第一章 追想

抜け落ちた記憶

 フランスの西岸に面しているビスケー湾の真ん中に、ソレイユ島という小さな島がぽつんと存在していた。

 長方形の角を丸くしたような形をしており、総面積はおよそ四〇〇〇平方キロメートル。人口は二〇〇四年現在で約一万人しか居らず、特産品と呼べる物もこれといって無い。

 所属国であるフランスの本土に住まう人間ですらその存在を知らない者が居る程閉鎖的で後進的な島であったが、唯一の特徴と言えるものとして、“ヴァンパイア伝説”と呼ばれているおとぎ話が存在していた。

 それは遡る事三百年前にこの地で起きた、強大な力を持つヴァンパイアの一族フォートリエ家と、それを狩る者――ヴァンパイアハンターの一族であるアルベール家による戦いを記した物語。

 その結末は、ハンター側の辛勝。ヴァンパイアの長を封印し、配下のヴァンパイア達も無力化する事に成功した。

 そしてその戦いから三百年後、再びこの地にて、現ヴァンパイアハンターである双子の姉妹と、ヴァンパイアとして目覚めたフォートリエ家による戦いが繰り広げられた。

 壮絶な戦いは甚大な被害をもたらしたものの、ヴァンパイア側の目論見は、双子の健闘によって阻止された。


 話は、それから一ヶ月後の事。季節が春から夏に変わろうとしている六月の中旬頃のある日、ソレイユ島はハリケーンに見舞われた。

 そのハリケーンは人々が寝静まっている夜中に雨風で気の向くままに島中を蹂躙じゅうりんし、その後何事も無かったかのように消え去った。

 ――翌朝、空は昨晩の悪天候に苦しめられた住民達を嘲笑あざわらうかのような快晴。

「全く、酷い夜だったわ……」

 ソレイユ島の東部――ジュピテール地方に存在するロコン村にて、修道服を着た長い銀髪の女性が、空を見上げてあくびを噛み殺しながらそう呟いた。

 雨風が窓に打ち付けられる音のせいで昨晩一睡もできなかった彼女は、寝不足で苛立ちながら、村の側にある海岸の様子を見に行こうと歩き始める。

「ヴァンパイアの次はハリケーンによる天災? 冗談じゃないわよ、全くもう……」

 憤懣ふんまんやる方無い気持ちを治めようと、ぶつぶつと文句を吐き出し続ける。

 彼女の名前はシャルロット・アルベール。前述した二度目のヴァンパイアとの戦いで活躍した、ヴァンパイアハンターである双子の一人であった。


 海岸に到着したシャルロットは変わり果てたその光景を見て、昨晩のハリケーンが凶悪なものであったという事を改めて思い知る。

「(いつか島ごと流されちゃわないか心配になってきたわね……)」

 砂浜に流れ着いていた流木を拾い上げ、苦笑を浮かべるシャルロット。その流木を何の気無しに、海に向かって投げ捨てる。そこで、彼女は投げた方向に少女が倒れているのを見つけた。

