第32話「逆風」

「ど……え……?」


 目の前で起こったことは確かに見た。見たが、上手く目の前の光景を飲み下すことができない。

 その驚愕に塗れた俺の声に、彼の大きな背中が振り返る。


「お怪我はございませんか」


「あ……はい。大丈夫です。て言うかそんなことより……」


 そう言い掛けると、彼は俺の疑問を予期していたのか、


「驚かせてしまい申し訳ありません。向こうに耳のいい者がいないとも限りませんので、言葉足らずになってしまいました」


 転がった男達への警戒を怠らないためか、こちらに半身だけを向けつつ彼は答えてくれた。


「タツキ様の疑問はおそらく戒言のことだろうと思いますが」


「そ、そうですそうです! 何で大丈夫なんですか? それとも何か体に異変が……?」


 彼の言葉にかぶせ気味に返してしまうと、彼は少し驚いたように眉を上げ、苦笑した。


「私は大丈夫です。申し訳ございません。実は先程酒場でお話しした戒言についてなのですが、少し説明不足だったところがございまして」


 ちらと一度男達に目を向けてから、彼は小声で続けた。


「先程のお話、私達は“武”を封じられていると申し上げましたが、実際は少し違いまして。正確には、それぞれが最も得意だった武器を封じられています。私の場合は、“拳”を封じられていますので、こうした足での攻撃は戒言の封印範囲には入らないのです」


 しれっとした顔でそう言う彼に、俺は「な、なるほど……?」と曖昧な答えを返してしまった。

 酒場で話を聞いた時は相当やばい力だと思っていたのだが、実は結構どうとでもなるものだった、ということだろうか。


 いろいろ疑問があるが、一番解せないのは彼のこの足技だ。最も得意だったものを封じられてこの強さとなると、戒言に封じられる前はどれだけ強かったのか見当がつかない。

 

「元々足技も得意だったんですか?」


「いえ、私は以前は拳闘で身を立てておりました。足技はこの10年で培ったものです」


 あくまでも冷静にそう言う彼に、俺は目を見張ってしまった。

 すげえな。人間って、10年でここまで強くなれるのか……。

 もちろんそこには彼の元々の地力があり、異世界だからこそということもあるのだろうが、あれ程の絶技、間違いなく弛まぬ研鑽があってのものだろう。


 ただそうなると、そもそも力を抑えるために戒言を受けるに至ったという趣旨から、彼の行動は明確に外れていることになる。

 そこで一つの可能性に思い至り、俺はまた彼に聞いた。


「もしかしてバーンズさん、最初から真面目に戒言に縛られる気なかったんじゃ……」


 すると彼は、俺のその説を補強するかのように、ただニコリと笑った。


(やっぱり……)


 時には主を裏切ってでも、それが主のためになるのなら躊躇なく行動する。

 それがバーンズさんの考える真の執事というものなのだろう。事なかれ主義を貫いて来た俺には、絶対に真似のできない生き方だ。


(でも、いつか俺も……)


 すべてのことを自分で考え、自分で決め、自分の足で歩く。そして自分の生き方に誇りを持ち、倦まず弛まず歩んで行く。そういうことのできるいっぱしの男になりたい。彼を見ていると、本当にそんな気持ちにさせられる。


 と、そうして羨望の眼差しで彼を見ていると、いよいよ彼らに尋問でも始めるのか、彼がこちらにその大きな背中を向けて男達と相対した。


「さて……話してくれるとは思いませんが、一応お聞きします。この方を狙ったのはなぜですか?」


 暴漢に対してさえも、彼の言葉は執事然とした丁寧口調だ。しかしその余裕に満ちた態度が、逆に向こうの恐怖を煽る。その証拠に、男達は地面に伏しながらも彼と距離を取ろうと後ずさる。


 そうしてやはり返答のない男達に、彼は顎に手を当てつつ言った。


「ふむ、困りましたね。こうなると誰か一人は捕縛しなければなりませんが」


 と、彼がそう言い掛けた時、男達の一人がよろよろと立ち上がる。

 この状況ではさすがに降参だろうと思ったが、次の瞬間、


「っ!」


 男達が一斉にバーンズさんに飛び掛かった。まずは邪魔な彼を片付けるつもりか、さらに潜んでいたと思われる新手が屋根上からも襲いかかってきた。

 10人程のその襲撃を、バーンズさんは何とかさばこうとする。が、意識を四方八方に散らしているせいか一歩踏み込みが甘く、それぞれを仕留め切れない。

 

 さすがにこの人数はまずい。俺も何かしら援護しないと……。

 と、そう思った矢先、


「……あっ?」


 ふと耳元でぶつりと音がして、肩にあったはずの負荷がなくなった。

 何かと思えば、どさくさに紛れて俺のカバンの紐が切られ、そのままそれをひったくられてしまった。


「ちょ、おい。待てやあああ!」


 追いかけようと走ったが、取った男は素早さ特化だったのか、あっという間に俺から離れていく。他の男達もそれを確認すると全員撤退し始めた。


(狙いは俺の荷物? やっぱりただの物盗り……?)


