秋の朝は未来を感じられて、少し苦手。逆立った寒さが冬の気配を時折覗かせたり、気まぐれな柔らかい日差しが冬を飛び越えて春を期待させたり。ああ、だから秋の空は灰色なんだ、なんてノスタルジー。……ノスタルジーの意味なんて知らないけど、そんな感じ。

 まぁ未来が明るい、なんて言い切れるような気分でもないのが一番の原因だろう。そもそも、明るくない学校生活へ向かう気分が良いわけがないのだ。何気ない鳥の声すら煩く聴こえる。足を大きく踏み鳴らして見るけれど、けろりとした様子で電線の上で鳴き続けていた。生意気。

 とにかく真面目な気分にはとてもじゃないけれどなれそうもなくて、私はズルをすることに決めた。

 住宅街にある私の家から清く正しく学校に向かうには少し大回りする必要があった。一度国道沿いに構えられた校門の方へ回って、そこから校舎へ行く道。でも、もう一つ方法がある。学校と繋がる形で隣に立てられた部室棟と呼ばれる、少し掘っ立て感もある建物。そこの部屋はいくつかの部活に部室として割り当てられていた。ズルに使うのは、その部室棟と校舎を繋ぐ道。もちろん良いこととはされていなくて、住宅街の方から部室棟へは入れないようになっている。けれど、それを遮るのは女の私が跨げるくらいのちゃちな柵だ。ほとんど形骸的に作られた柵で、教頭先生ですら跨いでいるのを見たことがある。

 今日は遅刻気味だし、誰も見ていないだろうとスカートのまま飛び越えた。


「……おう」


 すると後の足を抜くように半身振り返りながら前進していた私を、部室からのんびりと顔を出した男子が進行方向ごと会釈で遮ってきた。慌てて立ち止まる。

 これから着替えるのだろうか、彼はまだ野球部のユニフォームを着ていた。視線を水平からちょっと上へ上げると、同じ中学で同じクラスの……修行僧。丸坊主に文字通り毛が生えた髪型は、例えユニフォームを着ていなくても、野球部! という感じ。ちなみに修行僧というのは、寡黙でな彼に私が心の中で勝手に付けたあだ名だ。かなりしっくりきて、気に入っている。出来的には、『理科くん先生』の次にお気に入り。新婚で奥さんの趣味だという可愛い人形を車の後部座席にびっしり飾っている生物の先生へのニックネーム。ちなみにその内の一体がリカちゃん人形なのが語源。大きめの段差で跳ねた拍子に転んだ、目を見開いたリカちゃんが印象深い。


「………どうも」


 私は身体をぎゅっと縮めて、いつもように煩雑な言葉を返した。

 修行僧の名前はそう、確か瀬戸。中学の頃から下校時間ぎりぎりにはよく顔を合わせていたし、近くの河原や公園などでTシャツにバットを担いでいる姿をジョギングついでに幾度も目撃していたから、さすがに覚えてる。

 改めて近くで見ると男子と言うにはかなり大柄で、もう制服を着ていなければ大人と見分けがつかない。でも顔は三パーセントくらい幼さを残しているから、ハワイペア宿泊券が貰える年齢当てクイズになったら正解者は多そう。

 そんな彼の会釈は、高校一年生の頃から始まった。人間関係がリセットされて、でもいくつか繋がりは残っている、そんな微妙な転換期。瀬戸なりに残っていた縁を大事にしたがった結果なのかもしれない。私と顔を合わせる度に会釈をするようになった。でもそれ以上の広がりはなく、一言交わすだけのやり取りがもう一年半も続いている。この会釈の交換に一体なんの意味があるんだとも思うけれど、やめようと彼に提案することも、無視して変なもやもやが胸に生まれることも面倒くさかった。

 だから今日も、視線を下に落として通り過ぎようとした。

 かり、かり、かり、かり。

 私の背後で、コンクリートを擦るスパイクの音が鳴った。幻聴じゃない。思わず振り向く。自分でもびっくりするくらいの速度で振り返ってしまって、脳が揺れた。ぐらぐらする。当て付けか、なんて被害妄想が頭の中で転がった。