 眉をひそめ、怪訝に思いながらも、その少女の元へと歩いていく。

 今は海水に晒され乱れているが、キチンと整えれば肩にかかる程の長さであろう黒紫色の頭髪。チェック柄の赤いスカートに、黒のブレザーと白いワイシャツという服装。

 見知らぬ少女であったが、彼女の服装にだけは見覚えがあった。

「(リュミエール学園の子みたいね……。どうしてこんな場所に……)」

 リュミエール学園とは、ソレイユ島に存在する小中高一貫の学校である。シャルロットもこの学校の卒業生であり、六年前までは少女と同じその制服を着ていた。

「ちょっと、大丈夫?」

 シャルロットは少女を抱き起こし、軽く揺すってみる。反応は無く、少女は目を閉じたまま。

 そこで、少女の衣服に血の染みがついている事に気付く。更によく見てみると、中に着ているワイシャツはボロボロであり、所々に穴が開いていた。

 しかし不思議な事に、彼女自身に傷のようなものは見当たらなかった。

「――生きてはいそうね」

 弱々しいものではあったが、呼吸はしている。シャルロットは少女を抱き抱えて、その場を後にした。


 村に戻り、シャルロットは自分の住処である建物、アルミス教会へ。

 聖堂を抜け、自分の生活スペースであるリビングに行き、抱えていた少女をゆっくりとソファーの上に寝かせた。

「(話は起きてからで良いか)」

 しばらく安静にしておこうと、そっとその場から離れようとするシャルロット。

 すると丁度その時、少女が唸るような声と共に目を覚ました。

「あら、お目覚めかしら?」

 膝の上に手を付く格好で、シャルロットは少女の顔を覗き込む。

 少女は寝起きで朦朧とする意識の中、シャルロットの顔を認識する。

「誰……?」

 シャルロットは少女を安心させる為、にこっと愛想よく笑って答える。

「私はシャルロット・アルベール。アルミス教会のシスターよ」

「アルミス教会……ロコン村の?」

「えぇ、そうよ。あなたが村の側にある海岸に倒れてたのを見つけてね」

 少女はゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。それから、ぼそっと小さく呟いた。

「私、ロコン村の方まで流されたんだ……」

 それを聞き、シャルロットは訊こうと思っていた事を彼女に訊ねる。

「あなた、名前は?」

「……ソフィア。ソフィア・メルセンヌ」

「ソフィアね、良い名前だわ。――服についてるその赤い染み、血よね? 一体何があったの?」

「……」

 ソフィアは俯き、黙り込む。そしてしばらくしてから、重々しく口を開いた。

「ルイズを……止めないと……」

「――ルイズ?」

 シャルロットは眉をひそめて、その名前を繰り返した。ソフィアはそのまま話を続ける。

「私の双子の姉。彼女の目論見を阻止しないと、大変な事になる。だから、絶対に――」

「ちょっと待って。目論見って何なの?」

 シャルロットの質問に、ソフィアは意外な返答をした。

「……わからない」

「……え?」

「思い出せないの……。私はルイズと、崖の上で戦った。それは覚えてる。――でも、他の事が思い出せなくて……」

「内容は覚えてないけど、その目論見は必ず阻止しなければいけないって事?」

「……多分」

 曖昧な様子で頷くソフィアを見て、シャルロットは困ったように溜め息をついた。

「記憶喪失ってワケね……」

 そう呟いてから、シャルロットはある事に気付いてソフィアに向き直る。

「でもさっき、名前は言えたわよね。他に何か覚えてる事は無いかしら?」

 訊かれたソフィアは、自分が着ているブレザーの胸元についている校章を見ながら答える。

「リュミエール学園の事と、住んでた村の事は覚えてる」

「村の名前は?」

「メティス村」

「――メティス村ですって?」

 シャルロットは村の名前を聞き、耳を疑った。

 メティス村は、島の北部――メルキュール地方の崖沿いに存在し、距離で言うとここからおよそ十キロ離れた場所にある小さな村であった。

「まさか、そこから流されてきたの?」

 怪訝な表情のシャルロットに、ソフィアは首を横に振って見せる。

「違う、村からじゃない。――村じゃなくて、どこかの崖から海に落ちたの」

「崖ねぇ……。島の外周は全部崖なワケだし、その情報だけじゃ特定は難しいわ」

「……そうだよね」

 ソフィアはしゅんとなって、残念そうに小さく溜め息をついた。その様子を見て、シャルロットは慌てて言う。

「大丈夫よ。メティス村に行けば、何か思い出すかもしれないわ。まずはそこに行ってみましょう」

「行ってみましょうって……あなたも?」

 驚いた様子で顔を上げるソフィア。シャルロットはにこっと笑って答える。

「困ってる人を助けるのが、私の仕事ですもの。本業の方も最近は落ち着いてるから、正直言って退屈だったのよ」

「本業?」

 ソフィアに訊き返され、シャルロットは何かを悩むような素振りを見せる。それから、唇の端に怪しい笑みを浮かべて言った。

「私の本業は、ヴァンパイアハンターなの。聞いた事くらいはあるでしょう? ヴァンパイア伝説っておとぎ話」

「ヴァンパイア……伝説……」

 ソフィアが呟いた途端、彼女の左手の指輪が、紫色の光を放ち始めた。それと同時にシャルロットの表情がきりっと引き締まる。

「(この気配……やっぱり……!)」

 シャルロットは素早く後ろに下がり、修道服の裾をめくって太ももに取り付けてあるホルスターから銀色の拳銃を取り出した。そして、その銃をソフィアに向ける。

 ソフィアは向けられた銃口を、きょとんとした表情で見つめる。

「な、何……? どうしたの……?」

 その表情を見て、シャルロットもまた困惑した様子を見せる。

「どういう事……?」

「それはこっちの――」

「あなた、ヴァンパイアじゃないの?」

「……は?」

 ソフィアは険しく眉をひそめた。シャルロットは銃を下ろすも、ソフィアに警戒の眼差しを向けたまま話し始める。

「あなたの身体に触れた時、かすかにヴァンパイアの気配を感じたの。本当に弱々しいものだったから私の気のせいとすら思ってたんだけど、今、いきなりその気配が強くなった」

 そこで言葉を切り、一拍置いてから、こう続ける。

「――ヴァンパイアである事、覚えてないの?」

「私が……ヴァンパイア……?」

 訊き返すような形でそう呟いたソフィアの表情には、驚愕が貼り付いている。その中には、不安という感情も孕んでいた。


 それからしばらくの間、ソフィアが黙り込んだ事によって、二人の間に沈黙が訪れた。

 ソフィアは心の中で、シャルロットの言葉を反芻はんすうしていた。

 記憶を失っている彼女にとって、自分がヴァンパイアなどという話は理解し難いもの。しかし、ルイズに剣を突き刺され、崖から蹴落とされた時の記憶は残っている。

 思案の末、ソフィアが行き着いた答えはこのようなものだった。“人間ならば、今こうして生きているハズが無い。だとすれば、自分は――”

「――とりあえず、メティス村に行ってみましょうか」

 不意にシャルロットがそう言って、二人の間の沈黙を破った。ソフィアは彼女に皮肉っぽい視線を向け、答える。

「私はヴァンパイアなんでしょ……? 一緒に行動なんかして良いの?」

「大丈夫よ」

 シャルロットはソフィアの不安そうな顔を見て、くすくすと笑った。

「今の所、あなたに悪意のようなものは無さそうだし。それに、仮に一緒に行動している時に突然襲われたって、あなたに負ける気はしないもの」

「……」

 ソフィアはからかわれたような気がして、少しだけ表情を強張らせる。

 しかし、その表情はシャルロットの悪戯心を更に刺激するだけであった。

「ほら、行きましょ。可愛いヴァンパイアさん」

 いたずらっぽく笑いながら、ソフィアに手を差し伸べるシャルロット。

 ソフィアはむっとしまま、その手を取らずに自分で立ち上がった。


「さて、まずはシャワーね」

「え?」

 シャルロットの提案に、ソフィアはきょとんとして彼女を見つめる。

「海水に浸して放っておいたら髪が痛んじゃうわよ? それに、そのボロボロのシャツで歩き回るワケにはいかないでしょう」

「……別に、誰も気にしないよ」

「だーめ。女の子なんだから、見た目には気を使いなさい」

「い、いいってば……!」

 シャルロットは聞く耳を持たず、ソフィアを自室へと連れていく。

「良いから。それにほら、シャワーを浴びてさっぱりすれば、何か思い出すかもしれないわよ?」

「そんなに簡単な話じゃ――」

「それに、私にだって準備があるわ。その間にさっと済ませちゃいなさい」

「……」

「あなたのとりあえずの着替えも準備しておくから。良いわね?」

 ソフィアをシャワールームに押し込み、シャルロットはその場を離れていった。

「変な人……」

 ソフィアは呆れた様子で溜め息をつく。

 しかし、ふと目を遣った姿見に映っている自分の姿を見て、先程のシャルロットの話を思い出し、ソフィアは自分の髪の毛を片手で摘まんでみた。

 きしきしとしていて、指が通らずに引っ掛かる。その感触に嫌悪感を抱き、ソフィアは観念したかのように溜め息をついて、服を脱ぎ始めた。


 ソフィアがシャワーを浴びている間、シャルロットは教会の外に出て、裏庭へと訪れていた。

 そこにはシャルロットの趣味である園芸の作品が色とりどりに咲き誇っており、一度ひとたび足を踏み入れれば、それらの馥郁ふくいくとした香りが鼻腔をとろかす穏やかな場所であった。

 その裏庭の奥まった場所に、木製の簡易な墓標が複数存在していた。シャルロットはその墓標の前にひざまずき、目を閉じて両手を組んでいる。

 気まぐれに吹く風が彼女の髪の毛をいたずらに撫でるが、シャルロットは体勢を崩す事なく祈り続ける。

 しばらくした所で、シャルロットはゆっくりと目を開け、立ち上がった。

「また、始まってしまうのかしら……」

 そう呟いたシャルロットの声には、悲哀が滲んでいた。

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