第5話
翌日、父を迎えに行った私は、父を車に乗せて江の海線の藤野駅を目指した。
「お父さん、お母さんに話したの?」
「いや」
「どうして」
「お母さんは現実的な人だから、話しても信じないだろう。もしきょう本当に由紀に会えたら、お母さんにも話すよ」
「そうか」
父は私の話をすっかり信じているようだった。逆に私は、妹がきょう鎌田高校前駅から乗ってくるかどうか心配になった。もし先日の妻の時のように、乗ってこなかったら父は相当がっかりするだろう。
藤野駅に着くと、私は足の悪い父の手を引いて、江の海線のプラットホームまで行った。何とかいつもの時刻に間に合って、私たちはいつもの発車時刻の列車に乗ることができた。
その日はよく晴れた日だった。私たちは互いに何も話さず、列車が駅に着くたび、きょろきょろと窓外の光景ばかり気にしていた。
やがて列車は鎌田高校前駅に到着する。
ホームには数人の高校生が立って列車を待っていた。その中に、妹がいた。
妹はいつものように同じ扉から乗り込み、私たちの正面に座った。
「お父さん」
私は小声で呼びかけた。
「どう? お父さん」
私は心配になって押し殺した声で尋ねた。父は、少し間をおいて、じっと由紀を眺め、
「うん、由紀だ、由紀だ」
小さな声で囁くように言いながら涙をこぼした。
列車は走る。
父は感無量といった様子で由紀を眺めては俯いて涙を拭い、また由紀を眺める。
やがて列車が終点に着くと、私は父の腕を支え、列車を降りようとしたが、その間に由紀はすーっと立ち上がり、扉から出てホームを歩き、父がやっとホームに降りた時には改札の向こうへ消えていた。
私は、父の腕を支えるのに気をとられ、うなじのほくろを確認することができなかった。
父を支えながら、手を引いて、私たちはとりあえずホームのベンチへ行き、座った。
「お父さん、どうだった? 由紀だった?」
私がそう尋ねると、父は、
「うん、由紀だ。由紀だ。ただ……」
「ただ?」
「うなじのほくろを見そこなった。由紀には違いないと思う。しかし確証が……」
父はそう言ってから、
「明日、もう一度見たい。そしてうなじのほくろを確認したい。確認できたら、話しかけてみたい」
父はすでに冷静さを取り戻していた。
「明日も連れてきてくれるか?」
「いいよ、勿論」
私たちはホームのベンチに座って、暫くぼんやりとしていた。
「お父さん」
私は父に語りかけた。
「お父さんは、僕と由紀を色々な所に連れて行ってくれたね」
父は黙って私の顔を見ている。
「釣りとか、小旅行とか」
「それがどうした」
「キャッチボールもしてくれたね。ありがとう」
「何を、今さら」
私たちはどれくらい座っていただろう。夕刻が近づいた頃、私は、
「帰りに長山駅で途中下車して、お寺さんでもお参りしようか」
と父に言うと、父は、うん、と頷いた。
黄昏の迫った寺は、鬱蒼とした木立の奥にひっそりと佇んでいた。三十段程の石段をゆっくり一段一段父の手を引きながら、私たちは上って行った。
途中、何度も何度も休みながら、私たちは、由紀や私の幼少の頃の話に花を咲かせた。そして私が、大きくなってお父さんとは分かり合えなくなったけど、子供の頃可愛がってくれたことや、大人になるまで育ててくれたことを、心から感謝していると改めて言うと、父は、
「そうか?」
とようやく懐かしい笑顔を見せ、少し嬉しそうにしていた。
やっとの思いで拝殿まで来てふたりで拝み、ゆっくりとまた石段を下りた。父はすでにひどく疲れている様子だった。
父が脳出血で倒れたと母から連絡を受けたのは、その翌日の早朝だった。父は昏睡状態のまま、二度と目を覚ますことなく、一週間後に息を引き取った。
私は間もなく新しい仕事を見つけたが、それ以降妹には一度も会っていない。 (了)
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