第38話「不穏な影」

 眩しい夕日に照らされながら、街道を駆ける。

 あれから二十分程経っただろうか。半ば無理やり乗せられた時はどうなることかと思ったが、何とかそろそろ街が見えてくるかというところにまで来た。


 意外にも、鳥竜の乗り心地は全く悪くなかった。馬に乗ったことがないので比較することはできないが、上下の揺れは思ったよりも少ない。人間とは逆に曲がった足の関節が、うまくサスペンションのように作用しているのかもしれない。

 

 と、そんなことを考えながらネイトさんにしがみついていると、街道の大きなカーブに差し掛かった。

 このカーブを超えれば、街道沿いに繁茂していた樹木の大部分が消え、レェンの街が見えて来る。

 ネイトさんが手綱を巧みに操り、そのカーブもスピードをほとんど落とすことなく鳥竜を華麗に駆け抜けさせる。


「……えっ?」


 しかしカーブを曲がっても、そこにいつもの街の姿はなかった。

 代わりにあったのは、何やら半球状のドームのようになった巨大な黒い靄だった。


「な、何だ、これ……」


 まるで何度も絵の具を洗った筆洗いバケツの中の水のように、どす黒く淀んだ膜が街全体を覆っている。

 何がどうなっているのかは全くわからない。しかし、あれがいいものではないということだけは何となくわかる。

 

「こいつは、まさか……」


 いよいよその目の前にまで来ると、ネイトさんが鳥竜を制しつつ、何やら憎々しげにそうこぼした。 

 それでも冷静な姿勢は崩さず、彼女は先に鳥竜から降りて俺に手を貸してくれた。それからゆっくりと歩き、彼女はその黒い靄を見上げると、


「間違いない。瘴気だねこれは」


 低い声で、そう一言。

 彼女のそれに呼応するように、鳥竜がその靄に向かってグルルルと唸り声のようなものを上げる。


「瘴気……これが?」

 

 俺が知ってる瘴気と言えばあの黒竜が吐いた黒炎だが、これはあれよりももっと禍々しい色をしている。色に比例するのかはわからないが、より毒性が強いだろうことは何となく想像がつく。


「もしこれを吸っちゃったらどうなるんですかね」


 そう聞いてみると、彼女はよりいっそう声を低くして、


「……まあ、無事じゃすまないだろうね」


 と、眉間に深いしわを寄せた。

 そう言えば、街道ではいつも商人やら旅人やらの人間とすれ違っていたが、今日はそれが全くなかった。

 そこで俺の頭に、恐ろしい考えが浮かんでしまう。


「まさか、中はもう……」


 弱気が口をついと出てしまう俺に対し、ネイトさんはあくまでも冷静に言った。


「確かめてみるしかないね」


 すると、彼女はなぜか俺の腕をぐいと引っ張り、そのまま俺とカップルのように腕を組む。

 ホワイ? こんな時に流れるようなセクハラ? と、ネイトさんに視線を送るが、彼女はいたって真面目な顔だ。


「これから中に入る。しばらくあたしから離れちゃだめだよ」


「え!? この中に入るんですか!?」


 正直自殺行為にしか思えない。それは俺よりも、むしろ黒竜と因縁のあるマグナース家の人間であればわかっているはずだが……。

 と、そう思ってつい大きな声を出してしまった俺だが、彼女には何か対策があるようで、

 

