5. 二日目・放課後:ある少女作家の絶筆
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ありがとう、翼………ちゃん……あなたに会えて、私……」
「いや……」
「しあわ……っ……ぁ……」
夕子の指先何もない空中を掻きむしる。それを言葉は途切れた。夕子の目に浮かぶ涙は最早避けられない自分の死よりはむしろ、最後まで想いを言葉にできなかったことによるものだった。
「夕子ちゃん、今……」
翼は言葉に詰まる。最後まで言い切ることで親友の……最愛の人の死が避けられないこと認めることになる気がした。現実には、認めようと認めまいと何も変わらない。こうしている間にも夕子の血はとめどなく流れ出していく。常人なら既に死んでいるところだが、内なる魔力で辛うじて延命してしまっているだけだ。
その魔力を持ってしても傷を治すには至らない。これ以上は、ただ苦しませるだけだ。
セラフィエルの剣を両手で逆手に持ち、振り下ろそうとして止める。
胸元に、振り下ろす……手が動かない。
同じ動作を三度繰り返した。
夕子が血を吐いた。両の目で必死に翼を見つめる。
その表情は、親友を悩ませていることを悔やんでいるようにも、早く楽にくれないことを恨んでいるようにも、迫りくる死から助けて欲しいようにも見えた。
「今、楽にするからね。……ごめんね……ごめん……大好き……だよ……!」
剣が、夕子の心臓を刺し貫いた。
これまで、何百回と敵にそうしてきたように、
布と肉を貫く感触を伴って、
何一つの抵抗もなく、
あっけなく、貫いた。
剣を引き抜く。
傷口から勢いよく迸るだけの血はもう残されてはいなかった。
「う、あ……ああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
血塗れた剣を、無二の相棒にして半身を、これまで夕子を守ってきた
夕子の体に縋り付く。
冷たくなっていくその頬を翼の涙が濡らしていく。
―世界崩壊の元凶が倒されたことで、世界の復元が始まる。
たった数分で、世界は元に戻った。
ごく当たり前の姿に。
ただし、そこには失われた命は戻らない。
それが世界の摂理だ。
全てが終わった時、天使も少女の遺体も地上の何処からも消え失せていた。
学校の庭を濡らした涙が乾いた時、二人の跡は何処からも消え失せていた。
ただ、突き抜けるような青い空に、二人があの日見た銀雪よりも白い月だけが残されていた。
<銀雪よりも白い月>(完)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「……うん。良かったよ。最後に翼が流した涙が一話のリフレインになっているのが特に良い。オーソドックスだけど効果的だ。夕子を救えた喜びで流したのと同じ涙を、今度は彼女を手に掛けた悲しみで流す。敢えて余計な言及を避けて、ここまでついてきてくれた読者を信頼しているのも良かったよ。読者が自然に翼に共感していけるね」
雪町朔夜が文芸部に寄稿してきた連作『銀雪よりも白い月』の最終エピソードを読み終えた、おさげ髪の先輩部員は紙の原稿を揃えながら作品をこう評価した。
『銀雪よりも白い月』は、魔物に狙われていた少女、夕子を天使の生まれ変わりの少女、翼が助けたことをきっかけに友情を深めていく物語である。
だが中盤で夕子を殺さなければ世界が滅ぶことと、翼は夕子を殺すために転生したこと、魔物たちは救世のために夕子を狙っていた天使の変身だったと判明して物語は一転する。
使命に逆らい翼は魔物や天使を撃退し続けたが、とうとう世界の崩壊が始まり、同級生や翼の現世の両親も空間の裂け目に飲まれて死んでしまう。それでもなお翼は夕子のために戦い、最後にして最強の刺客である前世の姉に剣を向けるが、夕子は二人の戦いに自ら割って入り致命傷を負ってしまう。
傷を治そうと治療の法力を注ぐ翼と、目覚めた魔力でそれを相殺する夕子が拮抗する中、夕子の説得に一瞬心が折れた隙に、傷は治療不能な状態となる。
介錯を促して姉が天に戻り、二人だけが残された。
しばし言葉を交わしたあと、翼は夕子の胸にすっと剣を突き刺す。そして冷たくなっていく夕子の亡骸を抱きしめながら翼が嗚咽して、物語の幕は閉じた。
「ぼくとしては、翼には世界よりも夕子を選んで欲しかったんだけどね」
「でも、そうしたら世界が滅ぶんですよ。夕子もどうせ死ぬんですよ。……意味が無いじゃないですか」
「そうかもね。でもこういうのは理屈じゃないだろう?それに結末を変えなくたって夕子を選ぶことはできる」
「え?」
意味が分からず、朔夜は困惑する。翼が殺すのを止めようとして第三者が介入するということだろうか?それで夕子が死ぬのでは、翼の決断の重みや悲劇性が薄れるのではないだろうか?