 大したものは入っていないが、俺にとってはそこそこ高価な魔鋼紙は惜しい。

 その俺の顔色を読み取ってくれたのか、バーンズさんが男達を追って走り出した。


「……むっ!」


 しかし、逃げた男達が角を曲がり、姿が見えなくなった後。逆の方から一人の人間が姿を現し、それを見たバーンズさんが突然自身に急ブレーキを掛けた。

 男達と同じく外套を羽織り、フードを目深にかぶった一人の人間が、俺達の前に立ちはだかった。







「…………」


 一見して男だとわかる他の者と比べるとかなり小柄だ。体つきのわかりにくい外套を羽織っていても、彼らとの体格差は明らか。女性……下手をすると、子供の可能性すらある。


 しかし、どう考えても3、4階級は違うその質量差がある姿を見ても、バーンズさんは動かない。

 そのまま見合って十数秒。さすがに変に思って隣に並び、彼を見上げてみる。すると、 


「バーンズさん……?」


 眉間には深いしわが刻まれ、彼は何やらひどく緊張した様子で口元を引き結んでいた。

 額には、いつの間にやら湧き出た脂汗が滲む。眉上に溜まったそれが、重みに耐えきれずに彼のこめかみをすっ、と一筋流れ落ちていった。


「タツキ様」


「は、はい?」


 浅い息遣いがここまで聞こえる。俺の方を一瞥することもできないようで、彼はまばたき一つせずに相手を見据えている。

 一度、呼吸を整えるように深く息を吐くと、彼は言った。


「凄まじい使い手です」


 極度の緊張からなのか、聞いたことのない嗄声で彼は絞り出すように言う。


「私が血路を開きます。タツキ様は隙を見てお逃げください」


 そして彼はここで初めて足を開き、相手に対して構えらしい構えを取った。

 さすがにここまでされれば鈍感な俺にも理解できる。

 こいつはやばい。おそらく、先程の男達とは比べものにならない程に。


「……ちょっとした魔法ぐらいなら使えますが、援護します?」


 囁き声でそう言ってみたが、彼はそれに難色を示した。


「やめたほうがいいでしょう。気配からして相手も魔法戦に長けた人間かと思われます。逆手に取られるかもしれません」


 そう言ってじりじりと相手との距離を詰める彼の表情は、相変わらず硬い。


「ここは私が。とにかくタツキ様は何とかスキを見つけ、この場をお離れください」


 言葉に感情を載せることが少ない彼が、はっきりと俺に命令した。そう思ってしまう程に、その言葉には有無を言わせぬ迫力があった。


(ど、どうする……)


 彼に助太刀したいところだが、魔法が禁じられてしまうと俺には切れるカードがない。効果があるとしたらベアードに放ったような極大魔法ぐらいだろうが、こんな住宅街ではさすがに使えない。

 ここは言われた通りに逃げて、たぶんどこかにいるであろう衛兵さんとかを呼ぶほうがいいだろうか。


 とにかく相手の狙いが読めないのが怖い。俺の荷物に大したものが入っていないとわかったら、逃げた奴らが再び俺を狙ってくる可能性もある。そうなると下手にバーンズさんから離れないほうがいいような気もしてくる訳で……。


「──来ます!」


 と、そんな考え事をしている暇さえないらしく、バーンズさんが張り詰めた声を上げる。

 相手に目立った動きはなく、そこまで切迫した状況には見えない。

 が、その細い腕をこちらに向けられたところで、俺は何か強いプレッシャーのようなものを感じ、思わず一歩後ずさった。


「失礼!」


「ぐえっ!?」


 突然バーンズさんに首根っこを掴まれ、地面に押し倒される。

 直後、ビル風のような突風が顔を叩き、そのまま頭上を通り抜けていった。


「……え?」


 何が起こったのかと振り返ってみると、いつの間にか正面の行き止まりの壁が刀傷のような鋭い軌跡で深く抉られていた。

 驚愕しつつ再び相手の方を見やったが、向こうはただ手を前に出しているだけ。刃物を抜いたような形跡はない。


「外法魔術……」


 バーンズさんが苦々しい顔をしながら、俺が思っていたのと一言一句違わぬ言葉をこぼした。

 そう。これは外法魔術だ。しかも俺のものとは比べ物にならない、万倍熟練した真の外法魔術と言っていい代物だ。


 普通の魔法はどれだけ鮮明なイメージを持ちつつ詠唱できるかによって威力が変わってくるが、外法魔術はそのセオリーを全く無視しているものだ。その威力と放つ早さは、やはりバーンズさん程の強者の目をもってしても脅威に映ったようだ。