「安心しな。瘴気を少しの間無効にできるものを持ってる。ダメそうなら引き返せばいいだけさ」


 そう言って、彼女は自分の右手先を俺の前に差し出した。

 その彼女の人差し指には、小さな青い石がはめ込まれた指輪がはめられていた。

 何の変哲もない指輪だが、これもフージンが作った指輪のような魔法の力を宿しているということだろうか。


 少々の不安はあるが、ここでネイトさんが嘘を吐く意味はない。それならば、と俺は一言返事するだけに留める。

 彼女はそれを見て頷くと、俺を引っ張りつつ、ゆっくりとその瘴気に向かって歩を進めた。


「うっ……」


 入った瞬間、思わず体に力が入ってしまった。

 黒竜の瘴気に飲まれた時、最初は特に何も起こらなかった。しかし少ししてたくさんの人の声が一斉に頭の中に響き、そのせいで俺は気を失ってしまったのだ。

 ネイトさんの指輪のおかげか、特に体への刺激はない。しかし、先日の記憶のせいで、どうしても嫌悪感が拭い切れない。


 そうして恐怖に目を瞑り、身を固くする俺に対し、ネイトさんはぐんぐんと瘴気の中を歩いていく。

 もし街がすべてこの瘴気に包まれてしまっているなら、こうして進んでも終わりはない。指輪の力がどれだけ持つのかわからないが、そろそろ引き返したほうがいいのでは……。


 と、そう思い始めた時、ちょうど俺は、瞑ったまぶたに微かな光を感じた。


「何とか、首の皮一枚ってところだね」


 隣のその声に、恐る恐る目を開く。それと同時に、少し埃っぽい風が頬を撫でていった。

 一体どんな禍々しい景色が待っているのだろうと覚悟していたが、そこにはいたって普通の、いつも通りの街の景色が広がっていた。


 ただ、外は夕日が眩しいくらいの空だったのに、中はそれが嘘のように暗い。

 見上げれば、やはりそこにはどす黒い瘴気が渦巻いていた。その全貌は未だうかがい知れないが、やはり瘴気は大きなドーム状になって街を包んでいるように見える。


「……なるほどね。そういうことか」


 ネイトさんは俺から離れると、その空を見上げながら言った。


「どうも、女王の障壁を利用されたみたいだね」


「どういうことです?」


「街には瘴気が入らないように、地上から上空まで球体状に二重の障壁が掛けられている。しかしどうやったのかはわからないが、その二重の障壁の間に瘴気が流れ込んでいるのさ。これじゃあ誰も街から出られないね」


 と、彼女が苦々しい表情でそう言った矢先、どこかでパキッと硬質な音がした。

 何かと思えば、それは先程ネイトさんが俺に見せてくれた指輪が、綺麗に真っ二つに割れる音だった。

  

「あの子を守るために作ったものだったんだが……。まさかこんなところで使わされるとはね」


 そのまま粉々になって消えていくそれを見つめると、彼女は瞑目しつつ、深く息を吐いた。

 あの子というのは、おそらくティアのことだろう。今までのネイトさんの言動から見るに、彼女もティアのことを大事に思っていることは全く疑問を挟む余地がない。その琥珀色の瞳には、今もなお彼女を案じる情愛の念が滲んでいる。


 しかし何にせよ、これで戻る手段は失われた。幸い街はまだ無事なようだが、この瘴気をどうにかできる手段がこちらにない以上、状況は全くいいとは言えない。


(……とにかく今は、レオナルドさん達と早く合流するべきだ)


 賊がこちらと交渉する気なら、黒竜も近くに伏せている可能性がある。であれば、当然ティアもそこへと向かうはずだ。

 例の脅迫文には、たしか“街に隣接する森”と書いてあった。街がこんな状態ではもう交渉がどうのという段階ではないのかもしれないが、まずはそこに向かってみるしかない。


「ネイトさん、急ぎましょ……」


 と、そうネイトさんに声を掛けようとした、その瞬間。

 突如黒い風が、鋭く俺の体の上を駆け抜けて行った。


「……え?」


 否、風に色などある訳がない。影だ。何かの影が、俺の頭の上を過って行った。

 そばにいたネイトさんが弾かれたように空を見上げる。それに自然と倣ったところで、俺はその黒い風の正体をようやく知った。


 コウモリのようなそのシルエットに一瞬安堵しかけるが、そのスケール感がおかしいことにすぐに気づき、思わず瞠目してしまった。

 そこには、どす黒い曇天を駆ける、巨大な生物の姿があった。


 左右に大きく翼を広げ、滑空。かと思えば、自分を抱きかかえるようにしてその翼を畳んで急減速。そのまま真っ逆さまになって落ちるが、地上スレスレでエンジンを再始動したかのごとく翼を広げ、再び空へと舞い上がる。