「ごめんよ。怒らせる気はなかった」
「怒ってませんよ」
「そうか。つまりね、私が言いたかったのは、例えば『夕子を殺さなかった場合』を翼が夢想するとか、そういうことだよ」
「殺さなかった場合?『こんなことにならなければ、二人でもっと色々したかった』みたいなのは前の話で、書いたつもりでしたけど……」
「そうだね。でももっと具体的に書いても良いんじゃないかな。ギリギリの状況下で夢物語に縋りたくなるのはあり得るだろう?」
「あ……翼はそんな弱い子じゃありません!」
朔夜は椅子から立ち上がった。
「うん。でも最後にはことが終わった後とはいえ、剣を放り捨ててしまっているじゃあないか。強さの象徴とも言うべき剣をね」
「それは!そこまで心が追い詰められて……限界になったからで……あっ」
「そうだね。翼は強い子だ。それが限界まで追い詰められたのだから、逃げたくもなる。充分以上に葛藤は書かれているとは思うけど、もう少し書いても良いと思うよ。夕子を選んだ、もしくは選べていた場合をね。それが、その夢想を振り払って決断をした、翼の強さを描くことにも……すまない、人の作品で勝手に熱を上げすぎた」
先輩はバツが悪そうにおさげを弄ると、朔夜に座るように促した。
「そう……ですね。はい……言われてみればその通りです。やっぱり、私才能ないのかも知れませんね。ごめんなさい。こんなに手間を掛けて見て頂いたのに」
「いや、書き始めて一年でここまで書けたら上等だと思うんだがね。ましてや紙で。それに全然悪いわけではないんだよ。半分は私の好みのようなものだし、少し押し付けすぎたね。ごめんなさい」
「ああ!いえそんな……」
座ったままながらも深く頭を下げる先輩に、朔夜は恐縮する。
「それでも書き足しは必要だよ。だからちょうど増やせる部分を指摘したんだ」
「書き足しが必要?今の部分が足りないから、書き足せということではなくて、ですか?」
「ああ。たとえ非の打ち所がなくても書き足して欲しいんだよ。できればね。だって……五千字がノルマなのに、四千字くらいしかないじゃないか」
「え………ああ!」
先輩から戻された原稿を数えながら朔夜はようやく気付いた。
この原稿は部の月間誌用のもので、一人五千字がノルマと決まっている。勿論ぴったり五千字になる筈もないので、四千五百~五千五百字を推奨している。四千では流石に足りない。
朔夜もそれは分かっていたのだが、何度も書き直しているうちに計算を間違えたらしい。今回は改行が多かったことと、紙で書いていると自動で文字数を数えられないことが失敗の原因だった。
普段はパソコンで執筆しているこの先輩だが、紙で書いていた時期があった上に、普段の読書中から字数を概算してみることを意識していたので、あっさりと字数不足を指摘できたのである。
「まあ、絶対書けとは言わないけどね。今月はまだ時間もあるし、来週は祝日もある。物語の締めだ。もう一週間推敲してみても良いんじゃないかな?ほら、こことかも」
「うわっ」
先輩が指差したのは夕子の最後のセリフの直後。『夕子の指先何もない空中を~』と格助詞が抜けている。単純だがやりがちなミスだ。筆圧の強くない朔夜の字であるのに消しゴムの跡が強く残っている。何度も書き直しているうちにうっかり忘れたのだろう。
「ごめんなさい。今夜書き直して明日持ってきます」
「え、いや急がなくて良いんだよ?」
先輩が今日初めてとなる動揺を見せた。普段なら月末に出す月刊誌はそろそろ原稿の提出時期だが、まだ文化祭から二週間しか経っていない。十一月号は十二月の頭に出すのが通例となっている。つまり普段より一週間の余裕がある上に、来週は祝日もあるのだ。
だから焦る理由はない筈だったが……朔夜は悲しげに首を振った。
「いえ、実は……私……今日でこの部を辞めます」
「「「え?」」」
会話を聞き流していた部員たちも一斉に朔夜のほうを向いた。
「何故、と聞いても良いのかな?」
「すみません。でもこれを書き終えられたので満足です。足りないところは何とか直しますから」
