第30話「悲しみの在処」
最後の頼みの綱である謎の魔鋼紙をリヒトさんに託し、俺はとりあえず飯でも食おうと、いつもの強面マスターのいる酒場へとやって来ていた。
「じゃあ店長、いつものね」
「おう。ちっと待ってな」
屋敷に帰れば俺の飯もあるが、あれから顔を合わせていないレオナルドさんに出くわすのが怖い。感情の整理にはどうしたって時間が掛かるし、今はまだ会うべきじゃないと思う。
決して俺がビビっているから逃げている訳ではない。断じて……ない。
まあそんな訳でいつもの酒場のカウンターに座っている俺だが、なぜかそこに同行する人物がいた。
「で、今日は急にどうしたんですか? 僕は嬉しいですけど、いつもは屋敷でしか食事取りませんよね?」
俺は隣に座るバーンズさんに、そう声を掛けた。
ちょっと今日は外でご飯を食べますと言ってみたら、「ではお供します」となぜか彼が付いて来たのだ。
同僚と飯なんて、俺としては距離が縮まったみたいで嬉しいが、何か用事でもあるのだろうか。
店長の仕事ぶりを見ながら彼の答えを待っていると、彼は何か後ろめいたことでもあるのか、遠慮がちにぼそりと俺に言った。
「少し、お話がありまして」
「話?」
と、俺がそう応じたところで、ちょうど俺の前にマッシュポテト的な何かが載った皿がどんと置かれた。
湯気が立ち上り、よき匂いが鼻をくすぐる。
「なかなか豪快な料理のようですが、食欲をそそられますな」
「あ、僕ばっか頼んじゃってすみません。バーンズさんはどうしますか?」
「こういった場所は久しぶりなもので。お任せしてもよろしいでしょうか」
「そうですか。じゃあ店長、こちらにも俺と同じものを!」
店長はそれに「あいよ」と応じつつ、早速俺とバーンズさんの前に飲み物の入った木樽をドンと置いた。
これこれ、これだよ~。疲れた時はこれに限るよ~。
と、嬉々としてその飲み物に口をつけたが、その口触りの盛大な違和感に俺は咳き込みかけてしまった。
「て、店長? これ酒じゃないんだが??」
爽やかな柑橘系のジュースみたいな飲み物だ。俺がいつも頼んでいた酒ではない。
そう抗議すると、店長は手を忙しく動かしつつ言った。
「何かそちらさんの顔が、そういう空気じゃなかったからよ。何かお前にあらたまった話でもあるんじゃねえのか?」
その言葉に、俺はバーンズさんの方へと顔を向けた。
「そうなんですか?」
すると彼は眉をかすかにひそめ、
「そう、ですね。少し込み入った話になるかと」
視線を自分の手元に落としながら、そう言った。
彼の態度にそこまでの大きな変化は見られなかったが、店長は作業しつつもそれをきっちり看破していたようだ。
店長は先程も俺の突然の痩せっぷりに一度だけ目を見張ったものの、それを「まあそういうこともあるか」で済ませるという豪快さを見せたばかりだ。怖い顔だが、なかなかにできる人である。
しかしこのタイミングでのバーンズさんの話とは、一体何だろうか。やはり先日のレオナルドさんのアレについてだろうか。
と、いろいろ予想しつつ芋をジュースで胃に流し込んでいると、ふいに彼に名前を呼ばれた。
「タツキ様」
「ん、むぐっ! ……あ、はい。何ですか?」
突然温度の変わった声で話し掛けられて芋が喉に詰まったが、胸を叩いて何とか答える。
やはり何かあらたまった話でもあるのか、彼は瞑目しつつ、はっきりとこちらに体を向けた。
思わず居住まいを正す俺に、彼は数秒の沈黙の後、
「やはり、タツキ様にはお話ししておこうかと思います。お嬢様がああなってしまった原因。10年前、マグナース家に何があったのかを」
何かを決心したかのようにゆっくりと目を開きつつ、彼はそう言った。
マグナース家に何があったか……? それは、どういうことだろうか。ただティアの母親が亡くなった訳ではないということだろうか。
「聞いていただけますか?」
