第39話「森の攻防」

 長いたてがみめいた長髪を揺らし、ゆらりと薄闇から現れたのは、間違いなくエレナだった。やはり戦闘があったのか、彼女の身なりもかなり乱れている。

 腰に佩いたククリ刀は全く無事のようだが、特徴的なスカートを縦半分に切ったような腰布は、裾部分がボロボロになって今にも裂けそうだ。要所の金属製のプレートも胸部を残し、全てなくなってしまっている。


(やっぱり来てるよな……。エレナがこの修羅場を見逃す訳がない)


 戦闘狂である彼女の、争いごとへの嗅覚は侮れない。街で賊に襲われていた俺を、どこからともなく現れて救ってくれたのは彼女なのだ。

 各所に擦過傷のようなものが見られるが、彼女は概ね健在ではあるようだ。


 そりゃそうだ。彼女は黒竜から正面とやりあっても平気でいられる人間なのだ。そうそう彼女を脅かすようなものが現れるはずがない。

 これは頼もしい味方が増えたと思わず彼女に駆け寄ろうとする。

 しかし、その出掛けの肩を突然強く抑えつけられてしまった。


「お待ち下さい」


 何事かと隣を見れば、そこには先程と変わらない緊張した面持ちのバーンズさんが居た。俺の疑問は目線で伝えたつもりだが、彼はやはり俺と視線を合わさない。ただエレナの方を見つめている。

 そして彼は、なぜか俺をエレナから隠すように一歩前に出ると、


「あれは今、エレナではありません」


「──え」


 と、その不可解な言葉に疑問を挟もうとしたその瞬間。間近で衝突音のようなものがした後、彼の姿がかき消えた。

 代わりに、突如そこに置き換えられたように女が目の前に現れる。


「うわぁ!?」


 そのあまりの形相に、俺は飛び退った勢いそのままに滑るように尻餅をついてしまった。

 大きく見開かれた目、そして噛み締められた口元からは鋭利な牙が覗く。肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべたエレナが、低い唸り声を上げながらそこに立っていた。


 その出現に一瞬遅れ、斜め後方からまた轟音が響く。釣られてそこを見やれば、大きくえぐれた大木の下に彼、バーンズさんが倒れ伏していた。 

 

 彼と彼女を見比べてみても、何が起こったのかがわからなかった。バーンズさんが消えて、エレナが現れた。そこまではわかる。しかし彼がどうして倒れているのか、どうしてエレナがこんな表情をしているのかがわからない。


 エレナはこちらには全く興味がないようで、俺の方には見向きもしない。ただその血のように紅い瞳をバーンズさんに向けるのみだ。

 彼女の眼中に俺はいない。なのに、その紅の瞳を見た瞬間から、俺はまるで真空の中にでもいるかのように声を発することができなくなってしまった。


 昏く沈んだ、一切の濁りのない真赤の瞳。ただ平和に暮らしている人間には、こんな目はおそらくできない。これはきっと、純然たる野に生きる者の目だ。

 今まで何度も彼女と相対していたはずなのに、彼女の目がこんな色をしていることを初めて知った。


「バーンズ!」


 と、そのままその瞳に飲まれそうになっていたところ、ふいにどこかから聞き覚えのある声がした。

 すっかり強張ってしまった首をギリギリと回して周囲を見れば、ちょうど折れた木のそばから現れる影が一つ。

 そうして慌てた様子で顔を出したのは、思った通り彼だった。


 バーンズさんとは違い、彼、レオナルドさんは負傷したような様子は見られなかった。その見事なまでの金髪は艷やかなままで、いつもの貴族服にも汚れ一つない。どうやら彼は完全に無事なようで、少しホッとした。

