第36話「脱出」
外套を羽織っただけという簡単な衣装にも関わらず、彼女が高貴な出自であるということに全く疑念が湧かない。それ程までに、彼女はその言葉通り、“女王”だった。
肩にかかった長い髪を手で払う。その単純な動作ですら美しく、魅入られたように彼女から目が離せない。
「まさかこのような形で姿を晒すことになるとはな。面白い力を持っているな。異界の人、タツキ・オリベ」
まるで清流の中にでもいるかのように、耳を優しく打つ。その玲瓏たる声音に、俺はしばしの間、息を吸うのを忘れた。
「いや、それを力と言うのは少し違うか。類稀な自負、イドの持ち主と言うべきか」
霜が降りたかのような白い睫毛に縁取られた、大きな蒼い瞳。その澄んだ瞳に見つめられるだけで、心が洗われるかのようだ。ただ自分が彼女の視界に入っているというその事実だけで、誇らしさで胸がいっぱいになってしまう。
そうして俺が何も言えないでいると、彼女がその形のいい眉を上げつつ、一歩こちらに歩み寄った。
「何にせよ、初めまして、だな。私がこの国の王、ソフィーリア・ネティス・ファルンレシアだ。まずは勝手にこちらの世界に喚んでしまったことを謝罪したい。申し訳なかった」
と、頭を下げようとする彼女に、急速に頭が冷えた俺は慌てて言った。
「ちょちょちょ! 女王様! 頭なんか下げないでください! 俺はむしろ感謝してるんですよ! 死にそうなところを助けてもらったんですから!」
思わず肩に手を掛けようとしてしまい、慌てて引っ込める。さすがに触るのはまずい。必死に顔を上げてくれとジェスチャーをすると、彼女はようやくそこで頭を上げてくれた。
そして彼女はそのままじっと俺を見つめたかと思うと、
「……人のことをお人好しだなんだと言ってくれたが、君もなかなかなのではないか」
そう言って、蒼い瞳を細めて苦笑する。
「あの手紙に書いてあったことが全て事実だとは限らないんだぞ? もし私が君を騙していたらどうするんだ?」
その宝石のような瞳に魅入られそうになるが、それは何とかこらえ、俺は彼女に答えた。
「それならそれで構わないですよ。一度推した女の子になら、いくら騙されていても問題ないです。嘘を吐くならそれなりの理由があるんでしょうし、そもそも女の子が吐く嘘には全力で付き合うというのが俺のモットー、信念なので」
と、胸を張ってそう答えると、彼女はそれに目を丸くする。
「女の子を助ける仕事がしたい……だったか。酒場で聞いた話といい、何とも奇妙な信念だな」
「ですよねえ……。まあでも、事実ですからね」
例えそれが作り出された虚像であっても、最後には裏切られるのだとしても、ドルオタは一度推したアイドルは全力で応援するものなのである。
しかし向こうの世界ではそんなドルオタの生態は嘲笑の的になるのが常だったし、自分でもそこそこやばい域にいるなあという感覚はある、のだが……。
こちらにはそんな文化がないせいなのか、はたまた生来の素直さからなのか、相対する彼女の表情には、そういったものへの負の感情は全く見受けられなかった。あるのはただ、少しの驚きと、好奇心。ただ珍しそうな目で俺を見るだけだ。
「ともあれ、その信念こそが私をこの場に引きずり出したのだ。称賛に値するという点は変わらないだろうな」
「そ、そうですかね。それは何と言うか……ありがとうございます」
「と言っても、この体は本体ではないのだがな。これは魔法で作り出した分身体で、本物の私は王宮にいるのだ」
「え? そうなんですか?」
「うむ。これを見るがいい」
彼女は外套から腕を出すと、それを俺の前に差し出した。
綺麗な白い腕だ。しかし彼女がもう片方の手でその腕を握ると、途端にその握った部分が軟体動物のようにぐにゃりとへこむ。
「うおぉ……」
「水魔法の応用だ。水のマナが人間の体全体をめぐっていることを利用する。自らのイドと、彼らが体を循環した記憶を頼りに体を構築する。一種の外法魔術だな」
「ははー……」
結構そばに居たのに全く気づかなかった。そんなこともできるのか外法魔術。すごいな。もし何にでもなれるんなら、ほとんど無敵の能力じゃないか?
