第41話「矜持」

 時間にして数秒だったとは思う。しかしその衝撃は凄まじく、洗濯機を通り越してまるで時化の荒波に呑まれたかのようだった。


「ごおぼぼおぼぼぼぼぼ!?」


 しこたま水を飲んで溺れかけた時、どこかにぶつかったように二度、三度と衝撃。その後ふいに風船が割れたような音がしたかと思ったら、突然俺はその水の中から解放された。


 世界が回り、気持ち悪さに何度もえずく。自分が上を見ているのか下を見ているのかさえわからない。息ができているということはたぶんうつ伏せではないんだろう。そんな予想くらいしかできないまま、俺はしばらくの間ウンウン言いながらその場でのたうち回った。


「ごっほ……っ!」


 しこたま飲んでしまった水を吐き続けると、ようやくいくらか落ち着いて来た。

 痺れる三半規管を叱咤しつつ、だるい体を何とか起こす。


「はあ……はあ……酷い目に遭った……」


 息を整えながら、ビシャビシャになってしまった服を端から絞っていく。

 そうしているうちに、少しづつ思考力が戻って来る。あらかた絞り終わる頃には、何とか自分の状況を把握できるくらいには回復することができた。


 手足はある。目、耳も大丈夫。呼吸もできる。

 どうやら体は何とか無事らしい。

 しかし、そうして自分の手のひらを見ていて、俺は心臓の辺りにチクリとした痛みを覚えた。


「────」


 別れ際に見たあの笑顔とは裏腹に、彼が受けたダメージは深刻だ。

 突然のことでまだ頭が混乱しているが、彼に何が起こったのかは明確に覚えている。


「……バーンズさん」


 飛び散る鮮血と彼の腕が、今でも目に焼きついてしまっている。

 どうにもできなかった。本当に、何もできなかった。

 なのに彼は、そんな俺をただ笑って送り出した。俺が弱くなければ……いや、そもそも俺が黒の書の存在を外部に漏らさなければ、こんなことにはならなかったのに。

 

 だが、そんなことを思ってみても仕方ないことはわかっている。こうして拳を固く握ろうが、歯を強く軋らせようが、それは何のプラスにも働かないのだ。

 今はただ、託されたことを全うすること。それだけを考えて行動すべきだ。それが命を賭けて俺を送り出してくれた彼にできる、唯一の報いなのだから。

 それに彼も一人ではない。ネイトさんがいる。だから、きっと大丈夫だ。

  

「……よし」


 呼吸を整え、一人頷く。

 頭も完全に冷えた。あとは俺がやれることをやるだけだ。


(周りに人の気配みたいなのはなし、かな。まああれだけの人数が隠れててもわからなかったし、俺の勘なんてアテにはならんが……)


 居ない。と、そう仮定して動くしかない。もし誰か居ても、最悪外法魔術を使ってでも突破してやる。

 そう覚悟を決めつつ、俺は立ち上がった。


(いきなり水に閉じ込められて、それを思いっきり蹴られた時はどうなることかと思ったけど、意外に大丈夫なもんだな)


 肩を回しながらそんなことを思いつつ、俺はその水が弾けてびしゃびしゃになったのであろう地面を見下ろした。

 あの水球はネイトさんの援護だったのだろうか。水の矢を放ったのはおそらく彼女だから、あれも彼女だと考えるのが妥当ではあるが……。

 

(それにしたって、あのバーンズさんの落ち着きようはなかなかすごいな……)


 あの場面なら普通、敵の攻撃だと思ってしまうだろう。実際俺はそう思った。

 なのに、彼はただ落ち着いて俺を蹴り上げた。ネイトさんと示し合わせた訳でもないのに、その行動には何の迷いもなかったのだ。


(それだけ付き合いが長い……ってことか)


 会話の端々に絆の深さを感じるところは多々あった。そもそもネイトさんなんか、館の主を呼び捨てだしな。

 きっと長い時間を一緒に過ごして来たのだろう。元々武闘派の人達みたいだから、こういった戦場で連携を取るのにも慣れているのかもしれない。


 しかしそんな彼らにとっても、エレナは容易い相手ではないだろう。間違いなく苦戦するはずだ。

 得体の知れない能力を持ったあの男さえいなければ、まだ何とかなったかもしれないが……。


(考えなかったわけじゃないけど、実際こうして裏切られると結構きついものがあるな……)


 どうして俺が賊に襲われたのか。どうして俺が黒の書の複写を持っていることが、それを狙っている賊に漏れたのか。そうして考えれば、彼はいの一番に怪しい人物にあがる。なぜならあの時点で俺以外に黒の書のことを知っているのは、彼だけだったのだから。

 しかし俺は、その可能性を頭から意図的に消していたのだ。


(何でなんだよ……リヒトさん……)


 悲しみのない世の中になって欲しい。子供達を眺めながら、少し寂しそうにそう願っていたあの姿が嘘だとは、到底思えなかった。

 もう一度会って、彼と話がしたい。そして真意を問い質したい。


 そのためにも、やはり彼女と協力して黒竜を撃退しなければならない。あいつを早く彼女の元に連れて行かないと……。

 と、そこでようやく俺はあいつの存在を思い出し、きょろきょろと周りを見回した。 


 どこか遠くに飛んでいってたりしたらやばいなと思ったが、幸いにもすぐに見つけることができた。

 やつの入ったペットボトルは、近くの低木に引っ掛かっていた。


「おい貴様! さっさとワタシをここから出せ!」


 俺を見ると、すぐにやつはまた中で喚き出した。

 とりあえず確保は成功。後はこいつをティアのところへ連れて行くだけだ。


 ただそうしたとしても、彼女らにはそもそも黒竜との相性が悪いという問題がある。うまく合流できても、その問題がある限り黒竜には勝てないのだ。

 何か方法を考えたいところだが、実際どういう問題があるのかわからないとそれも難しい。こいつが素直に喋ってくれるとも思えないし……。


 と、そうしてついフージンにジト目を送ってしまった、その時。

 一陣の風と共に、大きな何かがものすごい速さで頭の上を通り過ぎていった。

 上を見るまでもなくわかる。黒竜だ。


「おい! やつだ! 早く追え! いや、その前にワタシをここから、」


 ティアが無事なら、黒竜が向かう先に必ず彼女が居る。フージンの言葉が終わるより前に足が動き、気付いたら駆け出していた。

 茂る低木をかき分けながら、がむしゃらに森を駆ける。懐にしまったフージンが抗議の声のようなものを上げるが、かまっていられなかった。


 彼女は無事だ。間違いなく無事だ。そう思っている俺は確かにいるのに、逸る心が抑えられない。

 黒竜は蛇行するように飛行しているせいか、速度はそこまで速くない。何とか付いて行ける。このままティアのところまで連れて行ってくれればいいのだが……。


 少しすると、黒竜が大きい動きを見せた。

 近い。そう思った時、ちょうど少し木々がまばらになった正面に、人影が見えた。


「ティア!?」


 思わず声を上げると、そのフードをかぶった首が弾かれたようにこちらを向く。

 相変わらず顔はよく見えないが、こちらにちゃんと反応したということは、先日のバーサーカー状態のようにはなっていないらしい。

 ただ、少しふらついているように見える。やはり先程の黒竜の攻撃はノーダメージという訳にはいかなかったようだ。


 とっさに駆け寄ろうとしたが、二、三駆けたところで、俺は自分の足に急制動を掛けた。

 俺に気付いた彼女が、こちらに右手を向けたのだ。


(……やっぱ、そうなるか)


 俺と彼女の問題は何も解決していない。なぜ彼女が急に俺のことを殺そうと思ったのか。それははっきりとはわからないが、おそらくは黒の書のことだろう。しかしあれは俺がティアを知りたいからやったことであって、別にスパイするためにやった訳ではない。


 早く誤解を解きたいところだが、こんな状況ではそれもままならない。

 黒竜が、上空から大口を開けながらティアの背後に迫った。


「ティア! 後ろ!!」


 俺がそう叫ぶと、彼女はハッとしたように振り向く。

 巨大な鋭い牙が生え揃う大顎が、彼女を噛み砕かんと殊更大きく開かれた。


 まさに飲み込まれようかというその瞬間、彼女が魔法を展開する。彼女が右手を下から上へと動かすと、爆発的な風が黒竜を直撃。まるでハンマーで殴ったかのような勢いで、その大顎がかち上げられる。


「ギギギギャ!」


 たまらず黒竜は上空へと逃れる。が、今の一撃の意趣返しだとでも言わんばかりに、去り際にその長くしなる尻尾で彼女に向かってアッパーを繰り出した。

 さすがにふいを突かれたのか少し反応が遅れるが、彼女はそれを何とか風魔法でガードする。しかし……。


「ティア!?」


 やはりマナの問題なのか受け止めきれない。衝突の瞬間、目視できる程の波紋状の爆風が生じて、彼女はそのまま人形のように吹っ飛んだ。


(まずい!)


 彼女はエレナと違い、おそらく身体的には俺とそう変わらない。こんな勢いで木に打ちつけられでもしたら、さすがの彼女も無事ではすまない。


 しかしその位置関係が幸いし、彼女は俺に向かって吹っ飛んで来ている。これなら何とか受け止められるかもしれない。

 ……と、そんなことを思っていた俺は、想像を絶する大馬鹿だった。

 

「うぐっ!」

 

 何とか腹の真ん中で彼女を捉えることはできた。が、大砲みたいな速度で飛んでくる人間を、ただの一般人の俺がまともに受け止められる訳はなかったのだ。

 俺と彼女は、もみくちゃになりながら吹っ飛んだ。

 西部劇に出てくる謎のもじゃもじゃのように地面をごろごろ転がされ、それでも何とか彼女だけはと自分の体で包む。


 しかし、やはりあまりにもその勢いが強すぎた。そのまま低木をなぎ倒し、出っ張っていた岩の上を跳ね転がされて悶絶。肺の空気が一気に押し出され、そのショックで腕から力が抜けてしまった。

 結果、彼女は宙を舞う。そのまま彼女は、受け身も取れずに地面に叩きつけられてしまう。

 さらに俺が投げ出した形となってしまったせいか、彼女は俺よりもさらに遠くへと勢いよく飛び、森の奥へと消えていってしまった。


 その景色をスローモーションのように見ていた俺だったが、そこで強烈な衝撃が再び背中を襲った。


「がはっ!?」


 背骨が軋み、内臓が押し潰される感覚に意識が白む。こみ上げるような吐き気がして、俺はその場にうずくまるようにして嘔吐した。


「ぐっ……!」


 吐いたものが胃の内容物ではなく血であることが知れると、途端に痛みが脳にダイレクトに届く。


「ううう……ああああああああああああああああああ!!」


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!


 一度認識すると止まらなかった。腕が痛い。胸が痛い。足が痛い。背中が痛い。痛いところがないぐらいの痛みの大波に、喉がめくれるような叫び声が漏れて止まない。叫んでいないと頭がおかしくなってしまいそうだ。


「痛い! くそおおおおおお痛いいいいいいいいいいああああああああああ!!」


 抜け道の見当たらない痛みが体中を走る。気づけば俺は、自分の両腕を強く抱いていた。

 抱いた腕も痛かったが、それでもそうせずにはいられなかった。ただひたすらに身を縮め、俺はその痛みが去るのを待った。そうすることしかできなかった。


「ああ……あ……痛い……ごほっ! 痛いい……」


 思考しようとしても、痛みが邪魔をしてまともに脳が動かない。口の中の血の味に思わず咳き込めば、その振動が全身に伝わって痛みが増す。

 ギリギリと歯を噛むと、少しだけ痛みが薄れたような気がした。俺は地面の一点を見つめながら、その感覚が逃げないように無心でそれを追いかけ続けた。


「あ……う……」


 そうして無限とも思える時間を過ごしていると、痛みでのぼせ上がっていた頭がいくらか冷える。するとそこでようやく、聴覚が自分の歯ぎしりの音を知覚した。完全に止めることはできなかったが、そこで俺は、少しだけ顎から力を抜いた。


