第45話「小さな背中、大きな背中」

 前に見た時より、禍々しさも範囲も増しているように見える。しかも問題はそれだけじゃない。この黒炎の正体は瘴気だったはずだが、今回のこれは強い熱を感じる。

 幸いティアがいち早く気づいて風魔法で守ってくれたようだが、溶鉱炉のそばにいるような熱が顔をじりじりと焼く。

 こんなものを喰らったらひとたまりもない。あっという間に全滅だ。


「……ティア、それどれぐらい持つ?」


 その熱に戦慄しながらも何とか聞くと、ティアはそれに小声ながらも、はっきりと答えた。


「あんまり、もたない」


 そう言って、彼女は忌々しそうに歯を噛んだ。

 それに釣られ、俺も同じように風の障壁にぶち当たる黒炎を睨んでしまった。

 このままだとまずい。この黒炎ブレスも長続きはしないだろうが、どうも俺が前回遭った時よりも、全体的に黒竜の力が強い印象を受ける。


 しかしそもそもこんなブレスが吐けるなら、前回も俺達に対してこれを吐けば一掃できたはずだ。なぜそうしなかったのだろうか。

 謎は残る。が、今はとにかく、目の前のこれを事実として受け入れなければならない。

 

 話し合いが終わる前に強襲を受けてしまったのは何とも痛い。何しろ俺達にはもう勝つためのカードがないのだ。正直ここをティアの魔法で乗り越えたとしても、ジリ貧どころか素寒貧の俺達には為す術がない。


(これは、もう……)


 万事休すか、と、そう思った時だった。

 ティアが起こすその暴風の中、何を思ったか、彼女が進み出て来た。

 そのまま、祈るように両手を合わせる。そして、ゆっくりと目を瞑ると、


「天上より来たりて、たゆたう無垢の者達を統べる、命と豊穣の神ヴァルナよ……」


 彼女の体が淡く光り出す。そしてその光はどんどんとその強さを増し、彼女を包んでいく。


「ドーラム大森林の子、ネイト・ナ・ネイティスが乞う。我が祈りに答え、その恩寵を与え給え」


 厳かな声音で、彼女は口上のようなものを述べ始める。

 何かの魔法だろうか。そう思う頭は当然あったが、俺はそれよりも目の前で起こる彼女の変化に思考を奪われてしまっていた。


「えっ……ネイトさん……?」


 その乾いた浅黒い肌に、突然みずみずしい張りが戻る。顔のしわが瞬く間に消え、落ち窪んでいたまぶたは若々しく開き、聡明な光を湛えた瞳がより顕になる。水気を失っていたはずの白い髪もツヤを取り戻し、淡い水色の美しい髪へと変わっていく。

 ハリとコシの強くなったその髪のせいか、いつも彼女が自身のそれをまとめていた結い紐が、バツンと音を立ててちぎれ飛んだ。


 気づけばもうとっくに見知った彼女の姿はなく、そこには一人の、美しい耳長のエルフの姿があるのみだった。


「水よ、我が身を巡れ。滴り、溢れ、流れ、流れて地に満ちよ。我が命脈よ、大河となれ。我は御身。御身は我。今こそ開闢に振るわれし神の腕をもって、か弱き愛し子どもの庇護とならん! ヴァルナ・イル・ローア!」


 彼女が高らかにそう声を上げると、突然、俺達の目の前に水の壁が現れた。

 見上げてみれば、ドーム状、とまではいかないが、分厚い水の層が俺達全員を上から正面まで覆っていることがわかった。


 それを見てティアは魔法を止めたが、それでもそのネイトさんの魔法は問題なく俺達をカバーしてくれていた。

 エクレアが放った魔法と似ている。が、その力強さが全く違う。エクレアのものは即席で作ったもののせいか少し頼りないものだったが、こちらはかなり頑強なものに見える。しかも詠唱の途中で効果が発動していたように見えたのだが、これも外法魔術の一種なのだろうか。


 とりあえず助かった。と、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、ネイトさんが横で舌打ちする。


「……これでも足らないか。つくづく憎たらしいやつだ」


 祈りの所作から一転、両腕を前に突き出しながら、彼女は耐えるように歯を食いしばる。もの凄い魔法のように見えるが、それでも黒炎を抑えるのが精一杯らしい。ついには何か強い力で押さえつけられたかのように、彼女は片膝を折った。


「ぐっ!」


 ギリギリと歯を噛みながら耐えるその口の端から、血がゆっくりと垂れる。強力な魔法を放ったせいか、戒言の影響が強く出て来てしまったようだ。血を拭うこともできず、彼女は身を震わせながらただそれに耐えていた。


 正直見ていられない。ここでカードを切るか? しかし切ってしまうともう俺達には何も残らない。ここから巻き返す可能性は完全に潰えることとなる。


(何か、ないのか。せめてもう少し考える時間があれば……!)