 そもそも素手と魔法では間合いも違い過ぎる。後手に回るのを不利と考えたか、今度は彼のほうが仕掛けた。

 石畳の地面が軽く抉れる程の爆発的な踏み込みで、あっという間に相手の懐に入る。


「──むうっ!?」


 しかしそこで再び風が巻き起こり、彼が繰り出したミドルキックが相手の腹部直前で止まった。

 先程の乱戦時と違い、バーンズさんの踏み込みは深い。おそらく寸止めではなく、魔法によって止められたのだろうと思われる。


 予想外の抵抗を受けて少し上ずった声を上げた彼だったが、それならばとその場で体を捻って回転させ、今度は相手の首の辺りにハイキックを見舞おうとする。


 圧倒的体格差がありつつも、彼の動きに手心が加わっている気配は見られない。ただ確実に脅威を排除しようと袈裟斬りの軌跡で振り抜かれたその蹴りは、しかしまたしても空を切った。


 その小さな体躯の通り、小兵は身軽だった。バーンズさんの蹴りが入る直前で体を捻り、まるで体操選手のような動きで音もなく宙に舞い、難を逃れる。

 しかし、そうして宙に逃れれば動きが制限されるのは自明の理。その着地を狩られれば一巻の終わりだ。


「軽率……!」


 バーンズさん程の強者が、この機を見逃すはずがない。

 彼はその着地点に先回りし、その最後の一撃を見舞おうと体を捻った。

 だが、その目論見は思わぬ形で外された。


 バーンズさんが相手の着地のタイミングで横薙ぎの蹴りを繰り出したが、肝心の相手がその場に下りてこなかったのである。

 高さとしてはちょうどバーンズさんの頭の上くらいだろうか。

 小さな体が、激しい風を纏いながらふわふわと宙に浮いていた。

 

「何と……」


 これにはさすがのバーンズさんも感嘆の声を漏らす。完全に決まったと思っていた俺も舌を巻いてしまった。


 これ程柔軟な使い方をされると、風魔法に精通した人でもいないと攻略は難しそうだ。そもそも風は目に見えないというのも大きい。バーンズさんもかなりやりづらそうだ。割って入れるなら入ってどうにか均衡を崩したいところだが……。


(……ん?)


 と、そうして思考する途中、俺は何かそこに引っ掛かりを覚えた。

 突如芽生えたその違和感に、俺は黙して宙に浮かぶその小兵に改めて目を向けてみた。


 石壁を深く抉った刃のように鋭い風。バーンズさんの圧倒的な蹴りを防いだ風。そして人間一人を余裕で空中に浮かせていられる程の風。

 風、風、風。加えてその細い手に、小さな体。


(まさか……)


 気のせいであって欲しい。だが、要素としては符合し過ぎていた。

 俺の知っている、一人の寡黙な少女に。


「…………」


 風使いの周囲には主を守るように風が吹き、その詠唱の声はやはり聞こえない。

 しかし、その細い手が俺達に向けられると、またしても俺達を暴風が襲った。


「ぐっ!」


 まるで竜巻の中にいるかのようなその荒れ狂う風に、俺を守るように立っていたバーンズさんが為す術なく吹き飛ばされる。


「バーンズさん!!」


 そのまま壁に叩きつけられる彼に駆け寄ろうとしたが、その瞬間、おぞましい圧迫感のある寒気が背中を走った。

 恐る恐る振り返る。すると、風使いが再び俺にその手のひらを向けているのが目に入った。


「タツキ様!!」


 そのバーンズさんの悲痛な叫びの直後、ふいに彼の存在が遠くなった。

 何が起こったのかよくわからない。ただ、一陣の鋭い風が吹いたのだけはわかった。


(この風は……)


 やっぱりそうだ。俺はこの風を知っている。

 おそらくこの後、さらに鋭い風が来る。森にいた魔物、ブビードゥの体をたやすく両断した、刃のように研ぎ澄まされたあの風が。


 妙な浮遊感と、思考だけが加速したやたらと間延びした時間のせいで全く現実感がない。

 これが走馬灯なのだろうか。腕も足も、コマ送りのようにしか動かない。


(力及ばず、か……)


