第43話「鼓動」

 あの日。彼女がいなくなってしまったあの日。自分の魂は燃え尽きてしまった。あれだけ煌々と燃えていたはずの炎は、自らの芯を燃やし尽くし、全てを消し炭に変えてしまった。

 ただ過去を省み続ける人間に、新しく焚べられる薪はない。もはや自分の胸にあるのは、あの時の悲しみと、後悔と、自分への怒り。そして、今もなおぼろぼろと己の心中で崩れ落ちていくその黒炭くらいしかない。


 なのになぜ、この胸は、今微かに震えたのだろうか。


 かねてよりの忠臣である男が、腕を飛ばされてもなお、命を賭して戦っている。

 主従の関係を越えた、もはや長年の朋友とも言うべき男のその姿に、レオナルド・マグナースの心は揺れていた。


「お下がりください。レオナルド様」


 腕の根本を布で縛り、何とか出血は最小限に抑えられている。

 しかし、そんなものは気休めだとレオナルドは思う。このまま時間が経てば、彼は間違いなく死ぬ。

 それでも彼は、バーンズ・ガイアスは、レオナルドを背にかばいつつ鋭い視線で周囲の賊を威圧する。


 彼らを取り巻く賊の何人かは、それでじりじりと後退した。

 しかし、その視線をどこ吹く風と全く意に介さない男が居るせいで、その効果は限定的だ。

 思考の読みづらい細い目をしたその男は、二人を流し見つつ、少し呆れたように息を吐いた。


「存外、粘りますねえ。その怪我でそこまで動けるとは、正直思っていませんでした」


 そう言うと、しかし男はにやりと口角を上げる。


「ですが、もはや時間の問題です。私達はゆっくりあなたを削ればいい。それだけで一気にこの均衡は崩れるでしょう」


 男がさっ、と手を上げて合図をする。

 すると、周囲に居たフードの集団が懐から一斉に短剣を取り出し、それを構えた。

 男が手を下げる。その瞬間、


「──むうっ!?」


 鋭い勢いで投げられたいくつもの短剣がバーンズを襲う。

 接近するのが危険だと感じたのか、男達は先程からこうして投擲による攻撃をバーンズに仕掛けていた。

 

 男達はこうした、自分より強い者に相対する場面に慣れているらしい。確かな技術、連携がバーンズを確実に追い詰めていく。

 まずはあえて目に見えるところから投げ、獲物の体制を崩す。そして崩れたところに死角から攻撃。単純だが、やられるほうはたまったものではない。全方位に意識を集中しなければならず、精神も削られていく。


 バーンズはそれを驚異的な体術でいなすが、それにも限界がある。徐々に削られ、今では体中裂傷だらけだ。このままでは血が足らなくなり、男の言うように、いずれ倒れるだろう。


 しかし男達の唯一の誤算は、ネイトの存在だ。彼女は森の闇に紛れ、その姿を一切晒さずに男達を弓で狙った。飛来する矢は確実に男達を削り、すでに何人かはその矢の餌食となり、戦闘不能となっている。

 彼女は本来森の民だ。この鬱蒼とした森も、彼女にとっては庭のようなものなのだ。


 その神出鬼没な狩人に、細目の男は札を切らざるを得なくなった。

 今森の中では、男が切ったその札、エレナとネイトが戦っている。

 彼女がエレナを引き付けているおかげで、レオナルドとバーンズの首は何とかまだ繋がっている、という状態だ。


 しかしそれでも、当然条件はレオナルド達のほうが悪い。レオナルド以外の二人は今明らかに戒言の禁を破って戦っていて、その体への負担は計り知れない。バーンズなど、おそらく今立っているのもやっとなはずだ。

 向こうの手札も多くはないが、こちらはもっと深刻だ。時間が経てば経つ程不利になっていく。

 

 もはやこうなっては仕方がない。そう考え、レオナルドは意を決して細目の男に向き、口を開いた。


「もういい、わかった。私の負けだ。黒の書はお前達に──」


 そう言い掛けたレオナルドに、しかしそれを遮る声が重なる。


「それはなりません」


 満身創痍なはずの男からの毅然としたその言葉に、レオナルドは思わず口を噤んでしまった。


「お嬢様がまだ黒竜と戦っているのです。それを無下にすることは、たとえあなたであっても許されません」


 そう言ってあくまでも戦う姿勢を崩さないバーンズ。

 しかしレオナルドは、それに呆れをともなった長い嘆息を吐いて見せた。


「まだそんなことを言っているのか」

 

 そんな訳がない。言葉をなくし、あれから自分の殻に閉じこもってしまった彼女に、そんな力も気力もある訳がない。彼女が、こんなところにいるはずがない。

 それはお前もわかっているはずだろうとレオナルドは眉をひそめて見せるが、バーンズは頬を固くしたまま、答えなかった。

 代わりにそれに応じたのは、そのやり取りを見ていた細目の男だった。

 