突然の申し出にとまどう俺に、彼はかすかに眉をひそめ、少しだけ不安げな顔を向けた。
俺としては願ったり叶ったりなので聞くのは全くやぶさかではないのだが、いいのだろうか。
確か二度目にあの屋敷に行った時にその辺りの話を聞くタイミングがあったが、レオナルドさんがつらそうな顔をしていたので深くは聞けなかったのを覚えている。
「勝手に聞いちゃってもいいんですかね」
そう聞いてみると、彼は俺の意図することに気づいたのか、深く眉間にシワを寄せた。
「私としては主に背く行動を取ることになりますが、それでも聞いていただきたいのです」
やはりレオナルドさんの了解は取っていないようだ。まあ、そりゃそうだ。誰だって身内に起こった不幸に関して他人に詳細に語るなんてことはしたくはない。
俺としてはこれ以上依頼主の不興を買うようなことは避けたいところだが、おそらく本人から聞くことは今後も難しいだろう。バーンズさんには悪いが、やっと縮まって来たと思われるティアとの距離を詰めるためにも、ここはきっちり聞いておかねばなるまい。
うむと頷き、俺はバーンズさんに言った。
「わかりました。聞かせてください。僕もいつかは聞かないとなと思ってたところだったので」
すると、拒否されることも考えていたのか、そこで彼の肩から力が抜けた。
「そうですか。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。何かようやくあの家の一員になれたみたいで嬉しいです」
そう言うと、彼は今度こそ完全に緊張を解き、その顔をほころばせた。
いつか腹を割って話せればいいなと思っていたところに、まさかの向こうからの歩み寄り。それは素直に嬉しいが、彼の口ぶりからすると、なかなかに重めの話のようではある。
ここはしっかりと腹を据えて挑まねばなるまい。そう思って真剣な顔を作って彼に向けると、彼は少しだけ困ったように笑い、話し出した。
◆
「まずは何から話しましょうか……。タツキ様は、マグナース家がどのような家であったかを知っておられますか?」
「いえ、特には。ただその……レオナルドさんがあの大剣を容易く振りかぶった時、あ、この人武闘派だ、とは思いましたね」
今思い出しただけでも冷や汗が出る。まさかあんなものを扱える人間がこの世にいるとは思っていなかった。
そう言うと、彼はまた眉をひそめて苦笑する。
「普段は温厚な方ですから、さぞ驚かれたことでしょう。実はレオナルド様は、あのベアード・ベアーズが台頭する以前に、王国の矛として王家に重用されていた方なのです。ですからタツキ様の武闘派、という感想は間違っておりません」
ゆっくりとそう話すバーンズさんの顔には、いろいろな感情が多分に混ざり合った複雑な色が浮かんでいた。
主を誇りに思う気持ち。それから主の功績を過去形で表さなければならない悔しさ。悲しみ。やり切れなさがそのまま表情に現れている。
こんなにも感情を顕にする彼は珍しいなと思いながら続きを促すと、彼はやはり眉間にしわを刻みながら続けた。
「レオナルド様の剣は鮮烈なものでした。おそらく、“剣聖”にも引けを取らない程に。そしてさらに、マグナース家にはレオナルド様以外にももう一人、とてつもない力を持った人がおりました」
「え、レオナルドさん以外にも? 誰です?」
と、そう聞いたところで、俺は「あっ」と間の抜けた声を漏らしてしまった。
おそらく話の流れ的に……。そう思いつつバーンズさんに顔を向けると、彼は頷いた。
「お嬢様の、ティア様の母君、リーネ様です」
その名前を出した途端、彼の声が一段沈んだ。
「彼女は……素晴らしい女性でした。レオナルド様の妻として、ティア様の母として。そして、王国の宮廷魔術師として。優しさと強さを兼ね備えた、まさに才媛と言うべき方でした」
