第24話「瘴気」
間断なき闇が、全てを漆黒に塗りつぶしていた。
音もなく、匂いもなく、温度もない。寄る辺となる全てがないそこは、しかし凍えそうな程に寒々とした、虚無の世界だった。
自分の意識が存在しているのかも朧げで、自分が何かを思っても、それが本当に自分が考えていることなのかがわからない。
真の闇というものはこれ程までに心細いものだったのかと、俺はたぶん思った。
どうにもできずに闇を漂う。すると、だんだんとその意識も薄れ始めた。
かろうじて残る自我が消えてしまう恐怖に駆られ、俺はがむしゃらに闇の中をもがいた……と思う。
それが功を奏したか、かすかに感覚が戻った気がした。それと同時に、指先にとっかかりのようなものが当たる。俺が気づかなかっただけで、実はもうずっとそこにあったのかもしれない。
必死になってそれを手繰り寄せてみると、突然目の前に、小さな光が現れる。
ホタルのようなその優しい光を何気なく手に取ろうとすると、瞬間、その光が爆発する。
ふいを突かれて目を守る暇もなかったが、不思議と眩しくはなかった。光が世界に広がっていく様を、そのままぼーっと見つめていた。
気づくと俺は全ての知覚を取り戻し、真っ白な空間に一人、ぽつんと立っていたのだった。
「こ、れは……」
さっきまでとは完全に真逆の世界。その変貌ぶりに、まるで百年ぶりに話すかのような嗄声が漏れ出て、思わず咳き込んでしまった。
「あれあれ~? これはこれは、珍しいこともあるもんだ」
と、そんな咳をしても一人なはずの空間で、突然誰かの声が上がった。
気づくと目の前に、何かヒトガタをした光の集合体みたいなやつがいた。
「まさかまさか、ここに来れる人間がいるとはねえ。ようこそ、全てと繋がる場所へ。えー……っと、織部樹君?」
光は滑らかな口調でそう言い、さらに流暢な発音で俺の名を呼んだ。
こっちの世界に来てから初めて向こうの言葉で呼ばれた気がして、つい目を見張ってしまった。
(こっちの……世界?)
ふと出たワードがいやに脳髄を刺激して、俺は軽くめまいを覚えた。
何だ? 何かを忘れている気がする。記憶のピースが散らばってしまっていて、よく思い出せない。
「ふむふむ? まだ頭がはっきりしないかな?」
目頭をおさえてふらつく俺に、光は言った。
「まあ君のいた世界には竜なんていないし、恐怖でショック状態になっちゃうのも無理ないかもしれないね」
「竜……うっ!?」
その言葉をきっかけに、大量の記憶の欠片が頭になだれ込んで来た。
目を閉じても目の前で起こる高速スライドショーに、頭が熱で湧きそうになる。耐えきれず、両膝をついてうずくまってしまった。
「あらあら? ちょっと刺激が強すぎた?」
ぽん、と頭に手を置かれた気がした。
すると、目の前の映像乱舞がぴたりと止む。熱暴走していたはずの頭も、急速に冷えた。
とまどいながら顔を上げると、光の集合体が後ろ手に立っていた。
「さて、ちゃんと全部思い出せたかな?」
思わず頷いてしまうと、その能面のような顔の口元が、ニヤリと歪んだ気がした。
「では改めて。ようこそ、全てと繋がる場所へ。人が人のままここに来るのは、何百年ぶりだろう。会えて嬉しいよ、織部樹君」
強引に腕を取られ、握手させられた。
何からツッコんでいいのかわからない。こいつは何だ? ここはどこなんだ。俺は確か、竜の黒炎に飲まれて、その後急に頭が痛くなって……。
「ここはさっき言った通り、全てとつながる場所さ。竜に関してはその通りだけど、少し補足。君は黒竜の吐く瘴気に飲まれたのさ。その結果、ここへ来た」
「瘴気……。 あの黒炎が、瘴気? んで、瘴気に飲まれたから、ここへ来た? 何だそれ。全然意味がわからん……」
て言うか、何だ。俺言葉にしてないよな。何でこいつ俺の頭の中の疑問に答えちゃってるの? そもそも名前も教えてないんだが……。
そう思ってみると、やはりこいつは、その疑問にもはっきりと答えて見せた。
「君の名前くらいはすぐわかるさ。なんせここは、全てと繋がる場所だから」
光は得意そうにそう答えたが、もちろんそんな答えでは俺は納得できなかった。
「何なんだよ。その全てと繋がる場所って」