 頑張ったつもりだったが、やっぱり俺は誰にも必要とされないってことか……。

 結局俺は何も成し遂げられないのか。せっかく異世界に来て、ちょっとはマシな男になれるかもと思っていたところだったのに……。


 と、そうして悔しさから拳を固く握り締めた時だった。


「……えっ?」


 ふいに、俺の前に上から何かの影が割り込んで来た。  

 空でも飛んで来たのか、地面にべたりと四肢をつけてそこに降り立ったその影は、腰から何か刃物のようなものを抜き放つと、そのままそれで宙を下から上へ縦に切り裂いた。


 何の意味があるのかと思ったその瞬間、左右の壁に深く鋭い傷が刻まれる。それと同時に、俺は走馬灯のようなゆっくりとした時間から解放された。


「──よう。何か面白い事になってんじゃねえか」


 少し経ち、脳がその影をようやく認識した。

 ライオンのたてがみのような金色の長い髪をなびかせ、悠然とそこに立っていたのは……。


「エレナ?」


 要所にプロテクター、スカートを真ん中で割いたような、半分だけの特徴的な腰布。そしてククリ刀を両手に持って立つその姿は、間違いなく彼女だった。


 思わぬ援軍に、全てを諦めかけていた心が少し沸き立つ。まさかとは思うが、助けに来てくれたのだろうか。あれから全く言葉を交わさずに別れてしまったから気になっていたが、全然元気そうでよかった。

 しかしそんな彼女との再開を喜ぶ間もなく、風使いから二の矢、三の矢が俺達に向かって放たれる。


「おいおい嬉しいね! やる気まんまんじゃねえか!」


 おそらくそれもたやすく人を屠る風だったのだろうが、彼女がまた両手のククリ刀を連続して振ると、同じように周囲の壁が抉れる。彼女も俺も、風の刃に胴体を両断されたりはしなかった。


 どうも彼女が何かしているようだ。しかしそのからくりがわからな過ぎて、無意識に疑問が口から漏れ出てしまった。


「……何今の? 何した?」


 するとそれが耳に入ったのか、彼女ががしがしと頭をかきつつこちらに少し首を捻る。


「別に大したこたあしてねえぜ。ただ風を斬っただけだ」


「は?」


 しれっと答える彼女に、俺はあんぐりと口を開けながら固まってしまった。

 風を斬った……だと? いくらファンタジー的な世界とは言え、さすがにそれはどうなんだ。風は物質じゃないんだが?


 額面通りに受け取っていいのかはわからないが、しかし実際にやばい殺人風は俺の目の前で散らされている。あまりうるさく聞いて彼女の機嫌を損ねるのも怖いので、ここは無理やり飲み下しておくこととする。