カウンターの上で両手を合わせ、彼はどこか遠くを見ていた。
普段は力強さのみを纏っていたはずのエメラルド色の瞳が、今はどこかさみしげに揺らめいている。
「レオナルド様とリーネ様。この二人がいれば、王国の繁栄は約束されたようなもの。その時王国の中枢に居た者は、誰もがそう思っていました。私もそうでした」
積み重ねられる過去形の表現に、不安感が募る。
思わずそのままの感情を載せた視線をバーンズさんに送ってしまったが、しかしやはり、彼の口からは相応の逆接が語られた。
「ですが、そんな折でした。やつが現れたのは。刻々と王国を蝕みつつあった瘴気を吸い、強大になった魔物。黒竜が、突如として王都を襲ったのです」
「黒竜……」
おそらくは因縁のある相手なのだろうということはわかっていたが、やっぱりそうなのか。
「先代女王様の命を受け、お二人はすぐに黒竜討伐に動かれました。王国の有力貴族の力も借り、結果、何とか黒竜を撃退することはできました」
話すごとに、だんだんと彼の表情が険しくなっていく。その感情にあてられてしまったか、酒場の喧騒の中にいるはずなのに、彼の声がいやに耳に響いた。
つらそうに話す彼に、何か声を掛けてやりたい。そう思ったが、結局俺の口から出て来たのは、何の変哲もない相槌でしかなかった。
「撃退、できたんですね」
俺の気持ちが伝わったのかはわからないが、彼は「はい」と静かに応じてくれた。
「しかし……しかし、その代償に払った犠牲はあまりにも大き過ぎました」
カウンターの上で合わせられた彼の両手が、そこで強く握り込まれた。
「空を縦横無尽に飛ぶ黒竜を討伐することは困難を極めました。レオナルド様の剣が届かず、防戦一方になってしまったのです。そこで、討伐軍は決断を下しました。地上戦が無理なのであれば、リーネ様の魔法により撃ち落とすべし、と」
彼にしては珍しく、少し興奮しているようだ。彼の浅い息遣いがこちらまで聞こえて来る。
「黒竜を落とせるような魔法となると、それはもう並のものではありません。極大魔法とも言うべき代物が必要です。幸いリーネ様はそのような魔法も修めていたのですが……やはりそんなリーネ様であっても、そのようなものはそう簡単に繰り出せるものではなかったようで、発動には時間がかかりました」
撃退できたのであれば英雄譚とも言える話なのであろうが、彼の語り口はそうしたことを語るものとしては、全く違った熱を帯びていた。
やはり話すのがつらいのだろう。語る口の端々で、彼は悔しさを滲ませながら歯噛みする。
「黒竜は賢い魔物です。自身を危うくする魔法の気配を感じ取り、黒竜はその中心にいるリーネ様を狙いました。魔法の詠唱で無防備になった彼女をレオナルド様は守ろうとしましたが、その健闘もむなしく……リーネ様は、黒竜の吐く瘴気をその身に受けてしまいます」
その言葉に、俺はまた視線を彼に向けてしまった。
似ている。俺達が黒竜と対峙した時と。
「相打ちのような形にはなりましたが、リーネ様は見事にその魔法で黒竜を撃退し、その役目を果たされました。しかし、黒竜の瘴気をまともに受けてしまったリーネ様はその戦いの後、床に伏されてしまい、そのまま……」
「え」
全く予想だにしていなかった流れに、俺は思わず声を上げてしまった。
その声が聞こえたのかはわからないが、バーンズさんは力なく首を振り、瞑目した。
「レオナルド様と幼いティア様を残し、彼女は、亡くなられました」
その消え入りそうな言葉を受け、俺は呆然とした視線を、彼に無遠慮に向けてしまった。
そんなばかな。瘴気を受けて、そのまま……?
エクレアはまだどうなったのかわからないが、俺とエレナは瘴気を食らってもほとんど何事もなく回復している。ネイトさんが俺に何も言及しなかったということは、おそらくその影響も残っていない。どうして彼女だけそんなことに……?