苛立ち混じりにそう聞くと、こいつはその体の光をパッと明るくし、ちょっと嬉しそうな声で言った。
「言葉通りさ。ここは全てと繋がる場所。だからもちろん君とも繋がれるし、君が考えていることもわかる。君と僕達は今、繋がっているんだよ」
「は~ん? よくわからんなあ……」
と、首を傾げて見せると、こいつも同じく首のようなところを傾げつつ言った。
「う~ん……。まあ、“世界のあらゆる知識が集まる場所”ってぐらいの理解が簡単かなあ。だから君のこともある程度はわかるってことさ」
「あらゆる知識ぃ? また大きく出たな」
と、ちょっとバカにしたような口調で返してはみたが、こいつが当たり前のように俺の名前を呼んだのは事実だ。しかもイントネーションも完璧。久しぶりに漢字で自分の名前を呼ばれたような感じがした。
(一体こいつは何なんだ? どう見てもただの光だし、精神と何とかの部屋ばりに殺風景なとこだし、いまいちここがどういう場所かわからんな)
もっとこう、あるだろ。そういう設定にふさわしいビジュアルってもんがさ。
と、そんな益体もないことを思いつつ光のやつを見ていると、突然やつに異変が起こった。
「──へえ~。なるほどなるほど。面白いこと考えるね、君」
突如ぐにゃぐにゃと形を変え、その体を構成している光がより人間らしい形となる。
それが頭、腕、足の先端部からまるで魔女っ子の変身シーンのように変化して、一人の人間の姿を形作っていく。
それと同時に、突然轟音を立てながら地面から何か壁のようなものがスライドするように生えて来た。それは俺達を中心にして、段々畑のようにどんどんと立ち上がっていく。
その屹立はとどまることを知らず、壁はあっという間に摩天楼のように成長し……。
最後には、無限の白空間の彼方へと、消えていった。
(これは……まさか……)
見れば、その壁の一つ一つに縦模様があることに気づく。そして俺はそれを見て、すぐに気づいてしまった。
これは、先程俺が益体のない思考をしていた時の、想像の産物ではないのかということに。
「書庫を管理するロリババア、か。なるほど。君はこういう場所に、こういうイメージを持つんだね。面白いなあ」
隆起の轟音が遠くなったのを見計らったように、足元から声が上がった。
気づけばそこに、一人の少女がいた。ティアより少し下……12、13歳くらいの顔立ちの可愛らしい女の子だ。
上下ともに黒と銀を基調としたシックな衣装だ。しかし、少女の見た目らしくスカートは短めである。
惜しげもなくさらけ出されたその華奢な膝がとても少女らしく、全体的にちんまりとしたその姿に、庇護欲を誘われて何とも微笑ましい気持ちにさせられてしまう。
亜麻色のウェーブがかった長い髪が、高い位置で大きな∞の形をした銀色のリボンで太く結われているのも可愛らしい。
その見事なポニーテールをゆらゆらと手の上で遊ばせながら、彼女は楽しそうに体を揺らす。
「へえ。へえ。いいなあ。気に入ったなあ。誰かに定義されるっていうのも、なかなか悪くないもんだね」
自分の体を確かめるようにくるくると回り、ご満悦そうだ。スカートをはためかせて踊るようなステップを踏むその様は、俺が向こうで見てきた数々のアイドルと比べても遜色なく……。
しばし現状を忘れ、その姿に見入ってしまった。
「ん~?」
と、そうして俺に見られていることに気づいたやつが、そこで何かを思いついたような顔をする。
俺の顔を見てにやあ、と意地悪そうな笑みを見せたかと思うと、くるりと回って1回転。ついでにウインクをしてから俺に向かって手を伸ばした。
「僕達と繋がって、一つになろうよ」
眩しい笑顔で、やつはそう言ってのけた。そのふいうちに、俺は思わずみぞおちを打たれたようにぐふっ、と唸ってしまった。
素晴らしい動きだ。圧倒的にわかっている。これはついさっきエクレアが俺にして見せたあのウインクの、さらに上、最上位系のものと言っていいかもしれない。
自分が可愛いことを知っていて、どうすれば可愛く見えるかを熟知している者ができる、ドルオタ泣かせのアイドルムーブ。久しぶりに間近で食らうことができてちょっと嬉しい。
と、そんなことを思ってしまってから、しかし俺ははたと自分の状況を思い出し、ぶんぶんと頭を振ってその煩悩を散らした。
