命を燃やす様がありありと見えるような、眩しい声が空から跳ね返って落ちてくる。それも雨のように次々と。堪らず逃げ込んで、底冷えのする正面玄関。

 荒く吐き出る私の不安の中を何も知らない男女の下級生が不思議そうに、そして顔を背けて通り抜けていく。その次も、その次も。段ボール箱を抱えた古文の先生でさえ。

 グラウンド以外にこの小麦色の肌が似合う場所なんてない。そんなの分かってる。でも、あの部室にいた人間の吐く息を吸いたくなかった。行けば、きっと悪意が目に見えてしまうから。息を止めても、ちゃちな夏祭りのお面を着けた彼らは私に呼吸を迫ってくるだろう。さも心配そうな、優しい自分に陶酔した安っぽい態度で。

 ハルのところにも戻りたくはなかった。多分、おかえり、なんて言葉を一緒に優しく迎えてくれるだろう。話せば慰めてさえくれるかもしれない。でも、上手く生きている彼女を逃げ道にするのだけは嫌だった。変に凝り固まったプライドがそれを許さない。

 さっさと帰って、中途半端に空いた牛乳をコップも使わずに飲み干してしまおうか。そんなことを考えながら、身体はふらふらと中へ。理由は分からないけれどおそらく、一年半通った習慣が玄関に辿り着いた私を運んだ。

 誰もいない教室は、孤独な匂いがした。誰かが開けっ放しにした窓からは風が吹いて、カーテンが寂しさと癒しの同居した音を鳴らす。すると、ずきずきと足の真ん中がなにかを訴えてきた。がむしゃらに走ったせいで、肺よりも先に足が限界を訴えていた。

 情けない。


「……痛っ、」


 意識すると体重を支えているだけで、ぎぃ、と痛んだ。

 片足立ちで伝うように教室を出ると、行きでは視界に入らなかった美術室が目に入った。いつもは閉まっているはずのドアは、なぜだか開いたままになっていた。毎日前を通るくせに、芸術科目の選択で音楽を選んだ私には本当に関係のない部屋。だからこそ、惹きつけられたのかもしれない。吸い込まれるように『ずきずき足』が向いた。

 夕方にもなっていない美術室は日焼けたカーテンから漏れる光のせいか、薄い黄色で染められていた。埃っぽい空気の中で彫刻刀のいたずら痕のついた可哀想な机がなんだか小汚く思えて、机に制服が触れないように間を縫っていく。私を奥へ導いたのは、ペンキのような匂い。鼻をつく、倒錯的な香り。

 そして、その先で一番に目を引くキャンバス。

 美術室にあっても全く不思議でもなさそうなそれは、しかし浮いていた。授業の暇潰しに傷めつけられた机とは真面目さが違う。立てられたまま鼠色の布で覆い隠されたそれはなんだか生々しく、異様な雰囲気を纏っていた。

 見てはいけないもの、そんな気がする。少なくともそう感じてしまえるくらいの存在感。

 でも。

 見たくないものを見せられたばかりの、私の衝動が勝った。どきどきを連れて、かさぶたを剥がすみたいにゆっくりと捲って、そして見た。


 現れたのは、横顔の人物画だった。鉛筆で描かれた薄い線は下書きなのかあまり奥行きは感じられず、色もほとんど着いていなかった。描きかけも描きかけ。ほとんどの人はどういう絵なのか捉えることすら難しいかもしれない。

 でも、私には分かった。

 どこにどんな色が着いていくか、どんな輪郭で、どういう奥行きを見せるのか、誰を描いた絵なのか。

 まだぼやけた線しかない顔はきっと、私より優しい輪郭で、私とは対称的な美しい白い肌で、私より愛嬌の良い線で形作られる。

 だって描かれた人のことは、よく知っていたから。

 そう、私はこの絵の行き着く先を知っている。その子が可愛らしく座っているベンチの褪せた色だって、その欠け具合だって、ちゃんと覚えてる。

 癖っ毛を誤魔化した試行錯誤の髪型は笑って顔を少し上へ上げた瞬間の、ふわふわと漂った一瞬が切り取られているから、きっと嬉しそうに頬の輪郭を撫でるんだろう。微笑みが絶えることはなさそうな口元も、人当たり良く柔らかさが伝わる線が使われる。程よく化粧された肌は秋の寂しい空の下でもくすんだりはしない、見栄えの良い色が選ばれるに違いない。

