Scene 19

小さな手。


指が曲がることはない。


簡単に折れてしまいそうな腕。


言葉の光の中で、ほの紅く射した手首の関節、鮮やかな緑の服は、白く、埃をかぶっている。


あの黒錆のとげのできた鈍重なフライパンの一振りで、壊れてしまいそうだ。


この場を生き延びること、それは確かに重要かもしれない。


死ぬのは怖い。


誰かを殺すのも怖い。


人形が、どういう生命のあり方をしているのかは分からない。


けれど、私は――。





玄関ホールにいたヌゼッテはこちらを見つけても表情を変えなかった。


薄い赤の光が頬に張り付いている。


ほの青い影が肌に落ちる。


紅い唇は閉じたまま。


ただ、大きな人形達の間から、じっとこちらを見つめていた。


縛られている私はなすすべもない。


「さっきはごめんなさい」


表情は変わらない。


「私、何も知らないのに、あなた達の間に割って入っちゃったんだ。


でも怖かったんだよ。


人形になってしまうのが。


ううん、別にあなたのこと否定したいわけじゃなくて――その」


「いいわ」


ヌゼッテが口を開いた。


「仲良くしましょうよ。


あなたもいずれ人形さんになるんだもの。


それとも、もうあなたはそうなりかけているのかしらね。


気がついて?」


不意に、縄が解かれた。


何か糸のようなものに操られるようにして、右手が上がる。


私の手首は紅く射す。


関節に、節ができる。


「あなたはもう私たちの仲間なの。


怖がらなくていいのよ?


寂しい思いはさせないわ」


あまりのことに声を上げられないで、それでも操られた手のせいで崩れ落ちることもできないでいると、ヌゼッテは歩み寄る。


「ねえ、仲直りしましょう。


一緒にいるとね、心が休まるのよ。


何も考えられなくなって――」


「嘘だよ」


私は声を遮った。


「ミュペは私を助けるために本を開いた。


あそこにあった本――確かに私は元の世界に行きたかった。


けれど私は本を『開いた』んじゃない。


人のいる異世界を探そうと本を開いてくれた人が他にいた。


それもつい最近――開いた本に埃がつかないくらいには、最近。


ミュペがそうしてくれたんだと思う。


私は信じたい。


私は一度ミュペのことを――私を助けようとしてくれた人のことを――疑ってしまった。


だからその分だけ、その人のことを信じたい。


だから、私は何か事情があるって信じたい。


あなたのことも」


ヌゼッテは体を震わせて笑うようにした。


軋んだ音がする。


「諦めが悪いのね。


最初はみんなそうだったわ。


変化が恐ろしいのよ。


けど考えてもみなさい。


大人になることと人形になること、大した違いなんてないのよ。


ミュペはきっとあなたが珍しいから、気まぐれにあなたの世界のことを調べようとしただけよ」


私は黙り込む。


ヌゼッテは私をどうするつもりだろう。


「私、やっぱりトイレ・・・なしの生活なんていやだな。


あなたも嫌じゃなかった?」


呟くように、けれど、聞こえるように、言う。


「トイレ。


そんなことどうでもいいわね。


人形になると全部どうでも良くなるの。


気持ちいいことよ」


「嘘。


トイレって髪の毛の先っちょのことだよ。


何だと思ったの?」


「そんなこと知ってるわ!


冗談もわからないのかしら」


「残念。


あなたやっぱりもとから人間じゃないや」


私は笑った。


親しみを込めて。


私は敵じゃないと教えたくて。


けど。


「私のこと嵌めたのね」


ヌゼッテの顔は変わらず、声だけが激しく、大きくなっていった。


私の周りを取り囲んでいた人形達がすごい速さで向かってきた。


私はあっという間に両腕両足を掴まれ、身体の自由を奪われてしまう。


ヌゼッテが手を前にやる。


私の顔が強制的に前を向く。


「そうよ。


人形になるだなんて嘘。


ちょっと怖がらせてからミュペの家の裏口に逃がしてあげようと思ったけど、もう許さない。


私はね、あなたがどんな存在であろうとどうでもいいの。


あなたが来てから私はずっとここにいるよう言われていた。


ミュペは私よりあなたを選んだの。


憎らしい。


殺してやる!」


私はヌゼッテをじっと見つめていた。


話を引き伸ばして時間を稼ごうか。


時間を稼ぐ?


何のために?


決まっている。


ミュペが私を助けてくれる。


私はそう信じたから。


誰かの無機質な手が首筋に触れた。


締める力は強くなる。


これまでか、と思った時だった。


「言葉は光。


表面に張り付くだけ。


糸は鏡に写る幻。


人形達よ、元に戻れ」


身体に取り付いていた人形が、不意に重くなった。


手と首が、重力にしたがって落ちる。


私は崩れそうになるところを、柔らかい感触に支えられた。


心の落ち着くような香水が香る。


「ごめん、遅くなって」


灯火が消えた。


灰色の瞳が、一瞬だけ輝いていた。


「こっちこそごめん。


勝手に抜け出して、危ないことして……。


濡れてるの?」


衣服の感触は、水に濡れていた。


「大丈夫さ。


卵の殻も持ってたし」


「卵の殻?」


「何でもない。


命に関わるようなことはなかったよ」


「命に関わるようなことがあったの?」


「ないない」


ミュペが笑ったのが、暗闇の中でなんとなく分かった。


私もまた、笑った。


すると、ホールの奥から声が響いてきた。


「ミュペ……。


あなたのこと大好きだった。


けど私よりそいつを優先するんだったら……。


私、あなたのこと許さない」


格子に切り取られた月のない月明かりを背に、一体の小さな人形の影が、立っていた。


「ミュペ、あなたがいつか教えてくれたわね。


この国のルールのこと。


全ての争いはデュエルで決めるって」


「ああ。


間違いないよ」


「私とデュエルしましょう」


ミュペは私に向かって言った。


「色々言いたいことあると思う。


終わったら話す。


今は――信じて」


「いくらでも待つよ。


ありがとう」

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