「おもしれえやつだ。まさか外法魔術をまともに使えるやつがいるとはな」


 そう楽しそうな声で言いながら、エレナは2本のククリ刀を擦り合わせつつ腰を落とした。

 そうして臨戦態勢を整える彼女の隣に、少しして回復したのかバーンズさんが並んだ。

 その彼に、彼女が怪訝そうな声を上げた。


「……ああん? まさかあんたもやんのか? あんだけオレが挑発してもノッてこなかったやつが、どういう風の吹き回しだよ。戦えんのか?」


「問題ありません。やつはマグナース家にとって脅威となりそうです。ここで排除、もしくは捕縛します。ご協力を」


 何やら不穏なことを口にするエレナだったが、バーンズさんはいつもどおり冷静だった。

 静かに構えを取り、彼が引く気がない姿勢を見せる。すると彼女はつまらなそうにちっ、と舌打ちしながらも、それ以上は何も言わなかった。


 俺の知る限りではほぼ最強のタッグである。さすがにこの二人を相手にするのは難しいだろうと思われたが、向こうにさして焦った気配は感じられない。


「随分と余裕じゃあねえか。──んなら、こっちから行ったっていいよなあ!!」


 もはや自分の中の野生を抑え切れなかったのか、エレナが突っ掛けた。バーンズさんもそれを予期していたのか、彼女に追随するように走り出す。

 しかし、その次の瞬間。


「────がれ」


 フードの奥から、かすかに声が聞こえた。そう思ったら俺達は──。

 俺達は、なぜか星が煌めく夜空の中にいた。


「……えぁ?」


 ゴオオ、と耳に響く風の音と突然の浮遊感に、思わず気の抜けた声が口をついて出る。

 背中の方から吹く強風に手足をバタバタさせると、その勢いで体がぐるりと下へ向いた。

 眼下に広がる滲んだ光。最初はそれが何かわからなかったが、逆風の中で目を凝らすと、段々とその正体が顕になった。


 それを認識した瞬間、喉がひゅ、と引きつった。

 それは、遠くなった街の明かりだった。


「うおわああああああああああああ!?」


 昔何かの展望台に上がった時、こんな景色を見たことがある。

 50……いや、もしかしたら100メートルあるかもしれない。俺はどういう訳か、家がミニチュアに見えるほどの上空に飛ばされていた。

 慌てて周りを見れば、同じようにエレナとバーンズさんも飛ばされていた。やはり想定外だったのか、両者共に険しい顔をしている。


「タツキ様!」


 このままでは俺は地上に叩きつけられ、潰れたトマトになってしまう。それを案じてバーンズさんが声を掛けてくれたが、この高さでは彼らも無事では済まないだろう。


「ぐああああああああああマジで死ぬううううううう!!」


 かなりの高さだが、それでも落ちるまでは数秒だ。

 来たる瞬間に目を開けていることができず、身を固くする。

 しかしまさにそうした瞬間、突如誰かに腕を強く掴まれた。


「──むううううううあっ!!」


「うぇえ!?」


 掴まれた腕に強い負荷が掛かり、その後、体がふわりと無重力になったかのような感覚を覚える。

 その感覚に恐る恐る目を開けると、風ですっかり髪が崩れてしまったバーンズさんが俺の真下にいて、険しい顔をしながらこちらを見ていた。


「エレナ!」


 バーンズさんがそう叫ぶと、少し遠くに同じように宙にいた彼女が、


「ちいっ!」


 と、舌打ちめいた言葉を発しつつ、建物の屋根を派手に破壊しながらそこに着地する。

 何をするのかと思ったら、彼女はそこからロケットみたいな速度で落下する俺の方に向かって飛んで来た。


「おわああああ!?」


 ガバリとかなりの勢いでお姫様抱っこされたが、意外にもその感触はソフト。そのまま向かいの家の屋根へと着地する。


「あわわわわ……」


「ちっ! お前のせいで逃した!」


 恐怖でガクブルする俺に彼女は冷たい言葉を放ち、そのままさっさと俺を下ろしてどこかに走って行ってしまった。

 その瞬間足から力が抜け、俺はその場に膝をついた。


「タツキ様! ご無事ですか!」


 バーンズさんが心配そうな顔をしながら屋根の上を走って来る。彼にも怪我はないようだ。

 

「だ、大丈夫です。でも一体何が何やら……何で俺助かってるんですかね」


 聞くと、バーンズさんがさっきまで俺達がいたところを見下ろしながら教えてくれた。


「風です。地面からの風で空に吹き上げられました。タツキ様は体術が不得手のようでしたので、僭越ながら私が落下の勢いを殺すためにあなたを上空に投げさせていただきました。腕に負担が掛かり過ぎていたりはしませんでしょうか。痛みは?」


「あ、それは全然。大丈夫です」


 人力逆噴射みたいなことをしてくれたってことだろうか。よくわからないが、こうして俺が生きているってことは何かすごいことをやってのけたのだろう。

 バーンズさんがいて本当によかった。俺だけなら確実に死んでいる。


「賊には逃げられてしまいました。一人くらいは捕らえておきたかったのですが」


「いやいや、生きてるだけで御の字ですよ。ありがとうございました」


 そう言って頭を下げたが、とうのバーンズさんは浮かない顔だ。


「そう言っていただけるのはありがたいのですが、相手の正体がわからずじまいなのは少々気持ち悪さが残るところです。タツキ様のほうで相手に心当たりなどは?」


「いや、それはちょっと……。わかんないです。すいません」


 そう答えると、バーンズさんは「そうですか」と不甲斐なさそうに肩を落とした。

 彼のその姿に、この際全てを話してしまおうかという想いにも駆られたが、俺は寸前で思いとどまった。


 彼に助けてもらったことはとてもありがたいが、こうして生き残ったところで、俺の命はあと数日しかない。そもそも彼女から拒絶されたら、結局俺は導師としての仕事を全うできずに死に至るのだ。だからまずは、本人にきちんと真意を問うべきだろう。


(何かの誤解があるはず。じゃなきゃ、こんな極端な行動には出ないはずだ……)


 屋敷の罠を解除してくれて、俺の看病もしてくれた。それが全部気まぐれだったとは思えない。秘密の部屋で俺を肯定してくれたあの綺麗な声も、未だ耳にはっきりと残っているというのに……。


 掴んでいたはずのものが、隙間からするすると流れ出ていく。そんな感覚に、俺は気づけば強く歯を噛んでいた。


(本当、何でなんだよ。ティア……)

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