 気持ち高く伸びた鼻、楽しげに細まった瞳、そして隣に置かれたカバンのキーホルダー。

 全部、全部分かった。


「なに、これ」


 ハルが、いた。あの、ぱりぱりのベンチに座るハルの姿だ。

 私は反射的につまむように持った布の端を放して、乱暴に日焼けたカーテンを開けた。三階の高さから広がる景色は確かに、体育館脇に置き去りされたあのベンチを遠目に捉えている。

 誰だ。誰だ、これを描いたのは。

 どうにも言えない気持ち悪さが肌を撫でつけてくる。先ほどの悪意に感じたものとはまた違う、薄気味悪さ。

 どうやって。絵が描いた角度的に間違いなく、ここからだ。木々の隙間を縫うように、ここからピンポイントで青いベンチが視界に入った。でも遠い。体育館までかなり距離があるはずなのに。

 なんで。わざわざハルを。

 無数の疑問と共に想起したのはカースト上位のお調子男子が女子をカラオケに誘う、あの甘い声。とびきりの醜さを気安さで覆い隠した瞳が生む、舐めつけるような視線。あれらを余さずかき集めて、ぎゅっと凝縮したような生温かさ。

 恐る恐るもう一度捲って、覗き込む。見ていたら砂利を噛み潰した時のような苦味が胸の中を渦巻いて心を波立たせてくるのに、見つめてしまう。いやらしさで身体がふやけていくのに身体は金縛りにあったようにその絵から離れようとしない。音のなかった部屋が更に無音になったように感じて、目さえ離せなくなる。

 私は、興奮していた。

 ハルをこんな距離から見つけて、切り取って、わざわざ絵にまで起こした人間がいることに言い表しようのなく胸が高鳴った。

 一体どんな感情でこれを書いたのだろう!

 考えれば考えるほどに白い枠の中で笑う出来合いの彼女を作り出す一本一本が、卑猥に思えた。そして、その感情は私の脳内にいるハルさえ、淫らな存在に塗り替えていく。彼女と目を合わせて談笑した思い出が桃色に膨らんで、熱を持って私を焼いた。

 なのに? それとも、だからだろうか。

 この作品に、触れたい。

 いたずら心も孕んだ、幼稚な衝動には違いなかった。でも『見たい』より確かに一歩、線を越えてしまった強い感情が湧いた。見るだけじゃ満足出来ずに、触れて、まさぐって、匂いを嗅ぎたい。そういう変態的な行動の、始まりの一歩。

 でも私はもう、子どもじゃない。理性のある十七歳。記念に撮って、頭の中で玩ぶだけで満足してあげる。そう思って、スカートのポケットからスマートフォンを取り出そうとする。


「……あれ」


 思わず舌を打った。ない。あまり使わないせいで充電を忘れて、家に置いてきたのを思い出した。そもそも持ち歩く習慣がなかった。高性能通信機の居場所はいつだってカバンの底だった。代わりに出てきたのは帰り道にあるコンビニのレシートだけ。折り畳まれて出てきたそれをなんとなしに広げて、ひっくり返す。十字に折り目のついたつるつるの裏面は目の前のキャンバスと比べてひどく貧相に見えた。

 罪悪感が滑り落ちていくのを背筋で感じる。とっとっとっ、と重量のあるなにかが迫ってくるような感覚。みぞおちに向かって内から届くそれは私を昂ぶらせる。どきどき、しているんだ。