疑問が募るが、バーンズさんの沈痛とした表情に、俺はそれを聞くことは避けた。
リーネという女性の存在は、レオナルドさんやティアだけではなく、彼にとっても大きなものだったらしい。
聞かせてくれと言ったのは自分だが、それでも俺は、彼に謝らなくてはいられなかった。
「何か、すみません。その……つらい話をさせてしまって」
俺のそれに、彼は静かに首を振った。
「いいえ。タツキ様に聞いて欲しいからこそお話したのです。タツキ様が謝るべきことなど一つもありません」
「でも……」
「それに、話はこれで終わりではありません。もうご存知かとは思いますが、この降って湧いた災禍によって心に傷を負われたのは、ティア様だけではありません。レオナルド様も同様に、心に深い傷を負われました。その結果、マグナース家は今の形を取ることになったのです」
話し続けて乱れた呼吸を戻すためか、そこで彼は一度、ゆっくりと深呼吸をした。
「レオナルド様は……ご自身を責めておいででした。自分にもっと力があれば、あの時こうしていれば、と毎日後悔を口にされておりました。私達はそんな彼に掛ける言葉が見つからず、結局彼が取ろうとした極端な行動にも、明確な異を唱えることができませんでした」
「極端な行動……?」
頷くと、彼は言った。
「タツキ様は“戒言”というものをご存知ですか?」
「戒言、ですか?」
それは確か俺が王都に滞在していた時、ギルドにいた吟遊詩人が俺にかましたファンタジースキルだ。
そう言えば教会に来ていたベアードとバーンズさんとの会話でもその言葉が上がっていた。何か彼らにも関係のあることなのだろうか。
「実は一度、王都にいた吟遊詩人にやられたことがあります。何か歌を聞いていた人に強制的に金銭を払わせる力、みたいな感じだったかと」
彼はそれに、静かに頷いた。
「そうですね。確かに彼らも戒言の力を使います。ですが戒言は彼らだけの力ではないのです。心の傷を受けてしまったレオナルド様は、その戒言の力に目をつけました」
「戒言を使って何かをしようとしたってことですか?」
そう聞くと、彼は困ったように眉をひそめる。
「吟遊詩人の場合は歌の神ミューゼ様に与えられた力ですが、実は一部の神官に値する人間もそれを扱うことができます。レオナルド様は彼らを使い、自分に恒久的な戒言を掛けることを決めたのです」
「ええ? 戒言を自分に? それはまたどうして……」
自分で食らったからわかるが、あれは相当強力な力だ。あんなものをわざわざ自分に掛けようとするなんて信じられない。しかも恒久的と来たもんだ。
しかし別に普段レオナルドさんに目に見えた異常は感じられなかった。それとも俺が気づいてないだけで、彼は常に戒言に縛られている状態なのだろうか。
そう考えているうちにも彼の話は続いていく。俺は一旦そこで思考を止め、再び彼の話に耳を傾けた。
「レオナルド様は……自分に中途半端な力があるから妻を失ったのだと、そうお考えになっていたようです。このままではまた同じようなことが起こる。そうお考えになったレオナルド様は、自らの“武”を封じることに決めました」
「武、ですか?」
耳慣れない言葉を確認するように俺が聞くと、彼はそれに厳かに頷いた。
「力を持てば、力を振るうことを求められる。であれば、それを捨て去ってしまえば、自分の大事な人を危険に晒すことはない。そうお考えになったのです」
それを聞いて、俺は心の中で手を打った。
先日教会でベアードと会った時、彼が言っていたことがどういう意味かわからなかったのだが、今のバーンズさんの話で大体のところが理解できた。
──あいつらは逃げている。なるほど。そういう意味か。
「その戒言に逆らうと、具体的には何がどうなるんですか?」
そう聞いてみると、彼はいささかの渋面を作りながらも答えてくれた。
「体に、何らかの異常が現れます。先日レオナルド様が剣を構えられた後、吐血したのを覚えておられますか? 実はあれは、戒言に逆らったために起こったものなのです」
「えっ、あれはゼノン伯にやられたからじゃ……」
そう言い掛けると、彼はそれに明確に首を振った。
「いいえ。あの程度ではレオナルド様はそこまでの傷を負ったりはしません。あれは戒言によるものです。もしあの時レオナルド様があのまま無理をして剣を持ち続けていたら、今頃無事ではいられなかったでしょう。それ程までに戒言は強力なものなのです」
「それは……物騒な力ですね……」
剣を持っただけでそんなダメージを受けるとは、なかなかに極悪判定だ。内臓にダメージが入るとなると、少し剣に触るだけでもかなりのリスクとなる。
