第26話「デブ氏、屋敷にて」


「ん……」


 まぶたにやたらと眩しい感覚を覚え、右手を伸ばして目をごしごしと擦った。

 まだ頭には靄がかかっているが、体全体は軽く感じる。ここ10年で最もいい状態の寝起きではないだろうかと嬉しく思いながら、俺はゆっくりと目を開いた。しかし、


「んぁ?」


 第26話。見知らぬ天井。

 何だここ。どこだ。て言うか俺は何で寝てたんだ。確か俺は皆と黒竜と戦って……。

 と、記憶を辿りつつ起き上がろうとすると、ふいに近くに人の気配。


「起きたかい」


 調度品の整ったやたらとでかい部屋。そこに置かれているこれまたくそでかいベッドの上に俺はいた。

 その傍らの丸椅子に音もなく座っていたのは、やたらと姿勢の良い老年の女性だった。彼女は体をこちらに向けつつ、読んでいた本をぱたりと閉じた。


「体調はどうだい。どこか痛むところはあるかい?」


「あ、えっと……特には」


「それは重畳。どれ、少し様子を見せてもらえるかい」


 と、そう言いつつ俺の目に手を伸ばしてきたのは、マグナース家使用人のネイトさんだった。

 彼女がいるということは、ここはマグナース邸ということだろうか。そう言えば、置かれている調度品が似通っているように見える。

 ネイトさんは医療の心得もあるのだろうか。されるがままになっていると、彼女が俺の首周りを触りつつ言った。


「なかなかの大立ち回りをやったそうじゃないか」


「えっ?」


 きょとんとした顔を向けてしまうと、彼女は苦笑じみた笑みを口に浮かべつつ言った。


「覚えてないのかい? 黒竜とやり合ったんだろ?」


 その深淵を覗くような深い琥珀色の瞳に見つめられて、ようやく俺はそこで全てを思い出した。


「あっ、ええと……まあ、はい」


 そうか。そうだった。俺は黒竜の尻尾にやられて……たぶんそのまま気を失った。

 やばい感じだったからこりゃ死んだかなと思ったが、どうにかなったようだ。

 何だか体の調子もいいし、ネイトさんの看病がよかったのかもしれない。


「もしかして、ずっと俺を看てくれてたんですか? ありがとうございます」


「まあお礼を言われる程のことじゃないさ。看てたのはあたしだけじゃあないしね」


「え?」


 と、そこで彼女の視線が俺から外れたので無意識にそれを追うと、


「!!??」


「……え、ティア?」


 部屋の入口から顔だけを出すようにしてこちらを見ていた彼女が、俺が顔を向けた瞬間に慌てて影に隠れた。

 思わずそれに指を差してしまいながらネイトさんに視線を戻すと、彼女は鼻先を指で擦りつつ微苦笑を浮かべた。


「最初はあたしが全部世話するつもりだったんだけどねえ。あの子がそこにいくらか割って入って来たのさ。まあ大したことはしてないんだが、それでもあの子にしたらどういう風の吹き回しかってなもんだ。一体何があったらああなるんだい?」


「い、いやあ~俺にもさっぱり……」


 心底不思議そうな顔をしながら見つめられたが、そう言われても俺にもわからない。思い当たることと言えば彼女を黒竜の攻撃から守ったことだが、それだけじゃ弱い気がする。怪我も全然してないっぽいし、むしろ体調はいいぐらいだしなあ……。


 と言うか、あの顛末に関してどこまで屋敷の人達に伝わってしまったんだろうか。ティアのことだから自分の魔法に関することはバレてないんだろうが、そうなると一体どうやって黒竜から逃げおおせたのかという話になってくる訳で……。