 そうして必死に頭を回していると、ふと、繋いでいた右手を彼女にくいと引かれた。


 気づけば、青い瞳がじっと俺を見上げていた。

 真っ直ぐなその瞳には確かな力がある。しかし、少女らしからぬ覚悟の決まったその顔に、俺は思わず息を詰めた。


「……お嬢」

 

 意図がわからず声を掛けようとしたが、傍らのフージンがそう先にこぼした。

 普段は面白フェイスのくせして、そんな悲愴な顔をするなよ。お前にそんな顔されたら、嫌でもわかっちまうだろ……。

 ここが死地だと。彼女がきっと、そう決めてしまったことに。


 だが、彼女は死ぬにはあまりにも若い。

 どうにかして彼女だけでも救えないか。こいつもそう考えたのだろう。


「お嬢、やはりここは──」


 と、フージンはそれを口に出そうとしたが、彼女に明確に首を振られてしまった。

 彼女はやはり退く気がない。しかしそれは、わかっていたことだ。

 彼女は稀代の魔法使いであり、復讐者であり、そして、真の戦士なのだ。退く気がないのは当然。彼女はまだ諦めていない。そして俺は、そんな彼女を尊敬し、共に歩もうとする者。


 弱きに傾きかけた心を叱咤し、俺は、彼女の青い瞳を見つめ返した。

 俺の心の流れが伝わったのか、彼女は微かに口角を上げ、俺の胸を人差し指でぐりっ、と押した。


「あれはわたしがとめる。あとは、なんとかして」


 言葉を制限して来たせいか、彼女のその声には掠れや引っ掛かりのようなものが一切ない。長い間秘されて来たその美しいソプラノの声音が、俺だけに向けられている。それを意識すると、心地よい熱のようなものが胸に湧いて来る。

 俺はこの声に答えたい。そして、もっと彼女の声を聞いていたい。


「──わかった」


 終わらせない。絶対に。

 深く頷いて見せる。すると彼女も小さく頷き、正面を見据えた。

 そして、その忌々しい黒炎に向かって、力強く右手を突き出した。


「かぜ……おしかえせ!!」


 指輪に残されたマナは、おそらくこれが最後。

 しかしこの背水の陣、逆境が彼女を奮い立たせたのか、その魔法は彼女が今まで放った魔法の中でも、おそらく最高レベルに研ぎ澄まされていた。

 爆風が黒炎を押し返していく。ネイトさんの魔法に干渉してしまうのではと危惧したが、その風は黒炎だけを力強く押しのけていく。


 先程は守るための魔法だったためか押し返すことはできなかったが、これなら何とかなるかもしれない。

 しかし依然として問題は残る。俺達のマナは有限であるのに対し、黒竜の黒炎はいつまで続けられるのかがわからない。


 今のうちに、何か対策を考えなければならない。

 とにかくいろんな意見が欲しい。そう思い、俺はティアの集中を削がないように、そっと彼女と繋ぐ手を変え、彼らと向き合うために後ろに振り返った。

 と、ちょうどそれと同時に、


「どうやらここが、命の燃やしどころのようですね」


 バーンズさんが歩み出て来て、掠れた声でそう言った。

 頼もしい言葉だが、正直彼にこれ以上無理を強いることはできない。そう進言しようとすると、案の定彼はふらついてしまい、危うく膝から倒れ込んでしまうところだった。


「バーンズさん! あなたは少し休んでてください!」


「いいえ。私にはこの状況を打破するような知恵はありません。ここに居ても仕方がないのです。タツキ様が考える時間を作るためにも、今は黒竜を叩くのがよろしいかと」


「いやそんな大怪我で何言ってるんですか! それより今は……」


 何でもいいから意見が欲しい。と、そう言おうとした時。

 ここまで沈黙していたレオナルドさんが、ふいに俺達に近づいて来た。

 複雑そうな表情で俺を一瞥してから、彼は俺の横に視線を移す。


「バーンズ」


 その声に、名前を呼ばれた彼はしっかりと背を正してから振り返った。

 主にこれ以上不甲斐ないところを見られる訳にはいかない。そう考えてのことだろうが、俺からすれば、もうそういう段階はとうに越えている。

 レオナルドさんも、困ったように彼を見つめていた。

 

「これ以上下手に動けば、本当に死ぬかもしれない。無理をするな」


 それが心からの言葉であることは、部外者である俺にもはっきりと感じ取れた。

 しかし、バーンズさんはそんな主の思いやりの言葉に、大きく首を振って返した。


「ここが無理のしどころなのです。レオナルド様。私はここで、彼女に報いなければなりません。……命に代えても」

 

 それは彼らしい静かな言葉ではあった。しかし、内容はとても穏やかなものとは言えない。そのせいか、レオナルドさんはとっさに二の句が継げずに、僅かに目を見開く。

 バーンズさんはそんな主を優しげな目で見つめると、言った。


「私達の過ちを正す機会がやって来たのです。あの時から、私達が逃げ始めてから、彼女は声を発しなくなりました。しかし今にして思えば、そうではなかった。彼女は、ずっと叫び続けていたのです」


 声を発さないのに、叫び続けていた。不思議な言い回しだが、レオナルドさんは特に異を唱えることなどはしなかった。ただ静かに青い瞳を細め、こう聞いた。


「……何をだ」


 そう言うと、バーンズさんはちらとティアの背中を見やってから、レオナルドさんに向く。

 そして、言った。


「戦え」


 このティアが放つ暴風の中でも、その言葉ははっきりと聞こえた。

 内臓を痛めてしまったのか、先程からひどい嗄声だ。しかしそれは思わず胸が奮い立つかのような、重々しくも力強い言葉だった。


 それが思いもよらぬものだったのか、はたまた予想通りのものだったのか。定かではないが、レオナルドさんは大きく目を見開き、その覚悟を決めた老紳士の顔をじっと見つめる。


「彼女は不甲斐ない選択を取った我々に対し、ずっとそう叫び続けていたのです。沈黙をもって叫び続けていたのです。まさに今、この瞬間も」


 その言葉に、俺達は吸い込まれるようにティアの背中に視線を移す。


「残念ながら、彼女はまだ私達に語り掛けてはくれません。まずは何よりも、私達の目を覚ましてくれた、この雄弁に語る小さな背中に、大きな背中に、私達は報いなければならないのです」 


 そして彼は俺達と同じように、その強い光を放つ翡翠色の瞳を彼女に向けた。


「私はこの方に並び立ちたい。そのために、命を燃やし、全てを賭して戦う。そう、決めたのです」


 彼はそう言って、口髭の奥でほのかに笑って見せた。

 失ったものはあまりにも大きい。十年という月日はあまりに長い。しかしこの死地にあって、彼はそれでも笑う。


 死を覚悟した男の、その悲壮な微笑みを受け、彼は何を思うのか。

 目を向ければ、彼の青い瞳が微かに揺れるのが見えた。


「そう、か……」


 と、彼がふと、地面へ向かって一言。笑みのようなものをこぼした、ちょうどその時だった。

 突如、俺達の周囲を囲んでいた黒炎の勢いが増し、全員に緊張が走った。

 同時に後ろで何か音がして、何かと思って振り向くと。

 彼女が、地面に伏していた。


「ネイトさん!?」


 マナの枯渇か戒言の影響か。あるいはその両方か。

 命の危険があるかもしれない。放ってはおけない。しかし、ふいに左手をティアに強く握られ、俺はそちらに気を取られてしまった。

 不思議に思いつつ彼女を見る。すると、


「──いやだ」


「え?」


 ぼそりと、彼女が何か呟いた。そう思ったら、彼女は突然、決壊したかのように感情を言葉にし出した。


「いやだ……まけたくない、まけたくないッ! まけたくない……ッぜったい────いやだ!!」


 と、大きくそう声を上げた瞬間、彼女は弾かれたように上体を大きく仰け反らした。


「お嬢!?」


「ティア!?」


「お嬢様!」


 俺とフージンは、そのまま倒れ込もうとする彼女を慌てて受け止めた。

 一体何が、と本人に聞くことはできなかった。彼女のその顔を見て、俺は言葉を失ってしまった。

 意識は……かろうじてある。が、額には玉のような汗が無数に滲み、呼吸は浅く、顔面は血の気を失って嘘みたいに蒼白だ。正直、意識があるのが不思議なくらいの状態だった。


 なぜ急にこんなことになってしまったのだろうか。

 考えられるのは、ネイトさんが倒れ、あの水魔法の援護がなくなったせいでティアへの負担が増えてしまったということ。しかし、それにしたってあまりにも均衡が崩れるのが早い。


(やっぱり黒竜の力が前より強い……?)