 飛行機のような直線的な動きでは全くない。縦横無尽とはこのことかという程の機動力で空を駆け巡る。まさにそれは、空の王者と言うべき堂々たる姿で……。


「──黒竜!?」


 それと認識した途端、思わず口からついて出た。

 なぜ? まさか交渉が決裂して、レオナルドさん達はもう……。

 と、瞬時にネガティブな考えが頭を巡ってしまうが、さすがに早計だと俺は頭を振った。


「ネイトさん!」


 そう声を上げると、ハッと我に返ったような顔がこちらを向いた。

 どうやら彼女も黒竜に見入ってしまっていたらしい。10年ぶりの因縁の相手だ。当然思うところがあるのだろう。

 しかし彼女は、すぐにその琥珀色の瞳を毅然として細めると、


「ああ! 走るよ!」


 と、威勢よく応じ、やにわに走り出した。

 慌てて付いていこうとするが、そのあまりの速さに俺は目を見張ってしまった。

 間違いなく老境に入っている年齢のはずだが、彼女はそれを全く感じさせない健脚で、どんどんと俺を引き離していく。


 彼女は屋敷に居た時のエレナのそれと比べると、かなり落ち着いた使用人服を着ている。ロングスカートでかなり動きにくいはずなのに、それをものともせず小股で器用に走って行ってしまう。


 無理だ。追いつけない。彼女も焦っているのか、それに気づかずに行ってしまう。

 仕方なく彼女を見送り、俺は息が上がらないギリギリに走るペースを落とした。


(まあ、さすがにこの状況で焦らないでいるのは無理だよな……)


 ふと上を見やれば、黒竜は変わらず空を縦横無尽に飛び回っている。

 その飛行の余波なのか、街はいくらか破壊されているようだ。しかしなぜか街を直接攻撃するような様子は見受けられないし、時折不自然な動きをするのが気に掛かる。何かがおかしい。


「──あっ」


 と、走りながらもそうして思考を巡らせていると、そこで見知った顔を見つけた。


「店長!」


 どうやらいつの間にか商業区まで辿り着いていたらしい。

 声を掛けると、彼はその禿頭をこちらに振り返らせた。


「おおタツキ! 無事だったか!」


 俺の数少ない知り合いの一人、酒場の強面店長である。


「あれ、何がどうなってるんです!?」


 少しでも何か情報が欲しい。そう思って聞いてみたが、彼はそれに大きく首を振り、唾を飛ばした。


「んなもん俺が聞きてえくらいだ! 一体何が起こってやがる!」


 商業区は空に目を向ける人でごった返しており、お互いに大声で叫ぶように会話する他ない。

 今はまだパニックにはなっていないようだが、それも時間の問題だ。街から出られない以上、黒竜を放っておけばいつかは被害も出る。悠長に構えている暇はやはりなさそうだ。


「あの竜はいつから飛んでるんですか!?」


「わからねえ! だが急に空が暗くなったと思ったら、あの耳障りな鳴き声が聞こえ始めた!」


 店長は自分を落ち着かせるようにその禿頭を撫でつつも、焦燥を隠せない声音でそう叫んだ。


 黒竜は街全体を旋回するように飛んでいるようで、今は少し遠くの方を飛んでいる。しかし時折、周囲を威嚇するように大きく鳴くと、人々が不安そうな顔で空を見上げる。

 先日の一件以来だが、本当に、耳の奥にまで響く嫌な鳴き声だ。


「ただ今んところ俺達には興味がねえみてえだ! よくは見えなかったが、誰かがあいつと戦ってるらしい!」


 その言葉に、俺は思わず勢いよく彼に顔を向けてしまった。 


「誰か? 誰かって、誰です!」


「わからねえ! だが俺は確かに見た! ちっこい人間が空を飛んで、あの黒竜と向かい合って正面から戦ってるのをな!」


 言われて俺は、再び黒竜へと目を向けた。

 やはり改めて見てみても、黒竜の動きはおかしい。ただ飛ぶだけなら、普通はもっと戦闘機のような直線的な動きでいいはずだ。なのに急停止したり激しく上下にぶれたりして、体に負担が掛かるような動きばかりしている。