 そうだ。この絵に傷痕を残したい。

 触れたい、なんていう小綺麗に煙を巻いた情動が明確な答えになって燃え上がっていく。そうして、その燃え殻が幼い私を思い起こさせた。

 膨らませた風船に爪を立てて愉しさを感じるような、無邪気の中に黒い感情を隠していた私を。

 ハルからピアノを奪った時の、残酷な私を。



 外から見た白河サキという少女は、好奇心旺盛な子供に見えていたと思う。悪く言えば目立ちたがり。褒められるのが好きで、でも褒められると口元に手を当てて照れを隠すような、そんな子供。

 オリンピックで水泳選手が金メダルを取ったとテレビが騒ぎ立てればスイミングを習いたいとせがんだし、ねり消しが流行った時はココアの香り付きを誰よりも早く手に入れた。同級生の男子たちの変わった視線が好きで、少年野球に交じっていたこともある。ピアノを始めたのも多分、母に連れられていった美容院にたまたま置いてあった漫画のヒロインが弾いていたからとか、そんな理由。習い事の中でも特別感がある気もした。なんだかすごく上品な感じがあって、今までとは違うわくわく感があったのだ。

 そのおかげか、興味の川から脱落していく習い事の中でもピアノは長く続いた方だったと思う。多分、野球の次くらい。指を動かすと部屋に響く音が気を大きくしてくれて好きだった。

 でも結局は同じく、冷めた。小学生の『やりたい』なんてそんなものだろう。

 ピアノ教室の帰り道。冬が顔を出し始めていたあの日は辞める旨を先生に伝えて、最後の日だった。こっちの方が近いからと舗装のされていないあぜ道の真ん中をいつものように歩く。ほとんど車の通らない道の、しかし通り得る道路の真ん中を歩くのはちょっとどきどきして好きだった。

 けれどその日は、別の感情もあった。

 いつも歩いていた道がいつもじゃなくなる感覚。それから来るそわそわが十歳にもなっていない私には珍しく、そのせいでどこか逸って早足になっていた。

 普段と違うのはそんな胸の内に加えて、一緒に歩いている子から聴こえる鼻歌がなかったこと。いつもなら習った曲を復習するように鳴っているはずなのに、重い足取りだけが背後で小さく鳴っていた。


「……サキちゃん、あの」


 私が振り返ったのと、ハルがそう言ったのは同時だった。

 こういう風に、正反対だった彼女とはどうしてだか色々とタイミングは合った。近所のお姉さんが教室を始めたというのを聞きつけて通い始めたのも全く同じ日で、習いに行く日も同じ。それをきっかけにお互いの家が近いことを知ったりして友達になった。

 私から見てハルの第一印象は、捨て犬。別に汚らしかったとか、そういうわけじゃない。ピアノ教室の最初、多くの子が親同伴で来ていたのに彼女は一人で来ていて、慣れない人ばかりの中でおどおど、きょろきょろしている様子がそう思えたのだ。後になって聞けば、あれは「ピアノを習いたい」と言った時の条件だったらしい。最初から一人で通わせたのは些か内向的過ぎた我が子を成長させたいという親心だったのかも、と後々のハルは語る。話す時に、ちょっと恨みがましい目を空へ向けてはいたけれど。


「本当に、やめちゃうの?」


 ハルは先を歩く私へ目を向けて、絞り出すように訊ねてきた。あんまりにも悲しそうな声を出すものだから、ちょっと笑ってしまったと思う。


「やめる。だって、つまんないもん」

「そ、そうかな」

「そうだよ。三年生になったら途端にお手本通りお手本通りって、もう疲れちゃった」

「そっ、か」


 下を向いて私の影を追ってくるハルの足取りはさらに重くなり、とぼとぼという擬音が本当に鳴りそうなくらい。早足になっていた私とだんだん距離が空くから、私は仕方なく立ち止まって、待った。ハルの足が私の影を踏んで、それに気付いてぱっと首を上げて、嬉しそうな表情を一瞬だけ浮かべて、はっとしたようにまた悲しそうに目線を下に戻す。その繰り返し。

 ハルは、やめないで、とは言わなかった。彼女はあまり人の心に触れようとしない。だから辞めることを悲しみはしても、それを変えようとはしなかった。

 悲しむハルを見て私は、どうにか後ろめたさを減らしたい、と考えていた。そのためにはとりあえず泣き止んでもらわないといけない。


「別に学校でも会えるんだし、いいじゃん」

「そう、だけど」


 せっかく優しい言葉をかけても、むしろ悲しさに拍車がかかるように涙を溜めてしまう。歯切れ悪く言葉を残してこちらを見つめてくる彼女に、苛立つ。こんなの、優しさの無駄遣いだ。

 私は、逆。自分の思う通りにならないと癇癪を起こした。相手を自分の都合のいいように、自分の思い通りにしたい。そういう衝動を、悪く言えば抑えられない気性だった。だからこちらにしてもらいたいことをはっきりと言わないハルが不思議で、心の内が見えなくて少し不気味だった。

 ちょっとした好奇心が湧いた。こういう時だからこそ、彼女の内が見えるかもしれない、なんて。


「ハルは、どうしたいの? 私にやめて欲しくないの?」


 何度か口をもごもごと動かして、ようやくこくりと頷いてみせる。


「どうして?」

「え、と……」

「だから、どうして私にやめて欲しくないの?」


 ピアノが弾きたいからピアノ教室に通っているはずだ。それをしたくなくなった私が辞めない理由がないのに、なんていう無邪気な体裁を繕う。もちろん分からない仲でもなかったけれど、なんとなく、彼女の口から聞いてみたかった。


「それは、サキちゃんがいなくなると寂しいし」

「なんで、寂しいの?」

「……サキちゃんと、一緒じゃないから」

「これからも一緒の学校だし、家も近いよ」


 出来るだけ気安い私の言葉にちょっと考えて、でもふるふると微かに首を振って否定する。彼女にしては、思い切ったリアクション。


「違うの。そうじゃ、ないの」


 分かる。いや、分かってきた。

 きっと、あのピアノ教室が最初の繋がりだったから。内向的な彼女にとって数少ない友達との関係性が薄くなるのが嫌だったんだろう。


「ハルは、私と一緒がいいってこと?」

「………………うん」


 ハルは確認するような私の言葉に顔を真っ赤に染めて、目を伏せた。自分の感情を言うだけでどうしてそんなにも時間がかかるのかと思ったけれど、まぁ友人にそう言われて悪い気はしなかった。

 でも私の辞める決意は固い。ここまで引き出しておいてなんだけれど、そこは譲れない。興味の失くなったものにわざわざ通うなんて大人な精神は持ち合わせていなかったから。

 その代わりに持っていたのは、自分勝手な幼さ。


「じゃあさ、」


 ハルはピアノをすごく楽しそうに弾く。口元を啄むように尖らせて、自らが奏でる音に耳をそばだてて、リズムに合わせて微かに身体を揺らす。好きなフレーズが終わった時にぽん、と跳び箱を飛ぶみたいに右手が跳ねるのが癖。でもその後に指が次のところへ行くのが遅れるものだから、よく窘められていた。学校にも楽譜を持ってきて合間に読んでいたし、たまに出る鼻歌は決まってその時に練習している曲。ピアノ教室に行く日は決まって機嫌も良かった。

 私は、ハルがピアノを好きなことを知っていた。


「ハルも、やめちゃえば」

「えっ……」


 また顔を上げたハルを引き寄せるように腕を掴んで、横に並ばせて。そのまま手を繋いで、あぜ道を歩く。冷たかった手が彼女の体温を吸ってじんわりと温まっていく。ハルの方を向くと、綺麗に切り揃えられた黒髪が目の前で揺れていた。


「ね? ピアノを弾く時間の代わりに、もっと一緒に遊べるようになるし」

「いっしょ、に」

「うん、そうしようよ。やめたら、ピアノだった日はハルと一緒に遊ぶ日にしよ」


 その場限りの嘘で、誘う。

 座敷わらしみたいななりをしていたハルは、まるで絵に描いたように友達の少ない女の子だった。彼女が誰かといる時は私も必ずいて、いつも不安そうな目は私を見るとぱっと華やぐ。私はハルの中で、一番の自負があった。