 どうしたものかと口元をもにょらせていると、横で静かに息を吐く音が聞こえた。


「まあしかし、まさか黒竜とはね。やっぱりアレからは逃れられない運命なのかねあたし達は……」


 そう言うと彼女はどこか虚空を見つめ、少し悲しそうにその琥珀色の目を細めた。

 普段頭からつま先まで覇気のある彼女だが、続けて嘆息するその姿は老年の女性そのもので、嘘みたいに小さく見えてしまった。 


 何か背景のありそうな言い方が気になったが、その姿が痛々しくて深く聞く気にはなれなかった。

 鼻で大きく息を吸ってから、タイミングを見るようにして俺は口を開いた。


「そう言えば、俺以外の皆は無事なんですか?」


「ああ。ティアはあの通り、ピンピンしてる。エレナも無事さ。あの子はバカみたいに頑丈だからね。一応あんた達と一緒にいたゼノンの私兵も軽症だ。ただ……」


 そこで言葉を区切る彼女に、なぜだか反射的に嫌な予感がした。


「もう一人、居たんだろ? 確かこの屋敷にも一回来ている、エクレアとかいう若い娘さ。あの子は、」


「エクレア!? エクレアがどうかしたんですか!?」


 不穏な言い回しについ彼女の肩を掴んでしまう。

 何だ。何かすごい嫌な予感がする。

 その剣幕に彼女は目を丸くするが、すぐに神妙そうにその目を細めた。


「……そうかい。そんなに大事な子だったのかい」


 彼女は俺の手を優しく解くと、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。


「あんたが黒竜にやられて気を失った後、ゼノンのところの兵があんた達を見つけて回収したようだが、その中にその娘の姿はなかったようだよ。代わりに現場にあったのは、その娘のものだろうと思われる衣服だけだったらしい」


「そ……え?」


 衣服だけ? 何だそりゃ。まさか自分から脱いだ訳じゃないよな。それとも服がボロボロになったから着替えたとか……?

 言葉に詰まる俺を見て、彼女が続けた。


「あたしが実際に見た訳じゃないからなんとも言えないが、回収したやつによると、まるで“人がそのまま溶けてなくなったよう”な状態だったらしいよ」


「と、溶けてなくなった……?」


 そんなばかな。じゃあ何で俺やエレナは無事なんだ。確かにあの時エクレアは俺の前にいて、あの瘴気ブレスを俺からいくらか遮るような位置にはいた。が、それでも受けた量は大して変わらないはずだ。もしあのブレスが原因なら、いくら何でも結果に差があり過ぎる。


「……瘴気を浴びると体が溶けたりするんですか?」


 我慢できずにそう聞いてみると、彼女は少し難しい顔をしつつ、首を横に振った。


「いや、あたしが見て来た限りでは、そういうふうになった人間は見たことがない。ただ……」


「ただ?」


 聞き返したが、彼女はそこで言い淀んだ。

 突然どうしたのだろうか。何かつらいことでも思い出してしまったかのように、彼女は口を引き結んだ。


 しかしそこは全身に覇気を纏う元気系おばあちゃん、ネイトさんであった。俺がまばたきを二つする頃にはしっかりと目を開き、彼女はまた何事もなかったかのように真っ直ぐに俺を見た。

 ただ少し、その琥珀色の瞳は悲しげに揺らめいているように見えた。

 

「瘴気についてはまだわからないことばかりで、確かなことは言えない。残念ながら、そういうこともあるのかもしれないと言うしかないのが現状だ」


「そ、そんな……」


 まだエクレアには全然借りを返せていないのに……。やっぱりあの時俺が無理してでも外法魔術で黒竜を止めていれば……。

 と、後悔が募って肩を落としてしまうと、彼女が慰めるように俺の肩に手を置いた。


「まあ、あたしは瘴気じゃそんなことにはならないと思ってるよ。衣服だけ残ってるってのはちょっと気になるが、状況的に見ると転移魔法か何かに巻き込まれたように思うよ」


「転移魔法、ですか?」


「ああ。まあそれと似てるってだけで、全然違うかもしれないがね。だが少なくともあたしは、その子は死んじゃあいないとは思ってるよ」


「そ、そうですか……」


 と、何とか答えつつも、俺の心はやっぱり晴れなかった。

 ネイトさんはまだ希望があるように言ってくれたが、その口ぶりからするとおそらく慰め程度のものでしかないのだろう。それに俺にとっては、少なくともエクレアがいなくなってしまったことに変わりはないのである。


