第2話
翌日、午前中はハローワークに行き、午後、昨日と同じ時刻に始発の藤野駅を出発する江の海線に乗った。
その時刻、列車は一時間に三本しかない。
妹はまた乗って来るだろうか。
列車は海沿いをコトコトと走る。心地良い潮の香りが、僅かな乗客を乗せた列車の中を満たしている。列車はやがて鎌田高校前駅に着く。七、八人の高校生が乗って来た中に、やっぱり妹はいた。
昨日と同じように私の正面に座り、スマートフォンをいじっていた。ゲームでもやっているのか、メールを打っているのか分からないが、妹はずっと視線を下に向けている。
私はその日メガネをかけていた。だから妹の顔をつぶさに観察することができた。私は妹に間違いないと思った。しかし、声をかけることはできなかった。本当は妹であるはずがないのだから、声をかけるわけにはいかないという理性が、僅かながら残っていたのだ。
列車は海辺を走る。妹は俯いたまま、「おにいちゃん、おにいちゃん」と私に何かを語りかけてくる。
結局私はその日もただじっと妹を見つめるだけで、終点まで行き、妹が降りるのを確認してまた折り返す列車で戻って来た。
なぜだろう。妹がこうして私の前に現れることが、私には少しも不思議とは思われない。
その晩、私は四つ下の弟に電話をかけてみた。
「ああ、兄さん、仕事見つかったの?」
味気ない挨拶だ。弟は私の家から電車で一時間程離れた町に住んでいて、ふたりの小学生の子供がいた。
「きょう、まあきのうもなんだが、江の海線の車内で由紀を見かけたんだよ」
「ん、何だって?」
「江の海線に、鎌田高校前から由紀が乗って来るんだよ」
「何言ってるんだよ、兄さん、意味が分からないよ」
「だから由紀に二度会ったんだ。いや、見かけただけだけど」
「兄さん、大丈夫かよ。どうかしたのかよ。それ、どういう意味?」
「俺が江の海線に乗っていると、鎌田高校前から由紀が乗って来るんだよ」
「それ、本当に、真面目に言ってんの?」
「ああ」
弟は暫く沈黙した。それからこう言った。
「咲子姉さんに代わってくんない。な、兄さん。そのまま電話切らないで、姉さんに代わってよ」
「何で」
「兄さん、兄さんじゃ話にならない。兄さんは多分、何か……つまり心の病気か何かかもしれない。そんなこと、まともな口調で言うなんて、おかしいじゃん。もしおかしいことが自分で分からないなら……とにかく姉さんに代わってよ」
「いや、いいんだ。もういいんだ。べつに」
「いや、よくはないよ。何だって? じゃあ、鎌田高校前から姉ちゃんが乗って来るって言うんだな」
「そうなんだ」
「うーん、どうしちゃったんだろうね、兄さん。困ったなあ」
「うん、いいんだ、べつに、分かってもらえると思わなかったから」
「いや、分かったよ。兄さんの言ってる意味が。兄さんは鎌田高校前駅で姉ちゃんにすごく似た人を見かけたんだろ? そういうことだろ?」
「あ、ああ、そうかもしれない」
「なんだ、もう、変な言い方やめてくれよ。びっくりするじゃないか。で、何、そんなに似てるの?」
「いや、似てるんじゃなくて、俺は由紀だと思ってる。おまえも明日、一緒に来ないか?」
「バカな。そんなことできるわけないだろ。仕事もあるのに。何かおかしいな、きょうの兄さんは。……そうだ、じゃあ、こうしよう。俺もそうそう仕事休めないから、明日、その姉ちゃんの写真を撮って、ラインで送ってよ。な、それならできるだろ?」
「写真を撮るのか?」
「うーん、いやならいいけど」
「音がするからなあ」
「無理か?」
「いや、じゃあやってみるよ。分かった」
「そう。それとさ、兄さん、焦らず、少しゆっくり休んだほうがいいよ。必要だったら、病院に行ってさ。咲子姉さんと相談してみて。何だったら、俺が咲子姉さんに話してやるよ」
「いや、いいよ。大丈夫だから。じゃ、写真を撮って送るよ」
「うん、そうしてくれ」
「じゃあな」
「うん、じゃあな、兄さん」
私は弟に電話したのは適切ではなかったと分かった。べつに弟に知らせる必要もなかったのかもしれない。
自分だけが分かっていれば、それでよかったのかもしれない。
私は少し後悔した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます