海沿いの列車
レネ
第1話
久しぶりに、海沿いを走る江の海線に乗った。
季節は夏の初めで、窓外には草花が生い茂り、その向こうの海は陽射しに輝き、水平線はくっきりと筋を引いたように見えた。
失業して間もなく一カ月が過ぎる。
ハローワークに通う以外、新聞の折り込み求人広告や求人情報誌を見るしかすることがなかった。しかしそれ以外の時間、家でごろごろするのも中学生のひとり息子である拓哉や、妻の手前格好がつかないので、仕方なく安いカフェに通い、百円で購入した文庫本を読んで過ごす日々を送っていた。しかしきょうはちょっと窓外を流れる風景でも眺めて過ごそうと、藤野駅まで足を延ばし、百九十円の入場券を買い、この列車に乗ってみた。
単線で、車両は二両しかなく、走る速度は自動車より遅いので、生活のことを暫し忘れ、のどかな気持ちを味わって、少し気分転換をするにはちょうど良かった。
失業してからというもの、なぜか幼い頃の父の姿がしきりに思い出された。
二十年近く労働にいそしんできた緊張が途切れ、再就職先が見つからないプレッシャーで内省的になっているのか、遠い幼少の記憶が、眠られぬ夜などにもくもくと湧いては消えた。
たとえば縁側に腰かけ、庭に向かって三歳くらいの私がトウモロコシを食べている。目を上げると、横に座っている父と目が合い、父はにっこりとほほ笑む。私は急に人見知りをし、あわてて目を逸らす。
庭では、母が一歳の妹を抱っこしてあやしている。
そんな古い記憶だ。
私はなぜ最近こんなに父のことを思い出すのだろう。今、列車に乗っていてもこうして父のことを考えている。
しかし七十になる父とは、ここ数年全く会っていない。
父は癇癪持ちで、私は成長するに従い、父とは考え方や気持ちが合わなくなっていった。
父と私は価値観も、性格もまったく違っていて、政治的信条や人生観も違うだけでなく、私はいつからか、父親の人間性を愛せなくなっていた。
母もまだ健在だが、父とふたりで住んでいるので、自然、母とも疎遠になっている。
列車は鎌田高校前駅に停車した。
ここには駅から歩いて行ける距離に、私の妹が生前通っていた男女共学の公立高校があり、その高校の生徒と思われる高校生たちが数人乗って来た。そろそろ下校の時刻かもしれない。
その中に、私の妹がいた。いや、妹ではない。妹は十八の夏に乳がんで美しい盛りの生を終えたから、妹によく似た女子生徒と言うべきだろう。
それにしてもよく似ていた。ポニーテールに結った髪型も、太めの眉も、一重の目も、そして筋の通った鼻にちょっと厚めの唇も、記憶の中の妹そっくりだ。
車内は比較的すいていて、空席も随分あったが、その女子生徒は私の座っている座席のちょうど正面に腰を下ろし、そして俯いてスマートフォンをいじり始めた。
私はできればその女子生徒に、目を上げてほしかった。そして妹ではないことをはっきり確認し、落ち着きたかった。
それに不覚にも、その日私はメガネを持って来ていなかった。私の視力は裸眼で0、一かせいぜい0、二くらいで、二メートル以上は離れている彼女の顔を、精緻に観察することができなかった。
でも、列車が走るにつれ、それはそれでよくなった。二十年前に逝った妹が、今、そのままの姿で目の前にいる。そして妹の背後には、眩しい光を放つ海原が広がっている。
それはとても私の心を明るくする光景だった。
私は、きょうこの列車に乗ってよかったと思った。
妹は終点の鎌田駅で降りる。私はそのあとをついて行く。妹は改札を出る。私は金を無駄にするわけにいかなかったので、百九十円の切符をポケットに、踵を返して、折り返す列車に乗り込んだ。
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