(アホか俺は。こんなことしてる場合じゃないだろ)
先程記憶が戻ってから、俺の中の焦燥感がどんどんと膨らみ始めている。
元の世界にいた時の俺なら、間違いなくこのままこいつと戯れることを選ぶだろう。しかし今は、そんなことをしている場合じゃない。
「おやおや、何だか焦ってるみたいだね。せっかくサービスしてあげたのに」
と、ぶすっと頬を膨らませたかと思うと、直後にまた悪戯っぽく笑う。
ぐっ。正直俺好みの小悪魔系だが、こいつとこれ以上戯れている時間はない。早々に戻らないと、皆が危ない。
「うん。まあ危ないと言えば危ないね。君の体もあの場所にあるままだし」
「俺の体?」
こいつが俺の心を読むのはもう当然として流し、聞いた。するとこいつは、聞き捨てならない事を口にした。
「ここは言ってみれば君と僕達が作り出した精神世界だからね。君はただ、気を失ってあの場に倒れているだけなのさ。つまり早く帰らないと、たぶん黒竜にやられて死ぬよ」
「ホワッツ!?」
マジかよ! 何か変な空間に飛ばされたのかと思ってたら、そっち系かよ!
俺の意思がまだ生きてるってことはまだ体も無事なんだろうが、次の瞬間にはどうなるかわからない。あの爪に裂かれたら出血多量で死ぬだろうし、エレナがやられたような尻尾薙ぎ払いが来てもたぶんお陀仏だろう。早く戻らないとまずい。
「お、おい! 今すぐ俺を元の場所に……!」
と、浮足立った俺がやつに迫ろうとすると、しかし突然やつの姿が目の前から消え、
「まあ、落ち着きなよ樹君」
いきなり音もなく俺の真横に現れて、やつは俺を諭した。
「君がただ戻ってもどうにもならないんじゃないかなあ。君の唯一の武力と言える外法魔術は不完全なものだし、たぶん黒竜には通じないと思うよ。ダメージは与えられるかもしれないけど、君、その後全く動けなくなるし、危ないよね」
ゆっくりと俺の後ろに向かって歩きながら、そうしてやつは俺よりも冷静で、かつ正確な分析をしてみせる。
「ちなみに今無事なのはティアッツェちゃんだけだけど、彼女の魔法も威力が足らなくて攻めあぐねているみたい。エレナもエクレアちゃんも気絶してるみたいだし、なかなか絶望的な状況だねえ。まあつまるところ……」
何がおかしいのかくすくすと笑いつつ、やつは意地悪そうな目つきで俺を見た。
「この状況でただ戻っても、君にできることはない」
ふいに声の温度が下がり、その冷たい声音が俺の心を深く抉った。
自分でわかってはいたが、こうして言葉にされるとかなりクるものがある。元の世界でも自堕落な生活を続けていただけで、誰かに頼りにされたことなんてほとんどないのだ。そんな俺が異世界に来たところで、何が変わるというものでもない。
(わかってるよ……そんなことは……)
だけど、それでいいのか? 力がないからって、今の俺には何もできないからって、それで諦めていいはずがない。死んでいたはずの命を女王様にもらってそれじゃあ、彼女に顔向けできないじゃないか。
「ふふ、何だかいろいろ考えてるみたいだね。効果てきめんって感じかな?」
と、また小悪魔めいた笑みを浮かべると、やつは後ろ手にゆっくりと歩いて俺の隣に立ち、
「よかったら、教えてあげようか。どうしたらいいのか」
ささやくようにそう耳打ちされ、俺は思わずやつの顔を見返してしまった。
「あるのか? この状況で俺にできることが」
「あるよ。うまくいけば、たぶん皆死なずにすむかも」
それを聞いて、俺は反射的にやつの肩をがしりと掴んでしまった。
「教えてくれ! どうする? どうすれば皆助かる!?」
「まあまあ落ち着いて。もちろん教えてあげるのは構わないさ。でも、本当にいいのかい?」
「何がだ?」
そう聞くと、やつがまた俺の前からぱっと消える。
すぐに左横に現れると、また後ろに手を組みながら俺を横目で見る。
「僕達から知識を得るってことは、僕達とより繋がるってこと」
「あん?」
「それはつまり、瘴気とより深く繋がるってことだよ? 君はそれでもいいのかい?」
「は? 瘴気?」
と、俺がそう答えた瞬間、突然それは起こった。
右の耳元で、赤ん坊の声がした。
