マリ

 彼女はその男女が姿を消したころにもう一度その場所に現れた。もうすぐ指定された一時間後であった。僕は、少し嬉しくなる。

 ピッタリ一時間後に行くのはがっつきすぎている感じがし、そう思われるのが癪であったので、一時間後の時間を腕時計が指したのを確認してから僕は席を離れた。

「律儀にチョコを持ってきてくれるような人なのに、ピッタリ一時間後には来ないんですね」

 先制パンチを食らったような、そんな気分だ。

「そうだね、ピッタリ行くと、まるで俺が君に興味津々でがっついているような感じになってしまいそうだったからね」

 正直に答えることこそ、カウンターだろうと踏んで、僕はそう答えた。暗に君こそ僕が来ないことを気にしすぎだったんじゃないのかと、そう聞こえるように。

 すると彼女の頬が赤くなった。だから僕の勝ちだ。そう思うと顔に出てしまい、

「なに、勝ったぞ、と言いたげな顔をしているのよ」

 と怒られる。そんなことはないと僕は言う。

 そういえば、聞きたいことがあったと思いだす。

「お仕事って、何をしていたんですか」

 そうね、と彼女は頬に手のひらを当てて、考えるしぐさを取る。僕は思わず見とれてしまう。

「天使のお仕事みたいなものね、キューピッドみたいな」

 と彼女は言った。


「天使、キューピッド」語尾を上げて、おうむ返しのように僕は言う。

「天使、キューピッド」語尾を下げて、おうむ返しに彼女は言った。

 さっきの光景はそうだったなと僕は思う。まるで、彼女がある男と女を出会わせていたような、そんな景色だったから。

「嘘だけどね、何を真剣に、そんなに真に受けているの」

 と彼女は言った。

「まあね、俺は君の『チョコをくれ』などという冗談に引っかかるような男だからね」

 こんなことを言って、恥ずかしさをごまかす。

「それもそうか。でも、たぶん、本物の天使はそんな冗談も、さっきみたいな嘘も言わないさ」

「そんなものかな」

「そういうもんよ。私、知っているもの」

 彼女はコロコロと笑いながら、また、わけのわからないことを言うのだ。


 でも、本当は彼女がそうかもしれないと、今の僕は思っている。


「そういえば、お礼をしようと思っていたんだっけ」

 本当にいま思い出したかのように彼女は言った。

「そうだよ、忘れてたのかい」

 と聞くと、

「そうね、あなたがあまりに嘘に引っかかるような人だったから」

 と答えた。

「俺は、そんな簡単に嘘に騙される人じゃないよ。きっと、君の言い回しが、本当っぽいから信じてしまうんだ」

「それは、騙させやすい、というのと同じじゃないかしら。って、そうじゃなくて、お礼だったわね」彼女は再び忘れていたことを思い出したように言った。「何をしようかしら、君はチョコでも欲しいかな」

「それは、さっき俺が渡したやつかい」

「まあ、さすがに冗談よ」

 と言って、また彼女はコロコロと笑う。この笑顔に思わず見とれてしまうのだった。

「まあ、いいわ。何かおいしいものを食べましょう、一緒に。それで手を打ちましょう」

「手を打つって、もしかして、いつの間にか俺がお詫びするみたいになってるのかな」

「あら、違ったっけ。そうね。私がおごってあげましょう、それでどう」

 俺は、考える。どうだろう。この目の前にいる女は、人として信用に値するか。平気で冗談のような嘘はつくけど、色んな感情を表に出す、面白い人だから。なによりも僕が、たぶん気に入ってしまっただろうから。だから、

「いいよ、ありがとう」

 と僕は答える。

 入ったのは少しおしゃれで小さな洋食屋で、頼んだのはお手頃なコース。とりあえずワインを頼み、乾杯をした。

「へんてこな出会いにね、乾杯」

 と彼女は言った。

 運ばれてきたサラダをフォークで刺した頃に、

「そういえば、名前を聞いてないから、聞こうかな。君は誰ですか」

 とやはりへんてこな言い回しで彼女は言う。たぶん、へんてこなのは彼女だと思う。

 僕は名前を告げて、彼女は

「私は、マリ」

 とだけ言った。

「この名前、気に入ってるから、「マリ」って呼んでね。たぶん、そう呼んでくれないと、私が自分のことだって気づかないかもしれないから。苗字とか言っちゃうと、あなた、それで私を呼ぶでしょ、なら知らないほうがいいのよ」

 その日は、メインディッシュを食べ終え、デザートを終え、コースが終わったとともにそのまま別れた。何もなく、ただ、そんな雰囲気で、僕が作り出したのか、彼女が作ったのか。

「美味しかったね」

「そうだね、悪くなかった。この辺に住んでるけど、初めて入ったお店で、でもよかった。教えてくれて、ありがとう」

「いや、私は見つけたお店にぷらっと入っただけだけどね」

 僕はちょっと苦笑いして、そうか、と言う。

「私、しばらくはここで仕事をすることになってるから。また会えるかもしれませんね。だったら、それは運命的よね」

 と言ってふふっと笑う。

 僕はその笑顔が気に入った。

「じゃあ、また会えたら、またおいしいものを食べましょう」

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