 先刻感じた印象は間違いではなかった、ということだろうか。

 それならこれは完全に俺のミスだ。戦いの素人が感じた印象なんか皆を惑わすだけだろうと思って口にしなかったのが仇となった。もし伝えていればもう少し違ったかもしれないのに……。


 もう体に力が入らないのだろう。それでも胸に抱いた彼女が、弱々しく、きりきりと歯を噛んだ。

 それを見て、彼女を抱く腕に思わず力がこもってしまった。

 

(ああ、ちくしょう……)


 結局、何もしてやれなかった。あれだけ大口を叩いて、大層な契約までしたってのに。結局俺は女の子一人救えず、何者にもなれず、死んでいくのか。自分の力の無さが心底嫌になる。

 しかし、それでも思考は止めない。止めたくない。あがいて、あがいて、あがき続けてやる。そうでなければ、俺はもう二度と彼女の隣に立てない。


 だが、そんなことを思ってみても、その瞬間は確実に迫っていた。

 彼女が最後の最後に強く押しのけてくれたのだろう。黒炎が来るまでは少しの時間があった。が、やがて、どす黒いうねりが濁流のようになって押し寄せて来て、俺はとっさに彼女の盾になろうと、彼女の体に覆いかぶさろうとして──。


「──ぇ?」


 と、その死を運ぶ熱が、まさに今俺達の身を焼こうとした時。

 音がした。シャベルで砂を切るような、乾いた音だった。

 それを知覚した時には、もうそれはそこにあった。


 いつの間にか、巨大な鉄塊が地面に刺さっていた。それは一見ただの鉄板のようだったが、少なくともそれが超常のものであるということはすぐにわかった。そうでなければ、その身から立ち上る雄々しい気配に全く説明がつかない。


 走馬灯のように間延びした時間。体は水中にいるように全く自由が利かなかったが、一つの影がその鉄塊の前に躍り出て来るのが見えた。彼だ。

 金色の髪を激しい風になびかせながら、彼は、レオナルド・マグナースは、その鉄塊の持ち手らしきところを躊躇なく両手で掴み、勢いよくそれを地面から引き抜いた。


 そうして天に真っ直ぐ掲げるように上げられたのは、人の胴体程もあろうかという身幅、長大な刀身を持つ巨大な剣だった。

 こんなもの振れるわけがない、と思った。しかしその常軌を逸した大剣を、彼は裂帛の気合と共に、大上段の構えから思い切り大地に向かって振り抜いた。 

 

 それは、一瞬のことだった。

 まず、轟音が来た。

 その後すぐに、暴風が吹き荒れた。

 そして、大地が割れた。

 それから、景色が割れた。


 俺達の視界一面を覆っていた黒炎が縦一直線に払われ、再び暗い森の姿が顕になった。

 黒炎は、もう来なかった。

 彼の放った剣撃が、黒炎の先に居た黒竜にまで届いていた。

 忌々しくも空から俺達を見下ろしていた黒竜は、その一撃を受け、苦鳴を上げながら地上に落ちた。


 しばしの残心。彼はその自身が作り出した結果を数秒程見つめていたが、やがて、


「あの時の選択が間違っていたとは今でも思わない」


 そう言って、彼はその持っていた大剣を地面に再び突き刺し、振り返った。

 その体全体から立ち上がる覇気は鋭く、先程までの彼はもうそこには居なかった。ただ強く光る青い瞳で、彼は俺達を見下ろした。


「だが、私が守るべき者はもういないようだ。ここにいるのは、尊敬すべき純然たる戦士。それがよくわかった」


 そう力強く言う口元からは、戒言に逆らった証である血がゆるりと流れた。しかし彼はそれでも一切膝を折ることなく、ただその口に流れる血を親指で乱暴に拭うと。

 彼は俺達を、ティアを、迷いのない覚悟を湛えた青い瞳で真っ直ぐに見つめ、


「ならば、私は再び剣を取ろう。たとえこの身が滅びることになろうとも、この誉れある戦士に最期まで寄り添い、並び立つために」

 

 そう、静かなる闘志を込めた声音で、宣言したのだった。

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