 やがて、痛みの大波は去り、どうにか身じろぎくらいはできるようになった。しかし小さな波は繰り返し押し寄せて来るので、相変わらず全身痛い。それでも何とか思考はできるくらいには回復したので、何事にも終わりはあるんだなと、俺は体に響かないようにそっと息を吐いた。


 服が長袖だったのが功を奏し、手や足に目立った擦り傷はない。ダメージはどうやら打撲だけのようである。しかし血を吐いたということは、内臓のダメージもあるということだ。見た目以上の怪我を負ってしまっているのは間違いない。


「ぐ……っ! うう……」


 血の味がする唾を吐きつつ、俺は自分の胸に手を当てた。

 まだ心臓が強く脈打っている。今まで生きてきた中で、これ程までに命の危険を感じたことはない。思い出すだけで吐き気がする。

 正直言って俺は舐めていた。この世界を。


 そう思ったら、強い寒気がして、ぶるりと身が震えた。

 さらには歯がガチガチと鳴り始め、手が嘘のように震え出した。


 先日も黒竜に一撃をもらったが、あの時は謎のバフのおかげで助かっただけだ。それがなければ当然こうなる。この世界は剣と魔法の世界だが、現実なのだ。それを俺は、わかっていたようでわかっていなかった。


「……もう、嫌だ」


 こんな痛い思いをするくらいなら、全てを投げ出して逃げてしまいたい。天命なんて知ったことか。この痛みに比べたら、死ぬことなんて大して怖くはない。


「仕方ねえだろ……。こんなの誰だって逃げんだろ。そうするのが普通だろ……!」


 普通の、どこにでも居る、もしくはそれ以下の凡人。たった一回こんなことがあったくらいで逃げ出そうとする只人。それが俺だ。


「はあ……はあ……」

 

 バーンズさんやネイトさんには悪いけど、俺はここまでだ。レオナルドさんは俺が消えたほうがいいと思っているだろうし、特に怒ったりはしないはずだ。

 女王様には悪いことをしたと思う。多大なコストを払ってまで召喚したやつが、こんな使えないやつだとは思っていなかっただろう。直接謝りたいところではあるが、それはきっと叶わない。その前に俺は死んでしまっているだろうから。


 この世界で出会った人を頭の中で思い浮かべていく。そうして順繰りに心中で言い訳をしていると、最後にあのあどけない顔が浮かんだ。

 どうしようもない言い訳を繰り返す俺の思考が、そこでピタリと止まった。


「……ティア」


 彼女はこれからどうするのだろうか。これだけやられても、まだ諦めないのだろうか。だとしたら本当に尊敬する。彼女は本当に誇り高い人間だ。 

 それに比べ、俺はやはりゴミのような人間だ。学業から逃げ、仕事から逃げ、家から逃げ……。思い出してみれば、逃げてばかりの人生だった。

 やはり最後に俺に残るのは、ドルオタだったという事実だけ、ということか。


「…………」


 いや、違う。推しの子が頑張っているのにそれを見捨てて逃げるなんて、ドルオタのすることではない。推しが辛い時こそ、ドルオタは寄り添うものだ。ここで逃げたら、俺はもうドルオタですらなくなってしまう。本当に何もない、空っぽ人間の出来上がりだ。


 思わず、まだ痛みが走る腕に力を込めてしまった。

 それは嫌だ、と俺は思った。俺は意地やプライドとは無縁の人生を送って来たが、これだけは捨てられない。これは俺が逃げて、逃げて、逃げ続けた先でやっと見つけた唯一の俺の芯。これだけは、絶対に捨ててはいけないものだ。


 胸の辺りで、ぽっ、と熱が灯った気がした。それは俺の底で眠っていた炎のように思えたが、もしかしたらただの打ち身の炎症による熱感かもしれなかった。

 でもそんなことはどっちでもよかった。熱はじわじわと広がり、俺の体全体を包んだ。


 その熱に導かれるまま、俺は右手で膝を強く打ち、ゆっくりと立ち上がった。




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