と、俺もやってみたいなあなどと考えつつそれをしげしげ眺めていると、
「そんなことより」
彼女が階段がある暗がりの方へ目をやり、少し早口で言った。
「先程君に触れた時に、少しだが君の心が見えた。どうも時間がないようだな。とりあえず、早くここを出よう」
「あ、はい。……って、え? 俺の心が見えた?」
何それどういうこと? もしかしてこの世界、読心術とかあるの?
まさかそんな、と驚きからついつい彼女の顔を無遠慮に見返してしまうと、彼女はそれに苦笑じみた笑みをこぼす。
「歩きながら話そう」
言いつつ身を翻すと、彼女はそのままきびきびとした足取りで歩き出す。
慌てて俺はそのすぐ後ろを、彼女に付き従うように歩いた。
そうして地上への階段を登り始めると、すぐにサイドの壁に設置された光る石が続々と光り出した。
その淡い光に照らされ、前を行く彼女の艷やかな長い髪が波打つように煌めく。そのあまりの美しさに見惚れていると、ふいに彼女の厳かな声音が耳に響いた。
「君と私とは盟約の秘術によって繋がっている。故に、読もうと思えば、その心の断片くらいは読むことができるのだ」
ぼーっとしていたせいで突然話し掛けられたように感じ、うまくその言葉が頭に入って来ない。
しかし、数秒たっぷりとその言葉を頭に染み込ませると、ようやくその意味が理解できた。
「え、ええ!? 心が読めるってそんな……」
何それ怖い。仮に俺がもしエロいこととかを考えてたら、それも伝わっちゃうってこと? さっき近づかれた時のこととか読まれてたらマジでまずいのですが。男の子の心中はマジでやばい妄想が蔓延っているんですよ……?
と、そんなことを思いつつ絶句していると、その気配が伝わってしまったのか、前から彼女の微かに笑う声が漏れ聞こえて来た。
「ふふっ。安心しろ。細かいところはわからないし、読もうと思っても先程のようにかなり距離を詰める必要がある。そうそう読めることはない」
「そ、そうですか……」
「しかし、君がエクレアのことを本当に私だと思っていることはわかったぞ。普段の私とは全く雰囲気が違うはずだし、バレないと思っていたんだがな」
「いやあ……まあそれは、俺がちょっと特殊なだけですから」
本当に、見事な化けっぷりだった。あれなら普通の人には絶対にわからないだろう。
「でも実際どっちが本当の女王様なんです? どちらも自然でしたし、すごい魅力的でしたけど」
そう冗談交じりに聞いてみた俺だったが、彼女からは意外な答えが返って来た。
ふっ、と自嘲が混じったような息を吐くと、彼女はぼそりと呟くように言った。
「……実は、私にもわからないんだ」
独り言なのか、それとも答えてくれたのか。どちらなのか微妙なラインの言葉だった。
当然女王様のほうが彼女自身なのだろうと思って聞いた俺は、その意外な答えに驚いてしまい、とっさに二の句が継げず。そのまま、少し気まずい沈黙が訪れた。
何か余計なことを聞いてしまっただろうか。俺としてはちょっとした小話と言うか、会話の緩衝材のような感じで聞いてみただけだったのだが……。
そのまま静寂が続く。かと思いきや、彼女がそこで心を切り替えるように軽く頭を振り、いくらか俯き気味になってしまっていた頭を前へと向けた。
「まあ、私のことはいい。今問題なのは君のほうだ」
そうしてはっきりと話題転換をする彼女に、口を閉じたことが正解だったとホッとする。 彼女も彼女で何やら問題を抱えていそうな感じだが、今はまだ触らないほうがよさそうだ。
彼女は一呼吸置くと、そのまま何事もなかったかのように続けた。
「タツキ、君の天命はあとどれぐらい残っている?」
言われ、俺は反射的に胸のほうへと手を伸ばした。
彼女からもらった首飾りは、投獄時にも特に没収されることはなくこの胸にある。
そう言えば見ていなかったなと思い、早速念じてみる。すると、首飾りの中央にある翡翠石に、光る文字がいつものように浮かび上がる。
「……あと五日、ですね」
こうして実際に見ると、いよいよ迫って来たなという感じだ。
着実に減っていく数字に恐怖がないと言えば嘘になるが、今俺は不思議と落ち着いている。
今もって自分の心がどこにあるのかはわからないが、もしかすると、ただその事実を信じ切れていないだけなのかもしれない。本当に今際の際となったら、無様に泣き叫ぶなんてことも全然あり得る。
その瞬間は確実に迫って来ている。
と、そうして少々浮足立ってきた心を胸中で転がしていると、
「そうか。やはり短いな……」
やや沈んだ声で、彼女が呟くように言った。何やら含みのある言い方だ。
「もしかして、俺の天命が減った理由をご存知で?」
本当ならまだ二週間程はあるだろう天命が、どういう訳か残り五日しかない。
考えてもわからないので放置して来たが、彼女は俺のそれに、軽く視線をよこしながら頷く。
「私もこの術に関して、全てを知っている訳ではない。だがおそらく、それは君が大量にマナを消費したせいだと思う」
「マナ、ですか?」
そう返すと、彼女はうむとまた頷く。
「君を生かすために、君の体には大量のマナが流れ込んでいるという話を手紙でしたと思うが」
「ああ、はい。確か天命が尽きかけている人からは、マナがどんどん抜けていって死んでしまうんですよね? だから俺の体にマナを補うことによってその死を回避している、みたいな」
「そうだ」
そう短く答えると、彼女も何か急いでいるのか、その歩みを幾分か早めた。
「盟約の秘術により、君の中に30日だけは生きることができるマナが絶えず流れ込み続ける……はずだった。しかしその残日数を見る限り、実際には少し違うようだ」
「と言いますと?」
「おそらくだが、君に流れるマナはある一定量だと決まっているのだろう。だから君がそのマナを消費してしまえば、その分君の天命は減ってしまうということなのだと思う」
彼女のそれに、俺はなるほどそういうことかと手を打った。
「つまりあれですか。僕が魔法を使ったりするのは、“前借り”みたいなものってことですかね。だから魔法を使ったら、その分俺の天命は短くなると」
言いつつ幾分歩を早めて彼女の横に並ぶと、彼女はそれに然りと頷く。
「うむ。だからなるべく君は魔法を使うな。特に外法魔術は、余程熟練した者でないとマナの消費が激しい上に威力も安定しない。あのギルドでやったような大規模なものは特に避けたほうがいい」
「なるほど……。わかりました」
と、そう答えはしたものの、俺は彼女が隣にいるのに思い切りううむと唸ってしまった。
レオナルドさんが黒の書を渡すとは考えにくいし、賊との会談はほぼほぼ穏当には終わらないだろう。しかし魔法が使えないとなると、いよいよ俺がそこでできることはなくなってしまうということになる。
(……何かないか)
黒の書の流出は俺の失態だ。できることなら俺の手でどうにかしたい。
だが、俺の切れそうなカードは現状ない。強いて言えば、その会談の場にエレナを連れて行くことくらいだろうか。
しかし彼女を伴ったとしても、先日の一件では決め手に欠けていたようだし、おそらく黒竜を打破するまでは至らないだろう。それにあの瘴気を受けてしまえば、またあの時と同じように恐慌状態となり、最後にはどうにもならなくなってしまうはずだ。
それでも前回は何とか生還できたが、あれは黒竜側の詰めが甘かったのが大きい。
今回はあの時とは違って黒竜を使役しているかもしれない人間がそばにいるはずだ。それを加味すると、次はそういう詰めの甘さは期待しないほうがいい。あの瘴気にやられたら殺される。それくらいの覚悟で望むべきだ。
ティアがいれば何とかなりそうな気はする。が、あの圧倒的な魔法ですら、黒竜を倒すことはできなかった。そもそも俺を殺そうとしたことも含め、彼女は読めない部分が多い。ティアを味方として数えるのは正直難しい。ただそうなると……、
「──大丈夫か?」
そこでふいにソプラノの声が耳のそばで響き、どこか遠くを見ていた俺の視界が、目の前の階段へと引き戻される。
ふと横の顔を見やれば、彼女は心配そうに眉をひそめながらこちらを見ていた。何に対しての言葉なのかは、その顔を見ればわかった。
「大丈夫ではないですけど……まあ、何とかします」
そう言ったが、彼女の顔は晴れない。なので、もう少し言葉を付け足した。
「正直大変そうですけど、自分で撒いた種なので、自分できっちりしたいんです。まだその、全然わからないんですけど、自信とかも全然ないんですけど……そうすることで俺は、やっと何者かになれる気がするんです」