「何だい。信じてないのかい?」


 顔に出てしまっていたのか、それをネイトさんに見咎められてしまう。

 

「い、いやあ、そんなことは……」


「まあどう思うかは自由さ。希望を持って奮い立つのも、事実から目を背けて逃げるのも、あんたの自由だ。けどね」


 そこで椅子に座り直すと、彼女は強い光を帯びた瞳で俺を見た。


「逃げ続けるのだけはダメだよ。その先には何もないんだ。ただ悲しくて、惨めで、苦しい時間が延々と続く。それだけは言っておくよ」


 その目力と有無を言わさぬ力のこもった言葉に、俺の口からは自然と肯定の返事が出て来てしまった。

 

「わ、わかりました」


 はっきりと答えたつもりだったが、それでも一段と深い色になった琥珀色の瞳に見つめられた。

 まるで心の奥まで見通そうかというその視線に身を捩りそうになるが、なぜか縫い留められてしまったかのようにその瞳から目を離すことができなかった。

 しばらく微動だにできずにその視線を黙って受け止める。すると、


「……嫌だねえ。昔は説教なんて大っ嫌いだったんだが、こんななりしてるとどうも年寄りくさいことをしちまう。悪かったね妙なことを言って」


 と、少し恥ずかしそうに頬をかきつつ、彼女はそう言った。


「い、いえ。肝に命じておきます」


 引きこもり気味だった俺には正直耳が痛い言葉だが、聞き流すには彼女の感情がこもり過ぎていた。きっと過去に何かがあったのだろう。

 とりあえずは、俺なんかのために身を切ってくれたネイトさんを信じてみよう。フージンもエクレアはただ者じゃないと言っていたし、きっと大丈夫だ。後で街に行って情報を集めてみよう。


 そんなことを思いながら俺が頷くと、彼女は満足そうに目を細めた。


「素直な男だね。その素直さを少しでいいからあいつにも分けてやりたいよ。まああたしも人のことは言えないがね」


「あいつ?」


 そう聞き返すと、彼女は少し困ったように口元にきゅっと苦笑めいた笑みを浮かべた。

 と、そうして彼女が俺に何かを答えかけた時、だった。


 部屋の外から、何やら大きな音が聞こえた。

 ドゴン! という重たい音だ。少し遠くのようだが、はっきりと振動も感じられた。

 屋敷の罠が誤作動でもしたのだろうかと思ったが、どうも違うらしい。隣の彼女はそうは思わなかったらしく、なぜか不機嫌そうに眉根を寄せていた。


「……野蛮なやつだ。小心者の極みだな」


 思わず怖気が立つような低い声で、ネイトさんがぼそりと言った。

 普段の彼女からは想像もつかないような冷たい声だ。彼女にこのような態度を取らせる程の何かが、屋敷で起こっているということだろうか。


「何の音です?」


 さすがに気になってそう聞くと、彼女はもはや不快感を隠そうとせず、盛大にため息を吐いた。


「ゼノンの野郎が来てるのさ。大方我慢がきかなくなったあいつにレオナルドがやられたんだろう」


「やられた?」


「ああ。まあ、直接殴る度胸はないだろうし、お付きにでも命じてやらせたんじゃないか。本当に嫌なやつだよ全く」


 ふんと鼻から息を吐き、彼女はまた心底嫌そうに顔をしかめた。

 どうも穏やかな状況ではないようだ。鎧男達はあのリーダーのせいで印象がよくないが、彼女のこの様子だとその雇い主であるゼノンという男もあまりいい人間ではないらしい。

 

(正直お近づきになりたい人ではない、が……)


 エクレアの話だと、確かこの辺りのマグナース領を代わりに統治しているということだったか。もし今回の俺達の件のせいで来ているのなら、少し顔を出して双方に詫びておきたいところだが……。


「あの~、もしかしてそれって、俺達のせいで怒鳴り込みに来てるとか、そういうことだったりします?」


 一応聞いてみると、彼女は案の定困ったように眉をひそめた。


「まあ、そうなっちまうかね。ゼノンのところとこっちの関係は知ってるかい?」


「ええ。細かいことはわかりませんけど一応」


「それなら話は早い。要は“領地のことはこっちがやるから関わるな”ってこったね」


「ああ、やっぱりそういうことですか……。一応バレないようにティアに帽子とかで変装させたりしてたんですけどね……」


 そう言うと、ネイトさんはそれに意外そうに眉を上げた。


「ああ、あの姿はそういうことだったのかい。あたしはてっきり……」


 と、ネイトさんが何かを言いかけた時。再びそこに割って入るようにドン! という音が部屋に響いた。

 瞬間、彼女の顔がみるみるうちに険しくなった。怒りを抑えられないとばかりに拳が握り締められ、引き結ばれた唇が震える。今にも立ち上がって怒鳴り込みに行きそうな顔だ。


 それを見た俺は、咄嗟に口を開いていた。


「あ、あ~……ちょっと俺、二人に謝ってきます。何か迷惑掛けたっぽいし、仮にも責任者なんで顔くらいは出しておいた方がいいと思うんで」


 正直行くのはちょっと怖いが、このままネイトさんに行かせると大変なことになる気がする。

 おばあちゃんっ子だった俺にはわかる。これはマジギレしている顔だ。


 勢い余ったのかそのままの怖い表情で見られる。が、俺の顔を見ると彼女はハッと我に返ったかのように肩の力を抜き、ゴホンと一つ咳払いした。


「ん……やっぱり長くここに居るせいか、この家のことになるとちょっと感情的になり過ぎるね。すまないね、急に」


 いえ、お気になさらず、とだけ返すと、彼女は居住まいを正しつつ瞑目し、ありがとう、と答えた。

 ここの人達がこの家を大事に思っているのはもう体でわかっているし、今更この程度で憤ったりはしない。

 やっぱりこの人達に迷惑は掛けられないな、と気持ちを新たにしつつ、俺は彼女に言った。


「じゃあ、ちょっと行ってきますね」


「ああ……。あんたはまだ病み上がりみたいなもんだし、ついて行ってやりたいんだがね。あたしは行かない方がよさそうだ。少し頭を冷やすよ」


 そう言って、彼女は少し気まずそうに息を吐く。


「本当はもうちょっと後にした方がいいんじゃないかと思ってたんだがね。あいつの頭もまだ冷えてないだろうし」


「ああ、そんなに怒ってるんですか……。まあそうですよねえ……」


 やっぱり領地問題となると、貴族は黙っていられないんだろうな。貴族社会のことには疎い俺ではあるが、そもそもデリケートな状態なところに下手に行動を許せば、いろいろ問題が起こってしまいかねないのは理解できる。線引きはどうしても必要なんだろう。


 少し勢いをそがれてしまったが、今更行かないなんて言うことはできない。

 ベッドの縁に腰掛け、足の具合を見る。

 大丈夫だ。力は入る。問題ない。


「本当に行くのかい?」


 心配そうに顔を覗き込まれたが、俺は答えた。


「ええ。謝るんなら早い方がいいでしょうし」


 と、そうして立ち上がる途中で、ふと自分の服に目が行った。

 たぶん寝ている間に着させられたのだろう。シルクのような手触りの上等そうな服だが、たぶんこれは寝間着だ。


 貴族の人に会うならかなりまずい服装ではある。しかし逆にこうして病人感を出していけば少しはアタリが軽くなるかもしれない。ここはあえてこのままで失礼させていただくとしよう。

 

「んじゃ、行ってきますね」


「ああ。くれぐれも気をつけてな」


 大きく頷いてから、俺は歩き出した。

 何だかやたらと心配するネイトさんに不安を感じるが、まあたぶん大丈夫でしょう。そう言えば今日はあれだけいつもされてたセクハラもなかったけど、まあ何も起こらんでしょう。たぶん。おそらく。 


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