2
スタート。
肌を撫でるのは、空気すらも置き去りするような全能感。代償は、身体の悲鳴。でもそれすらも塗り潰してくれる、この無敵にさえなれたような感覚が堪らなく愛しい。
酸欠でぼやけていく頭で想像するのは、身の程も弁えずに後を付いてこようとする、のろまな砂煙。慄くように飛び跳ねる、砂粒。なんだ、砂ばっかり。そんなどこへともつかない悪態を風に溶かして、垂れていた頭を上げれば忙しない視界が広がる。立ち幅跳び用の砂場、野球の二塁ベース、まだ葉の青く残る木々たち。次々と去るように後ろへ遠ざかっていく。
トップスピード。
踏み抜いて、弾むように脚が跳ねて、でもどこか澄ましたような背を張って、強がって。そうしてやってくるのは光源のない海の底でもがくような、孤独な苦しみだ。肺が潰れて、手を前へ必死かき出しても、界面までの距離は果てしない。その苦しみと絶望に顔をしかめる私を、自分の身体すらも掬ってくれやしない。「ワタシだって疲れてるんだから」そう冷たく突き放すように、酸素も血も割こうとはしてくれない。でもそれで諦めようものなら自殺したい程の虚無感がやってくることを、知っている。
ほんと、なんでこんなこと。
吐こうとした毒が吐き出せなくて、身体中に巡る頃。内から全部を投げ出すように空想のゴールテープを切る。達成感なんてものはなく、途端に苦しさが頭に重くのしかかってくるから、だからこそ胸を反らして視線は赤暗い秋空へ。楽をしたがる自分への反抗心。その苦しさを乗り越えてようやく、私の百メートルが終わる。
荒い呼吸を整えながら振り返る。放課後さえ過ぎた人気のないグラウンドは、ひどくのっぺりとしていた。さっきまではあんなに賑やかだったのに雑に投げ捨てられてしまったようで、侘しい。もう地面の上には私の残した砂埃が静寂の中に立ち込めているくらいで――――いや、ひとつ増えた。
それは校舎から伸びて下りた坂を伝って侵入してきた、気怠げな足音。空へ向けた視界の端で捉えると、先生に怒られない程度に染められた茶髪がふてぶてしく揺れていた。マネージャーの……誰だっけ。肩書きは分かっているのに、名前だけが喉に突っかかって出てこない。
ほらあの、下校前の着替え途中、ブラのまま急いでメイクをするせいでアイラインが少しがたがたの、あの子。
「サキ、もう下校時間だよ」
その髪でそんな真面目そうな台詞が吐けるのだな、ともどかしい感情の隙間で思った。走り終えた余韻には些か興ざめの、重だるい声。もっと具体的に言ってしまえば、「あんたが終わらないから私が呼びに行かされたじゃない」を内包している。また怪我しちゃうよ、なんて心配そうな言葉を付け足してくれるけれど、どうせ本音じゃない。
「先生にちょっとだけって許可もらってるから、大丈夫。あとストレッチだけしたら帰るし」
「あ、そう」
ひくつく顔。私は見逃さなかった。だって、その表情を浮かべるのが分かっていたから。
「さすが、花形のエースだね」
「なにそれ。まぁ、だから気にしないで。後は片付けとく」
気取りやがって。気取って悪いか。そんな言葉をお互いに分厚い分厚いオブラートに包んで、渇いた笑みを吐き出し合う。その間に私は脱力させた手足を振って、身体の熱をゆっくりと冷ましていく。少なくとも私にはダウンやストレッチの方が、親しくもない部員たちに前へ倣えをするより重要だ。それを気取っているというなら、そういうことなんだろう。
ちなみにエースだなんてことも、きっと思ってない。エースっていう肩書は同じ空気に属して、初めて審査されるものだから。たとえ花形と呼ばれる短距離に属していようと、私にはそもそもエースの資格はないのだ。
「いいの?」
「良いもなにも、私の勝手だから。して当然といいますか」
右肩の袖で汗を拭いながら、おどけた固い言葉で突き放す。頭の中ではまだ彼女の名前を探していた。もう一年以上も顔を合わせているのに一向に出てきてくれないことに、もう笑えてくる。いっそここで誰だっけ、なんて聞き返したらどんな表情を向けてくれるだろう。困り顔、怒り顔、呆れ顔。どれも甲乙つけがたい。
さすがに、しないけど。
「だからいいよ。ありがと、お疲れ様」
お礼と労いには興味はなかったんだろう、私が言い切る頃には彼女の足はもうこちらに向いていなかった。向いているのは流し目から伸びる、錆びついた刃物みたいなアイラインの刃先だけ。それも私の言葉が切れるのを待って見えなくなる。
あの刃先が振り返って私を刺しにきたらどうしよう。ふとそんなことを考えてしまって、私は目を覆うように手をかざしてみた。ひらがなの『て』に似た、擦り切れたような皺をあちらへ向けて威嚇する。本屋で高く平積みされていた占い本を思い出した。化粧を厚く塗った女性の笑顔が印象深い、ハードカバー。この手相には一体どんな未来があると診断されるのだろう。
結局のところ。
名前は出ないままだった。
「……それ、もしかして、河合さん?」
「あっ、そうだ! そうそう、カワイさん河合さん」
アイラインのあまり可愛くない、河合さん。
そう呟いた私に隣からは苦い視線が飛んできた。そんな瞳をするくらいなら、教えてあげればいいのに。その、緻密な極細アイラインのやり方を。
「サキちゃんはもう少し他人に興味を持った方が良いと思う」
「え、でも覚えてたよ。陸上部のマネージャーで、ぎざぎざちゃん」
「役割じゃなくて。あとその覚え方も酷過ぎ」
体育館裏、ぱりぱりに日焼けしたベンチの上でハルは呆れたように言葉を零した。白っぽく変色したそれに腰掛ける姿はクリーニングしたての制服のせいか、少しアンバランス。でも客観視すると一周回って自然に見えるのかもしれない、そう思った。
だって。
隣り合う私とハルの並びが既に歪だったから。
「ちなみに河合さん、同じ中学だからね」
「うそ!」
私は眠そうなハリネズミみたいなショート、彼女は跳ねるような癖っ毛をオシャレに巻いて誤魔化した可愛いセミロング。橙の線が走るスポーツジャージと、クリーム色のカーディガン。そして、くたびれたランニングパンツから伸びる小麦色と、しゃんと張ったスカートから覗くほの白い肌。
ほら。昨日晩ご飯で麻婆豆腐の隣に並んだポテトサラダくらい歪だ。いくらお弁当の余りだとしてもあんまりな付け合わせ。
「ほんと。まぁ大分印象変わったけど」
そう言うあんたもね。
そう思うも言葉にはせずに、私はスポーツタオルで首筋を撫で終えた。ハルはそんな私を他所に足を伸ばして爪先をぺこぺこと動かしている。
「じゃあ興味を持って質問するけどさ、ハルは今日なにしてたの? こんな時間まで」
「図書室から、サキちゃんが走ってるの見てた」
うわ。
半身分、身体をずらして距離を置いた。
「じょーだん、冗談だって。いつも通り、図書室で宿題してただけ」
「いつもと一緒なら、興味持つ意味なかったじゃん」
「そういうことじゃなかったんだけど……もう、そういうことでいいです」
どこかぐったりしたように肩を落として、呆れていますよっていうアピールを見せてくる。でもそのポーズが本当に呆れているなら私はとっくに呆れ果てられていると思う。だから私は気にもせず、ベンチへかかとを乗せた。コンパクトに脚を折り畳んで、冷ややかに偽装された視線ごと靴下についた砂埃をデコピンで払っていく。逃げ出すように布地から飛び出てくる様子はつくしの花粉みたいで、なんだか鼻がむず痒い。
「勉強なんて、家に帰ってすればいいのに」
「サキちゃんは、家に帰ってちゃんと出来たことある?」
「うるさい」
「わ、怒った」
ハルは小さくバンザイをするようにわざとらしく驚いて、そして嬉しそうに緩く笑った。欠片も悪いと思っていないのに「ごめんごめん」と薄っぺらく謝罪の言葉を繰り返す彼女の前に、あのがたがたのアイラインを引っ張ってきてやりたくなってくる。そうすれば、作った顔と言葉だらけの『余所行きのハル』と混ざって面白いことになってくれるかもしれない。
ハル。私と同じ高校の二年生。クラスは別。名前は、椎葉春子。でも本人が『子』をこっそり嫌うから、私はハルって呼ぶ。
彼女との関係は、話せば長いかもしれない。なにせ期間的には無駄に長い。遡ってしまえば小学生になる前からの付き合いになり、それは私の歩んできた人生の三分のニくらいを占めている。でも濃いかと言えばそうでもないというのが、本当のところ。
「ほら、帰るよ」
「あ、待って待って! もう、ストレッチが終わるの待っててあげたのに」
「誰も頼んでないし」
「服は着替えなくていいの?」
あらかじめ部室から持ってきていた鞄とシューズケースをひとまとめに担いで立ち上がる。
今年の夏は過ぎ去るのが早くて、まだ仮にも九月だというのに空気からは秋の匂いがしている。だから半袖はちょっと寒い。でも最近の、制汗剤より香水の比率が増えた部室はあんまり好きじゃなかった。
「どうせ近いから。このままでいい」
ずっと親友なら一行で済むかもしれない。でも、私とハルは違った。
いまはむかし。活発だった私と内向的だったハルは今とは違う意味で対称的で、友達の少なかった彼女は私によくなついていた。それこそ、べったりと言っていいくらい。私も尻尾を振られるのは嫌いじゃなかったら、仲は良かったと思う。けれどいつも後ろをくっ付いてくるハルは、私にとってはカバンやシューズケースにつける缶バッチ、もしくはちょっと格好の良いキーホルダーだったんだろう。
ちっちゃい頃は身に着けているのがなんだか誇らしくて。でもいつの間にか恥ずかしくなって、小学生の時買ってもらった学習机の引き出しに押し込んで、それっきり。まさにそんな感じで、中学を境にやんわりと距離を置いていった。
「どうかした?」
「最近、よく来るね」
つっけんどんな、意地悪な声が出た。
距離を離したはずなのに、高校二年生の今。夏休みが開けた途端、また関わりが増えた気がする。
「おかげさまでテストもなんだかんだ近いので、図書室に入り浸っております。帰る時にサキちゃんが片付けしてるの見えるから、どうせなら一緒に帰ろうかなーって」
「テストってまだ三週間くらい先じゃない?」
「詰め込み勉強はしない派なので、っと」
ハルは指を伸ばした手をこめかみに当てて敬礼のようなポーズを取りつつも、身体を放るように立ち上がった。勢いをつけるように背もたれへ身体を預けた拍子、脇に置かれた鞄へ取り付けられた何処かのご当地マスコットらしいキーホルダーが、ちゃり、と音を立てて揺れた。
ハルにとっては、私が思っているよりは希薄な関係ではないのかもしれない。関わりが細くなっても、こうやって暇潰しに絡んできていた。明るい調子で話しかけてくる彼女は少し面倒くさいこともあるけれど、土足で踏み入るようなことはしないから、話しやすい二人きりなら別にわざわざ拒んだりはしない。でもこの『サキちゃん』呼びだけはすごく、すごくくすぐったい。何度か注文をつけても直ってくれる気配はなかった。
「直ってって、これが元々なんだから直りようがないよ。これが正常なんだもん」
校門へ足を向けると、変に上手いことを言って駆け足で横に並んでくる。いたずらっぽくこちらを覗き込む瞳。頬を柔らかく見せるえくぼ。ハルはいつの間にやら自分を幼く見せるのが上手くなった。お菓子の分け合いで最後の一個を譲ってもらえる女の子は、きっと彼女だ。可愛く形作られた口から紡がれる『ちゃん』付けも似合っている。けれど、呼ぶ彼女に似合ってはいても、肝心の私に似合ってないのだ。スパイクとランニングパンツがトレードマークの私には、こそばゆくって仕方がない。
もしかしたら私はこの呼び方が恥ずかしくてハルと距離を置いたのかもしれない。
うん、そういうことにしよう。
「じゃあ『ちゃん』付けやめたら、一緒のグループに入ってくれるの?」
「……やっぱ、なしで。絶対ナシ」
廊下を歩くハルがよく一緒に群れている少女たちを思い出す。発熱温度が高そうな、逆さまの剥き出し電球みたいに恰幅の良い子。実はクラスカースト五位くらいに陣取ってそうな、吊り目が割とイケてる子。噂話を頬袋いっぱいに溜め込んでいる、リスみたいなそばかすガール。どれもこれも限りなく音楽性が違い過ぎて、私が入った途端に爆発する未来が見えてしまう。
あれ。私が入ってすぐ爆発してしまうなら、私に原因があるのか。
まぁ、やっぱり独りでいい。
「サキちゃんのそれは随分前からだから、もう諦めてはいるけど」
変に強引に誘わず、慣れた様子でさっと引いてくれる彼女の態度はありがたい。こうでなければ、関係はどこかでぷつりと切れていたに違いなかった。そういう、煩わしさを感じた瞬間についつい手を離してしまうような癖が私にはあった。ちゃんと気難しさの自覚はあるし、それが孤独を増やすことも理解している。それでも粗い紙やすりみたいな、触り心地の悪い関係を続けるのは苦手だった。
「ま、気が向いたら言ってよ。あと二席くらいなら空いてるし」
「定員とかあるんだ」
「友達百人出来ても逆に困りそうじゃない?」
「それは、たしかに」
自分が一般的だなんて思わない。けれど彼女もなかなかな希少派だ。わざわざこんな気難しい人間に話しかけてきて、気も利かせてくれることを考えると、相当な物好きかお人好し。多分、前者。お人好しなら変な優しさで手を引っ張って、私を孤独の箱庭から引きずり出そうと大きなお世話を焼くに違いないから。
「あ、なおってって言えばさ。ケガはもう大丈夫なの? けっこう思いっきり走ってたけど」
「まぁまぁ、かな。言われたことは……守ってるし」
「あ、今ちょっと間が合った」
「ずっと家でごろごろしてるわけにもいかないし。大会もあるから」
ハルの視線を感じてなんとなく一歩前に出した足を浮かせたままぷらぷらと振って見せると、彼女は可笑しそうに八十点で笑った。口を大きく柔和に横へ広げて、並びの良い白い歯を見せびらかしてくる。相変わらずハルの笑いのツボが分からない。河合さんはぴくりとも笑ってくれなかったのに。
「あ、もしかして! 万年帰宅部の私への嫌味だったり?」
「するかもね。ハル、最近太ってきたし」
「うっ……これでも平均ですよー、だ。ぎりぎりだけど。でもでも、冬が近づいてきたからしょうがないんだよ」
私の飛ばした棘を跳ねのけるような、混じり気のない八十二点の笑み。棘が跳ね返って、爪先にちくりと刺さった。私は不服そうに膨れる顔から逃げるように視線を降ろして、ハルが手で軽く叩いて主張するカーディガン越しのお腹へ目をやる。ニット生地に包まれたそれはとてもあったかそうに見えた。陽も落ちた夕暮れの中、私の格好はやっぱり肌寒いから、羨ましい。
「そんなまじまじと見られると、恥ずかしいよ」
隠すように折れ曲がる姿が変てこで、つい少しだけ鼻で笑うと、ひどい、なんて言ってハルも小さく七十五点で笑った。
いつからだろう。ハルが笑う時、たまに心の中で点数をつけるようになったのは。
大仰に言ってしまうなら、生き方を違えた時。俗っぽく言うのなら、彼女が中学デビューに成功した時。もしくはその少し後。私にべったりだった世界を飛び出して、周りの景色と一緒に薄まって、前へ倣うように混ざって――赤点の笑みを浮かべ始めた時。
「見てない。前のシルエットと比べてただけ」
「なら、二日前のシルエットを参考にしてくれると、嬉しいかも」
ハルの言葉に従って、記憶を切り取って貼っつけてみた。でも案の定、二日前なんて遜色がない。現状維持を褒めて欲しいのだろうか。それとも二日前からダイエットを始めたか。いや、むしろ三日前になにかすごいことがあったのかもしれない。そうちょっと考えて、そもそもこの話題はいささか普通過ぎると思った。
こんな、何気なくダイエットの話をするような――女子力の高い関係だっただろうか、私たちは。
そもそも二日前のシルエットが簡単に浮かぶような関わり方をしていたことに改めて驚く。
「どうかした?」
「いや、やっぱり最近ハルとよく会ってるなって」
校門を出てまた同じようなことを言ってみると今度は、あー、と心当たりがありそうな間延びした音。
一般的な関係でくくるには私たちの今の関係は、やはり少し特殊だ。
別のクラスになったからっていう薄れていった友人関係とも違う。同じクラスだった一年生の頃と二年になってからの親密度は、実はそんなに変化はなかった。
一年生の初めから関わりをあまり持たずに周りへ塩対応を続ける私には、中学生の頃と同じく『独りが好きな変わった女』という印象がお弁当の半額シールみたいに貼られた。そんな早々に安い値段がつけられた私に話しかけるのは、集団性が重視される中だとリスクが高かったのだろう。腐ってて食中毒になっても大変だし、なんて。もちろん、一番は私自身が構われることを望んでいなかったからだろうけれど。
「そう、かな?」
とぼけるなら誤魔化すような笑みを隠して欲しい。
「まぁ夏休みはハルと顔合わせることなかったから、余計そう感じてるだけかもね」
「夏休み、実はけっこう会ってたよね? スーパーとか、本屋さんとか」
「そうだっけ」
「そうだよ。でもサキちゃん先に気付いたら、絶対私のこと避けるんだもん」
今のハルとの関係を例えるなら、年上の従兄と会っているような感覚が近いかもしれない。理由やタイミングが合わなければ、まともに言葉さえ交わさないような。こうやって話そうとすれば普通に話せるというのに、見つけても顔を背けて隠れようとしてしまう、そんな気恥ずかしさの勝る関係。今だって気恥ずかしさの薄れる二人きりじゃなく、トランプで盛り上がれるような人数の集まる場だったなら、私の口はきゅっと結ばれ続けているに違いなかった。ハルが場をぺたぺたと作って、優しく取り持つ姿をのんびりと見ているんだろう。輪からズレ始めた中学生一年生の時みたいに。
彼女もそれを知っているから、見計らってここまで来ている。その証拠にハルは話の中の特徴だけで別のクラスの他人を言い当てた。さっきの現場を見ていて、私が一人になるのを待っていたんだ。
「……別にばったり会って、話すこともないでしょ」
「ほんとにもう……あそこにいるの見つけて、ほんとに良かった。サキちゃんどこにいるか教えてくれないし!」
隠れていたわけでもないけれど、まさか誰かにばれるとも思っていなかった。
体育館の裏に位置するあの場所は人の出入りもなく、綺麗なコンクリートが敷かれていて、ひんやりと冷たくて気持ちが良い。運動後の火照った身体をストレッチするにはこれ以上なくうってつけで、お気に入りだった。一人でお昼を食べるのにだって具合は良い。
「教えてもしょうがないでしょ」
「ダメだよ、ちゃんとどこに行くか言ってくれないと」
「私はあんたにとってなんなの。外に遊びに出かける子供じゃ、」
ぽん、と間抜けな電子音が聞こえた。
あれ音切ってなかったっけ、そう呟きながらハルは制服のポケットをまさぐる。視線を外された私は『ないんだから』を飲み込むしかなくなってしまった。
「ちょっと待ってね……えーっと、その課題は、来週まで、だから、」
おばあちゃんみたい。指が弾き出す返信内容を途切れ途切れに呟くハルにそうツッコミたくなる。でも私は彼女が口に出すのは確認の意があって、そして少し緊張している時であることを知っている。きっと最後にはあの、150円で買ったパンダの可愛いスタンプの中からひとつをきちんと選んで押すだろうことも、知っている。口を尖らせた顔のまま、変なパンダが笑い転げるスタンプを押すのだ。
「え、明日? んー…………」
「お呼ばれ?」
「そんなとこ。カラオケだってさ。……い、い、よっ。えぃっ」
思う。ハルもみんなも、楽しくないのに楽しそうに振る舞うのはどうしてなのだろう。今だってちょっと悩むような約束を快く即答したように取り繕っている。びっくりマークや笑顔の顔文字で偽装して。もちろんそれは人間関係を円滑にするためなんだろう。それでもやはり、煮えきらない。
そんな、見下げた感想と共に決まってやってくるのは、ひどく曖昧な焦り。
なんとか言語化するならそれは、中学の頃から走り続けて変わり映えのしない自分への不安だ。みんなが必死に演じ出したあれが進化なのか、退化なのか、斜に構えた私には判らないから。それが分かる頃には追いつかないくらいに差が開いてしまうのが、白河サキは怖いんだ。
学校が面してる国道から脇に逸れたこの道だって、昔は古い家が並んでいた。人の顔ぶれはあまり変わらないか年老いていくばかりなのに、家だけは若返るように生まれ変わっていく。ちょっとくたびれたようなあの景色が好きだったのに、大型工事の蓋を開ければ金太郎飴みたいに代わり映えのない家ばっかり。今ではもう逆に古い木造建築は浮く有様で、地震の時に崩れて隣に迷惑かけたらどうするのかと冷えた目さえ向けられている。
そうして胸をざわつかせてくる感情が、もうひとつ。
先ほどとは矛盾した、変わることへの不安だ。
さっき河合さんとしたやりとりを思い出す。私もあれの、他人への取り繕い方を覚えつつあるのがまた怖ろしく、その強風でなびいて倒れ込まないように必死で留まっている。
変わらないのも不安。でももし、成長した先にあれが続く日々がやってきてしまうなら。
私は、ああはなりたくない。
それならずっと、ずっと走っていたい。
「走りたくなってきた」
「サキちゃんはほんと、変わらないね」
送る内容を朗読し終えたハルが微笑んでくる。
どきりとした。心を読まれているんじゃないかって。でももし読まれていたならさっきの言葉は皮肉になるわけで、なんだか無性に悔しくなる。前に向けていた視線を斜め後ろへ。嬉しそうな八十九点の笑みに被さる、ぼやけたような茶髪。
ああ、今すぐにスプレー缶を振り回して、あの臆病に、体裁的に染めた髪を混じり気のない黒に戻してやりたい。
そう思ったのは、一体いつからだろう。
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