向こうの世界では自堕落の限りを尽くし、誇れることと言えば、推しに注ぎ込んだ金の量だけ。そんな俺でも、こうして目の前にいる彼女をはじめいろいろな人と出会い、今はようやく少しだけまともになれそうな気がして来ている。
自分の決めた目標に邁進し、自分のやったことにはきっちりと責任を持つ。そんな普通の、ちゃんとした大人になれそうな気がするのだ。
「だから、何とかします。──何とかしたいんです」
そんな気持ちを込めて言ってはみたが、どうにもうまく言葉がまとまらず、要領を得ないものとなってしまった感は拭えない。
しかし俺の意図するところはちゃんと伝わったようで、そこでようやく、彼女の顔がいくらか晴れた。
「そうか」
そう言うと、彼女は続けてもう一度同じ言葉を噛みしめるように口にして、息を吐いた。
少し難しそうに眉をひそめつつも、その薄く綺麗なピンク色の口元は、いくらか綻んでいるように見えた。
と、そうしてまたしても彼女に見惚れてしまっていると、そこでふいにピタリと彼女の歩みが止まった。
ふと前を見やれば、そこには出口と思われる扉があった。どうやら話しているうちにいつの間にやら階段を上り切っていたらしい。
そう言えば、彼女はこの扉をどうやって開けたのだろうか。この扉はレオナルドさんにしか開けられないようになっているはずなのだが……。
疑問に思いつつ、扉の前で佇む彼女に目をやる。すると、彼女はドアノブに手を伸ばし、
「えっ」
そのまま何の造作もなく、彼女はその扉を開けてしまった。
特に何かしたという感じでもない。何でだ? やっぱり封印的なものが弱っていたのだろうか。でも実際バーンズさんとネイトさんは開けられなかったし……。
ちょっと聞いてみようかと口を開きかける。が、俺の口はそこで再びきゅっと結び直されてしまった。
彼女が開いた扉の先。もはや見慣れたと言っていいだろうマグナース家の広い廊下が、眩しいオレンジ色に染まっていたのである。
まさか、と思って慌てて外に飛び出る。すると、
「……マジか」
廊下に連なる窓から、暖かな斜光が伸びていた。
まさかここまで日が傾いているとは。早くしないとレオナルドさんと賊との会談が始まってしまう。最悪もう始まってしまっているかもしれない。急がないと……。
「──行くのか?」
隣に立った彼女が、俺を見上げつつ言った。その彼女の澄んだ声に、熱くなった頭がいくらか冷やされる。
正直まだ言いたいことや聞きたいことはたくさんある。しかしその全てを飲み込み、俺ははい、と一言だけ返事をした。
すると彼女は目を細め、少し複雑そうな顔で俺を見つめると、
「そう、か。私は事情があり、これ以上君を助けることができない。君の態度を見ればおおよそ何が起こっているかは予想がつくが……本当に大丈夫か?」
彼女のそれに、俺は無言で頷いた。
彼女のほうにもいろいろ疑問があるだろうに、どうして俺に何も聞かないんだろうとは思っていたが、なるほど。彼女のほうにも何か事情があるらしい。
しかしそういうことなら、何も問題はない。彼女にはもうたくさん助けてもらった。後はもう俺の問題であり、俺が自分で踏ん張らないといけないところだ。そうでなければ、俺は例えこの局面を打開したとしても胸を張れない。
──何者かになるとしたら、ここしかない。
そうして決意を込めた頷きを返すと、彼女はふっと柔らかに笑ってから、静かに瞑目する。
「そうか……ならばもう何も言うまい。しかし、一つだけ約束してくれ」
「何でしょう」
一段低くなったその声に、俺は居住まいを正しながらそう返す。
すると、彼女はゆっくりと目を開き、その燃えるような夕陽を湛えた双眸をもって、俺を真っ直ぐに見つめた。
「必ず、生きてまた会おう」
蒼と朱の交じるその瞳に、俺は確かな熱を見た。
彼女は俺を見捨てることができないだけ……などという考えは微塵も起こらない。ただ真っ直ぐに、彼女は俺の身を案じてくれている。そう確信できてしまう程に、彼女の瞳には真摯な光が満ちていた。
最推しからのこれ以上ない激励に、俺は力強く頷きを返す。そして、
「じゃあ……行って来ます」
「ああ」
彼女の返事はそれだけだったが、代わりに柔らかな笑みをもらう。その笑顔にまた勇気をもらい、俺は後ろ髪を引かれながらも彼女に背を向け、走り出した。
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