「嘘だね。『銀雪』だけでも自分で納得の出来ていないところがあるだろう。君はまだまだ書きたい筈だ」
朔夜は首を降って回答を拒んだ。先輩はおさげの先で朔夜を指す。
「良いんです。私才能無いみたいですから……結局、何も残せなかった」
「『何も、残せなかった』?君の目は節穴かい?」
先輩は自分の眼鏡をすっと持ち上げて位置を直した。眼鏡の奥の瞳がぎろり、と朔夜を射竦めた。朔夜に視線を向けたまま、部室の隅をおさげで指す。
「畜生……!畜生……!」
「どうして……どうしてだよ!」
床に崩れ落ちて泣き崩れている男が、そこに二人いた。
「雪町さん!頼む!二人を……助けてくれ!」
「頼む!」
先輩が来る前に先に原稿を読んだ恭哉と隼志は、そのあとの三十分間、こうして床に崩れ落ち泣きながら作品について語り明かしていた。どうやら先程の退部宣言が聞こえていなかったようだが、朔夜たちの話が一段落したことだけは気付いたようで、朔夜の足元にすがりつくと先輩以上に無茶な内容変更の要求を突きつけてきた。
「あの、いや……そう言われても」
「代わりに僕の首をやるから!いや、心臓か?心臓を捧げれば良いのか!?男の心臓にどれほどの価値があるのか分からないけど、欲しければあげるから!」
「俺のもやるから頼む!首と心臓で足りなければ脳もやるから!」
「おバカ!首を渡したら自動的に脳もついてくるでしょうが!首部分のスライスだけ渡すつもりだったのか君は!気持ち悪い!」
「首だの心臓だの最初に言い出した奴に言われたくないわ!」
「脳のほうが気持ち悪いから!なんだあの脳漿とかいう液体!」
「あのぅ……」
「任せて」
無駄にグロテスクな方向にヒートアップし始めた二人に、恐れ慄く朔夜。先輩は朔夜と、後ろで苛立ち始めた他の部員たちを制して、二人に近づいた。
「えい」
「あうっ!」
「ぎゃああああ!」
隼志には軽く平手を食らわせ、恭哉にはおさげの先で眼球を突いた。
「何してるんですか……!?」
「彼にはこれが覿面に効くんだ」
「誰にだって効きますよ!?」
「それはともかく、」
「それはともかく!?」
「こんなにも、君の娘たちのために泣いてくれる人間が二人もいるんだ。きっと他にもいるだろう。ここで筆を折るのはあんまりじゃないかな?」
先輩は頬の横で二本の指を立ててくすり、と微笑んだ。
「それは……」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その後、やってきた顧問も交えて話し合った結果、退部は保留ということになった。書いてきた筈の退部届が無くなっていたのも決定打となった。
書き直そうと思えば、部室内にも予備の退部届があることは朔夜も知っていた筈だが、続きを書き直したいから、とだけ言って退室していった。
「良くやってくれたね。恭哉くん」
「いえ、結局は本人の意志ですし、殆どは先輩のお陰ですよ」
恭哉は朔夜のバッグから抜き取った退部届をシュレッダーに掛けた。
それを見た隼志がドン引きしていると、恭哉たちの様子を見ていた太った男子の先輩が驚愕して立ち上がった。
「うわ、お前……」
「何処から取った!おっぱい触ったのか!おしりか!?」
「黙ってろよ、クズ」
「黙り給えよ」
「今そういう空気じゃないんで」
「死ね」
「え、俺が悪いのかこれ?百合山のスリ行為は良いのか?」
恭哉を皮切りに部員一同にボコボコにされた横幅のある男子はしゅん、と落ち込んで席に座った。
それを見ないふりをして、おさげの先輩は恭哉に顔を近づけて彼だけに聞こえるように告げた。
「しばらく、彼女のことを注意して見ていてあげてくれるかな?そのままね。どうも嫌な予感がする」
「ええ……元々そのつもりです」
色々すべきことがある恭哉だったが、一度雪町朔夜の様子を直接見ておく必要がある、と思って部活に顔を出したのは正解だった。
『銀雪よりも白い月』の途中から、抱いていた疑惑は確信に変わった。
雪町朔夜は、知っているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます