第23話「黒い影」

 その後、またしばらく森の中を歩いた。

 鎧男のリーダーが自分から斥候を名乗り出たので任せているが、めぼしい痕跡はまだ見つかっていない。


 一人残らず帰還していないという話なので、何らかの事故、もしくはブビードゥのような魔物の襲撃を受けているのは間違いない。ここはきっちり警戒しながら進んで行きたいところである。


 そんな中。俺の少し前を歩くエレナが、ふとこんなことを言った。


「あの野郎、てんでダメだぜ」


 その後ろを歩く俺とエクレアは、その言葉に顔を見合わせた。

 

「ダメって、何が?」


 エクレアがそう聞くと、彼女は少し鬱陶しそうに低木をかき分けつつ言った。


「でかい口叩いた割には全然なってねえ、ってことだよ。あんな歩き方じゃ魔物にふいうち食らって終わりだろ。まあ予想通りだけどよ」


 と、彼女はなぜか嬉しそうにそうクヒヒと笑った。

 その笑みに不穏なものを感じたがひとまず流し、今度は俺が彼女に聞いた。


「でもあの人だけ戦っても無事だったんだよね? だったらそこそこ戦える人なんじゃないの?」


 そう言うと、彼女はああん? とお決まりのチンピラアンサーをしつつ振り返る。


「おいおいマジで言ってんのか? お前、貴族の導師を買って出た割には頭わりいなあ」


 そうしてこちらにチンピラフェイスを向けつつも、彼女はすぐに再び前を見た。

 どうやらしっかりと周囲を警戒しているようだ。頼もしい限りだが、耳がピクピクとしているのだけがちょっと可愛らしい。


「無事っつっても、部下を囮にしながら後ろでちまちまやってただけだぜ。そもそも警ら隊に入れないって時点で戦闘力はお察しだろ。冒険者で言ったらあいつらの階級はせいぜい中級下位がいいところだ」


 ほお、そうなのか。俺は実際彼らが戦うところを見てないので何とも言えないが、エレナがそう言うならそうなんだろう。となると、エレナの方の階級はそれ以上ということになるのだろうか。

 ちょっと聞いてみたいと思ったが、その前にエレナが続けた。


「わざわざ冒険者を募集してたのもそういうことだろ。要するに、雇用主からも信用されてねえんだよ。あいつらだけじゃ解決できなさそうだから、仕方なく冒険者を雇わせたんだ。じゃなきゃあのプライドの高いゼノンの野郎が冒険者なんか使わねえよ」


「ほ、ほほお、なるほど……」


 俺異世界から来たからそういう事情知らんのよ……とは言わず、とりあえずわかったふりをしておく。

 どうやらエレナは意外と考えられる人物らしい。ただの脳筋かと思っていたが、結構頭も回るようだ。


 と、ちょっと見直しつつその後姿を眺めていたのだが、エレナが次に言った言葉で、俺は即その考えを改めることとなった。

 エレナが、しみじみとした声音で言った。


「楽しみだよなあ。ゼノンの警ら隊は全員上級冒険者レベルのやつで固められてたって話だから、さっきのブビードゥなんか目じゃねえはずだ。それが全員もれなく帰ってこねえってのはもう尋常じゃねえ。絶対やべえもんに遭ったってことだろ。一体どんなやつなんだろうなあ……」


 独り言のようにそんなことを言いつつ、彼女はまた耐えられんとばかりにクヒッと笑いをこぼした。

 ダメだこいつ。早く何とかしないと……。

 薄々気づいてはいたのだが、どうやらエレナはその辺りの全ての事情をわかった上で、あえてこの依頼を受けたということらしい。もう完全に戦闘狂の考えそのものである。


 正直そんな人のそばにいたくはない。でもホントにそんなやばいやつがいるんなら、なるべく近くにいないとそれはそれで危ない訳で。


 あれ? もしかしてこれ詰みつつあるのか? やっぱり無理にでも引き返すことを提案するべきだったか。まあティアは俺より全然強いし彼女の安全に関しては問題なさそうだが、いかんせん俺の安全の方が……。


 と、そんなことを考えつつ唸っていると、ふと、後ろからトントン肩を叩かれた。


「ん? エクレア? どしたの?」


「いやあ、ちょっとゴタゴタして渡しそびれちゃったから、今のうちにと思ってさ」


 そう言うと、彼女は自分の首に手を回した。


「ほら。これあげる」


 差し出されたのは、あのヒスイっぽい石で作られた首飾りだ。 


「え、いいの?」


「うん。もうどっぷり仕事中って感じだし、今更帰るなんて言わないでしょ?」


「ああ、まあ、そうだね。じゃあもらっとこうかな。ありがとう」


 差し出した手のひらに置かれたそれは、不思議なことに見た目よりもだいぶ軽かった。まるで軽石みたいな重さだ。

 しかしわざわざこのタイミングで渡すって盛大にフラグな気がするんだが大丈夫かね。何か変なの出て来ないといいんだけど……。


 と、ビクビクしつつもそれを早速着けてみる俺に、エクレアが言った。


「どう?」


「あーうん。特に何も起こらないみたいだけど……」


 あ、しまった。これ普通に着けちゃったらまずいんじゃ。呪いを無効化する魔法とかがあったら、エクレアが着けてるからって大丈夫だとは限らないじゃないか。


「…………」


 と思ったが、少ししても特に問題なし。

 遅れて効果が出る可能性もあるし安心はできないが、着けたり外したりはできるので一応大丈夫そうだ。


「まだわかんないから後でいろいろ試してみるよ。ありがとう」


「うん。あたしだと思って大事にしてね!」


 なーんてね、とVサインを横にしてバチコンウインク。星が舞いそうな程のめちゃかわキメ顔である。仮に俺がやったら周りからタコ殴りにされるだろうが、可愛い女の子がやると破壊力がすごい。いや可愛過ぎるだろ。正直マジで結婚したい。


 このまま全部忘れてエクレアとイチャイチャしていたいと思ったが、しかし唐突にその貴重な時間は終わりを告げた。

 鎧男のリーダーが、どこかから俺達に向けて声を上げた。


「おい貴様ら! 足跡を見つけたぞ! こっちへ来い!」


 そのあくまでも偉そうな物言いに、俺とエクレアは顔を見合わせて苦笑い。

 鎧男は仕事仲間というだけであって上司ではないと思うんだが、彼からするとやはり下賤な冒険者は問答無用で部下ということになってしまうのだろうか。


 困ったもんだと思いつつ、俺は頭をかいた。


「お仕事の時間か……」


「まあ前金ちょっともらっちゃってるし、しょうがないね」


 そうして二人で少しぼやいてから、俺達はその声がした方へと向かった。







 少し歩くと、こちらに背を向けながら何かを見下ろしているリーダーがすぐに見つかった。


「遅い。何をしていた」


 すぐに来たはずなのだが、リーダーは開口一番そう言って不機嫌そうに鼻息を吐く。


「あ、すいません。足跡を見つけたって聞こえたんですけど……あったんです?」 


 めんどくさいやつだと思いながらも適当に謝り、すぐに本題の話を振る。すると、リーダーはこちらをジロリとにらみつつも俺の質問に答えた。


「この下だ。見ろ。洞窟があるだろう。足跡はあそこへ向かっている」


 言われてリーダーに並ぶと、確かに10数メートル程下に洞窟のようなものがある。

 すり鉢状の地形になっているので下りることはできそうだが、結構骨が折れそうだ。


「何であんなところに?」


 自然と出てしまった疑問だが、リーダーがそれに律儀に答えてくれた。


「さあな。何かを見つけたのかも知れないし、あるいはただ何らかの理由で動けなくなって雨風をしのぐために向かったのかもしれん。いずれにせよ、彼らがあの中にいる可能性は高い」


 そう言うと、彼は一歩前へと踏み出し、俺達全員を見渡してから言った。


「まずは私が行って様子をうかがって来る! 中を確認したら合図をするから、その後に合流しろ! いいな!」

 

 先に行ってくれるんなら全く文句はないので、わかりましたと首肯。エクレアは眉を上げ、ティアは不満そうに頬を膨らまし、エレナは腰に手を当てながらへっ、と嘲笑めいた息を吐く。

 三者三様。君達ほんと自由だね……。


 しかし隊が崩壊したことに責任を感じているのか、なかなか仕事熱心だな。わざわざ危険な斥候を率先してやってくれるとは正直思っていなかった。これは俺の中の彼の人物像を書き直さなければならないかもしれない。