 しかしその視線がこちらに向くと、彼はその青い瞳を大きく見開いた。


「お前……なぜ……!」


 予想していたとは言え、やはりいい反応はもらえなかった。

 いろいろ説明したほうがいいのだろうが、今は悠長にしている場合ではない。とにかく今は状況の共有を行うのが先決なのだが……。

 そう思って口を開きかけた時、しかしふいに彼の視線が俺から逸れた。


「があああああ!!」


 突然エレナが獣じみた咆哮を上げ、バーンズさんへと向かって行った。

 地を這うような、前のめりの低い姿勢でのその突進を、バーンズさんはボロボロになりながらも迎撃せんと構えを取る。

 まるで一頭の獣のような鋭さで迫る彼女を、しかしやはり彼はいなし切ることができない。


 彼が繰り出した足刀はむなしく空を切り、逆にエレナの勢いの載った拳が彼の腹を深く抉る。


「ぐう……っ!」


 バーンズさんのくぐもったうめき声が、微かに俺の耳にまで届いた。そのまま揉み合うようにして、二人は再び森の奥へと消えていく。

 二人の姿は完全に見えなくなったが、激しい戦いの狂騒曲が続いた。

 二人が激しく風を切る音。木々が爆ぜる炸裂音。時折その二つに混ざる鈍い音は、おそらくどちらかの攻撃がその身体に刺さる音だ。


 一体どうして二人がこんなことになってしまっているのか。どうもエレナの様子がおかしいようだが、彼女に何かあったのだろうか。なぜバーンズさんと戦うことになってしまったのだろうか。


 エレナのあの赤い瞳を見てしまったせいか、二人が居なくなっても体の緊張が消え切らない。しかし、ただ黙っていても状況は悪くなるばかりだ。

 未だふるふると震える腕で何とか立ち上がり、俺は彼に向いた。


「レオナルドさん……」


 話すべきことは多くあるはずなのに、うまく言葉が出ない。

 その青い瞳には、相変わらずはっきりとした敵意が滲んでいる。実際彼の言い分は間違っていないし、彼が俺に不信を抱くのは当然だ。


 しかしそれでも今は、何とかそれを棚に上げて協力するべきだと思う。女王様にははっきりとこれ以上助けられないと言われてしまったし、瘴気で街が閉鎖されてしまった今、おそらく外からの加勢も期待できない。


 一言目が大事だ。と、そう思って意を決し、口を開きかけた時、


「──そろそろおわかりいただけたでしょうか。レオナルド様」


 また誰かの声が聞こえた。そう思ったら、そいつはいつの間にか俺とレオナルドさんの前に立っていた。


 膝下まである外套を羽織り、先日の賊と同じように目深にフードをかぶっているため顔は見えない。しかし声の調子からして、おそらくは男だ。背格好は俺やレオナルドさんとそう変わらないが、何と言うか……妙な雰囲気がある。

 あの屋敷に来たシューインという男やベアードのような武人の空気ではないが、目を離すのが怖い。何をするのかわからない怖さを感じさせる男だった。

 

(こいつがあの脅迫文の主……か?)


 男は俺とレオナルドさんを見比べるように見たが、俺には興味がないようで、ふいとこちらから視線を外した。


「今のあなた方では、我々の力には及びません。大人しく黒の書を渡していただけないでしょうか」


 やはり、こいつが脅迫文の主のようだ。

 どうやらまだ黒の書は渡してはいないらしいが、レオナルドさんはどうするつもりなのだろうか。黒の書がどういうものなのかはわからないが、少なくとも外に出すべきものではないということは先日の会話からも読み取れる。おそらくは、街一つ失っても秘匿するべき危険なものなのだろう。


 その証拠に、彼は歯噛みするように押し黙っている。


「その顔は、やはり難しいということでしょうか」


「…………無理だ」


「それはこの街がどうなってもいい、ということでしょうか」


「────」


「……ふむ」


 レオナルドさんの歯切れの悪さに、男がフードの奥でため息を吐く気配がする。


「どうも、よくありませんね。見た目では我々と戦えてしまっているのがよくないのかもしれません。しかしこのままでは、いずれ我々が競り勝ちますよ」


 そう言って、男は黙り込む彼に嘲るような息を吐いた。


「かつて帝国で名を馳せたと言われるバーンズ・ガイアス。彼は情報通り戒言によって縛られていて、手や腕を使った攻撃ができないようですね。あれだけ追い込まれても使わないところを見ると、どうやら我々の情報は正しかったようです」


 そこではっきりと男はレオナルドさんに体を向けるが、彼はただ俯くのみだ。

 男はしかし、特にそれに憤慨することもなく、ただ淡々と話を続ける。


「一番の問題はあなたでしたが、まさかあのレオナルド・マグナースが剣を封じられているとは思いませんでしたよ。実際に見るまでは信じられませんでしたが、まさかこのような場においても帯剣せずに来るとは……いやはや、何とも」


 滔々と流れるその語り口には、確かな余裕が感じられる。どうあっても自分達が勝てると踏んでいるのだろう。身振り手振りを交えて話すその姿は、少し興奮気味のようにも見える。


「街は瘴気で包囲させていただきましたし、あの悪名高い“暴虐武人”エレナ・ガレフも今や私の手駒です。もはやあなた方に勝ち目はありません。そろそろ諦めてはいかがです?」


 一人劇場のような長い語りが終わり、そこで男はようやくレオナルドさんに水を向ける。

 それを受け、彼は忌々しそうに地面に向かって言葉をこぼした。


「ぺらぺらと……よく喋る男だ」 


「すみません。性分なもので」


 すかさず言葉が返って来て、レオナルドさんがまた不愉快そうに鼻を鳴らす。


「確かに状況は良くはない。だが全てがお前の読み通りに動いている訳ではあるまい」


「ほう。と言いますと?」


 よほど自信があるのか、男はレオナルドさんの言にすぐさま言葉を重ねる。

 が、今度は彼も言われっぱなしではなく、


「……どこの誰だかは知らないが、お前達の最大戦力であるはずの黒竜は抑えられてしまっているようじゃないか。やつさえ抑えていられれば、じきに国軍が来る。そうなれば我々の勝ちだ」


