第3話

母が庭で洗濯物を干している。塀の上にきりぎりすがとまっていて、私はその不気味な印象を与える生き物を眺めている。縁側を見ると、一歳くらいの妹が父親の膝の上にちょこんと座って、父親にあやされながら私の方を見ている。

 そんな、四十年近く忘れていた記憶が、その夜布団の中で蘇ってきた。しかしそれ以降の妹の記憶というのは思い出すと胸が痛む。妹が十代で逝ったせいだろう。一緒に育ち、成長した妹は、言ってみれば私の一部みたいなものだったのかもしれない。

 妹を泣かせたこと、妹を連れて遊んだこと、あるいは父と母に連れられ、妹と、幼い弟と一緒に小旅行に行ったこと。断片的だが、妹の記憶をたぐればそれはきりなくある。

 だから妹が亡くなった時は、身を切られるより辛かった。病院のベッドを囲んで、家族皆でいつまでもいつまでも泣いていたのを思い出す。


 翌日、やっぱり妹は列車に乗って来た。そして私の正面に座って、いつものとおりスマートフォンをいじっている。

 私は弟との約束を心から後悔していた。写真を撮るなどというのは、妹を裏切るようで、ひどく心苦しかった。妹がせっかく私の前に現れてくれたのだから、私だけがこうして妹と無言の交流を楽しんでいればよかったのではないだろうか。

 しかし私は仕方なくスマートフォンを取り出すと、そっとさりげなく、妹の方へ向けた。そしてシャッターを押したが、やはりカシャッと音が出てしまった。

 一瞬妹は目を上げ、私を見た。そして私が私であることを確認したように、また俯いた。

 私を見た妹の顔は、まぎれもなく生きていた時のそれであった。

 その日、終点の駅で妹が改札の向こうに消えていくのを見届けてから、私は写真を弟に送信した。


 その晩、弟に電話をかけるより先に、妻に、

「ちょっと来て」

 と寝室に呼ばれ、私は妻から、

「あなた、最近どうかしたの?」

 と尋ねられた。

「いや、べつに」

「弟のたっくんから電話で聞いたんだけど、あなた、最近列車の中で亡くなった妹さんに会うんですって?」

 と妻が言う。

「なんだ、あいつ、君に言ったのか?」

「あなた、大丈夫?」

「大丈夫だよ、俺は」

「あなた、それで妹さんの写真をたっくんに送ったの?」

「うん、まあ」

「本当に送ったの?」

「何で」

「ちゃんと妹さんを撮って、送ったの?」

「だから何さ」

「たっくんが言うには、写真には電車の座席が写ってるだけで、誰も人は写ってなかったって言ってたわよ」

 私は急に笑いが込み上げ、同時に安堵した。

「そうか、それならそれでいいよ」

「あなた、どうかしちゃったの?」

「どうもしてないって」

「私、心配」

「大丈夫。心配しないで。僕はどこもおかしくないから。精神科に行く必要もないし、そのうち何とか仕事見つけて、ちゃんと働くから。どうせ弟は、精神科にでも連れて行けって、君に言ったんだろう」

 妻は黙っている。

「まあ、そんなところだろうな。大丈夫。このとおり、俺は正常だよ」

「本当に?」

「本当に」

「じゃあ、私、明日あなたと一緒にその列車に乗ってもいい?」

「君が?」

「ええ、一緒に行きたいの」

「そんなに心配か」

「ええ」

 私は少しためらった。また妹を裏切るような気がしたのだ。しかし妻も相当心配しているようだから、仕方がないかもしれない。

「分かったよ。じゃあ明日、ふたりで江の海線に乗ろう」

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