7. 二日目・夜(2):ある父娘の十六年

 雪町秋嘉あきよしは、高校一年生の娘を持つ父親としては若い。年の近い妻と結ばれて娘を授かったのは二十二歳の時で、今は三十七歳である。


 幼い頃の朔夜はよく分かっていなかったが、若い父親を羨ましがられるのは少し嬉しかった。最近では親友の明日香の父が、今の秋嘉と同じくらいで明日香を授かったと聞いて、何とも不思議な感覚がした。


 物心ついた頃には父と二人暮らしだったが、当時はかなり貧しかった。朔夜が覚えている最初の家は飲食店の二階の六畳間で、父は一階の店を始めとするいくつかアルバイトを掛け持ちしていたようだ。隙間風が入り込み、たまに雨漏りがして虫やネズミをよく見かけた。それでも朔夜が風邪を引かないようにと寝具と暖房には気を使ってくれていたので環境の割には健康だった。

 その後数度の転居を繰り返して、星河町に越してきたのは小学生の時だったが、その頃から暮らし向きは上向いてきた。単身者向けのワンルーム十畳で狭いことを除けば、オートロック付きで防音もしっかりしており、何より寒くないのは子供心にもありがたかった。父の忙しさは相変わらずだったが、以前よりは一緒に居られる時間が増えたのも良かった。

 ただ、越した直後は隙間風が無いことが静かすぎ、かえって寂しく感じられて寝付きにくかった。


 他所の父親と比べてみて優しいほうだと思う。

 生まれてから十六年近く一度もぶたれたりした覚えがない。病気の時は付きっきりで看病してくれたし、掠り傷一つ負うだけで大慌てだった。

 ただ、もう高校生になったのに今でも朔夜一人では火を使わせようとはしないのは少しばかり辟易する。


 何でも買ってくれた。服でも玩具でも欲しがったら欲しがっただけ買ってくれたし、誕生日やクリスマス以外でも月に一度は何かしら玩具や本を買ってくれた。

 金銭感覚の希薄だった幼稚園の頃には、貧しかった時期だと言うのに特に無理をさせていたらしい。中学の頃に金額を計算してみたら、あるアニメのグッズだけで一年に五万円以上は使わせていた。他の玩具や本と合わせたらその倍にもなった。

 思えば父が自分のものを買うところを殆ど見たことがない。幼い頃に父のものだと認識していたものの過半数は家電や調理器具のような『家のもの』だった。

 ただ、男児向けの変身ヒーローや女児向けの戦う変身ヒロインのグッズだけは全く買って貰えなかった。子供なりに他のグッズを控えるからと交渉したが、ごっご遊びで怪我をしたら大変だと父は頑なだった。


 色々なところに連れて行ってもらった。

 動物園や、水族館、テーマパーク……遊園地ではファストパスまで用意してくれたし、スポーツではラグビーやボートレースを良い席で見せてもらった。

 ただ、野球やサッカーはいつもチケットが取れなくて駄目だった。今思えば駄目だったのは、少しでも観客席に球などが飛んでくる可能性のあるスポーツだった気がする。


 朔夜のことを滅多に怒らない。

 うっかり皿を割ってしまってもまず朔夜を心配して一人で片付けてくれたし、間違って重いものを父の足に落としてしまったときも笑って許してくれた。

 ただ、小学生の頃にバスケ部に入りたいと言ったら、いきなり怒鳴りつけられたことがある。ならばサッカー部、と言おうとしたが、『カー』を言い終わる前に悲鳴を上げられた。

 それ以来、家からスポーツが消えた。スポーツ番組は禁止され、何冊かあったスポーツ漫画も捨てられていた。野球ボールを模した時計がいつの間にか無くなっていたのに気付いた晩、朔夜は声を殺して泣いた。漫画も時計も秋嘉のものだったが、それでも悲しかった。


 他人のことも滅多に怒らない。

 仕事先で理不尽に怒られていたのを見たことがあるが、どれほど罵られても平謝りでやり過ごしていた。町中の雑踏で不意に出くわす悪意も顔色一つ使えずに流した。

 ただ、朔夜が少しでも危険に晒されると途端に豹変した。外食の帰りに酔っ払いが自分に絡んでいた間は腰を低くして対応していたのが、朔夜に絡もうとした瞬間、腕を思い切り捻り上げて耳元で何事か怒気をぶつけていた。危うく警察沙汰だった。

 学校で朔夜がボールをぶつけられて怪我をしたことがある。

 朔夜自身、あれは純粋に手が滑ったものだったと確信している。比較的仲の良い子だったし、ぶつけた直後に本当に申し訳無さそうな顔をしていた。実際、怪我といっても少し顔が腫れただけで、週が明ける前に前には殆ど跡が見えなくなる程度だった。

 だが、父は相手の親元に乗り込んでまで徹底的に抗議し、弁護士まで介入させようとした。最終的には朔夜と教師の取りなしでどうにか普通の謝罪だけで済んだ。

 それ以来、朔夜の周囲から人が消えた。件の子と疎遠になっただけでなく、周囲からも距離を置かれるようになった。虐められこそしなかったが、遊びに誘っても避けられる始末だった。

 無理もない、と子供心に納得した朔夜は、父には学校で友達と楽しくやっていると報告し、教師にも三者面談などでそう言うようにと勧めた。皆に避けられているなどと言ったらどうなろうものか、小学生でも用意に想像できた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ただいまお父さん」

