送信文をもう一度読み直した。


 スベトラーナ・カラシニコワが監督を務めるプリンセスキャットは、GPでは中堅のチームで、ジュリエッタからマシンの貸出しを受けるサテライトチームである。


 所属するライダーは、そこそこのレベルではあるのだが、あまり目立った成績は残せていない。目立つのはレース専門誌でなく、いわゆるゴシップ記事を売り物にする週刊誌や夕刊紙の紙上だった。


 彼女たちの国籍は様々で、スポンサーもバイク関連以外では、あまり知られていない企業が何社かついているだけである。他の中堅チーム同様資金操りはいつも火の車のはずなのだが、スベトラーナがスポンサーを回ってレース資金集めに奔走する事はなかった。プリンセスキャットのスポンサー企業のほとんどが、ロシアの諜報機関が外国に創ったダミー会社である。


 スベトラーナは、GPチームの監督とは別に、諜報機関のエージェントという裏の顔があった。冷戦終結後は、政治や軍事的な活動をする事はほとんどなくなったが、現在でも経済的な情報収集や国家宣伝などの活動を行っていた。


 スベトラーナが特に担っているのが、イタリア最大の企業にしてジュリエッタを傘下に収めるトエニグループについての情報収集である。当然、彼女以外にも、トエニグループ本社内部へ潜り込んでいるエージェントもいるが、血縁で固められた重役連中には、彼女のような立場の方が接触しやすい。


 それともう一つは、実質国営公社であるスミホーイへの、ジュリエッタの情報提供とスミホーイのレース活動バックアップもあった。



 プリンセスキャットのライダーが、ジュリエッタのレーシング部門担当者との個人的交際で得た情報を、暗号化してモスクワに送信した。



 この情報は諜報部からスミホーイを通じて、エレーナにも伝わる。自分の情報がエレーナの益になるのはいい。エレーナの勝利は、スミホーイの勝利であり、祖国ロシアの益になる。ただその情報が、どのような経路でもたらされたのかは、エレーナには知られたくなかった。エレーナはそういうやり方を好まない。スベトラーナにとって、エレーナはそういう女性であって欲しいと願っていた。


 自分と自分の部下が、文字通り体を張って得た情報を有益に使われる事だけを望んだ。



 スベトラーナは、若い頃、彼女が最も尊愛した者の運命を、彼女自身が変えてしまった事を忘れたことがない。



 どうしようもなかった。それ以外に選択の余地がなかったのだから……。



 多くの国で、国家の威信と宣伝のためにスポーツに国力を注いる。むかしからスポーツはナショナリズムを煽る有効な手立てとして利用されてきた。特に社会主義国などは顕著で、旧ソ連はその代表であった。全土から選び抜かれたエリートは、オリンピックでメダルを獲得すれば、一生安泰とまで言われ、特権を与えられた。


 しかし、そんな英雄たちも、国にとっては同時に危険分子でもあった。国外遠征に行けば、一般国民の知らない外国の様子をの当たりにする。国のプロパガンダとは違う、西側の豊かで自由な資本主義経済に触れて、自国の政治体勢に疑問を持つ者もいる。一流の選手やコーチともなれば、彼らの才能と知識を欲する西側企業や団体からの誘惑もある。国家は彼らが反体制思想に染まったり亡命しないよう監視しなければならなかった。


 遠征中は、政治委員と呼ばれる監視が付いた。それだけでは飽きたらず、選手団の顧問をはじめ、監督やコーチ、そして選手同士に密告させるまでに恐れていた。


 やがて国家の体制維持を望む者たちは、監視者たちを危険分子の取締り以外にも使うようになっていった。オリンピックや世界選手権などの国際的スポーツイベントのホスト国は、国交のない国であっても、出場者を入国させなければならない取り決めがある。つまり大使館すらない国であっても、選手やコーチなら堂々と入国が出来た。場合によっては要人と接触する機会も多い。ここに目をつけた。


 冷戦終結後、かつてのメダリストが諜報活動していた事を告白し、スパイ映画さながらの事が現実に行われていた事実に世界は衝撃を受けた事があった。


 このように諜報部は、超一流と言われる選手を含め、世界で活躍する自国の選手を取り込み、利用していた。



 あの時代、誰が国家に逆らえた?巧妙に陥れられ、拒めば私が反逆罪に問われた。それだけならいい。私が拒んでも他の仲間が取り込まれるだけだった。


 私は祖国の為なんかじゃなく、ただエレーナとチームの仲間を守りたいだけだった。


 結果的に私の大切な人を陥れ、裏切り者になった。


 そんな私が、今もこの世界に居られるのも連中の後ろ楯があるからに他ならない。プッシーキャットなんて陰口言われながらも、私は祖国のために尽くしてきたつもりだ。ただ、あの人の運命を変えてしまった事だけは、消せない裏切り。エレーナやスターシアに恨まれても仕方ない。許されるはずもない。過去を変えられるなら……いえ、変えられるのは未来しかない。私に出来るのは、陰からエレーナを応援するだけ。たとえどんなに嫌われても……。



 スベトラーナは、潤んだ瞳を拭うと、狡猾なビッチの仮面に戻した。



 北米での二連戦を終えて、GPは太平洋を渡り、オーストラリア、マレーシア、日本と続くアジアラウンドに移っていった。


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