 瀬戸は足元のスパイクを気怠そうに見下ろして、なにかを踏みつけるように大雑把に砂を落としていた。靴裏のスタッドからぽろぽろと崩れるように落ちる砂の塊は、どちらかといえば泥に近い。そういえば昨日の夜は雨だった。水はけの悪いグラウンドはさぞ練習のし甲斐があっただろう、そう思って彼のズボンの裾を見ると点々と土が跳ねていた。茶色の点は白で目立つ。食器洗いでスプーンを洗う時に弾けた水を被ってしまった鼠色のパーカーより乾いても取れない分、哀れだ。

 多分それがあんまりに可哀想で、つい口が開いた。


「干した方がいいよ。乾いたらブラシと濡れた雑巾で拭いて、そんで落とすの」


 瀬戸が顔を上げ、こちらを見てきた。しまった。けれど吐いた言葉を戻すことなんて出来ずに、変な間が満ちていく。後先を考えない性格はこんな時にも私の足を引っ張る。

 身体に似合ってない、きょとんとしたような意外な目。重ねて後悔した。態度には出さずに奥歯を噛みしめると口の中で歯が苦しげに擦れ合った。なんとかなかったことに出来やしないかと元の速度のまま前へ向き直る。


「さんきゅ」


 低く小さい声。お前、オウ以外喋れたのか。

 でも彼にも同じように思える権利がある。ドーモ以外喋れたのかって。もしかすると、あの意外な目はそういう意味だったのかもしれない。そう考えるとムカつく。ああ、やっぱりオウくんとドーモちゃんのコミュニケーションは二つの言葉だけ成されるべきだった。子供たちの夢を壊してしまった。

 居たたまれなくなって、足早に去った。逃げてなんかない。これは、子供たちの夢を守るため。遅刻しないため。

 こんちくちょうめ。



 粛々と時間は過ぎて、あっという間に四限目の古文まで行き着いた。一見問題のない授業風景。けれど、後ろの席から見ると綻びが目立つ。

 今も私の前に座る女の子が手紙代わりのメモを渡し合っていて、先生はそれに気付いているのに注意をしようとしない。きっと授業がそれで遅れるのも面倒だから、騒がない限りは黙認だろう。そうなるともう誰もが気だるく時間の経過を待っている、虚しい空間が完成する。まぁそれでも先生的には仕事だからか、三回目くらいには注意の声が飛ぶ。だから後一回までにしておいて欲しいと、目の前の背中に願った。眠い身体に鞭打つように教室に響く注意は精神衛生上よろしくないしね。

 手紙の行方をのんびりと眺めながら、私は身の振り方を考えていた。

 それにしても、私に足りないものとはなんだろう。

 もちろんたくさんある。社交性や学力、女子力。でも全部が全部、上を見ればきりなどなくなる。三つ前の席で寝ている私より頭の悪い男子だって、女子力だけなら私と良い勝負の皆川さんだって、そこそこの青春を送ってる。そういう顔をしている。なにより、テレビでやっていた『きらきら☆フレンチトースト』を上手く作れたとして今の状況が変わるとは思えなかった。

 なら、具体的になにが必要なんだろう。

 あくびを噛み殺しながら、黒板の真上にある時計に目をやる。チャイムが鳴る五分前。お昼をいつもの場所で食べようと席を立つ準備をする。ノートを閉じて、教科書を綺麗に片付けて。狙うは、スタートダッシュ。この時ばかりは経験を無駄に生かせるから、このクラスの誰よりも早い。お弁当を抱えて、誰もいないあの体育館裏へ駆け抜けるんだ。


 …………あ。

 これか。

 これが、普通じゃないのか。


 どうしよう、と頭を抱えたくなる感情と閃きのようなすっきり感が同時に来て、心をすっきりと抜けていくはずの棘が釣り針みたいに心を、くんっ、と抉った。

 充実した学校生活を送るためにはそうだ、『同伴者』が要るんだ。トイレとか、移動教室とか、お昼ご飯とか、果てには異性への告白にさえ同伴する謎の付添人Aが私には必要なのかもしれない!

 視線だけで教室を見回して、記憶の限りクラスのグループ図を思い出す。狭い教室の中にはこんなにも人間がいるのに、それはどうしてか隙がない。だいたい二~五人くらいで構成された輪は複雑に絡み合って、私へ普通の難しさを再確認させた。文字通り足が遠退いている私は、いまや陸上としての輪からも片足が外れている。一つの輪にも満足に入り切れない白河サキは前提から破綻しているのだと思い知らされる。


 呼んできてくれそうな人間なんて――――いや、いた。

 ハルだ。ハルがいる。

 物好きな彼女ならば、同伴者に喜んで立候補してくれるに違いなかった。

 

 そうなると話は早い。

 わざわざ別のクラスに行って呼びかけるというのはハードルが高いが、我らが令和の十代には文明の利器がある。すぐに前から見えないよう筆箱の影にスマートフォンを取り出して、一週間以上前にふにゃふにゃのパンダのスタンプで終わったメッセージラインを引っ張り出した。

 そうして、指が止まった。

 なんて送ればいい。……いや、「お昼ご飯を一緒に食べよう」の旨を送ればいい。でもきっかけになる言葉が分からない。指を下へ滑らせて履歴を遡っても、答えはなかなか得られなかった。なにせ、きっかけになったことがなかったから。たまに連絡を取り合う時は、いつもハルの方から。なら彼女の真似をすれば、そう思ってハルからのメッセージを注視する。

 びっくりマークですら赤くて可愛い彼女の真似は、しようと思ってもなかなかその記号が見つからない。同じ絵文字ひとつ探すのにも時間がかかって、そっくり同じ文が完成するのは到底先になってしまいそうだった。

 机の上に置いた画面の上で人差し指が浮いたまま、迷い揺れる。そんなことをしているうちに先生も時計の針をちらちらと気にし始めた。なにより、思い立った衝動が止んで意地が邪魔をし始めている。早くしないと冷めてしまう。熱しやすく冷めやすい自分のことは、自分で一番よく分かっていた。内と外の両方から急かされて、それがまた却って迷いを生む。

 急がなきゃ。でもどうしよう。

 お昼休みになってしまう。そうなれば都合よくスマートフォンを見たとしても、先約に席を埋められてハルにまで断られた惨めな女として体育館への道を歩くことになる。あんまりに悲惨すぎて、想像しただけで身体が震えた。

 こんなにも授業が終わって欲しくないと思ったのは初めて。無意識に人差し指の横腹へ親指の爪を立てるけれど、もちろんなにも起こることなんかない。

 ああ、もう! 小さい頃は遊びに誘うことだって何気なく、どころか強引に誘うことだって出来たはずなのに!

 陸上を言い訳に周りへ関わることを怠けたことで、私の誘い能力が退化したとしか思えなかった。

 でも私は、前へ進まなければいけない。

 あの本屋さんだってクリーニング屋になってスペースの半分を削るには勇気が必要だったはずだ。痛みを伴ったはずだ。おかげであの本屋にはもう週刊誌とエッチな本くらいしか残されてはいないけれど、営んでいる老夫婦の日々は衣服のクリーニングで充実をみせている。私も、そうなるんだ。

 決意を込めて、打ち込んだ。

 まずは、彼女を呼び出す二文字。


〝ハル〟

〝わ、びっくりした〟


 思いの外早く帰ってきて、こちらの心臓も跳ねた。緊張する。慌てて教科書を立てて顔を隠した。私は今、多分、きっと、ハルのメッセージの末尾に付けられた顔文字と同じ顔をしていた。


〝サキちゃんから連絡くるなんて珍しいね。どうかしたの?〟


 なにか送らねばと打つ前に新しいメッセージが来た。立て続けに送らないで欲しい。私のキャパシティを超えないで欲しい。


〝別に、気分がむいただけ〟

〝そっか〟


 打ち込んだ決意はとっくに崩折れる寸前だった。どうして考えて打ったデジタル文字が反射的に言葉を出す直接以下の対応になってしまうんだ。日記帳に書いたアナログ文字は考えることすら恥ずかしい言葉もすらりと書けたっていうのに。


〝授業中なのに、反応はやいね〟

〝なんか早めに終わったから、たまたまね。教室からは出れないから暇だったの

 そっちはまだだよね?

 真面目にうけないとダメだよ〟


「ちがう、」


 つい言葉が口から零れて、慌てて袖で口を抑え込んだ。内から噴き出した羞恥がまとわりついて襲ってきているみたいな錯覚。もう嫌だ。消えてしまいたい。デジタル文字のない時代へタイムスリップして、気まぐれで早く起きた時にやっていた朝ドラマのような黒い電話で、直接の声が聞きたい。もしくは同じくドラマでしか見たことない、交換日記。

 ……ちがう。変わらなきゃ。

 深呼吸。昨夜の枕と同じように、吐息の熱が制服の生地に入り込んで肌を撫でてくれた。勢いで打ち込んで、あとは送るだけ。目をきゅっと縮ませるように瞑って、視界を黒くする。そうして、送信のマークの上に浮かせていた指を落とした。


〝お昼、一緒にたべない〟


 脈絡も、絵文字も、はてなマークさえない誘いを送信出来たと分かった時、返事はまだなのにあんまりに安堵しすぎて、立てた教科書を落とした。周りの視線が集まって、でもチャイムに救われた。ばたつく周りの中、あんまりな疲労感で古典Bを拾って机に倒れ込む。

 はてなマークを追い打つ勇気は出なかった。



 冷静になった頭で考えると、どうしてあそこまで自分のプライドを捨ててハルを誘えたのかは分からない。青春の一欠片でも感じられるかも知れない、なんていう期待があったのは間違いない。それでも、あの時に自身を衝き動かした感情への理解が及ばないことにすごくもどかしさを覚えた。今分かるのは、少し前まで私だけの秘密基地だった場所で誰かを待つという感覚がどうにもくすぐったいということだけ。


「お待たせ」


 ベンチに腰を下ろして外側のささくれ立った青褪せたプラスチックの先をつつきながら待っていると、後ろから声がかかった。その瞬間、一番尖ってたところがパキッと砕けて、ベンチの面積がちょびっと削れた。

 ハルはごく自然に横へ座ってお弁当を広げていく。高校に入って初めてのことをこんなにもスムーズに出来る彼女にまず驚いた。


「なんかこうやって食べるの、ほんと久しぶりー」

「まぁ、そうだね」


 あー、と濁った声をあげてお箸を空へ掲げるように伸びをするハルを横目に、私も抱えていた藍色の包みを解いた。私たちはなにかをする度に、久しぶりだと言い合っている気がする。


「今日は、他の子は?」

「え、もしかして連れてきて欲しかった?」

「まさか!」


 慌てて否定して、「だよね」なんて言う苦笑いを見ながら卵焼きを頬張った。焼き立てよりもこの、ちょっと冷えた卵焼きが私は好きだった。


「…………」

「…………」


 天気の話と、ケガの調子の話。数分でいつも通りになけなしの話題を消費しきって、お互いにただお弁当つつくだけになる。ハルもさぞ気まずくしているだろうと見ると、けれど案外平気な顔でシューマイを割と美味しそうに味わっていた。意外とずぶとい女だ。一口で食べるには大きすぎたのか、彼女はもごもごと口を動かしていて少し頬が膨れていた。その姿は女の目線から見ても小動物チックで可愛いらしい。私がやっても、強欲な奥様方にはちきれんばかりに引き伸ばされた野菜の詰め放題のビニール袋役がいいところなのに。


「ハルはさ、」

「んー?」

「だからその、みんなといつも食べてる時はさ、どんな話するの?」


 みんなという単位から自然と自分が抜けている。まるでテレビの中の出来事のよう。少し身体を寄せるだけで触れ合えるほど近いのに、急にハルが遠く思えた。


「んー、そう言われると分かんないかも。その日にでた課題の話とか、ドラマの話とかはするけど」

「覚えてないの?」

「だって、本気で聞いてないもん」


 そのあんまりな言い方に思わず息が抜けた。ハルはあくまで自然に箸を動かしている。次の行き先はミートボール。甘めのタレが美味しそう。いつも容器に余ったそれが勿体なく思えるけれど、この話は誰かと共有できた試しがなかった。


「あ、もちろんみんな本気で話してない前提だけどね。大事な話まで適当に聞いてるわけじゃないよ」

「そんなもんなんだ」

「そんなもんみたい」


 あはは、とハルも分かってないような言葉と共に曖昧な笑み。でも確かに、みんな本気で話してないという部分は腑に落ちた。


「思ってたんだよね。どうしてあんなに長々と話が出来るんだろうって。ちょっと納得した。まぁ、よく話が保つなっていう感想は変わらないけど」

「それは少しだけ本で勉強したんだけど、相槌を意識すると勝手に話してくれるから。あとは適当に話を広げれば誰かが食いついてくれるよ」

「本ってなに」

「人と仲良くするための相槌術と、話の広げ方」


 なにそれ面白そう。それを真面目に読んでいるハルの姿が。

 妄想する。他人と取り繕うために教本を食い入るように見つめる彼女のひそまった眉、上の歯すら覆うように気難しく突き出された下唇。どっちも考え事をする、ハルの癖。肝心の本は多分私には脂っこくて読めないだろうから、そんな光景ばっかりが思い浮かんでくる。