「お帰り、朔夜。……今日まで学校は楽しかったかい?」

「はい」


 夕方。帰宅した朔夜をいつもより早く帰っていた父が笑顔で迎えた。いつもなら『今日も~』と聞くところが、今日はまるで卒業式の日に学校生活を総括するかのようだった。


「今日はご馳走だよ。さあ、油断しないで手を洗っておいで」

「はい」


 テーブルにはこれまでの十五回の誕生日や、正月やクリスマスのどの時よりも豪華な食事が並んでいた。明らかに二人で食べ切れる量ではない。残り物が朝どころか昼まで残りかねない程だった。

 父の向かいには、母の写真が収められた木製のフォトスタンドが丸盆に乗せて設置してある。普段なら木目調の盆に乗せているが、祝い事のある日は今日のように赤塗りの盆を使う習慣になっている。

 雪町家には位牌や仏壇、もしくはそれに該当するいかなる宗教の物も置かれてはいない。代わりにフォトスタンドはどんなに忙しい日でも毎日綺麗に磨かれている。少し欠けたり割れたりする度に何度か新調されていて、朔夜が覚えている限りでは五代目のスタンドの筈だ。どうやら他の家では大きく壊れでもしなければ、そうそう買い換えないらしいと知ったのは確か中学の頃だ。


「さあ、頂こうか朔夜」

「はい」


 ノンアルコールのシャンパンで乾杯して父娘は晩餐を始めた。父は料理を丁寧に取り分けて娘に渡す。料理一つ一つに熱くないか固くないかなどと尋ねていつも以上に甲斐甲斐しく世話を焼き、娘はそれに微笑みで応えた。


「今日まで大きな病気や怪我も無くよく頑張ってきたね。えらいぞ朔夜」

「はい。ありがとうお父さん」

「怪我と言えば昔……」

「はい」


 いつもなら夕食時には、その日学校で起きたことを逐一確認して来る父は、今日は学校のことは最低限しか聞いてこなかった。代わりに普段以上に思い出話が多かった。そう言えば、一般的には高校生の娘に学校のことをしつこく聞く父親は嫌われる傾向にあるらしい。

 これを知ったのは本当に最近のことだ。朔夜が一番話す明日香も朔夜ほどではないが、父に学校でのことを話すタイプなので、世間的には朔夜同様少数派だったからでもある。

 確か、今学期になって文芸部で百合山恭哉に聞いたのだ。先輩が書いていた作品への指摘として『父娘にもプライバシーは必要だ!パーソナルスペースに無断で入る時点で性暴力!』と強く訴えていた。

 部活中は変わり者な本性を隠しもしない彼の発言だから、彼がおかしいのかとも思っていたが、どうも前半部分についてだけは世間的に多数派の意見らしかった。

 後半部分については、彼の意見を容れるとこの家で生活できないので論外だったし、他の者も言いすぎだとは言っていた。


 ただ、雪町家には部屋をカーテンで仕切るだけで個室が無いと話したら、全員に目を剥いて驚かれた。百合山恭哉に至っては後ろにひっくり返って泡を吹いて気絶した。比喩や誇張ではない。紺野隼志と恰幅の良い先輩に担架の要領で保健室に運ばれて行って、姉の生徒会長が泣きながら見舞いに来たのは忘れようもない。

 当の百合山恭哉は記憶が飛んだらしく、この件を忘れてしまったらしいのにはもっと驚いたが。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 食事を終えると、手伝うという娘の申し出を頑なに断り父は一人で片付けをした。朔夜は明日の荷物を確認すると、洗い物が終わるのを待ってから先に風呂に入った。


 ハーブの香りのシャンプーやトリートメントでしなやかな髪をケアし、疵一つない肌の上を天然繊維のスポンジをそっと滑らせるように洗う。暖かさが続くタイプの入浴剤入の湯に体がよく馴染むまで浸かる。

 風呂から出ると、ふわりとしたタオルを髪に巻きドライヤーと目の細かい櫛で時間を掛けて髪を先端から梳かしていく。いつも以上にゆっくりと時間を掛ける。それはまるで今日という日が終わるのを拒むかのようでもあった。

 それでも二十分もすると髪はどうしようもなくさらさらに乾いてしまう。



 やがて父が風呂から上がると、布団で待っていた朔夜はワンルームに敷かれたカーテンを超えて、父のスペースに入っていった。


「お父さん、今日は一緒に寝て良い?」

「ああ、良いとも」


 およそ五年ぶりに娘が同じ布団で寝ると言い出したのに、秋嘉は特に驚くでもなく娘の頼みを受け入れた。

 秋嘉が明かりを消した。朔夜は父の背にしがみつく。


「どうしたんだい?」

「お父さん……」

「なんだい?」

「あのね……私、ここにいるよ?」

「ああ」


 朔夜は胸が当たってしまうのも意識の外に置いたまま、父に縋り付いた。


 自分の心音が聞こえるように。

 自分の体温が伝わるように。

 自分の存在を示すように。


「さあ、もう寝なさい」

「……はい」

「もうすぐ……もうすぐ母さんに会えるんだからね」


 だが、父はやはり母だけを……娘の先にいる母だけを見ているままだった。


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