 そこで初めて、彼は自分の体をフードの男へと向けた。

 その真っ直ぐな青い瞳に射抜かれれば、きっと誰もが射竦められ、たじろいでしまう。

 それ程に強い視線だったが、男はそれを全く意に介さず、ただ不敵に笑うのみだった。


「ふふ。さすがかつては王国の矛とまで呼ばれた方。このような状況でも揺るぎませんね。しかし、私にハッタリは通じません」 


 と、そこで男が自分の指を指揮棒のように泳がせた、その瞬間。

 またも、森に響き渡る鈍い打撃音とくぐもった声。それと同時に、戦闘中だったはずの彼が、また俺達の前へと吹き飛ばされて来た。


「ぐう……っ! はぁ……はぁ……」


 あのスマートな紳士のバーンズさんが、今はもう見る影もない。

 着ていたはずのジャケットはどこかに行き、仕立てのいい白シャツも、すっかり土色のボロ雑巾のようになってしまっている。

 対して、同時に現れたエレナの様相は先程とあまり変わっていない。どうやらバーンズさんのほうが一方的にやられてしまっていたようだ。


「むう……エレナ・ガレフ、まさかこれ程とは……」


 衣服が剥がれてしまったせいか、全身の擦り傷がひどい。すぐにでも駆け寄りたかったが、足が地面に張り付いたように動かなかった。

 薄闇からゆっくりと現れる赤い瞳。そして、突如けたたましい鳴き声と共に頭上に現れたものに圧倒され、俺はまたも声を失った。


 禍々しい色をした空に、巨大な蝙蝠のようなシルエット。

 この世の終わりを告げる悪魔のような、圧倒的巨躯。黒竜が、その威容を俺達に晒していた。


「──縛りの法」


 右手を高く上げ、フードの男が静かに言った。


「エレナ・ガレフと黒竜はこの通り、確かに私の手の内にあります。予定外の邪魔が入っているようですが、それももはや時間の問題です」


 そこで、男の体を何か禍々しい霧のようなものが包んだ。


「まずはあの、招かれざる客を消すとしましょう」


 高く上げた右腕に、徐々にその霧が集まっていく。そして、ざわざわとその手を包んだ霧を男が拳で握り潰した、その瞬間。

 突然黒竜が、喉が潰れんばかりの咆哮を上げた。


 耳を突き刺すその咆哮と同時に、大きな翼を激しくはためかせながらホバリングする。周囲の木々がビキビキと悲鳴を上げる程の強風が地上を襲う。


「ぐっ……!」


 どうやらフードの男は本当に黒竜を操ることができるらしい。

 レオナルドさんは国軍を引き合いに出して男を牽制しようとしていたが、そうした援軍がないことは完全に読まれているようだ。男の行動に迷いは全くない。

 バーンズさんは満身創痍。レオナルドさんはそもそも武器がなく、戦う気がないように見える。そして期待していたエレナもこの調子。このままでは本当に全滅だ。


 と、そう絶望しかけた時、


「──あっ」


 そこに、一筋の光明。唯一の希望と言える存在が、その姿を現した。

 そうだ。こうしてここに黒竜が居るのなら、当然彼女もそれを追って来ている。


 今度ははっきりと見えた。黒竜と対峙するように、中空に先日と同じフード姿の彼女が居た。

 彼女はこちらに気づいた様子はなく、先日と同じようにただ目の前にある憎き目標を殲滅せんと、嵐のように風魔法を黒竜に浴びせ続けていた。


(……ん?)


 だが、少し様子がおかしい。街を飛んでいた時は明らかにそれを嫌がるように飛んでいた黒竜だったが、今は彼女の魔法を受けても怯まない。今はどちらかといえば、彼女の方が黒竜の攻撃を避けさせられている。


 まさかもう彼女のマナが尽き始めているのではないか。

 そう思った時、吹きつける風の音の合間から、フードの男が不敵に笑う声が漏れ聞こえて来た。


「ふふ、やはり限界のようですね。まあそれはそうでしょう。どうも外法魔術を扱える精霊術士のようでしたが、こうして精霊を押さえてしまえば、いずれマナが尽きるのは道理というものです」


 そう言うと、男は懐から何かを取り出した。

 数十センチ程の透明な容器だ。よく見えないが、何か小さなものが中で暴れ回っているように見える。


「精霊と繋がった者は、世界に存在する莫大なマナを扱うことができる、でしたか。精霊と外法魔術、確かに怖い組み合わせでしたがね。やはり知識は身を助ける、ということですね」


 くくっ、と楽しそうに笑いながら、男はその容器の先をつまむように持つと、こちらに見せつけるようにそれをゆっくりと振った。

 その特徴的な形に、俺はようやくそれが何なのかに気づいた。

 ペットボトルだ。なぜか男は、ペットボトルにその精霊を捕まえているらしい。


(ってことは、あれはフージン……なのか?)


 もろもろ疑問はあるが、状況から察するとそういうことになる。

 どうやらフードの男は博識なようで、フージンの持つ能力についても知っているようだ。おそらくフージンは彼女と一緒に居るところを見られてしまい、結果、捕まってしまったのだろう。


(まずいぞ……)


 そうなると、彼女はフージンが居ないまま黒竜と戦い続けているということになる。

 俺が街に来る前から戦っているとしたら、もうかなりの時間だ。実際に黒竜に押され始めているところを見ると、やはり男の言う通り彼女のマナが限界に近づいているのかもしれない。

 と、そう思って再び空の彼女を仰ぎ見ようとした、その時、


「──ぁ」


 黒竜が、空中で器用に身を翻し、体を捻った。そしてその溜めを開放するように回転すると、ムチのようにしなるその長い尾を、彼女に向かって思い切り叩きつけた。

 瞬間、思わず悲鳴のような声が口から漏れ出た。


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