第3話

 イギリス中部の都市、ログポート。

 歴史ある古都の海岸線を西に走る。

 その海岸線から海を望む丘陵地帯に入る道を進み、百メートル程進むと、3階建てのアパートがある。

 石作りの古いが雰囲気のある、なかなかシャレた建物だ。

「ふぅ…」

 夜も明けようと空が白み始めた頃、一人の男がアパートに返って来た。

 男の名はエッジ。身体の特徴からみて、日系人だ。

 仕事が長引いたのか、かなり疲れているようだ。三階の部屋のドアを開けるなり電気もつけずにベッドに向かう。

 その時、ソファの脇でいきなり足に何かを引っ掛けた。

「―何だ?」

 四角い‥カバンのようなモノだ。

 エッジは部屋の入口に戻りライトのスイッチを点ける。

―パチッ―

 部屋の中がライトに照らし出された。


 そこは確かにエッジの部屋だった。

 だが、ソファの横には見知らぬカバンが置かれている。古びた茶色い革のトラベルバックだ。

 勿論そんなモノに見覚えは無い。

 エッジは慎重にゆっくりとそれに近づくと、さらに異様なモノに気付いた。

「?」

 小さな女の子がソファに横たわっている。

 一瞬、人形かと見間違える程端正な顔立ちをしたその少女は、微かに寝息をたてている。

 エッジは目を丸くした。

 その容姿は―いつしか夢の中で絵から抜け出して来た少女にそっくりだ。

 まだ十台半ばかそこらだろうか…ってのんびり眺めている場合じゃ無い。

(―なんだ、こいつは?)

 分けの分からない状況に固まってしまっている。

 少女の眉が『ピクッ』と動いた。ライトの明かりで目が覚めたらしい。

 少女の瞼が開き、つぶらな瞳が辺りを見遣る。

 すると―、エッジを見つけるやいなや『ガバッ!』と身体を起こして叫んだ。

 

「☆○×!!」

 エッジの表情が一瞬強張る。

 少女が何を言ってるのか全く理解出来ない。

 

「☆△◎□●!」

 少女はなおも懸命に話かけてくる。

 しかし、英語とも違うその言葉はエッジには全く分からない。判るのは何かを伝えようとしてる事と、敵意が無い事くらいだ。

(まいったな)

 そう心の中で呟くと、思わず頭をかいた。

「あーゴメンな、何言ってんだかさっぱり分からないんだ」

 そう言ってエッジは少女に背中を向けた。

(分けわからん…)

 頭を抱える彼の背中を、少女は思わしげな表情で見つめている。

 ふと、何かを思い付いたのか、少女は背中向きのエッジに向かって手を広げ不可思議な手の動きを見せたかと思うと、何やら呟いて手の平の上を(フッフッ)っと吹き掛けた。

 すると、目には見えない少女の息がエッジの両耳に入って行く。

「…これで通じる?」

 再び少女が話し掛けた。

「おぉ、通じる通じる…」

 エッジは軽く返事をしてから、一間置いて振り向いた。

 少女が少し自慢げな表情を浮かべている。

「‥お前、日本語分かるのか?」

 いきなりの事にエッジは目を丸くする。

 しかし「あなた日本人?」と、逆に驚かれてしまった。

「―?」

 話がなんか噛み合わない。

(まぁ、とりあえず通訳はいらない分けだ。…って悠長に構えてる場合じゃないな)

 

 そう思った矢先、少女がまくし立ててきた。

「あなた、ホントにこの部屋の主? あなた一人? 他にはいないの? 日本語しか話せないの? なんで-…」

「ち、ちょ‥ちょっと待てオイ!」

 エッジが慌ててその声を遮る。

「まず! 質問するのは俺からだ。…いいな?」

 エッジが静かに、強い口調で少女を説き伏せる。

 納得してないのか、少女はエッジを見つめてこう言った。

「いいけど、その内また言葉が通じなくなるわよ」

(? さっきから何わかんねー事言ってんだ、こいつは…)

 エッジはもう半ば呆れ顔だ。元々、彼は子供が大の苦手なのだ。

「じゃあ何語でしゃべりゃいいんだ? 俺が話せるのは日本語と英語位だぜ?」

「いいわ、日本語で話しましょ。あたしもさっきは取り乱しちゃったわ。ゴメンなさい」

 少女は気を取り直した感じだった。

(本気で分け分からん…このガキ)

 エッジはどっと疲れが出た。というより、ここで自分がひどく疲れている事をようやく思い出したようだ。

「あー、とりあえず君、名前は?」気を取り直して質問する。

「クリスティン、クリスでいいわ。。あなたは?」

(…!)

 彼女の名前にエッジは一瞬耳を疑ったが、あくまで平静を装おう。

「―エッジだ。クリス、…ここが何処だか分かるか? そう、俺の家だ。何故君はここに居る? どうやって入った?」

 クリスは黙ってエッジを見つめている。その大きな瞳は何かを訴えている様に見えた。しかし、いくら少女とはいえ身元不明のしかも勝手に人の家に上がり込んでるヤツに甘い顔をする程バカじゃない。

「…答えたくないか。まあいい、俺は今エライに疲れてるんだ。君が誰かは知らないけど、もし用があるならまた今度、連絡を入れてから俺が居る時に訪ねて来てくれるか?」

 もう、どうやって入って来たのか、何の用なのかなど、どうでも良かった。

 今はただ、早く横になりたい―それだけだ。

 そんなエッジの思い等まるでお構い無しのように、クリスが問い掛ける。

「ここに住んでるのはあなただけ? 他に住んでる人はいないの?」

「あー俺だけだよ。もしかして家間違えてんじゃないのか?」

 そうだ。そうであって欲しいとも願う。

「そう‥あなただけですか…」なにやら少女は考え込んでいる様子だ。

「分かったろ? 気が済んだらさっさと帰ってくれる?」

 エッジは冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口含むとクリスを帰るよう促した。

 しかし、クリスは全くお構いなしの様子だ。

「昨日は何故帰ってこなかったの?」

 いつの間にか質問責めにあってるのはエッジだった。十才以上年の離れた少女に、完全に会話の主導権を握られている。

「昨日? オイ、お前昨日からここに居たのか」

 さすがに聞き捨てならない様子だった。

 クリスは少し神妙な面持ちで切り出す。

「聞いて。私は昨日、ここで人と会うハズだったの。でも誰も来なかった。これは大変な事なのよ」

「人ん家を勝手に待ち合わせ場所に使うなよ」

 エッジは呆れたように言う。

「質問に答えて。何故あなたは昨日帰ってこなかったの? それとも…帰りたくても帰る事が出来なかった?」

 意味深な言葉にエッジがゆっくりと振り向く。

 暫くクリスを見つめて言った。

「…遊びは終わりだ。さっさと出ていかないとマジで叩き出すぞ」

脅したつもりだったがクリスは全く動じない。あくまで強気だ。

「お願い、話しを聞いて。勝手に入った事は謝ります。でもどうしてもそうしなければならなかったの」

悲痛な面持ちで話す少女の姿にさすがのエッジも折れざるをえない。

「…クリス。君、両親は? ここに来てるのは知ってるの? …知らないだろうなー多分」

 エッジのこの言葉に、気丈な少女は目に涙をためていた。しかし、決してその光は強さを失ってない。エッジはため息を付く。

「まいったな…分かった、降参だ。取りあえず話しを聞こう」


 彼はソファーに腰を降ろした。

いつの間にか、二人の間のテーブルには紅茶が乗っている。エッジ特製の紅茶だ。

 それを一口含んでから彼は切り出した。

「―それで、何を聞きたいんだ?」

 エッジも今度は真面目に聞く気になったようだ。クリスは紅茶を一口含んだ。

「! 美味しい」

クリスの表情が一気に明るくなった。

『こんなに良い表情(カオ)をする娘だったのか』

その天使のように屈託の無い笑顔を見てエッジも思わず笑みがこぼれる。

「だろう? こうみえても、昔はカフェをやろうと思ってたんだ。そこら辺の店よりはよっぽど旨い自信があるぜ?」

(ギュルルル―)と、突然、妙な音が聞こえた。

その音に反応するかのようにクリスが真っ赤な顔をして俯く。エッジは音の正体が何かすぐに判った。

(そういえばこいつ、昨日からここに居たって言ってたけど…まさか、朝から…?)

「おい…」

「改めて聞きます!」 恥ずかしさを隠すかのようにクリスが叫んだ。

しかし、彼女の言葉はエッジの耳には異様に聞こえた。

(冗談でやってるのか?)彼は眉を潜める。しかし、そうではなかった。

「何故昨日、この部屋に帰ってこなかったの? 昨日この部屋を訪ねる予定だった人とかは?」

クリスはエッジに問い掛ける―、英語で。

「何でいきなり英語なんだ? 今まで通りでいいだろ?」エッジは日本語で言った。それもかなり独特の訛りがあるようだ。

通じて無いのか、クリスはキョトンとした顔でエッジを見ている。

「オイ、人が真面目に聞いてるんだからあんまりふざけるなよ」

通じたのか通じないのか―、クリスは何かを思い出したそぶりで言った。

「あ、ごめんなさい、英語で話して。私、日本語は判らないの」

「…あのなぁ」もう、呆れ返って言葉が出ない。

うんざり顔のエッジを見てクリスは言った。

「―私、魔女なの」

「あーそうかい」クリスの言葉にも、まるで気の無い返事だ。

「真面目に聞いて!」

(バン!)とテーブルを叩き叫んだ。

 エッジはため息を付く。

『大真面目だ。…ったく、また魔女かよ…』エッジの呟きにクリスが眉をしかめる。後半は口に出すつもりは無かったが、思わず溢れてしまたようだ。

「―また? 今、また魔女かよって言ったの?」

聞こえてるのか聞いてないのか、エッジは肘を付いて横を向いたまま動かない。

「嫌な予感したんだよな。足が家に帰るなって信号出してたのに。なんで帰ってきちゃったんだろ…」

 何やら独り言を呟いている。

「じゃあ私が来る事知ってて―?」

食い下がるクリスにエッジは苦笑して答えた。

「そんな分けないだろ。俺は魔女じゃないんだから。ただ、なんとなく気が向かなかっただけだ。魔女じゃなくたって虫の知らせくらいはあるぜ」

 エッジの言葉にクリスは少し俯いてしまった。

「…ごめんなさい」

意外な少女の反応にエッジは少し罪悪感を覚えた。

「あ‥いや、いいよ、もう。それより一つ頼みがあるんだけど」

「―?」クリスがエッジを見直す。

「君の正体は判った。だから、とりあえず出ていけなんて言わない。勿論、話もちゃんと聞くし出来る事があれば相談にのろう。だけど―」エッジが視線を時計に移す。

「実際、三日間寝てないんだよ。一時間、俺に時間をくれ。そうすりゃまともに話を聞く気に位はなる。もしよければその間、キッチンは好きに使っていい。勿論冷蔵庫の中味もだ。料理は出来るか?」

クリスは少し考え、納得したふうに時計を見て答える。

「…オーケーよ。じゃ八時に」

そう言うとすぐさま立ち上がり、キッチンへ向かう。

(やけに素直だ。いや、只単に腹が減ってるだけか?何はともあれ、やっと休める―)

 エッジはふらついた足取りでベッドに向かい、そのまま気絶するように倒れ込んだ―。


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