 と、そのまま目を眇めつつ注視していると、黒竜が突然飛ぶ方角を変え、こちらへと飛んで来た。


「──っ!?」


 漆黒の翼を左右に大きく広げたその姿は、さながら世紀末に舞い降りる悪魔のようだ。家屋を舐めるように飛ぶ竜に、街のそこかしこから悲鳴のようなどよめきが上がる。

 しかし俺は、それとは全く別のものに目を奪われていた。


(……そんな)


 黒竜の周囲を、何か小さなものが飛んでいる。黒竜に比べると豆粒みたいなサイズだが、確かに何かがいる。

 店長が言う通り人間なのかまではわからないが、仮に人間なら、そんなことができる人間を俺は一人しか知らない。


「店長! 俺行きます!」


「ああん? ……あ、おい! タツキ! 行くってどこへ!?」


 店長の返答を待たず、俺の足は勝手に駆け出していた。


「店長はできれば皆を安全なところへ! あ、街は瘴気で囲まれてるんで街からは出ないで! 俺はあいつをどうにかします!」


「どうにかって……おい! タツキ! どうするつもりだ!!」


 強面だが店長は優しい人だ。その声には、俺を案ずる感情がしっかと載っていた。

 しかし店長には悪いが、説明している暇はない。もしあの黒竜のそばを飛ぶ何かが彼女であったなら、いよいよ時は一刻を争う。


「──ワタシ達との相性は最悪だよ」


 いつかフージンがそう言っていたのを、俺は確かに覚えている。

 理由ははっきりとはわからない。しかし“ワタシ達との相性”というその言葉からすると、おそらく黒竜との戦いでは彼女とフージンの協力体制に何らかの問題が生じるということなのではないだろうかと思う。


 つまり、フージンの能力──周囲のマナと彼女とを仲介する力──が機能しなくなり、彼女にマナを供給できなくなる、ということなのではないだろうか。

 もしそうなら、彼女は自分の中にあるマナだけで戦うことになる。時間が経てば経つほど彼女が不利になることは、全く想像に難くない。


(……くそ!)


 強く地面を蹴る。最近は少し動けるようになった自覚があるが、焦りからなのか足がうまく地面を掴まず、思った通りに体が進まない。 

 それを心底疎ましく思いながら、地を蹴った。口の中に血の味がし出して、肺が破れそうになっても、地を蹴った。

 彼女を助けたい。ただその一心で、俺は薄闇の中を走り続けた。







 商業区を抜け、やがて、お世話になっていた教会へと至る。シスターや子供達の様子を見たい衝動に駆られるが、ぐっとこらえて我慢した。

 それでも教会を横目に見てしまい、俺は頭をぶるぶると振って正面を見据えた。

 大元で起こっていることをどうにかすれば、それが皆の安全にも繋がる。そう信じて走り続け、そのまま俺は、教会奥の森へと足を踏み入れた。


 教会の書庫からこの森を見たことはあるが、実際に入ったことはない。かなりの広さがあるらしいが、シスターさんがたまに子供達を連れてピクニックに行っていたようだから、特に危険な生物などはいないはずだが……。


(……油断はできんな)


 今はあんなものが空を飛んでいる状態である。これはつまり、あの賊による脅迫状の内容が真実であることを示している。

 時間、場所。向こうが指定した通りに、こうして黒竜が暴れている。何者かはわからないが、黒竜を使役できるというのは、どうも嘘ではないらしい。


 であれば、黒竜以外にも操れるものがあってもおかしくない。何らかの魔物が森に解き放たれている可能性もある。気を引き締めていくべきだ。


(本当ならまだ夕日が眩しいくらいの時間なんだが。この薄暗さはちょっと人間には不利だな……)


 人の手が入っているのか鬱蒼とまではいかないものの、背の高い樹木は多いし草木はそれなりに茂っている。なるべく歩きやすい道を行きたいが、仮に魔物がいるなら、あまり堂々と行くのも考えものだ。

 できれば最短の道で行きたいが、そもそもレオナルドさん達が森のどの辺りにいるのか見当がつかない。こんなことになるなら、俺もシスターさん達と一緒に一度森に入ってみるべきだった。


(……まあ、今更後の祭りだな)


 渦中において、こんなたらればを考えること程非効率なことはない。どうもやはり、俺は修羅場の経験がなさすぎて浮足立ってしまっているようだ。

 ちゃんと目の前のことに集中しないと……と、そうして改めて森に目を移した、その時だった。


 突如森の奥から、雷が落ちたかのような轟音が響いた。

 思わず足を止める。すると、続けて何かの重い衝撃音が激しく耳朶を打つ。それからビキビキと樹木にヒビが入るような音まで聞こえて来て、いよいよ尋常ではないと、俺はとっさにそばにあった木の陰に身を隠した。


「今のは……」


 距離は、そう遠くない。その上轟音は収まるどころか、むしろどんどん激しくなっていく。


(……誰かが戦ってる?)


 背の高い樹木のせいで空ははっきりとは見えないが、時折遠くであの耳障りな鳴き声が聞こえて来るので、黒竜ではないことは確かだ。

 となると、やはり別の何かがこの森に居て、その何かとレオナルドさん達が戦っている。そう考えるのが妥当だ。

 賊が伏せていた魔物か、もしくは賊そのものと戦闘状態に入ったか。どちらにしろ、彼らの交渉は決裂した可能性が高い。

 気づけば俺は、再び駆け出していた。


 行っても何の役にも立たないかもしれない。が、いざとなったら寿命が縮もうが魔法をぶっ放すつもりだ。最悪肉の盾をやってもいい。とにかく何でもやってやる。


「──っ!?」


 と、そうして俺が改めて決意を固くしたその瞬間、突然前方にあった木が爆ぜた。

 ガードが間に合わず、木片が顔を叩く。とっさに身を低くしてそれを耐えると、何か大きなものがこちらに吹っ飛んで来るのが腕の間から見えた。

 

「ぐ、ぬう……」


 存外近くでうめき声のようなものが聞こえてぎょっとする。何ぞ魔物かと慌てて腕を解き、恐る恐る前を見た。すると、


「……バーンズさん!?」


 地面に、俺のよく知っている人物が倒れていた。

 いつもパリッと着こなしていた執事服はホコリだらけでボロボロとなり、綺麗に纏まっていたオールバックも乱れに乱れていたが、確かに彼だ。

 彼はその長身を重たそうにしながら起き上がり、しかし立ち上がることはできずに、大きく肩で息をしながらその場に片膝立ちとなった。


「タツキ……様? どうしてここに……」


「大丈夫ですか!? 一体何があったんです!?」


 完全に息が上がっている。彼がここまでこっぴどくやられるなんて、本当に尋常ではない。一体何が出て来たらこんなことになると言うのか。やはり黒竜以外に何かやばいものがいるということだろうか。


 その俺の問い掛けに、彼は珍しく感情を隠さず、悔しそうに歯噛みした。

 そして、強く握り締めた拳で体を支えながら、ゆっくりと立ち上がると、


「少し……まずいことになりました」


 そう言った彼の視線は、最初から最後まで俺をはっきりと見ることはなかった。

 彼はこれ以上ないくらいの強張った渋面を作りつつ、ただ前を見つめていた。まるでそこに自分の命を脅かす猛獣でもいるかのように、一瞬たりともそこから目を離さない。

 この人にこれ程の緊張を強いる何かがいる。その事実に、俺はごくりと息を呑んだ。


 彼の視線の先、割れた木の奥に、影が見えた。極度の緊張からかいやに通る耳に、その重々しい足音がここまではっきりと響いて来る。

 影はそのまま割れた木の上をのそりと乗り越え、ゆっくりと、その姿を俺達に晒した。

 隣の彼の纏う空気がまた一段と固くなる。俺も何が起こってもいいように身構えていたが、その姿を見た俺は、思わず肩の力を抜いてしまった。


 そうして薄闇の中から現れたのは、しかしまたしても、俺の知っている人物だったのだ。

   

「……エレナ?」

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