そして、そんなやばい戒言という代物を受けたのは、どうもレオナルドさんだけじゃないらしく……。
話し始めてから最も複雑な顔を浮かべ、バーンズさんは言った。
「レオナルド様程ではありませんが、私とネイトも少し腕に覚えがあります。ですので、同じように戒言に縛られることを決めました。こうして文字通りの力を失ったマグナース家は、王国守護の任を解かれることになり、さらには領地の運営も他人に任せることになった。……というのが、今のマグナース家の現実なのです」
そこまで言うと、彼はそのまましばらくの間黙り込んだ。出された飲み物にも手を付けず、ただカウンターに目を落とす。先程よりは大分落ち着いたようだが、その表情はやはり晴れない。
少し待ったが、それから彼が話し出すことはなかった。どうやら話はこれで全てらしい。
今まで俺がマグナース家に抱いていた疑問の、ほぼ全てを答えてもらったに等しい情報量だった。バーンズさんにつらい思いをさせてしまったのは申し訳ないところだが、それに見合ったものは確実に得られた。
マグナース家において俺が最大の疑問だったのは、なぜティアが喋れることを隠していたのかだ。しかしそれも何となくだが、おそらくわかった。
ティアは、あの子は、きっと父とは違う道を選んだのだ。逃げるのではなく、戦うことを選んだのだ。
しかし黒竜と戦うなどと言ったら止められることをわかっていたのだろう。最悪屋敷の皆と同じように戒言を掛けられてしまうこともあるかもしれない。だから彼女は自分を偽り、人知れず力を練ったのだ。10年もの長い間、ただ黙々と。
(……凄まじいな)
多分に想像を含んでいるが、おそらくこれが彼女の真実だろう。
それは一体、どれだけのものを犠牲にしたのだろう。彼女に比べたら幸せ過ぎる幼少期を送って来た俺には、全く想像すらできない。
そうして彼女の子供時代に思いを馳せていると、ふいに黙り込んでいたバーンズさんが掠れた声でこぼした。
「……軽蔑、されますか?」
それはひどく不安そうな声だった。あれだけ活力に満ちていたはずの彼の体が、今は少し小さく見える。
何か慰めの言葉でも掛けてあげた方がいいのではないかと一瞬頭を過ぎったが、俺はそこで、開きかけた口をつぐんだ。
きっと彼は、そんな言葉は望んでいない。だから俺は、全て正直に思ったことを答えた。
「軽蔑なんてしません。それも一つの道だと思います。でも、一つだけ疑問があります。そうすることを決めた時、彼女の話は聞いたんですか?」
そう聞くと、彼はこちらに怪訝な顔を向けた。
「彼女、と言いますと」
「ティアですよ。あの子にも、どうするべきかちゃんと聞いてあげたのかなって。彼女の屋敷でのあの頑なな姿を見ていると、そう思っちゃいました。一人だけ仲間外れにされて、勝手に決められて、寂しかったんじゃないですかね」
俺のその言葉に、彼は目を見開いた。それは本当に、全く予想だにしていなかったというような顔だった。
まあ、それは当然だ。俺が言っているのは、まだ右も左もわからなかったであろう幼い女の子にちゃんと意思確認を取ったんですか? というなかなかにおかしなことだからだ。
しかし俺には、その時のその選択こそが、マグナース家が拗れる原因になったのではないかと思えてならないのだ。
だから俺は、難しい顔をして考え込む彼に、あえて突きつけるように言った。
「もし彼女が今、“戦え”と言ったら、バーンズさんはどうしますか?」
すると彼は弾かれたように顔を上げ、そのエメラルド色の瞳を困惑の色で濡らした。
「それは……」
「戦いますか? それとも……逃げますか?」
彼にとっては酷な質問であると思う。これは主を取るか、その娘を取るかを選ぶに等しい質問だ。
事実、彼は目を見開いたまま苦悩の表情で固まってしまった。これ程までに狼狽した彼の姿を見るのは初めてだ。やはりここが彼の急所だったらしい。
幾度となく、彼は浅い息を吐いた。その呼吸を追っていると、酒場の喧騒が嘘のように遠くなる。ここにいるのは俺と彼の二人だけ。そう思えてしまうくらいに、俺達は周りと隔絶された空間にいた。
やがて、ずれていた俺と彼の呼吸がシンクロする。ふと顔を上げれば、そこには何か吹っ切れたような顔をした彼がいて、
「私はこの10年、マグナース家に仕えて来たつもりでした。しかしタツキ様にそう聞かれましたら、どうもそれは違うのではないかという気がして来ました。私はきっと……」
そう含みのある言い方をした後、彼は姿勢を正した。
「先程の質問にお答えします。もし彼女が、ティア様が私に戦えと命じられたならば、私はこう答えるでしょう」
強い光を帯びた翡翠の瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
「命を燃やし、全てを賭して戦う、と」
決然とした響きを持ったその声音に、発破を掛けた側のはずの俺が気圧されてしまった。
彼の瞳には、もう先程までの迷いの色は残っていなかった。あるのはただ、強さのみ。それはきっと、マグナース家執事バーンズという肩書を脱ぎ捨てた、覚悟を決めた一人の男の目だった。
俺とは違い、男として確かな道を歩いて来たはずの彼だ。そんな彼に、不相応にも不遜な物言いをしてしまった。
俺は深々と頭を下げ、先程の言葉を侘びた。
「すみません。ただの若造が偉そうなことを言いました」
すると彼は目を細め、優しげな声で言ってくれた。
「ただの若造などと、ご謙遜を。お気づきではないかもしれませんが、タツキ様は確実にお嬢様に変化をもたらしております。それはこの10年、お嬢様を間近で見て来た私が保証いたします。ですからどうか頭を上げ、胸をお張りください」
それでもやはり無礼で、不躾な言い方だった。
恥ずかしさで彼の顔が見られない。そのまま頭を下げたままでいると、頭の上でふっ、と彼の笑む気配がした。
「本日こうしてこのことをお話ししたのは、ここでタツキ様にすべてをお話しすることがティア様の、ひいてはマグナース家に深く根付く病魔を祓うきっかけとなる気がしたからです。そしてその考えは、間違っておりませんでした」
そう言われたと思ったら、ふいに俺の顔の前に手が差し出された。
反射的に顔を上げてしまうと、そこには朗らかにこちらに向けて笑い掛ける彼がいて、
「どうかこれからも、お嬢様をよろしくお願いいたします」
その顔は、あくまでも晴れやかで──。
一部の疑いすらない、全幅の信頼を向けられてしまった気がして、小心者の俺はその手をすぐに取ることができなかった。
そしてそんな俺の情けない感情を、このできる執事は見逃さない。
「やはり、重荷に感じられますか?」
「少し……」
「であれば、それを力へと変えていただきたく存じます。まさに今私が、あなたに背中を押していただいたのと同じように」
静かな、諭すような口調のそれに、俺は思わずハッとした顔を彼に向けてしまった。
翡翠の瞳が、変わらず優しげな光をたたえながら俺を見ていた。
(本当、人に発破を掛けるのが上手い人だな……)
思えば彼は、俺のことを最初からきちんと大人として扱ってくれている。元の世界では軽んじられて、疎まれてが当たり前だったこの俺を、一人の男として見てくれているのだ。それが、俺の胸をどうしようもなく誇りで熱くする。
この激励を受け止められないようでは男じゃない。
一度、強く拳を握り込む。それから俺は、彼のその乾いた分厚い手を、しっかと取った。
「わかりました。偉そうなことを言ったからには、その責任を取ろうと思います」
今はまだ、彼の期待に真っ直ぐに答えることはできない。しかしいつの日か、本当の意味で彼の目に適う人間になりたい。
少し泣きそうになってしまい、口元を歪ませてしまった俺に、彼はもう何も言わなかった。ただ力強く、俺の手を握り返してくれた。
何だかものすごい熱い時間を過ごしてしまった。俺の人生にこんな場面が来るなんて正直思っていなかった。
一生懸命生きるってこういうことなのかもな。と、そんなことを思いながら二人してはにかんだ笑顔を見せ合っていると、
「話は終わったか?」
ふいに店長が間に割り込んで来て、煮込みの入った皿を俺達の前に置いた。
熱々の湯気が立ち上り、和風のような、それでいてスパイシーな香りが鼻をくすぐる。
「全く、飯を出すこっちの身にもなれ。どんだけ俺が待ったと思ってるんだ。いいから飯を食え。芋は冷めてもうまいように作ってるが、煮込みを冷ましたら許さんからな」
そうして腕組みしながら俺達を見下ろす彼に、俺とバーンズさんは顔を見合わせた。
どうやら俺達の話が本当に込み入ったものであるのだと知り、料理を出すタイミングを見計らっていたらしい。
顔は怖いが空気が読める。そう言えば、こちらの話を聞かないように俺達からちゃんと距離も取っていた。やはり彼もまた、できる男である。
そんな彼の計らいを無碍にはできない。俺達はふっ、と一息吐くと、
「じゃあ」
「いただきましょうか」
頷き合い、スプーンを手に取る。
そうして俺達は、緊張状態だった胃に温かいそれを流し込み、その美味しさに舌鼓をうったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます