第42話「反撃の狼煙」

 歩く度に骨が軋み、打ち身の痛みが脳に響く。

 少し足も挫いているようだが、それでも体は何とか動く。動くなら何も問題はない。

 とりわけ痛みの酷い左腕を抑えつつ、俺は幽鬼のような足取りながらも前に進んだ。


 ティアが吹き飛んだ方向はあたりが付いている。幸い黒竜の気配はない。今のうちに合流しなくては。


「はあ……はあ……」


 足を引きずりながら森を歩く。あまり遠くだとまずいなと思ったが、幸いにも彼女はすぐに見つかった。

 下生えを踏みしめながら歩いていると、ふとその地面が途切れている場所を見つける。どうやら崖のようになっているらしい。


 その下から何やら必死な声がして覗いてみると、いつの間にか脱出したあいつがぱたぱたと浮いていた。


「ダメだお嬢! やはり瘴気に汚染されてしまってマナが送れない! 何か掴めるものを持ってくるから待っててくれ!」


 どうやら先程の衝撃でペットボトルから出られたらしい。

 その下にはすっかりホコリまみれになった彼女、ティアが今にも切れそうな木の根っこを掴みながらこちらを見上げていた。 

 おそらくさっきの黒竜との打ち合いでマナが尽きてしまい、飛行ができなくなってしまったのだろう。このままでは落ちるのも時間の問題だ。


 しかも最悪なことに、かなりの高さだ。最低でも二十メートルはある切り立った崖だ。

 中心部から離れた森の中とは言え、街の周辺にここまでの高低差のある場所があるとは思わなかった。もし落ちたら、完全に無事では済まない。


「貴様……っ!」


 慌てた様子で振り返るフージンの視線とかち合った。

 やつは俺を見ると、その眉間にはっきりとした皺を刻み、肩の辺りを怒らせた。


「今は貴様の相手をしている暇はない! どけ!」


 と、体当りする勢いで向かってくるやつを寸前でかわし、俺はとっさに下に向かって手を伸ばしていた。

 ティアの手元の木の根がずるりと落ちた。瞬間、彼女も俺に向かって手を伸ばした。


「……ぐうっ!」


 お互いが手を伸ばせば届く距離に居たことが幸いした。その細くて小さい手を、俺は必死になって掴む。打撲だらけの全身が悲鳴を上げるが、歯を食いしばって耐えた。

 見れば、彼女の足元にまだわずかに取っ掛かりがある。そのせいか、腕にかかる負担は思ったよりも小さい。しかし油断はできない。もし彼女が足を踏み外せば終わりだ。


「貴様……。おい! 貴様、絶対離すなよ! 離したら許さんからな!」


「うるせー……ちっと、だまってろ……」


 少しでも力を抜けば彼女は真っ逆さまだというのに、動転したフージンが顔の前でぱたぱたとうるさく飛び回る。それをまた頭突きで押しのけて、俺は眼下の彼女に言った。


「ティア、手を……」


 両手で掴んでもらえれば何とか引き上げられるかもしれない。

 そう思ってさらに手を差し伸べたが、肝心の彼女が動かなかった。

 ずるりと彼女の手が滑り落ちそうになって、慌てて彼女の手首を掴み直す。

 彼女の足元が崩れたのか腕にかかる負担が増えるが、しかし彼女は同じようにはしてくれなかった。


「……ティア?」


 このままでは落ちてしまう。そうして彼女にその意を問う視線を投げかけた時、俺は目を見開いてしまった。

 彼女の小さな口が、かすかに動いたのだ。


「もう、いい……」


 それはか細い声であったが、確かに俺の耳に届いた。

 女王様とはまた違う、透き通るような声。屋敷の秘密の部屋で聞いた、あの綺麗な声と同じだ。

 彼女がそうして口を開いたのは驚いた。しかし、俺はそれ以上に彼女のその表情に気を取られていた。


 いつもの少し眠たそうな目は見開かれ気味だし、ホコリまみれの頬は固く強張っている。彼女の表情は普段から読みにくかったが、今は少し感情が漏れ出ているように見えた。

 胸騒ぎがして、俺は思ったことをそのまま口に出してしまった。


「もういいって……どういうこと?」


 彼女の表情は動かなかったが、代わりに掴んでいた彼女の手首の筋がぴくりと動いた。

 それきり無言になる彼女の次の言葉を、俺は辛抱強く待った。

 もう回りくどいのはやめだ。拒否されようが殺されようが、俺はもう引かない。ただ真っ直ぐに彼女と向かい合う覚悟が今の俺にはある。


 死ぬまで君の手を離さない。そうして強い視線で訴え続けて、ようやく彼女は動きを見せた。

 形のいい小さな唇が、かすかに震えるように動いた。


「わたしは……たたかった。せいいっぱいやった。だから……もういい」


 そこで初めて、彼女の言葉にはっきりと諦念の色が混じる。そしてそれを裏付けるように彼女は俺から視線を外し、その体からだらりと力を抜いた。


「諦める……ってこと?」


 さらに負担の増した腕に歯ぎしりして耐えつつ、俺はそう彼女に問うた。

 実際に言葉にされるとやはり抵抗があったのか、彼女の腕がまたぴくりとわずかに反応した。

 しかし、それだけだった。反論の声は上がらず、彼女はただ黙っている。

 傍らで飛ぶフージンも、何も言えずに彼女のことをじっと見つめるのみだった。


 長年黒竜を倒すために力を蓄えてきたのに、あと一歩のところで届かない。その無念さは、察するに余りある。無邪気な子供時代を捨て、彼女はきっと、全てを賭けて来たのだろうから。


 これ以上彼女に発破を掛けるべきではないのかもしれない。彼女は十二分に頑張った。

 だが、彼女の不運はドルオタの俺と出会ってしまったことだ。

 俺は諦めない。彼女の血と汗と涙で練り上げられただろうその力を、俺は絶対に無駄にはしない。

 取り繕った言葉では届かない。だから俺は、言ってやった。おそらく彼女が、最も忌み嫌う言葉を。


「……逃げんのか?」


 その言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げた。

 吸い込まれるような、深く青い瞳が俺を見た。

 その煌めきを見て、こんなに美しい目だったのか、と今更ながらに俺は思った。

 そもそも生身の女の子と目を合わせるのが苦手というのもあるが、それにしたって、あまりにも気付くのが遅い。


 こんな偉そうなことを言いながら、結局俺は今まで彼女とまともに向き合えていなかった、ということだろう。


「…………」


 だけどもう、それも終わりだ。

 何か言いたげに細められるその瞳を、俺は真っ直ぐに見つめ返した。


「負けたままでいいのかよ。悔しくないのか?」


「っ! あなたになにが……」


「大体のとこは聞いたし、想像もついてる。執拗に黒竜にこだわるのは、母親の仇だからだろ?」


 目を見開く彼女に、俺は続ける。


「子供の頃から一人で頑張って来たんだろ? ここで諦めたら全部無駄になるぞ? それでもいいのか?」


 俺のそれに、彼女はぐっ、と歯を噛む。

 やっぱりまだ諦め切れないのだろう。いよいよ余裕がなくなってきたのか、肩も震えて悔しさを隠し切れないでいる。


「気付いてるかもしれないけど、レオナルドさん達も来てる! 皆で力を合わせればきっと勝てる! もちろん俺も手伝う! だから──」


 と、そう説得の言葉を続けようとしたところで、ふいに彼女の体がずるりと落ちる。

 今さっきわずかに戻った彼女の力が、また少し抜けてしまったような気がした。

 慌てて身を乗り出し、もう片方の手で彼女の肘辺りを掴む。

 何とか彼女を落とさずに済んだが、足だけで踏ん張るのはかなりきつい。あまり長くはもたなそうだ。

 

「おとなは……しんようできない」


 取っ掛かりが欲しいとつま先でがりがり土を掘っていると、ふと、力のない声が耳に届いた。


「どうせ……すぐにげる……あのときみたいに……」


「あの時……?」


 と、聞き返そうとして、俺はすぐに気付いた。

 彼女はきっと、母親が死んでしまった時のことを言っているのだ。彼女はやはり、レオナルドさんが自分から力を捨てたことを今も許せていないのだ。

 この蟠りは一朝一夕でできたものではない。こればかりは、当人達で解決してもらうほかない。


 ゆえに、この場で俺が保証できることは一つだけだ。


「俺は逃げない」


 これだけは断言できる。俺はもう逃げない。だってもう、さんざん逃げて来たから。逃げた先で、捨てられないものを見つけたから。


「お前に邪険にされようが、殺されそうになろうが、俺はここにいる。それが証拠だ。俺は絶対に逃げない。最後までお前と一緒にいる。戦う。そう決めた」 


 そう言うと、彼女の瞳がかすかに揺れた。

 彼女はまだ俺の手を掴み返してはくれなかったが、少し目に力が戻った気がした。


 しかし、彼女はそれきり黙ってしまう。

 おそらく混乱しているのだ。殺そうとしていたやつに救われて、さらには突然こんなプロポーズまがいの言葉まで吐かれればそうもなるだろう。

 彼女の言葉を待ってやりたいところだが、腕の限界も近い。そう悠長にはしていられないが、これ以上彼女に響くような言葉はもう俺にはない。

 

 そうして黙ってしまった彼女にの代わりに口を開いたのは、傍でぱたぱたと飛んでいたフージンだった。


「長々と、勝手なことを述べてくれたな貴様」


 眉毛はなく、その目は感情の読みづらいつぶらな瞳。

 それでも内心穏やかでないことがわかってしまうくらいには、やつの眉間には深い皺が刻まれていた。


「そんな言葉をはいそうですかと信じられる訳がないだろう。貴様がやったことはワタシ達に対する明確な背信行為だ」


「黒の書の複写については、マジで俺の浅はかさが原因だから言い訳するつもりはねえ。全部終わったら煮るなり焼くなり好きにしていい。ただ、今言ったことに何一つ嘘はねえ」


「ふん。口だけならなんとでも言える。黒の書の漏洩は王国にとっても無視できない大事だ。下手すれば死罪もあり得るぞ?」


「構わない……と言いたいところだが、それはなるべく御免被りたいところだな。俺はティアを助けるって決めたんだ。そう簡単に生きるのを諦めたら、一気に今の言葉が嘘っぽくなる」


「口の減らないやつだ。そんな軽い言葉を並べ立てたところで、それがお嬢に届くと本気で思っているのか?」


 フージンのその言葉に、それを肯定するかのように正面の青い目が細められる。

 彼女の心を揺らすことはできたようだが、やはり彼女も俺の言葉には懐疑的なようだ。

 また少しずり落ちる彼女の腕を、俺は強く握り直した。


「じゃあ、どうする? 仮に何でもやる、なんて約束してもそれはただの口約束になっちまう訳で、これ以上どうにもならないだろ」


 と、そう言ったところで、フージンがにやりと口を歪ませた。


「心配するな。お前の手にちょうどいいものがある」


 フージンはそう言って、俺の手元に視線を送る。一瞬何のことかと首を傾げかけるが、人差し指に光るそれを見て、俺はようやく気付いた。

 例の、屋敷の罠が発動する指輪だ。


「それに誓え。絶対にお嬢を裏切らないと」


「何だそれ。そんなんでいいのか? それじゃ口約束と何も変わらないんじゃ」


「そんな生易しいものではないから安心しろ。“契約”がお前を縛り、それを破れば確実にお前は死ぬことになる。しかもお前が思う最も惨たらしい死に方で、な」


 と、やつは淡々とした様子でそう言った。

 脅すような口調では全くなく、ただ事実を述べた、といったふうな体だ。たぶん今言ったことは嘘でもなんでもないんだろう。


「契約、ね……」


 よくわからないものに身を任せるのは若干怖いが、今はそうも言っていられない。今までさんざん煮え湯を飲まされて来たこの指輪が役に立つのなら、むしろ願ったり叶ったりだ。

 うむと頷き、俺はやつに言った。


「わかった。で、具体的にどうすりゃいい」


「怖くないのか? 下手すれば死ぬんだぞ?」


「少しはこええよ? でもそもそも俺は絶対裏切らないからな。つまり死ぬ可能性はゼロ。過剰に怖がる理由がない」


 それにここを突破できなきゃ、どうせあと数日の命だし、な。

 この辺りのことを言ってもややこしくなるだけなので言わないが、フージンはそれ以上は特に追求することもせず、ただつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「ふん。後悔するなよ」


「しねえよ。で、どうすりゃいい?」


「指輪に向かって、きっちり口に出して誓え。名前も省略するな」

 

 小さく頷きを返し、俺は言われた通り指輪を見下ろした。


「俺は……織部樹は、ティアッツェ・マグナースを裏切らない」


「それを何に誓う。お前の神か? それとも他の何かか?」


 その問いに、思わずフージンに視線を送ってしまった。

 普通なら考え込んでしまうような問いだ。しかし、今の俺にはちょうどはっきりと答えられるものがある。

 心の底から自分の芯だと、そう思えるものが見つかったのだ。


「──信念に。俺が持つ、唯一の信念に賭けて誓う。織部樹は、ティアッツェ・マグナースを絶対に裏切らない」


 どこまで行っても、俺はただのドルオタだ。信念なんてかっこいい言葉で表すべきではないのかも知れない。俺という人間を煮詰めたら、最後に残るのはきっとドロドロに濃縮されたその気持ち悪い何かだ。もし成分鑑定に出したら、さぞ気持ち悪い感情でできているのだろうと自分でも思う。


 頑張っている女の子を傍で見ながら応援して、必要があれば助けたい。そして、楽しそうに生きているところをずっと見ていたい。

 馬鹿みたいだが、俺の中には本当にこれしかない。だけどこれが、正真正銘、俺の芯だ。誓えるものがあるとしたら、これをおいて他にない。


「…………」


 眉は少し複雑そうにひそめられ気味だったが、目の前の青い瞳には、俺を咎めるような感情は載っていないように思えた。


 フージンは、少しの間俺と指輪を見ながら黙っていた。

 これではダメだったのだろうか。そう思った矢先、やつは今まで聞いたことのないような真面目くさった声色で、厳かに言った。


「──しかと聞き届けた」


 その瞬間、指輪が淡く光り出し、


「契約はなされた。その誓いに違わぬ働きを期待する」


 そうフージンが締めくくると、光は落ち着き、やがて消えた。

 俺のほうには特に何か変わったところはない。正直、やけにあっさり終わった感は否めない。

 しかしフージンとティアの顔を見るに、今のがただの儀礼的なものではないのは明らかだ。


「……と、勝手にやってしまったところはあるが、どうかなお嬢」


 すぐにいつもの調子に戻ったフージンが、ティアに水を向けた。


「正直この男が役に立つとは思えん。しかしこいつに好き放題言われっぱなしというのも癪だろう。こうしてワタシも戻ったことだし、ここは一つ、最後の大勝負に打って出ようじゃないか」


 と、いたって平静を保っているかのように見えるフージンだが、おそらく内心では冷や汗ダラダラなはずだ。

 ここで彼女を説得できなければ、彼女はすべてを諦めてしまう。しかしおそらく、自分の言葉では届かないと思ったのだろう。それがわかっているから、こいつは俺の言葉に少しでも説得力を持たそうとこの“契約”とやらを持ち出したのだ。


 こいつにとって、俺を頼らなきゃならないこの状況は確実に業腹ものだろう。そこを曲げられたのは、きっとこいつが本当にティアのことを大事に思っているからだ。

 そのフージンの涙ぐましい献身のかいもあってか、彼女の表情は先程までの強張ったものではなくなっていた。

  

 じっとこちらを見つめる彼女に、俺はダメ押しの言葉を掛けた。


「どうする? やっぱ逃げるか?」


 すると彼女は、ここで初めて俺の右手を握り返してくれた。

 そして、力強く光るその青の双眸を、俺に真っ直ぐに向けた。 


「わたしは……にげない!」


 宙に浮いていた彼女の腕が伸ばされ、俺はしっかとその手を取った。

 とにもかくにも、まずはこの状態を脱するのが先決。そう思い、そのまま彼女を引き上げようとしたが、


「……ぐっ!?」


 ふいに腕の負担が増す。彼女が両腕を伸ばして姿勢が変わったせいか、彼女の足元の出っ張りが崩れた。

 元々鍛えているわけではない腕に、累積した疲労と未だ残る全身の痛みが重なり、一気に体を下に持っていかれてしまう。


「やばい……落ちる!」


 ずるずると壁面に体を擦りつけて粘ったが、それも無駄に終わった。

 足のつま先を引っ掛けていた地面がボコッと音を立てて崩れ、次の瞬間、俺とティアは宙に投げ出されてしまった。 


「うおおおおおおおおおお!」


 あれだけ偉そうなことを言っておいて早速これだ。自分で自分が嫌になる。

 咄嗟に繋がれままだった手を引き、俺は彼女の体を抱き寄せた。

 命に代えても守る。そう決めはしたが、さすがにその瞬間までは堪えられず、固く目を瞑る。


 と、そうして覚悟を決めた時、ふいにそばであいつの声が響いた。


「お嬢! 指輪のマナを使え!」


 フージンのその声が聞こえた瞬間、ティアが俺の左手にその小さな手を重ねた。そして、


「かぜ……まいあがれ!」


 ティアのその声と同時。顔に強い抵抗を感じたと思ったら、体がぐるりと回転した。重力が反転したような感覚に目を開けると、俺達はいつの間にか崖を擦るように逆走していて、


「──ぐえっ!?」


 そのまま、元いた崖上の地面に二人して投げ出された。

 着地の衝撃でまた傷ついた全身に痛みが走る。しかし体の下に地面があるというその安心感に、俺は思わずぶはあ、と大きく息を吐いた。


 それでもドンドン太鼓を叩くように鳴る心臓。大丈夫。俺は生きてる。俺は生きてる。

 そうして自分に言い聞かすようにして十数秒。ようやく少し落ち着いて、興奮に白んだ視界がだんだんと元のそれへと戻っていった。


 上体を起こして横を見れば、そこにはちょうど同じく起き上がるティアの姿があった。

 あれだけ黒竜にふっ飛ばされれば俺と同じように全身打撲だらけのはずなのに、その表情はいつもと変わらず、けろりとした様子で外套のホコリをぽんぽんと叩いて落としている。

 それを見て、俺は未だ肩に入っていた力をゆるゆると抜いた。どうやらとりあえずは無事らしい。よかった。本当に。


(……ん?)


 と、そうしてやれやれとばかりに体のホコリを落とそうとした時、俺は自分の手が何か温かいものを持っていることに気付き、思わず首を傾げた。

 同じくその違和を感じたのか、隣の彼女と目が合った。そうしてようやく、俺達はその正体に気付いた。


「っ!?」


 そう言えば、まだ手を繋いだままだった。

 それに気付いた彼女が、まるで汚いものでも触っていたかのように突如ぶおんと俺の手を放り捨てた。

 そりゃあんまりだぜセニョリータ。まあ別にいいけどさ。ここは大事に至らなかっただけで御の字だ。


 とは言っても、何となく微妙な雰囲気になってしまった。その空気を変えようと、慌てて俺はティアのそばを飛ぶやつに声を掛けた。


「いやしかし、指輪で魔法が使えるならもっと早く言って欲しかったな。なんでもったいぶったんだよ」


 と、そうしてフージンに咄嗟に湧いた文句を言うと、やつはまた軽く鼻を鳴らしつつも、それに答えた。


「ワタシ達に残されたマナは、もはや貴様のしているその指輪の中にしかない。なるべく無駄遣いは避けたかったのだ」


「それはつまり、お前もティアも、もう自分の中のマナは使っちまったってことか」


「そうだ」


「ふうん……」


 やけに素直に答えるな。さっきの契約のせいか?

 じっと様子をうかがってみるが、特段やつに変わったところは見受けられない。これだけ視線を送れば「ああん?」と憎たらしく顎をしゃくって来そうなもんだが、そういったこともない。正直少し気味が悪い。

 まあ別にいいか。素直に受け答えできるんなら、それに越したことはない。


 十全に、とは言えないかもしれないが、とにもかくにも、これで準備は整った。

 すっかりホコリまみれになってしまった服をまたはたきつつ、俺は立ち上がった。


「さあて。それじゃ」


 大きく伸びをしてから、俺はティアに手を差し伸べた。


「お嬢様。お手を」


 すると彼女は、その綺麗な青い瞳を丸くした。まあ、いきなりこんなことすりゃそうなるわな。


「別に一人で立てるってのは知ってる。これはまあ……儀式的なもんだ」 


 “契約”で俺は彼女を裏切らないと約束したが、それは俺とフージンが勝手にやったことで、まだ彼女にそれをはっきりと了承してもらった訳ではない。できれば彼女の能動的な返事が欲しい。

 その意図が伝わったのかはわからないが、彼女は少し眉間に皺を寄せながら、俺のその手をじっと見つめた。


 数秒、逡巡するような様子を見せる。しかしすぐに顔を上げると、彼女はその形の良い唇を、ゆっくりと開いた。


「あなたはもうわたしからにげられない」


 耳に優しく染み渡る、透き通るようなその声に、俺は頷いた。


「上等だ」


 自信を持ってそう返す。すると、白くて小さな手が、俺の手のひらの上に置かれた。少し俺より温度の高いその手をしかと掴み、俺は言った。


「お前が俺を逃さないように、俺もお前を逃さない」


 あまりドルオタを舐めないほうがいい。一度推したからには、限界いっぱいまで行くからな。

 俺のそれに、彼女はその青い瞳をじっとこちらに向け、ふすと鼻を鳴らした。

 

「ん、じょうとう」


 傍から見れば、売り言葉に買い言葉でしかないそのやり取り。

 しかしその口元には微かな笑みがこぼれていたように見えたのは、俺の勝手な思い込みだろうか。


 ともあれ、これで彼女のお墨付きはもらった。だいぶ時間を使ってしまったが、最もいい形で彼女の協力を得ることができたのではないだろうか。

 あの狼藉者達を、これ以上好き勝手にはさせない。彼女もきっと同じ気持ちだろう。


 役者は揃った。反撃、開始だ。


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