 それにしても今日の彼女はフルスロットル。隙間を縫う風で化けの皮を少し剥がされて跳ねている癖っ毛も幾分か刺々しい。機嫌は悪いようには見えないし、声の雰囲気も柔らかい。なのに話している内容だけが尖っていて、良い。すごく面白くて、話が弾む。もしかすると、これが勉強の結果なのかもしれない。


「話を広げるって、例えば?」

「んー……例えば、サキちゃんがケーキ屋さんに行ったとします」

「え、私?」

「します。なにを買ったことにしますか?」

「じゃあ、モンブラン」


 私は栗の優しい甘さが好きだった。もうすぐ旬の季節。そうなれば普段はケーキ屋の隅にいる彼らも真ん中よりちょっと右くらいには置いてもらえるかもしれない。


「あーこの時期おいしいよね! そこのモンブランおいしいの?」


 ぱっと声のトーンがふたつほど上がったことに、むせた。ごほごほと胸を押さえる私にハルは作った笑みを絶やさずに両手を目の前で可愛く合わせて、質問を連ねていく。ちなみに笑顔の点数的には五十四点。目の細め方が正面から見ると人工的なのがいまいち。


「あ、モンブランならコンビニの新商品食べた? なんかジェルみたいなの入ってるやつ」


 それなら分かる。帰りがけのコンビニにもある、安っぽい癖して変にこじゃれたフォルム。怖いもの見たさに近い想いで買ったのは良いけれど、案の定あまり良い記憶はなかった。コンビニスイーツに高望みし過ぎと言えばそうなるけれどスポンジも野暮ったくて、クリームも舌触りが悪かった。そしてなにより。


「あれ、買ったけどそもそもが甘過ぎて微妙だった」

「甘いの苦手なの?」

「苦手じゃないけど、あれはモンブランの栗と合う甘さじゃないって感じ」

「たまにショコラみたいなの入ってるやつあるよね? あれはありなの?」

「あれはちょっと苦味っぽいのがあり」

「……みたいな」


 手をぱっと離して、即興劇の終わりを教えてくれた。纏う雰囲気はすっかり戻り、お弁当をちっちゃな手提げ袋にしまいながら照れくさそうな表情をみせている。


「さすが」

「やった後に思ったけど、なんか恥ずかしいね」


 その照れを隠すようにリンゴのタッパーを差し出してくるから、ありがたくいただくことにする。食感は硬め。なのに思いの外甘めで、好きなタイプのリンゴだった。


「……おいし」

「良かった」

「リンゴ剥くのめんどくさくて、つい食べるの忘れちゃうんだよね」

「それ、ぱさぱさになっちゃわない?」

「なってた」


 一昨日放置し過ぎてぱさぱさになっていたリンゴを噛ってしまったから、余計かもしれない。あの粉っぽいリンゴの記憶をさっさと塗り替えるために、まだ差し出したままのタッパーに箸を近付けたままにしておいた。次の予約。


「最悪どこかのタイミングで他の子に好きなケーキ聞いて回ったりとか、そこで分かる話に食いついてもいいし。別に自分が話のきっかけにならなくてもいいんだよ」

「難しいな、やっぱ。私には難しい」


 そろそろ同級生に会話の広げ方のレクチャーを受けている情けなさが隙をつくように浮き出てきたから、水面へ上がりきる前に誤魔化した。伸びをしながらの、あくびを噛み殺す演技。眠いの、なんて訊いてくるハルへ唸るように零れるウソ鳴き声で返事を返した。


「はい、どうぞ」


 顔を向けるとハルが、ぽんぽん、と膝を叩いて見せていた。「使う?」なんて言葉と一緒に少し距離を取って、手の甲で撫でるようにスカートの皺を直している。

 膝枕。

 これは、私の足りないものに含まれるんだろうか。ハルは口の両端を器用に吊り上げて、そのまま誘うような意味を含ませていた。

 ……入っているかもしれない。青春っぽい漫画ではたくさん見たことがある。多くは男女、シャボン玉みたいな背景がお供だった。あの白黒でも虹色だと分かるシャボン玉は、貰えるなら私も欲しい。ならそのままに倒れ込んで甘えてみせるべきなんじゃないだろうか。そう思って身体を、えい、と倒した。


「わ、ひゃ」


 なんだかすごい声が上から聴こえた。スカートの下の太ももからは、柔らかさより先に緊張が伝わる。声のソムリエではないけれど、今の声に驚きが混じっていることは理解出来た。そしておそらく、私はまた間違ってしまったのだろうということも。