 と、そんなことを考えながら彼の合図を待とうと思っていた俺だったが、そこで問題発生。

 彼がちょうど洞窟に入ったのを見てから、なぜかエレナが崖を下り始めたのである。


「えっ」


 突如自由な行動を始めるエレナに、俺は呆けた声を上げてしまった。


「ちょちょちょ。まだ合図来てないし行くのは早いんじゃ……?」


 そう言うと、もう結構下まで下りてしまった彼女がまたああん? とこちらに首を捻った。


「てめえはお人好しか。ここで黙って待っててもしょうがねえだろ」


 すると、今度はエクレアも前に出て来てそれに賛同する。


「あたしもそう思うかな~。このまま待っててもたぶんいいことにはならないよね」


 ほお、この二人の意見が合うのか。これは意外だな。

 その心は? と視線で問えば、エレナがめんどくさそうにしながらも答えてくれた。


「あいつはよぉ、手柄全取りする気なんだよ。ずっと斥候をやってるのはそういうこったろ」


「そうそう。もしあの洞窟に警ら隊の人達がいたら、あの人はあっちと合流してあたし達はいなかったことにされちゃうだろうね。そしたら当然報酬も……ってこと。ギルドを通した仕事じゃないからねえ今回は」


「あ、そうか」


 なるほど。確かにそれはこのまま行かすのはよくないな。報酬が保証されてないことをすっかり忘れていた。

 やはり異世界。油断ならんな。


 まあぶっちゃけ安全の方が大事だから報酬は割とどうでもいいんだが、いかんせん……ほら、ティアがすごい目をキラキラさせてる。こうなったら俺には止められないよねえこれ……。


 意見が一致したと見るや、女性陣は即座に洞窟に向かって進み出した。


「いっちばーん!」


 先頭はエクレアだ。次にふんすと鼻息を荒くしたティアが続き、エレナは意外にもその後だ。

 何でだと思っていたら、彼女はまたあの好戦的な笑みを浮かべながら、何やら悦に入っているのだった。


「くひひ……くせえ、くせえぞ。あそこはくせえ……」 


 またも不穏なことをつぶやきつつ、漏れ出る笑いを抑えきれないといった体で口元を右手で覆う。


 何ぞゴミ捨て場でもあるんか? と馬鹿みたいな希望的観測を問おうとするも、彼女はクヒクヒ笑いながらさっさと下りていってしまった。

 嫌だなあ……この人野生の勘とかすごそうだからマジで何かありそうなんだが……。


 と、そんなふうに不安になりつつも、わたわたしながら崖を下りていく。

 すり鉢状になっているとは言っても、その一段が結構高くて下りるのがしんどい。それでもひいひい言いながら何とか下りきり、先に行ってしまった3人を追って洞窟に入った。


「はあ……はあ……」


 おかしいな。何かやけに疲れる。こっちの世界に来てから結構動けるデブになってたはずなんだがな。まあこんなボルダリングみたいな全身運動は初めてだったからしょうがないと言えばしょうがない、か?


 そうして膝に手をつきつつうなだれていると、俺はふと、目の端に妙なものを捉えた。


「……ん?」


 この世界に来てからはついぞ見ることはなかったアレが、なぜか無造作に通路の端に落ちていた。

 赤いフタに、上に行く程に細くなっている透明な容器。現代人にはもはや欠かせなくなった文明の利器、ペットボトルである。


(何でこんなもんがここに?)


 見た感じ1.5リットルか2リットルのやつだろうか。少し大きめのものだ。中には何も入っていない。

 不思議に思いながらそれを観察していると、ふいに後ろから声を掛けられた。


「あれ? タツキ、大丈夫?」


 振り向いてみると、エクレアだ。どうやら心配で見に来てくれたらしい。


「あ、エクレア。うん。大丈夫。ちょっと疲れただけだから」


 とりあえず今は皆と合流することが先決と思い、さっとそのボトルを拾ってリュックに入れた。


 と、そうして俺がエクレアの前に立ったその瞬間だった。 

 突如洞窟の奥から、耳をつんざく甲高い咆哮が上がった。


「シギャアアアアアアアアアア!!」


 反響のせいもあって、まるで地響きが起こったかのように、洞窟全体が大きく揺れた。

 思わずすがるようにエクレアを見てしまった。が、彼女はただ今まで見たことがない程深刻そうに顔全体を歪め、洞窟の奥を振り返るのみだった。優しい彼女にしては珍しく、こちらを気遣う余裕がないように見えた。


「い……まのは……」


 何かがいる。何かとんでもないものが、奥に潜んでいる。

 ただ情けなくもそこに立ち尽くす俺に対し、しかし彼女はさすがだった。エクレアは少しの間咆哮の聞こえた奥を見つめていたが、突然弾かれたように走り出す。そのままあっという間に、洞窟の暗がりの中へと消えてしまった。


「…………」


 正直、足が重い。俺が行ってもどうにかなるものではない可能性の方が全然高い。

 でも女の子が危険に突っ込んで行ってるのに、大の男である俺だけが逃げる選択肢はさすがになかろう。


 未だ残響の残る洞窟内を、俺は駆けた。進む程に空気が重くなった気がして息苦しくなったが、それでも駆けた。

 不思議なことに、そうしてどんどんと奥に進んでも、何とか前は見える程の明るさが保たれていた。頬に風の流れを感じるので、もしかしたら外に繋がっているのかもしれない。


 前方から、岩が崩れるような音が響いた。

 近い、と、そう思った時、前方に一人の人物を発見する。

 エクレアが、何やらこちらに背を向け、棒立ちでそこに立っていた。  


「……?」


 また彼女にしては珍しく、何の警戒心も感じられない本当の棒立ちである。何かを呆然と見上げているように見える。

 駆け寄って並んでみたが、彼女はこちらを見向きもしない。ただ前方の何かに、ずっと気を取られている。

 どうやら結構な広さの広場のようだが、俺にはただの行き止まりのようにしか見えなかった。


 さらに周りを見渡してみたが、なぜかエレナの姿はない。ティアは……。


「──っ」


 いた。俺達から少し離れたところで、エクレアと同じく広場の中央の方を見ている。

 しかしその表情がエクレアとは全く違って、俺はその顔を見て喉をひきつらせてしまった。


 激情、という言葉が一番似合うだろうか。

 ギリギリと音がしそうな程に歯噛みし、見開かれた双眸に先程までの光はない。その瞳は、ただ怒りの色に濡れていた。まるで親の仇でも見るかのようだ。


「ね、ねえ、二人ともどうした…………の」


 と、再び彼女達と同じようにそこを見上げた時、俺は言葉を失った。

 最初は壁だと思った。でも、違ったのだ。

 抜けた天井から下りる薄明かりが、その得体の知れない巨大な何かの輪郭を、ゆっくりと浮かび上がらせた。


 最初に認識できたのは、その大きな口だった。ふしゅ、と鼻息のような音がしたかと思うと、ワニのような形をしたその巨大な口がいくらか開き、意外と綺麗な並びをした大きな牙が垣間見えた。


 ここはこいつの巣か何かなのだろうか。わからないが、何にせよ驚くべきは、50メートル四方はあるだろうその広間の半分を、そいつの翼が埋めていることだった。

 テレビでこんな牙をした生物は見たことがあるが、スケール感がおかし過ぎる。少なくとも俺の辞書には、こんな大きさをした陸上生物は存在しない。


 低い唸り声とともに、そいつがゆらりと一歩歩み出た。すると、思わず寒気がする程の鋭い爪を擁した腕と足が顕になる。

 硬そうな黒い鱗に覆われたその腕と足の筋肉が、艶かしく蠢いていた。


「…………こひゅ」


 黒く濁った大きな瞳がこちらを見ると、しゃっくりの出来損ないみたいなひきつった妙な吐息が漏れ出た。


 まだ何をされた訳でもないのに、世の凶兆を凝縮したかのようなその漆黒の姿に、楔を打たれたように四肢が動かなかった。

 小刻みに全身が震え、肌が総毛立つ。極度の緊張状態を強いられたせいか、口の中が乾いて喉奥がはりつく。


 まさか本物を拝む日が来るとは思わなかった。

 絶句が続くふがいない俺の代わりに、エクレアが、ぽつりと呟くように言った。


「黒竜……」


 そう。そうだ。彼女がそうして言葉にしてくれた今でも信じ切れないが、そうなのだ。

 竜である。ドラゴンである。ファンタジーモンスターの代表格で、その中でも最もやばそうなやつが、今間違いなく目の前にいる。


「障壁は越えられないはずなのに……何で」


 と、力なくエクレアが言った時、ふと、その竜の視線が下がった。


「キ、キサマら……」 


 見ればその足元には、彼がいた。

 腰を抜かしてしまったのか、鎧男のリーダーがそこにへたり込んでいたのである。


「何をぼーっとしている! さっさと……さっさと前に立って私を守らんかぁ!!」


 錯乱しているのか、彼は俺達に向けて裏返った声でそう叫んだ。

 それもそのはず。彼はこいつから何らかの攻撃を受けてしまったのか、すでにボロボロだった。


 着ている鎧は至るところがへこんでいて、細部が欠けてしまっていた。かぶっていたはずの兜はどこかへと行き、倒れながらも竜に向かって必死に突きつけている剣も、ぽっきりと折れてしまっている。きちんと整髪されていただろう髪もぐちゃぐちゃに振り乱し、彼はしきりに俺達に助けを求めた。


「は、早くしろ! 早く……早く私を……」


 そんな彼を、竜がギロリと見下ろした。

 グロロロ……と吐息なのか鳴き声なのかわからない何かを漏らす。そして、おもむろにその逞しい左腕を振り上げた。

 

「──危ない!!」


 ただ呆けてその様子を見ていた俺は、彼女のその声にハッと我に返った。


「あ……ああ……あ……」


 気づけばエクレアが、リーダーと竜の間に割って入っていた。

 まるで一本の曲刀のような竜の爪を、エクレアはナイフのようなもので見事に彼からそらしていた。

 リーダーの下に水たまりができていく。どうやら失禁してしまったようだ。


「早く! 下がって!!」


「ひ、ひいいいいいい!」


 ようやく動けるようになったのか、彼はゴキブリのような動きで俺の足元にまで後ずさる。

 そのせいで、竜の視線がこちらに向いてしまった。

 あ、これ詰んだ。そう思った時、突然暗がりにあった瓦礫が爆ぜた。


「ああああああああああああ!!」


 裂帛の気合というのはこういうものを言うのだろうか。そうして魂の限りの叫び声を上げながら現れたのは、エレナだった。

 衣服がぼろぼろになりながらも、彼女自体はまだピンピンとしていて特にダメージはないようだ。彼女はその叫んだ勢いのままに走り出し、そのまま竜に飛びかかった。


 竜はその図体のせいか、やはり少し緩慢な動きだ。彼女のその爆発的なスピードについて行けず、体を彼女に向けきることができない。

 エレナの双剣が竜の喉元に届く。そう思った時、しかしその寸前で、急に彼女の体ががくっと地面へと落ちた。


 竜の動きは鈍く思えたが、代わりにムチのようにしなやかな尻尾が、彼女の斜め上から鋭く打ちつけられたのである。


「──っしいいい!!」


 彼女の足が地面へとめりこむ。しかし彼女はその攻撃を予見していたのか、恐るべき膂力をもってしっかりと双剣で受け止めていた。


 離れていても、ギリギリと刃と竜の鱗が擦れる音が聞こえた。

 質量の差からいって明らかにおかしな絵だが、どうやら少なくともその尻尾とだけなら、エレナと竜の力は拮抗しているようだ。


「おおおおお!!」


 エレナが尻尾を跳ね上げる。すかさず擦り上げるように尻尾を切り裂こうとするが、刃は鱗の上を滑るのみで通らない。

 竜の方も再び尻尾でエレナを打ちつけようとするが、踊るようなステップで動く彼女を捉えることができず。どうやら両者ともに決め手に欠けているようだ。


「──ダメ!!」


 しかし、なぜかそこでエクレアが切羽詰まった声を上げる。

 尻尾でエレナに攻撃を繰り返しながら、竜が大きく口を開けた。

 この動きですることと言ったら、一つしかない。しかし尻尾に気を取られているエレナはこの動きに気づかず……。

 突如上から降り注ぐ黒い炎が、エレナの全身を包んだ。


「うっ……!」


 完全に虚を突かれた形となってモロに食らってしまったエレナだが、しかしなぜか彼女の体は焼かれているなどということはなく、特に何も変化がない。

 彼女も不思議そうにしていたが、再び彼女が竜に向かって構えを取ったその瞬間、異変が起こった。


「ぐっ……あああああああああああああ!!」


 突如エレナが苦しそうな声を上げた。

 両手で頭を抑えながら髪を振り乱し、正体をなくしたようにたたらを踏む。

 その好機を逃すはずもなく、竜がエレナを尻尾で薙ぎ払った。


「がっ……!」


 為すすべなく吹き飛ばされたエレナは凄まじい速度で壁に打ちつけられ、そのまま崩れた瓦礫の下敷きになってしまった。

 竜は少しの間その場所を見つめていたが、動きがないことを確認すると、低い唸り声を上げた。


「グルルル……」


 そして再び、竜がこちらを向いた。

 逃げなければと、そのことだけが頭を支配する。しかし依然として体は全く動かない。

 動け。動け! 頼むから動いてくれ。このままだとマジで、本当に、死……。


 竜の口が、また大きく開いた。


「伏せて!」


 現実感のないのぼせた頭に、エクレアの幾分裏返った必死な叫びが響き渡った。

 その声がトリガーとなったか、足にいくらか力が戻る。とっさにしゃがんで身をかがめた。


「たゆたう無垢の者達よ……」


 エクレアは何か魔法のようなものを唱えながら、俺の方に猛然と走って来た。そしてその勢いのまま、俺の前で反転。両手を前に出しつつ、竜に向いた。


「我が血を贄、我が心意を縁とし、その大いなる無間滂沱の一端を借る! 顕現せよ! ヴァルナ・ローア!!」 

 

 彼女がそう叫ぶと、その前の景色が滲んで揺らめく。目を凝らすと、俺達を竜からすっぽりと隠すくらいの、何か円形の膜のようなものができていた。

 その一瞬後に、竜の黒炎が俺達を襲った。


「ぐっ! ううううううう!」 


 炎はその膜、おそらく水みたいなもののおかげで、何とか俺達からそれている。が、やはり見た目のエネルギー量の差が激しく、エクレアは見るからに苦しそうだ。


 エレナがやられた時のように、すぐに炎が止まない。どうも向こうが防がれているのをわかっている感じだ。鎧男のリーダーはその迫力に耐えられなかったのか、いつの間にか泡を吹いて気絶していた。


 エクレアの腕が震え始める。何かできないかと思ったが、威力が安定しない俺の魔法ではかえって逆効果になる可能性もある。仮に洞窟が破壊されるような魔法が起こってしまったらまずい訳で……。


 そうして何もできずにいると、程なくして彼女の限界がやって来てしまった。


「だ、め……!」


 バシャ、とかすかに水音がした。それと同時に膜が壊れ、黒炎が俺達を包んだ。

 瞬間的に身を固くして、何とか防御しようと努める。が、やはりエレナの時と同様にと言うべきなのか、体には何も衝撃が来なかった。


「……?」

 

 恐る恐る防御姿勢を解き、立ち上がって体全体を見回してみたが、やはり体に何も異常はない。ただ突風に巻き込まれたぐらいの感覚でしかなかった。もしかすると、異世界の人間には効かなかったりするのだろうか。


「……っ」


 しかしそう思った時、怖気のようなものが全身に走り、心臓がドクンと大きく一つ跳ねた。

 続けて、訳のわからない言葉の羅列が、頭の中に次々となだれ込んで来た。


「ぐっ……が……」


 それだけなら何とか耐えられそうだったが、そのボリュームがひどい。あまりのうるささ、情報量の多さに頭痛と吐き気がして、膝ががくりと落ちてしまう。

 まるで渋谷の雑踏の声を集約して、それを耳元で拡声器を使って鳴らされたような、強烈な雑音だった。


「ううっ……ああああああああああ!」


 同じように苦しみ出したエクレアに、思わず手を伸ばした。しかし耳が遠くなって、頭が割れそうで、景色が滲んで……。彼女の手を取る前に、ふいに世界が暗転し……。

 

 そのまま俺は、無間の闇に飲まれていった。



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