「お嬢様……というのは、レオナルド様のご息女、たしか……ティアッツェ様、でしたか。彼女のことですか?」


 そう問われるが、二人は答えない。

 しかし細目の男は特にそれを意に介さず、ただ顎に手を当てながら思案し始める。


「彼女についても調べていたはずですが、あのように黒竜と戦えるといったような情報は聞いていませんね。と言うより、ほぼ情報はないに等しかった気がします。公的な場にも顔を出した記録はないようでしたし……」


 そこで、細目の男はレオナルドに視線を送る。


「よもや、切り札として伏せていた? それともハッタリ? しかしここで情報戦を仕掛けても利があるとは思えない……」


 男は、値踏みするようにレオナルドとバーンズを見つめた。

 しかしやはり反応はなく、表情から読むのは諦めたか、そのまま考え込む仕草を見せる。

 たっぷりと十数秒程そうした後、男は眉を上げつつ再び二人を見る。そして大きく鼻から息を吐くと、


「まあ、どちらでもあまり変わらないですね。もしご息女、ということであればむしろ好都合。あちらはもうマナが尽きかけているようでしたし、彼女を人質にするほうが早いかもしれ──」


 と、そこで。何かに気付いた細目の男が、口を開いたままぴたりと話すのを止めた。

 少し遅れ、レオナルドもその異変に気付く。二人の視線が、一人の男に注がれる。

 肌を刺すような強烈な気が、今にも倒れそうなはずの男から発せられていた。

 周囲の賊だけならまだしも、主君をも巻き込むそれに、レオナルドは目を見張った。

 

「お前は何もわかっていない」


 びしびしと肌を打つその凄まじい闘気に、レオナルドを含んだ周囲の人間は一様に閉口する。それは今まで余裕の態度を保っていた細目の男も例外ではなかった。


「彼女は、堕落した私達など及びもつかない類稀なる戦士。あの方は、決して人質になどならない」


 その尋常ならざる覇気を放つ男、バーンズは、喉奥から響くような重い声音でそう言うと、一度、大きく息を吐いた。

 すると、激しく上下していたはずの肩がピタリと止まる。そして彼は、まるで何事もなかったかのように、細目の男達に対して隙のない構えを取った。

 なくなった左腕が戻った訳でもない。なのに、彼が放つ覇気はなおも増すばかりで、

 

「この状況では、人質はむしろ私達のほう。彼女と肩を並べることができないのが本当に腹立たしい。今をもって確信しました。やはり私は……私達は、間違っていた」


 決然とそう言い放つ彼に、レオナルドはしかし、複雑な感情を抱くことを禁じ得なかった。

 

 なぜそうまであのタツキという男を信じられる。なぜ戒言を無視し、これ程戦えるまでに黙って鍛えていた。彼に言いたいことは山程あったが、それでもレオナルドは、それに何も返せなかった。

 ただその友の姿を呆然と見つめ、レオナルドは自分の胸を無意識に抑える。


 やはり胸のどこかに、微かな痛みにも似た疼きがある……。

 しかし、レオナルドがその正体を探る暇もなく、状況は刻一刻と変化していく。


「──っ!?」


 レオナルドの左手方向で、突如風を切る音がした。

 咄嗟にレオナルドとバーンズが首を捻る。するとそこには、森の闇を駆ける二人の人間の姿があった。


「ああ、もう! しつっこいねえ!」


 聞き慣れた声に、鋭い風切り音が混じる。

 互いに呼応して動くその様はまるで激しく舞踏を踊るようであったが、ふいに片方がそのリズムを変え、その片方がレオナルド達の前へと姿を現した。


「何で! このあたしが! こんな体力馬鹿に付き合わないとならないのかね! 魔法を練る暇もありゃしない!」


 使用人服をすっかり埃まみれにした彼女、ネイトは、そうして悪態を吐きつつレオナルドの前へと滑り込んで来て、その琥珀色の瞳をギロリと彼に向けた。


「レオナルド! あんたいつまでぼーっと突っ立ってる! いい加減覚悟決めな!」


 そう威勢よく叫ぶネイトに、しかし森の闇から現れたエレナの牙が襲いかかる。

 ククリ刀を交差させるように突き出されるが、ネイトはそれを喉を掻っ切られる寸前で体を捻り、すんでのところでかわす。同時に水の弓矢を生成し、驚くべき早さでそれをエレナに向かって射る。


 ──だが、それは虚しく空を切った。

 おそらく当たると確信していたのだろう。小さな舌打ちが、レオナルドの耳にまで届いた。


「……これをかわすか。あたしが鈍ってるとは言え、さすがにそれはやり過ぎじゃないかい」


 淀みのない所作からの見事な射撃であったが、ほぼゼロ距離であったにも関わらず、エレナにそれを難なく避けられてしまった。距離を離すことには成功したものの、ネイトの口から愚痴のような言が漏れ出る。

 しかしそれも無理はないだろう。長き時を生きて来たエルフである彼女の弓術は、当然並ではない。それをこうも容易く避けられては、多少の狼狽の声も漏れるというものだ。


 その生涯の大半を森の中で過ごし、狩猟のために肌身離さず弓を持って来たからこそできる外法魔術。水のマナで具現化した弓矢によるその弓術は、しかしエレナには牽制の一手にするくらいが精一杯であるらしい。

 

 その事実に歯を噛むネイトだったが、彼女の目の光は消えていない。それどころか、ますますその光を強め、彼女はエレナに向かって堂々と気炎を吐く。


「上等だ小娘! こうなったらとことんやってやろうじゃないか! あんたが泣いて音を上げるまで止めてやらないからね!」


 そう威勢よく声を放つ口元から、しかし無理をしている証である赤い血が漏れ出る。

 それでも膝を折ることなく、真っ直ぐに立つ彼女のその姿を見た時、再びレオナルドの胸が疼く。

 レオナルドは、思わず自分の胸に視線を落とした。


「────」


 戒言を無視し、血を吐きながら戦い続ける二人を案ずる心がそうさせるのだろうか。

 長い時を一緒に過ごして来た友だ。当然それもあるだろう。しかし、それではこの僅かに感じる熱のようなものは、一体なんだ……。


 と、そうレオナルドが自問した時だった。

 突然、周囲の空気が揺れる。同時に体全体を押さえつけられるような圧迫感が襲い、レオナルドは弾かれたように顔を上げた。


「……おや」


 空に浮かぶ、巨大な影。

 それが起こす風をその身に受けつつ、細目の男が一言こぼした。


 悪魔のような翼を大きく広げ、まるで勝鬨でも上げるかのような、耳をつんざく咆哮。マグナース家にとっての全ての元凶。黒竜が、ぎょろりと大きな瞳で、レオナルド達を空から見下ろしていた。

 それを背にした細目の男が、不敵な笑みを浮かべつつ言った。


「向こうのかたが付いたようですね。少し手間取りましたが、どうやらこれで決着、ということのようです」


 その言葉に、バーンズとネイトの顔が明らかに曇る。

 その一瞬の緩みを、細目の男と黒竜は見逃さなかった。


「終わりです」


 その大きな顎を目一杯開き、黒竜が恐るべき速度でレオナルド達に肉薄する。

 赤黒い肉色の口内に、一本一本が人の腕程もあるだろう大きな牙が生え揃っているのが見えた。

 甘かった。この攻撃に、手心が加えられている様子は一片もない。命を刈り取るための一手であることは間違いない。やはりすでに交渉の余地はなかったのかと、レオナルドは自分の浅慮を悔やんだ。


 例えその顎を回避できたとしても、その全てを避けるのはもはや不可能。あの巨大な質量にこの速度で体当たりされれば、どこに当たろうがひとたまりもない。


 それでも、自分はまだ死ぬ訳にはいかない。

 と、そうしてレオナルドが何とか体を捻り、回避体勢を取ろうとした、その矢先、

 

「──ぐええっ!?」


 激しい風の合間に、突如場にそぐわない誰かの間抜けな声が挟まれ、レオナルドは思わずその青い目を細めた。


 何者かがレオナルドと黒竜の間に割って入って来た。

 二人、だ。気づけば男が一人、無様に地面に転がっていた。しかしその手は、こちらに背を向けたもう一人の人間の手としっかり繋がれている。

 そのもう一人に視線を移した時、レオナルドの動きがピタリと止まる。

 あろうことか、レオナルドはこの場面で回避を忘れ、その人間に目を奪われてしまった。


 正面からの風を一身に受け、緑色の髪が風に激しく揺れている。その立ち姿から、どうしても目が離せなかった。

 

「かぜ……」


 声が、聞こえた。

 吹き荒れる風の間を縫うように聞こえて来たその声に、どこか聞き覚えがある気がして、


「ぶんなぐれ!!」


 その力強い声を聞いた時、レオナルドはついに耐え切れず、自分の胸を絞るように握った。


 高らかな叫びと共にその人間が右拳を大きく振ると、周囲に更なる暴風が吹き荒れた。右から左へ。まるで質量を持ったかのように重く、強い風が吹いた。

 瞬間、目前に迫っていた大顎が突然歪み、ひしゃげた。そのまま、その黒い巨体は為す術なく地面に打ち付けられ、森の木をなぎ倒しながら遠くへと吹っ飛んでいった。


 一瞬のことだった。まるで巨人にでも殴られたかのようだった。あれ程の威力を瞬間的に出すのは通常の魔法ではまず不可能。これは凄まじく練り上げられた外法魔術の仕業だと、レオナルドは一見で看破する。


「なんという……」


 一線から退いたとは言え、レオナルドも武の頂きを目指し、一心に剣を振って来た人間だ。頂上には至らずとも、その縁には手を掛けられた自負はあった。死線も何度も超えて来た。

 しかしそんなレオナルドが、思わず感嘆の声を漏らしてしまう程には、信じられない光景だった。

 しかもこんな大それたことをしておいて、それをした張本人は、目の前で悠然と立つのみだ。


 その後ろ姿に、なぜかいつかの愛する人の背中が重なった。

 だが、違う。彼女じゃない。見覚えがある。この小さな背中は──。


 その少し丸みを帯びた、見慣れた横顔が垣間見えた時。

 レオナルドの心臓が、今度こそ確かな鼓動をもって、大きく一度、ふるりと震えた。

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