 そんな彼女が好きなピアノを今日はとても寂しそうに弾いていたのを思い出す。私はこの時、ハルにとっての自分がピアノの楽しさよりも上にいることを無意識に気付いていた。


「だから、ね?」


 だから。

 どう言えばこの黒い髪が縦に揺れてくれるかも、知っていた。




 ハルのピアノを奪ったあの場所へ久しぶりに足を向けることにした。

 いつもは通らないシャッターまみれの商店街を通って、大通りの信号を渡って。遠回りどころじゃない遠回り。一度家に帰ろうかとも思ったけれど、それだと風情がないと思った。

 新しい舗装でパッチワークみたいになった道は少し意地が悪く、少し痛みの引いた足を疲れさせてくる。でも許してあげてもいい。そういう気分だった。

 思い出すだけで胸がいっぱいになる。キャンバスの隅に貼り付けてきたレシートと、そのまっさらな裏面に書いた内容を思い出す。三秒で考えて付けてあげた、絵のタイトル。

『青い春』。

 なかなか悪くないんじゃないか、なんて。額に入って、下に取り付けられた銀色のネームプレートを夢想する。すごくそれっぽくて、ふふん、と誇らしく鼻が鳴った。

 彼、それとも彼女だろうか。あの絵を描いている人の驚く顔が目に浮かぶ。胸には、久しく感じていなかった高揚感が満ちていた。

 カバンを持つ手が痺れて、一度立ち止まった。肩に掛け直して橋を渡ると、遠目に見えた。青い屋根が目印だった洋風のお屋敷みたいな家は記憶の中より少しくすんでいた。

 でも私が気になったのは、家と私を結ぶ景色だ。

 畑に挟まれていたあぜ道はいつの間やらコンクリートに塗られて、片方の畑は駐車場といくつかの住宅に切り分けられて消え失せていた。かろうじて残っていたもう片方は荒れ放題で、人の手が入っている気配はない。秋特有の、笹の出来損ないみたいな細長い植物が背くらべをするように伸びている。

 ……私は、なにをしてるんだろう。

 興奮はすっかり抜け切って、川沿いを吹く風がここまで届いて、代わりに肌寒さがやってくる。私は震える肩を抱いて、慌てて来た道を戻っていく。

 あの間を歩くのは、今の私にはひどく怖ろしいから。ぴったり真ん中を歩けるほど確固たる意志もなく、どちらに揺れるのも怖い。

 改めて見回すと、帰り道にある景色はみんながみんなどちらかにブレていた。

 違う。みんな、選んだんだ。

 そこそこ良い立地に合ったコンビニはいつの間にやらデイサービスの事務所になっているし、駅前の本屋は半分がクリーニング屋さんになっている。きっとどこかで躓いて、変化を強いられたんだ。

 商店街の抜けた角にあるタバコ屋、立ち入ったことはないのにずっとそこにある雑貨屋。そして天ぷらが美味しかった記憶がある、定食屋。変わっていないと感じた風景たちは目を凝らすと、必ずどこかかしらが朽ちていた。気怠くタバコ屋の受付で顔を出すおばあさんはその滅びを受け入れているように見えた。

 また『ずきずき足』が痛みを訴えてきたから、叱るように強く踏み鳴らす。電気が弾けたみたいな衝撃が、がん、と耳を鳴らした。

 焦りは、気付いていたことの証明だ。

『青春を陸上に捧げた』なんていう聞こえの良い言葉を免罪符に、ここまで来てしまった。

 もう走って逃げられる期限は、過ぎているんだ。どこまでも走り続けられると信じていた中学生のようには、もういかない。将来という言葉が明確に顔を出して、自分の限界も見えた。走り続ける憧れにはもう近づけない。陸上で人生を歩んではいけないことなんか、とっくに分かってた。ただ、顔を背けていただけ。

 私も。

 逃げ続けるだけではいけない時がきているんだ。


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