同時に左の耳元で若い、しかし怖気の走るような冷たさを持った女性のささやき声がした。
それを皮切りに、足元からこちらを罵倒するような大勢の声が響き、上からは地獄の怨嗟の声のような呻き、唸りが俺を押し潰すように降る。
怒り、恐怖、嫌悪、軽蔑、嫉妬、期待、絶望。ありとあらゆる負の感情が体に直接入って来て、激しく頭の中と内臓をかき乱す。あの黒竜の炎を食らった時と全く同じだ。
「あ……うぁ……」
世界がぐるぐると回り、なぜか壁にぶつかって鼻を打った。
あまりの吐き気に呻いていると、頭の上の方でパチンと音がした。すると、あれだけうるさかった人間達の声がパタリと止む。
「ぶぇ?」
それにともない、霧が晴れたようにさーっと頭がクリアになる。いつの間にか自分が地面に突っ伏していることにも、そこで気づいた。
ぺっぺっとツバを吐きつつ立ち上がると、やつが目の前で得意そうな顔で立っていてぎょっとした。
「これでわかったかな?」
俺の鼻をこつんと小突くと、やつは言った。
「僕達は瘴気。瘴気そのもの。僕達と繋がる覚悟、君にはあるのかい?」
虹色の瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いた。
思いの外距離が近く、一言一句を紡ぐ度に蠱惑的に濡れ光るその唇にどうしても目を奪われてしまう。
恐ろしく綺麗な顔と、その超然とした光を帯びる瞳と、態度。改めてこいつを見てみて、俺は思った。
やっぱりこいつは普通じゃない。今はっきりとわかった。今は人間みたいな形をしているが、確実にこいつは人間以外の何かだ。
「瘴気……って言ったか? 俺は瘴気の中にいるのか? お前は、本当に瘴気なのか?」
「うん」
「さっきの……あの頭が痛くなる大勢の声は何なんだ。お前が操ってるのか?」
そう聞くと、やつは一歩下がりつつくるりと回転し、小首を傾げつつ言った。
「それは質問かな? 答えてもいいのかい?」
「む?」
「さっき言ったでしょ? 僕達から知識を得るってことは、より僕達と繋がるってことだって。君がよければ全然答えるけど、いいのかい?」
と、やつはまた俺に言ったが、俺にはそこがよくわからない。何をそんなに確認する必要があるのだろうか。
「いや、さっきから何なんだよそれは。お前達と繋がるってのは、何がどうなるんだ?」
「──それは、質問かな?」
やつのそれに、ついに俺は盛大にため息をこぼしてしまった。
マジで何なんだ。そんなに瘴気と繋がるってやばいことなのか?
まあこっちの世界では瘴気は悪いものとして認識されているから、そんなものと軽々しく“繋がる”ってのは、あまりよろしくないことではあるんだろう。悪いものでなければ、女王様がわざわざ魔法障壁などというものを使って人が住む場所に瘴気が入らないようにするなんてこともしないはずだ。
とは言え……。
「お前から黒竜攻略を聞くってのもその範疇に入るって意味なんだろうが、実際聞かないって選択肢はないわな」
だって知識なさ過ぎて何も思いつかないし。身体能力お化けのエレナでさえやられ、エクレアの防御魔法みたいなのも突破され、ティアの魔法も効果が薄い。普通に無理でしょ、こんなん。
そう言ってやると、やつは嬉しそうに笑った。
「じゃあ……いいんだね?」
「ああ、頼む」
正直得体が知れなさ過ぎて怖いという気持ちもある。リスクとリターンが合っているのかどうかも全くわからない。しかし、どうせあと何日かで死んでしまうかもしれない俺はともかく、彼女達を死なす訳にはいかない。俺にやれることがあるならやるべきだ。
その緊張も伝わってしまったのか、やつは困ったように眉をひそめつつ、ふっ、と笑んだ。
「まあそんなに心配する必要もないよ。今はね」
「その意味深な言い回しはすげえ気になるが……まあいい。教えてくれ。俺はどうすればいい」
するとやつは俺から一歩離れ、こほんと一つ咳払い。それから、ゆっくりと口を開いた。
「それではお教えしましょう。織部樹君、君は誰かの存在を忘れているね?」
「え? 誰かの存在?」
そんな人いるか? エレナに、エクレアに、ティア。後はあの鎧男のリーダーだろ? 一緒にいた人は全員やられちゃってるよな?
訝しむ俺をよそに、やつは言った。
「その人の力を借りるといい。きっとどうにかなると思うよ」
「いや、そう言われてももう誰もいないんだが。誰なのかきっちり教えてくれ」
「え~? もうほとんど答えみたいなものだよ。そんなに僕達と繋がりたいの? それなら教えてあげてもいいけど」
「あ、やっぱいいです」
こういうヒント形式ならわりかし大丈夫ってことか? って言うかさっきから普通に外の様子とか教えてもらってるのに、ここは伏せ気味なのかよ。どういう基準なんだよ。
と、そう思ってみたものの、やつはニコリと思わせぶりな笑顔を見せるのみで、それに答えることはなかった。
「……さて、そろそろお別れかな」
少し寂しそうにそう言いつつ、やつはまた俺の前にトコトコと歩いて来た。
「外の人が来るのは久しぶりだったから楽しかったよ。よかったらまた来てくれると嬉しいな」
「いや、それはまた瘴気に飲まれろってことか? あれマジきついから嫌なんだが」
「え~まあそう言わずにさあ~」
と、意外にもやつは本当に寂しそうにそう言った。何だか小さい頃の妹を見ているようで、ついついフォローを入れたい気持ちにさせられてしまう。
「……まあ、俺も久々にアイドルっぽい可愛い女の子見れたし、正直マジでしんどいからなるべく御免被りたいけど、また今回みたいにどうしようもない感じの形でだったら……来てやってもいい、かな」
そう言うと、やつはその少女の姿らしくぱっと顔を明るくさせた。
「本当かい? 約束だよ?」
「お、おう」
その素直な反応にちょっと面食らいながらも返事をすると、今度ははっきりと笑いかけられた。
それからやつはなぜか俺の胸に手のひらを置き、言った。
「じゃあ、約束してくれたお礼にいいものあげる」
俺の胸から腹を撫でながら、何やら念じる。腹の辺りは特に念入りにさすさす撫でる。
「──よし。これで君は、どんな攻撃にも耐えられるようになった。たとえ黒竜の一撃をもらったとしても、一回だけなら耐えられると思うよ」
「マジで?」
「マジさ。と言っても、僕達と自分自身を信じる必要があるけどね」
「何だそりゃ」
「自分はこの攻撃に絶対耐えられるんだって思うことが大事なのさ。それくらいは頑張ればできるよね? 問題は僕達のことを信じられるかってことだけど……」
そこでやつは、少し不安そうな顔で俺を見上げた。
心なしか、その目は潤んでいるように見えた。狙っているのかどうかはわからないが、完璧な上目遣いである。
「うっ……。まあ、そうだな……」
その視線から逃れるように何とか身を捩り、俺は思考した。
はっきり言って、こいつは得体の知れない存在だ。しかしだからこそ信じられるということもある。これだけ不思議な存在なのだ。そういう能力があっても全くおかしくない。
それにまた来てくれなんて言うってことは、少しは俺を気に入っているんだろう。こんなところで意味もなく嘘は吐くまい。
「ふふ。なかなか豪胆だねえ」
またも俺の考えを読んだのか、そんなことを言いながらも、やつはご満悦な笑顔であった。
いい加減俺だけ心を読まれるのは納得いかんなあと文句を言おうとすると、やつがそれを遮るように続ける。
「……時間だね」
ぽつりとそう言うと、やつはパチンとまた小気味のいい音を指で鳴らした。
「うぇ?」
すると、ふいに足元の感覚が沼のように頼りなくなり、そのまま足がずぶずぶと沈んでいく。
足を引き出そうにも、まとわりつく泥のようなものが重くて全く足が上がらない。
臀部、腹、胸がどんどんと飲み込まれていき、またたく間に首まで沈む。
「ちょ、ちょっと!?」
と、恐怖から縋るようにやつに視線を送ってしまったが、それ以上俺の口から言葉が出ることはなかった。
完全に沈む前。やつが俺に最後に見せたやつの表情が、まるでどこかに置き去りにされた子供のように寂しげだったのだ。
「またね、樹君──」
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