「……ごめ、まさか、ほんとにするとは思わなくて」


 冗談だったなら、冗談の顔をしておいて欲しい。目をアイラインごと、含みを持たせたような形に曲げておいて欲しい。


「冗談でも一度差し出したんだから、我慢してよ」


 そう思いつつも、すぐ避けるのはなんだか負けた気がして、意地を張ることにした。彼女のスカートからは中学の頃から変わらない、ココナツミルクの香りらしい洗剤の匂いがする。首を揺らすと頬を撫でる布の一枚隔てた先に温もりを教えてくれる生の感覚を感じて、なんだか変なそわそわ感がした。でもシャボン玉は、どこにも見当たらない。

 ほんとに、難しい。

 ここで冗談だと上手く見破るのが正解だとするなら、そうすれば走りたい衝動を打ち消せるくらいのなにかを、青春を感じられたか。

 まだひどく渇くのは、私の未熟だろうか。身体は逃走を求めていた。視線を滑らせてグラウンドを見やると足がずきりと啼いた気がして、慌てて目を閉じた。

 光が残る暗闇の中、微かに震えるような息遣いをその真下で聴く。瞼の裏に浮かぶのは、あの絵。あの絵に名付けた思い出は、私の中にある空っぽな空間の中心に依然として大きく居座っていた。

 今も、見られているんだろうか。私が名付けたハルの絵は完成したんだろうか。いたずらをした誰かを探していたりはしないだろうか。

 行くための言い訳が湧き出てくる。潤いが足りない渇きを、なにかで、いやあの絵に触れることで埋めたい、なんて思ってしまう。

 そろそろ、会いに行こう。



〝サキちゃん、今日部活?〟

〝ちょっと残るけど、すぐ帰る

 先かえってて〟

〝わかった!〟


 放課後。私の『ずきずき足』はあの、縁のない美術室に向いていた。

 もしかしたら絵は見当たらないかもしれない。それでも、あの部屋に行きたい。あの『青い春』を書き進めた気配の残り香を少しでも感じられたら、青春が足りないことで生まれる渇きを少しは忘れることができるかもしれない。そう思って。

 美術室のドアに手を貼り付けて、軽く押し滑らすと、動いた。そのことへの興奮を抑えながら、首だけを入れて中を覗く。すると、いた。

 痩せこけた野良猫みたいな猫背に、黒い頭。


「見つけた」


 カレ。

 名前は聞いて、でも忘れてしまった。だから、カレ。私はあの子がカレだと確信できる情報を手に入れていた。

 美術の先生に訊けば一発だった。お喋り好きで有名な先生は奥様方の井戸端会議に乗り込んでも四番ピッチャーを任せられるくらい、明け透けに話してくれた。一年生のカレは油絵が好きで、美術の大学を目指していること。昼休みと放課後、鍵を貸し出していること。大人しい性格そのままに、繊細な絵を描くこと。もう私はきっと名前以外、カレの友人よりも彼に詳しい。

 私の声に反応して振り向いたカレは立ち上がる拍子に椅子をがたがたと揺らした。そうしてその音に驚いて、今度は私の顔を見てまた驚くものだから、つい笑ってしまった。


「驚きすぎ」

「ぁ、と……すいません。なにか作業とか、します、か?」


 第一印象は、無害そうな雰囲気。落ち着きのない声色の中にも穏やかさが帯びていて、横に伸びた目からも優しさが見てとれた。京都土産の八ツ橋の匂いのあれ、そう、ニッキの香りがよく似合いそう。

 近付く私に、まだ遠い距離のうちから仰け反るように距離を取る。遠慮とかじゃない、警戒が伝わる。あの一件以来、気まずそうにする河合さんとの会話と似ていた。熟れた果物に触れるような、咲ききった花に触るような、あのおっかなびっくりした感じ。決定的に違うのは、私に嘘やオブラートに包む気がないこと。カレにならアイラインで刺されてもいい。もちろんたとえで、彼は化粧なんてしていないけれど。


「ううん、ちょっと用があって」

「用?」

「うん。絵、見に来たの」

「絵、ですか?」


 カレが背に隠したキャンバスを指差す。今日は布を被っていなかった。

 余計な雑談は要らない。剥き出しのカレが見てみたい。私は幼稚な感情を思い出させた、あの絵の作者のことを知りたいと思った。


「そこそこ良いタイトルだなーと思ったんだけど」

「……やっぱり、あなたでしたか」


 なにかを噛むように、ゆっくりと目を細めるのカレを見つめる。

 もっと感情を見せてくれてもいいのに。敬語を投げ捨てて、勝手に見るなと怒って欲しい。もしくは、絵を貶められたと悲しんで欲しい。なのにそのどちらでもなく、ただ私を柔らかく見据えていた。

 なんだ、その目は。


「やっぱりってことは、気付いてた?」

「ここに来た時点で、なんとなくは。その、一緒にいた人が偶々で美術室には来ないと思ったので」

 

 変な違和感を感じて、ああ、と思った。そうか、彼はハルの名前を知らないんだ。

 それはいい、良い。なんだかすごく不純っぽい。ここからずっとハルを見ていたカレは知らないままに同じ学校にいる女の子の絵を描き続けていたんだ。その姿はアイドルのグッズを集め続けるファンよりも生臭く、一目惚れから生まれた片想いより風味豊かで芳しい。


「あの子は、椎葉春子っていうの」

「椎葉、はるこ」


 彼はハルの名前を転がすように呟くと、はっとして目を伏せた。


「その、」

「あの子は気付いてないから安心して。私が偶然絵を見つけて、どんな人が描いてるのかなって思っただけ」

「なんか、すみません。勝手に」

「謝るならハル……椎葉さんにだと思うけど」

「そう、ですよね」


 そこでようやくカレは朗らかに笑った。誰もいない美術室で、それも後輩の男子と会話が成り立っている。ここまで上手くいくと逆に不自然で落ち着かない。彼もそれは同じのようで、手近にあった机の角を手のひらで覆うように撫でていた。女の私より細くすらっとしたその指はコスモスの花びらを連想させた。


「勝手に描いたのは、申し訳ないとは思っているんです。ただあくまで練習で、別に誰かに見せるものでもなかったので、いいかなと」

「まぁ、いいってことにしておいてもさ。そもそもどうやってここから、」

「あ、それはこれで」


 ことり、と差し出されたのは双眼鏡だった。

 内心、引いた。

 ねじって倍率を変えられるタイプで、意外にしっかりとした作りをしていた。それがあんまりにも露骨さを際立たせている。これを握りしめてハルを観察する彼を想像する。あまりにも変態的で、ぶるりと背が粟立った。なんだか恥ずかしいものを見せられている気がして、直視できない。

 そう、恥ずかしい。でも私が恥ずかしいなんて、おかしい。花も恥じらう女子高生を盗撮――この場合は盗撮になるのだろうか、とにかく、した彼こそが恥や後ろめたさを感じて欲しいのに。


「視点が変われば、なにか良い題材が見つかるかなって。それでお二人が話してるのが目に入って、それで。いつもは風景画や静物を描いているんですが、なんだか別のものが描きたくなって」


 なのに、どこか高揚したように喋り立てるカレの姿はちょっと苛立ってしまうくらい、いけ好かない。棘のある言い方をするなら、不気味だ。あまり悪びれないのもそうだけれど、私が彼とハルの絵のツーショットをばらまいてしまう可能性なんて微塵も感じていない。ばらまかれても気にしない、と言ったほうが正しいのかもしれない。そう考えるとなるほど、カレの視点は目の前にいる私からもどこか外れていた。


「これ、油絵?」

「そうです。学校ではゆっくり書いてみようかなって思ってるので、完成はかなり先になりそうですけど」

「先ってどれくらい?」

「四ヶ月くらいですかね。油絵はかなり修正がしやすいので、完成してもしばらく触りたいなって。……やっぱりここは色違う、かな」


 私と話しているのにその目はもう絵に向かっていて、それにどこか遠い。どころか独り言、いや絵と対話を始めた。


「ねぇ」

「別にそのまま描くつもりもないから、どうしよ、いっそ構図から――あ、すいません」


 宇宙と交信しているみたいに、もう私とカレにはラグがある。ここまでくるとさっきまで会話が成立していたのが奇跡に思えた。そして、特に訊きたいこともないのに呼びかけてしまったものだから、困った。


「どうして、ハルだったの?」


 変な質問だと思った。こんなの、描かれなかった私が嫉妬しているみたいじゃないか。風景にすらいない私が可哀想でしょ、なんて。


「言葉にするのは少し難しいんですが……あんなところですごく楽しそうにしてる感じが素敵だな、と」

「そういうのじゃなくて」


 もやもやする。

 違う。違うのだ。聞きたいことはそういうことじゃない。

 言ってしまうなら、きれいな言葉で理由づけをする彼に汚れて欲しい。もっと低俗な、JKの白くてハリのある太ももが性癖なんだ、くらいの汚らしい告白をして欲しいんだ。軽率にハルの胸のサイズなんかを訊ねて欲しい。

 ほら、どうせそう思っているんでしょう?

