第21話「デブ氏、誤算」
少し距離があるが、幾分焦りの混じる上ずった声のように聞こえた。緊急事態まではいかないが、そこそこまずい事態が起こったような感じだ。魔物か、それとも野盗でも出たのだろうか。
その声に一番早く反応したのはエレナだった。
休憩中の弛緩した空気の中でも、腰は浮かせていたらしい。カンのいい野生動物のような素早さでその場に立ち、そのままあっという間に声のした方へと走っていった。
さすがは脳筋女戦士。めっちゃ嬉々とした表情で行ったなしかし。
「……俺らも行くべきかな」
一応そう言ってみたが、思っていた通りの答えが返ってくる。
「当然!」
と、エクレアもやる気である。まあエレナが護衛ほっぽって行っちゃったからそばには行かざるを得ないんですけどね。
正直行きたくはないが、一応戦えそうな鎧男達も5、6人はいるわけだから、向こうに行ってもそう危険なことにはならないはずだ。ここは付かず離れずの距離で様子だけでも見に行くべきだろう。
「じゃあティアも一緒に……ってうぉ!?」
と、彼女に視線を送れば、またもや顔をキラキラさせた彼女がいて面食らう。
いつの間にかちゃんと俺があげた杖と魔法使い帽子も装備している。
(ほほお……結構似合ってるじゃん。て言うか、何か最初からこういう姿だったみたいにすごいハマってるな)
いやいやよかった。本人も嬉しそうだし、わざわざ買って来たかいがあるというものである。
「よし、じゃあ行きますか。でもとりあえずは様子見で、不用意に戦闘に参加したりはしないように」
「まあそれが無難かもね~。ティアが怪我でもしたら大変だもんね」
それな。マジでそれ。何せマグナース家全体の彼女への溺愛ぶりがやばいので、たぶん彼女が怪我をした瞬間に俺のクビは飛ぶ。最悪殺されるまである。彼女が勇み足をしないように、きっちり見張っておかなくてはならない。
「じゃあ俺が先導するからティアは後から付いてきて。エクレアはしんがりをよろしく」
「あいあい!」
ティアも頷いてくれたので、とりあえず満場一致である。
フージンは杖を持って片手が塞がったティアの代わりに俺が運ぶこととなった。相変わらずだれているフージンを受け取り、リュックにぶち込んだ。精霊だし、多少乱暴に扱っても大丈夫だろう。まあ大丈夫じゃなくても私は一向に構わんがな!
声がした方向は完全には特定できないが、とりあえずはエレナが向かった方向に行ってみることとする。
現在地は、整備された街道からすこし逸れた場所にある森の中だ。地面はほぼ平らだが、竜車は入れない程度の木の生え具合なので、徒歩で移動するしかない。見晴らしもいいとは言えない。守るべき存在もいる今、ここは慎重に行くべきだろう。
(そこそこ焦った声だったからな。用心するに越したことはない)
と、そろそろとビビリゲーム実況動画みたいな速度で歩を進めていく。すると、遠くの方から何やら音が聞こえ出し、俺は耳を澄ませて音の出所を探った。
土を踏みしめる音と、いくらかの金属音。すでに交戦中のようだ。距離はまだ少し遠く聞こえる。
姿はまだ確認できない。しかししんがりを務めていたはずのエクレアがいつの間にか隣に居て、こんなことを言った。
「あ、ブビードゥだ」
「ブビードゥ?」
「うん。ほら、見えない? あの毛むくじゃらの」
「いや、全く見えないけど」
まだだいぶ距離がありそうな感じなのだが、彼女にははっきりと見えているようだ。
「何? 何か動物? それとも魔物?」
「魔物だね。家畜が瘴気を吸って魔物化しちゃったやつ」
「瘴気?」
つい続けざまに聞き返してしまうと、彼女は目を丸くし、ぷっ、と一つ失笑。
「瘴気はさすがにわかるでしょ? 人や動物が吸ったら毒になる、厄介な霧みたいなやつ。今この国の女王様が頑張って抑えてるあれだよ」
「あ、ああ」
そう言えば最初に王都のギルドに行った時、受付のお姉さんがそんな話をしてたっけな。
確か、女王様が魔法障壁とかいうバリアみたいなものを張っていて、そのおかげで町村周辺に魔物が出ないとか、そんなんだったか。
それのせいで初級冒険者の仕事はなくなっているとも聞いた気がするけど、結局魔物はいるのか。それともたまたまなんだろうか。
そんなことを考えていたら、エクレアがそれを補足するようなことを話してくれた。
「でもおかしいなあ。ここはたぶんまだ女王様の魔法障壁の内側だから、そう簡単に魔物が生まれたりはしないはずなんだけど」
「あ、そうなの? 普通はもっと遠くまで行かないと出ないとか?」
「だねえ。何か見た感じ数も多いし、あんまり考えたくないけど、もしかしたら障壁が弱まってたりするのかも」
「え……。それって結構やばくない?」
「どうだろ。まあ障壁うんぬんはともかくとして、とりあえずブビードゥ自体はそんなに怖くないかな。ただ豚に毛が生えたって感じのやつだから、突進にさえ気をつければ初級冒険者でも狩れるくらいだし。でもちょっと数がなあ……見た感じ最低でも10頭はいそうだし、結構大変かも」
そう言いつつ、彼女は少し困ったように眉をひそめた。
なるほど。何となく状況はわかった。
ブビードゥというのはどうやら豚のような魔物らしい。絶望的な敵ではないようだが、日本でも普通の猪の突進で命を落とす人はいる。気をつけた方がいい相手ということは間違いないだろう。
「ちなみにエクレアって戦える方?」
「う~ん。まあ、ブビードゥ一匹ぐらいだったら全然大丈夫だよ? けど囲まれちゃうとちょっときついかな~」
ふむ。ってことはやっぱりエレナと合流するまではそこそこ慎重に行った方がいいってことだな。
まあエクレアは実力を隠してる可能性もあるから、そんなに悲観することもないな。状況はそこまで悪くないと考えていいだろう。
「よし。じゃあこのまま様子を見つつ、できればエレナと合流しよう。ティアはこのまま後ろに……」
と、彼女に声を掛けようと振り返る。が、俺の口はそのままあんぐりと開いたままとなってしまった。
何と、ついさっきまでいたはずのティアがいない。
(んなばかな……)
あまりのことに、ぶわっと冷や汗が全身から吹き出た。首をぶんぶんさせながら必死に彼女を探したが、いかんせん視界がいいとは言えない森のせいもあって見つからない。
これにはエクレアもかなり驚いたようで、
「何あの子、実は暗殺者なの……?」
と、感心したように目を見張った。
確かに小枝やら石やらあるこの森の中で、俺達に全く気付かれないように完全に気配を断って移動というのは、ちょっと尋常じゃない。何か魔法でも使ったのだろうか。
まあそれはともかくとして、この状況はやばい。エレナと合流どころじゃない。
「ごめんエクレア! 探すの手伝って!」
思わずすがるような声で彼女に言ってしまったが、彼女は嫌な顔一つせずに、
「もちろん!」
と言ってくれた。
ほんといい子ですよね彼女……。もう隠し事とかあってもどうでもよくない? 正直心の嫁だよねもはや。
この世界に来てから彼女に甘えっぱなしな気がするが、今はお言葉に甘えることとする。後でたっぷりお礼しないとな。
「ティアのことは全然関係ないのにごめん……ありがとう」
「いやいや、今は同じ仕事の仲間なんだから助け合うのは当然でしょ。ほら、急いで探そ!」
「そ、そうだね」
「よし! じゃあ早速手分けして探し……」
と、動き出そうとしたまさにその時、ふと、彼女の視線が遠くへと行った。
「──てる場合じゃない、かも?」
彼女がそうして不自然に区切った言葉を継いだその次の瞬間、
「危ない!」
彼女のその声と同時に、俺は思い切り胸を押されて尻餅をついた。
直後、何やら黒い物体が、俺の目の前を凄まじいスピードで駆け抜けて行った。
「な、何!?」
その物体はそのまま真っすぐ直進し、正面にあった木にドカンとぶち当たった。
まるで重機の鉄球でもぶつかったかのような、凄まじい音と衝撃が、辺りに響き渡った。
その圧力に戦慄し、立ち尽くす俺達をあざ笑うかのように、その物体はブルルと低い声で鳴き、ゆっくりと俺達の方を向いた。
体長2、3メートル程もある巨大な猪のような生物だった。
ごわごわとした見るからに剛毛そうな黒い体毛、口元から生える反り返った二本の牙が、その獰猛な気性を容易に想像させる。
対峙しているだけで圧迫感のあるその体からは、オーバーヒートした車のエンジンのように熱そうな湯気が立ち上がっている。今にもこちらに向かってきそうで自然と足が後ずさろうとしてしまうが、下手に動くと相手を刺激しそうでそれすらもできず、プレッシャーで息が詰まりそうになる。
「ちょっとまずいかもねえ……」
隣でそうこぼす彼女の方に首を回すのもためらわれ、俺は目線だけをそちらに向けて言った。
「まずいって、何が……?」
すると、エクレアが一度ゴクリと喉を動かして言う。
「なんか、あたしの知ってるブビードゥじゃないって言うか……」
彼女は腰を落とし、ジリジリと下がりつつ続けた。
「でか過ぎだし、顔が凶悪過ぎ。こんなの見たことない。なんか縮尺もおかしいなあって思ってた……ってちょっ!?」
そうして話しているのが気に食わなかったのか、その猪のような魔物、ブビードゥが突然エクレアに襲いかかった。
ただ動きが直線的で、前もって身構えていたせいもあって大事には至らず。彼女は余裕をもってそれをかわした。
それでも少し体勢は崩してしまい、地面に片手をつきつつ彼女がぼやくように言った。
「落ち着いて話す暇はなさそうだね」
「ど、どうする?」
あんなタックルに当たったらひとたまりもないぞ。血反吐吐きながらそのまま爆散する可能性すらある。
彼女も俺と同じような印象を持ったようだが、紡ぐ次の言葉の歯切れは悪かった。
「まあ、逃げた方がいいよね。……できればだけど」
見れば、ブビードゥはまた先程と同じようにこちらを真っ直ぐに見据えていた。 一時たりとも俺達から視線を外さず、絶対に逃さん、と言わんばかりの鋭い眼光である。このままだとティアを探しに行くどころか、逃げることすらもできなさそうだ。
何か相手の注意をそらせるものでもあれば……。石でも投げてみるか? こんなことならさっきもらった干し肉を食わずに取っておけばよかった。
と、腹をさすりながら後悔したところで、俺ははたと思い出した。
(おいおいアホか俺は。こういう時のためにいろいろ準備して来たんだろ)
今こそエクレアに恩返しをする時! そう思ったら、自然と足が前へと進んだ。
そうして一歩前に出た俺を見てか、エクレアが後ろから不思議そうに言った。
「どうするの?」
「まあ見てて」
あまり悠長に構えている時間はない。すぐにすう、っと息を吸い込み、俺は高らかに叫んだ。
「ダムド!」
すると、つむじ風のような風が地面から湧き出るように起こった。やった。成功だ。
俺が密かに練習していた外法魔術「ダムド」。風で砂を舞い上がらせ、相手の目を潰す魔法である。
「ガルゥァ!?」
場所もきちんと俺が想定した場所、ブビードゥの目の前で起こすことができた。効かなかったらどうしようかと思ったが、ちゃんと嫌がって頭を振っている。正直魔法の効果としてはめちゃくちゃしょぼいが、こんなんでも意外と使いどころはあるのだ。
「よし! 今のうちに!」
ただの目潰しなので当然そんなに時間稼ぎにはならない。早々に離脱せなと、俺は脱兎のごとく走り出した。
そうして全力で走る俺の横に、彼女が涼しい顔をしながら並走した。
「なるほど。君にはそれがあったね」
うまくいった高揚感とプレッシャーからの急な解放で心臓がドキドキして止まらず、すぐに言葉が出なかった。
彼女のそれに、とりあえず俺は黙って首肯で答えた。
「外法魔術、とっさに使うにはやっぱりいいね。でも君ならあれくらいの魔物、あの大岩とかで吹っ飛ばせちゃうんじゃないの~?」
彼女のそれに、さすがに俺は苦笑いでツッコんだ。
「いやいや、あんな大規模なのかましたらこの辺一帯大変なことになっちゃうでしょ! 自然は大切にね!」
なんてことを言ってみるテスト。実際は単純にマナ切れ防止のために撃てないだけである。
外法魔術は諸刃の剣だ。威力の高いものを撃とうと思えばマナを大量に消費する。この数日でいろいろ試した結果、俺にはさっきの目潰し魔法くらいの規模の魔法がちょうどいいことがわかった。ので、もうベアードに使ったようなやばい魔法は封印することに決めたのだ。
(撃てなかないんだけど、こういうしょぼい魔法の方が使い勝手がいいんだよなあ……)
俺の研究結果によると、外法魔術はその魔法発動の速さに利点があるように思えた。
例えば通常の魔法だと、さっきのダムドくらいの魔法でもちゃんとイメージを持って決まった詠唱をしないと全く形にならないらしいので、近接戦闘においては使い勝手が悪い。仮に一対一なら、間を詰められればほぼ終わりである。回避に意識を取られて魔法のイメージを構築するのは難しいだろうし、悠長に詠唱している暇もないからだ。
しかしその点外法魔術なら、ちょっとした魔法を撃つくらいなら適当に決めた魔法名と簡単なイメージを込めるだけでそこそこ形になるのである。これは大きな利点だ。町中なんかで使うのにもちょうどいい規模だし、普段使いには断然あのダムドのような魔法名のみで撃てる魔法がいい。それが俺の結論である。
(まあマナの消費量に目を瞑ればの話だけどな……。あれくらいの小規模魔法でもマナをそこそこ食うのが欠点なんだよなあ……)
ベアードに使った魔法はほぼ一発でマナ切れになったが、さっきの目潰し魔法でも10発行かないうちに体が重くなった。やはり外法魔術は体系化されていない分、魔法の効果とマナの消費量が釣り合っていないのかもしれない。
(俺が単に下手だからって可能性もあるけどな。もっとうまい人がいればいろいろ教えてもらいたいところだけど、使える人全然いないらしいからなあ)
普通の魔法を使える人もそんなに多くないらしいし、まあ難しいだろうな。しばらくは自分で研究していくという形で我慢するしかない。とにかく今回は実戦で使えたということで満足しておくこととしよう。
そこで思考を一区切りして、俺は本題の方へと頭を切り替えた。
「ティアはどこに行ったんだろう」
そうして思考がつい外に出てしまうと、それにエクレアが答えてくれた。
「うーん。まあ普通の女の子なら逃げたのかなあとか思うけど、あの子の場合はね~」
「やっぱり火元に向かっちゃった感じだよね……」
意外な一面を知れたという意味ではよかったが、現状ではマジで最悪な行動である。どうにかして早く探し出さないとまずい。
「よし! こうなったらしょうがない。手分けして探そう!」
「まあ、その方がいいよねえ」
彼女も同じことを考えていたのか、すぐに賛同の声を上げてくれた。
ガチの魔物はかなり迫力があって一人で行動するのは正直ちょっと怖いが、そうも言っていられない。ここはスピード重視。速やかにティアと合流することが最優先だ。
「じゃあとりあえず、エレナが行った方に向かって洗っていくって感じで」
「りょうか~い。じゃああたしは向こうの方に行ってみるね」
「よろしく! 気をつけてね」
「君もね!」
そう言うと、エクレアは俺に微笑を残して走り去った。不安な心に染み渡る彼女の笑顔……。まるで劇場で推しのアイドルと目があった時のように心が温かくなる。
まあたいがい気のせいなんだけどな! でもいいの! ドルオタはそんなん一つでも幸せになれる生き物なの! ほっといて!
……などと脱線している場合ではない。この効力が消えないうちに、さっさと俺も行くとしよう。
街道から離れるごとに、少しづつ森が鬱蒼としてくる。視界はやはりそこまでよくない。影から何かが出てくる可能性も踏まえ、なるべく開けた道を歩いていく。
交戦している音からすると、もうそんなに鎧男達との距離は離れていないはずだ。エクレアの話ではブビードゥは結構な数がいるらしいので、いつかち合ってもおかしくない。ティアが無事でいてくれればいいんだが……。
と、そんなことを考えながら5分程歩いた頃。転ばないように足元を見つつ歩いていたら、一つの痕跡を見つけた。
「血……?」
乾いた地面に色味のおかしいところがあり、何ぞと見れば、赤黒い血が点々とそこかしこに広がっていた。
(おいおいまさかティアの血じゃないよなあ……)
さらによく見ると、その位置に一定の方向性があることに気づく。どうやらこの出血した主は俺の進行方向に向かっている様子だ。
恐る恐るそれをたどっていく。すると……。
「何か急に血が多く……ってうおあ!?」
足元ばかりを見ていたら、意外と近くにあったものに全く気づかなかった。
最初は大きな岩か何かだと思った。しかしよく見ると、それは大きな生き物の死骸、ブビードゥの亡骸であった。
「……うっげ」
大量の血液が地面に広がっている。それだけでも平和主義の国から来た俺にはショッキングな絵だが、この死体の状態はそんな生易しいものに留まらなかった。
その死体は、頭から尻の方まで、まるで水圧カットでもしたのかってくらいにキレイに真っ二つになっていた。黒っぽいピンク色の粘液質で長いものが、その切断面から地面に垂れ落ちている。
こんなに生々しいものを見るのは初めてで、思わずうっ、とえずいてしまった。
俺がこういうものを見たことがあるのは、せいぜい焼肉屋で徹底的に処理されてカットされたものか、理科の実験で解剖したカエルのそれぐらいのものだ。血の匂いとまだ体温の残る死体から上る獣臭い臭気に、胃液が腹の中をぐるぐる回って鳴く。正直吐きそうだ。
(誰がやったんだこんなの……。剣でこれをやろうとしたら相当な大剣とかじゃないと無理だぞ)
あの鎧男達がやったのだろうか。しかしあいつらの得物は全員ただの長剣だ。熊みたいなでかさのこいつの体を、こんな真っ二つにできるようなものには到底見えなかった。
じゃあ一体誰が……と吐き気を我慢しつつ考えていると、ふと前方から木の葉が擦れるような音が聞こえ、俺は反射的に体をそちらに向けて身構えた。
「ひえぃ!? な、何!?」
得物がないので身構えるぐらいしかできないのが心もとない。こんなことならティアの杖を買ったあの店でナイフぐらい買っておくんだった……。
と、マジで絶望した俺だったが、幸いその音の正体はブビードゥではなかった。
見ればいつから居たのか、一人の人間がそこに立っていた。
大きな帽子と杖を持った、見覚えのある小柄な後ろ姿。
俺のビビリ声に気づいたのか、その人物は、ゆっくりとこちらに振り返った。
「…………」
その目深にかぶった帽子のツバを右手で持ち上げる。すると、その人物の少し眠そうな目と目が合った。
まだ少女らしくふっくらとした頬のラインとその目に、俺は見覚えがあった。
間違いない。彼女だ。
「……ティア?」
しかし、そうして視線が交錯したまま、彼女は例によってだんまりだった。彼女はただこちらを目を細めて見る。
俺の傍らにあるブビードゥの死体を見ても、彼女は一切動じなかった。普通の女の子ならこんなものを見たら悲鳴を上げてもいいはずなのだが、一分の揺らぎすらもない。
さすがに肝がすわり過ぎなのでは……と思ったが、俺は次の彼女の行動で、自分が全く見当違いのことを考えていたことに気付かされた。
彼女が、ゆっくりと持っていた杖をこちらに向けたのである。
(……しまった!)
首元に刃を突きつけられるまで気付けないとは……。俺は自分のバカさ加減に、心底呆れ果てた。
あんな恐ろしい魔物がいる中で自分から一人になったということは、一人になっても大丈夫な自信があるということだ。
つまりこの死体、ブビードゥをやったのはたぶん……。
突然の非常事態ですっかり頭から抜け落ちていた。俺は絶対に、エクレアと別れて一人になるべきではなかったのだ。
何せ彼女、ティアは、俺を殺そうとしている人間なのだから。彼女がこの絶好の機会を逃すはずがない。
「かぜ……」
必死で打開策を考える俺だったが、いかんせん彼女のそれが、あまりにも早過ぎた。
「さいて」
次の瞬間、俺は耳元で、空気を切るような凄まじい風の音を聞いた。
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