第4話
翌日は金曜日だった。学校は休みではないから、いつもと同じ列車に乗れば、多分妹は乗って来るだろう。
私と妻は藤野駅からゆっくり、コトコトと走り出す列車で、小旅行に出かけるように、のどかな窓外の風景を楽しんだ。
その日はあいにく曇り空だったが、なぜか海も空も、いつもどおりくっきりと、明るく見えるような気がした。
妻と私は、この三日間私が座った座席に並んで座っていた。車内はあちらこちらに空席があり、立っている客もいない。
妻は妹の写真を何枚か持って来ていた。
私が妻と結婚したのは二十七の時だから、当然妻は妹と面識がない。だから写真と見比べるつもりだったのだろう。
二十分程して、列車は鎌田高校前駅に到着した。十人程の高校生が乗って来た。が、妹はどこにもいなかった。
「ねえ、どの子」
妻は尋ねる。
「いや、きょうはいないみたい」
「いない?」
「うん、乗って来てないんだ」
「なんだ」
妻はつまらなそうにしていたが、
「でも、とにかくあなたは妹さんに似た人を見たのね」
「いや、似てるんじゃなく、妹なんだよ」
「それが心配なのよ。なんで妹なんていうの? そんなことあるわけないじゃない。妹さんに似た人を見たんでしょ? ねえ、そうでしょ?」
「うん、それでもいいよ」
「変な人」
「引き返そうか」
「いやよ、せっかく列車に乗ったんだから、もう少し風景でも楽しみましょうよ。とにかく、もう変なこと言うのやめてね。どう見てもあなたは正常だから、また来週からちゃんと職探ししてよね」
「分かってる」
翌週の月曜日、私はまた妹に会いたくて、ハローワークで新しい求人が出ていないかチェックしたあと、いつもの海沿いの列車に乗った。
案の定、鎌田高校前駅から妹は乗って来た。ちゃんと決まっているかのように、同じドアから乗って来て、私の向かいに座る。
私は「由紀はなぜお兄ちゃんの前に現れるの?」と聞いてみたかった。何か言いたいことがあるんじゃないか、私に何か訴えようとして、私の前に座っているのではないか、そう思った。しかし声をかけると、その瞬間にせっかくの夢から覚めるように妹が消えてしまいそうで怖かった。
「由紀、どうかしたの?」
私は由紀に心の中で聞いてみた。
しかし妹は俯いたままだった。
いつもどおり終点で妹を見送ると、私はその日も折り返す列車で帰ってきた。
帰りぎわ、新たな記憶がふと蘇った。
父が、三歳くらいの妹と、五歳くらいの私の手を引いて、動物園かどこかへ遊びに連れて行く場面だ。
私は、父親に由紀のことを話してみたらどうかと思った。父に分かってもらえると思ったわけではないが、なぜか、父に話してみたくなったのだ。
父に電話をかけるのは、いったい何年振りだろう。しかし、すっかり疎遠になった父と、久し振りに会って話をするのも案外悪くないかもしれない。
その晩、私は父に電話した。
「もしもし、お父さん? 達夫です。久しぶり」
「達夫? 本当に達夫か? 振り込め詐欺じゃなくて」
「詐欺じゃなくて達夫だよ。どうしてる? お父さん」
「おまえこそどうしてる。皆元気か?」
「はい、元気だよ。お父さんもお母さんも元気?」
「うん、まあ、色々それなりにあるけどな。何とかやってるよ。で、どうした」
「うん、ちょっと久し振りに会って話したいことがあって」
「何だ、話って。電話で言えないことか?」
「そうじゃないんだけど、じゃあ今言おうか」
「何だ」
「いや、実はね、お父さん信じるかどうか分からないけど、最近江の海線の列車の中で、由紀をよく見かけるんだよ」
「なに、由紀を?」
「そうなんだ。由紀の通っていた高校がある鎌田高校前駅から、いつも乗って来て、俺の前に座るんだ」
「他人のそら似じゃなくてか」
「じゃないんだ。由紀なんだよ」
「なぜ分かる。うなじのほくろはちゃんとあるのか?」
私はそれまですっかり忘れていたが、やっぱり親だと思った。妹はうなじに五円玉の穴くらいのちょっと大きいほくろがあった。父はそのことを言っているのだ。
「ああ、それは確認していない。でも、僕は由紀だと信じているんだ。何ていうのかな。妹って、似ているとか似ていないとか、それ以上に心で分かるんだよ。いつも同じドアから乗ってきて、俺の正面に座るんだ」
父は黙っている。この反応は予想外だった。父は私の話を真面目に聞いているのだ。
「それは本当の話なんだな」
父の声音が少し震えた。いくら何でもこんなに簡単に話が通じるとは思っていなかった。
「お父さん、一緒に来てみる?」
私はそう言ってみた。ただ、父は十年程前、脳梗塞を患ってから右足が僅かだが不自由で、老いた今はひとりで遠出できるかどうか心もとない。しかし車なら私の家から父の家まで一時間くらいで迎えに行ける。
「行きたい」
ひと言父はそう言った。私も今回ばかりは、相性の悪い父でも、由紀の姿を見せてやりたいと思った。
「じゃあさ、明日、一時にそっちに車で迎えに行くから待っててくれない? 一緒に江の海線に乗ろうよ」
「分かった」
「じゃあ、明日」
「ああ」
電話を切った私は、随分久し振りに父となめらかな会話ができ、少し嬉しかった。
しかし、改めて思い出してみると、元来父は霊的なものなど信じない人だった気がする。だから私には、今回の父の反応がとても意外に思えた。
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