 じゃないと、あの絵からいやらしさを感じた私の方が変態みたいじゃないか。バナナにエロさを感じるような中学生男子の脳を持っていると言われているようで、ムカつく。


「好きなの?」

「へ?」

「だからハルのこと、好きなの?」


 あんまりにも甘酸っぱ過ぎて唾液が沁み出してくる。完全に失敗。

 客観視すると、死にたくなる。この数分のシーンだけ切り取ると、少女漫画なら完璧に嫉妬した性格の悪い女だ。ヒロインの邪魔をしようとして、逆に踏み台にされる哀れな端役。

 せり上がってくる感情はだだ滑ってしまう若手芸人を見た時に似ていた。観客の、可哀想なものに向けられる笑い。あの笑いが今は私自身へ向けられている、そういう錯覚。今すぐに立ち上がって、台所の奥、こもった声で鳴く冷蔵庫の前まで逃げて耳を塞いでしまいたい。


「違いますよ。ほんとにただ、絵になりそうだったからで」

「好きなんだ」


 カレとは相性が悪いのかもしれない。さっきからマイナスの感情ばっかりだ。

 それでもなにかに負けたくなくて自然に抜け出せる出口を探すけれど、口ではさらに暗やみに入り込む言葉を吐く。もう真っ暗なトンネルのように宛がない。さっさと怒って、切り上げていい雰囲気を作って欲しい。はやく、はやく。


「いやいや、ほんとにそういうのじゃ」


 この青臭いキャベツ畑から抜け出したいのに、のらりくらり。絵の具の付いた両手を見せびらかすように、ぱたぱたと手を振っている。


「じゃあ、一度話してみれば? どっちにしろ許可は取った方がいいでしょ」

「それは、その」


 どうして私は恋のキューピッドみたいなことをやっているんだろう!

 トンネルどころか、泥沼だ。もがけばもがくほど深みに入って抜け出せなくなっていく。なにを焦っているのか、自分でもそう思ってそして、カーテンの隙間から差す逆光で彼の顔が見えなくなって気付いた。それは相性の悪さや、ずっと抱いていた不気味さにも通じた。

 カレには俗っぽさがひどく欠けている。いや実際のところ欠けているかは分からないけれど、少なくとも私には見えない。感情がないわけじゃない。感覚としてはロボットじゃなく、まるで幽霊のよう。掴みどころがなく、無理に触ろうとすればひんやりとした悪寒がやってくるような。なのにカレはまるで未練がないような顔をするのだ。私から見れば、彼の立ち姿はひどく矛盾していた。

 その矛盾が、きっと私を躍起にさせていた。欲しい反応を返してくれないペットロボットを軽くつつくような、そんな行為をしてしまっている。それにしたって、俗っぽさを見たくて必死に恋バナをしようとするというのはあまりに惨めだ。


「今度連れてくるね。まぁ今日は部活あるし、またね」

「あのっ、」


 ついには一方的な約束と引き換えに話を断ち切った。去る私にカレは言葉を放とうとするけれど、躊躇うように口を噤んだ。ああ、そうだ名前を言ってない。訊かれなかったから忘れていた。でもいいだろう。彼はきっと、私に興味なんてない。あの絵の、背景にも描かれていなかった先輩の名前なんて。私も忘れたしお互い様だ。そう答えも出て、納得もした。

 なのに。

 ハルの髪に薄く塗られた茶色が目に入ったからかもしれない。

 煮え切らないその態度が気に食わなかったからかもしれない。

 絵にタイトルを付けた時のように、嗜虐心が湧いたのかもしれない。

 結局のところ、理由は分からなかった。

 でもその瞬間。私の中にはなぜだか、確かに、激しい感情が生まれて。


「あの子」

「えっ?」

「もうすぐ髪、黒に戻すんだって。ゆっくり描くなら、そっちの方が良いんじゃない?」


 嘘を、つきたくなった。


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