第十三話:遭遇④ ~絡みつく悪意、少女の決断~
力なく座り込む麗菜は、口元を両手で押さえ身を震わせる。その視線は、眼前の凄惨な光景に縫い付けられている。
倒れ伏した
視線を逸らせずにいる麗菜に対し、嬉々として二人を見続ける者が一人。
「あっははははは! いっ、イヒヒヒヒ……!」
目尻に涙を浮かべ、過呼吸気味に高笑いする章。気が触れたように締まりのない笑い声をあげる彼女は、やがて深呼吸して落ち着きを取り戻す。
「あー笑っちゃった。最近ご無沙汰だったから、久々に楽しかったわぁ……」
恍惚の表情を浮かべて、章は母子へと歩み寄る。躊躇うことなく血溜りに足を踏み入れ、ビチャっ、ビチャっ、と不快な水音が鳴る。そして二人に着き、腰を落とす。
母子の遺体――その頭部に手にを添え、その表情を観察するように自身に向ける章。
「ありがとう婦警さん。あなたのお蔭で中々のショーを見れて満足よ」
婦警の死に顔に、章は華やかな笑みを向ける。
「ほんと、あなたも馬鹿な女よね。屑な旦那との子供なんて、そこまで思い入れる必要ある? 女の盛りである二十代を費やす価値ある? 旦那に押し付けるなり施設に放り込むなりして、人生を楽しむことだって出来たはずなのに。愚かすぎてわたしには理解できないわ。挙句に息子の苦しむ姿見ながら死ぬ羽目になるなんて、あなたの人生なんだったのかしらね? ああでも、大事な息子と一緒に死ねて本望だったかしら?」
粘つく声音で嘲る章は、今度は少年の方に目を向ける。
「痛かったわよねぇ、可哀そうに。お腹の中にナイフと射出装置を無理矢理入れているんだもの、痛いに決まっているわ。きみのおかあさんが無理に起こさなかったら、もう少し眠ったまま穏やかに生きられたでしょうに。結局おかあさんはきみのこと助けてくれなかったのね。でもきみがお腹からナイフぶちまけてくれたおかげで、お母さんもきみの痛みを少しは分かってあげられたと思うわよ? 良かったわねぇ」
嬉しそうに婦警と少年の顔を交互に見て、さらに頬を綻ばせる。
「ああ、いい。とてもいい。あなたの絶望に歪んだその表情も、無限の苦しみに苛まれているようなこの子の表情も、堪らないわ。このままホルマリン漬けにして固めて、他のコレクションと一緒に愛でてあげられたらとても素敵ね」
舌なめずりしながら言う章だが、唐突に表情を引き締める。両手で支えていたそれぞれの頭部を無造作に離し身を反転させる。
振り向きざまに右手を伸ばし、初級無属性防御魔法『
浅葱色の障壁は、辛うじて光弾を防いだ。
「おかしいわね……あなた、魔法が使えないって聞いていたけど?」
攻撃されたことに怒る様子もなく、不思議そうに章は首を傾げる。
章の視線の先。
腰が抜けたように座り込んでいたはずの麗菜が、章と同じように右手を前に掲げ、初級光属性攻撃魔法『
「さっきは可愛らしく腰抜かしてたのに、よく立てたわね。それにこんな状況で魔法を正確に発動できるなんてすごいわ。年齢の割に随分と肝が据わって――」
「どうしてですか」
白々しく言葉を並べ立てる章に、麗菜は抑揚のない声を放つ。俯き気味の表情からは、感情は読めない。
「どうして、って?」
麗菜の言葉の意図が汲めなかったのか、同じ言葉をなぞって問い返す。
麗菜が顔を上げて章を見据える。
空色の瞳は潤んでいるが、それは恐怖によるものではなかった。
「どうしてこんなひどいことが出来るんですか!?」
恐怖は今なお少女の心を縛り付けている。そして先程見た魔法からも、章がかなり高位の魔導士であることも麗菜は理解している。
そんな麗菜が立ち上がり、そして初級魔法とはいえ章に攻撃できた理由。それは恐怖に打ち勝てたからでも、生存本能に駆られて抵抗を試みるためでもない。
「子供を……大切な家族を愛するこの人の気持ちを利用して! 大切な人が苦しむ姿を見せながら殺して! しかもこんな小さな子をこんなに惨いやり方で殺して! なんで、なんでこんなひどいこと出来るんですか!? この人たちは平和に、穏やかに暮らしていたはずなのに!」
麗菜が立つ理由、それは怒りによるものだった。
親子の愛情を冷酷に利用し、弄び、そして二人の命を残忍な方法で奪い。
首謀者は躊躇うどころか二人の絶望や苦痛を遊興とし、母が子を思う心を――家族を思う愛情を無価値と侮辱する。
他者に絶望を強いて、その苦しみを甘露として啜る外道への義憤。その熱が、恐怖に凍てつく少女の心を燃やした。
「なーに? 怒ってるの? 随分と人がいいわね、この女はあなたを私に売ろうとした人間よ? 自分の家族のためなら他人を売ることも厭わない最低な人間なのよ? こんな人のためにあなたが怒る必要なんてあるのかしら」
微笑みを絶やさない章は麗菜の怒りに共感することなどない。しゃあしゃあと浮ついた言葉を連ねていく。
「それはあなたがそうさせたから! 家族を人質にとって、卑怯なやり方で無理矢理従わせて! この人はこうするしかなかった! あの子の命を握られていたから! あなたがこの人の思いを踏み躙った! あなたがこの人を侮辱するなんて許さない!」
対する麗菜は怒りに震える声で絶叫する。自身の凶行を顧みないばかりか、婦警を貶める言葉を平気で吐く章に、麗菜の怒りはさらに煽られる。
「あーはいはい。そういうのいいから。こっちも急ぎたいんだから困らせるようなことしちゃだーめ」
麗菜の怒りをあしらうように、章が小さく首を振る。そして二つの魔法陣を展開し、そこから術者の魔力色と同じ浅葱色の鎖が射ち出される。
無属性補助魔法『
麗菜は《
三つは麗菜の周囲に。そして残りの一つは自身の足元に。
蛇のように容赦なく迫る鎖は、麗菜に届くことなく弾かれた。
「へえ? 面白い魔法を使うのねあなた」
自身の魔法が届かなかったことなど気にすることなく、章は興味深げに麗菜を観察する。
麗菜が発動させたのは全て『明壁』だ。だが通常の『明壁』は正方形の盾を形成し自身を守る魔法だが、麗菜のそれは魔法式も微妙に違っており、形成される盾も三角形だ。
自身の周囲、そして足元にも三角形の壁を形成している。明壁によって作られた三角錐の空間に、麗菜は身を置いている形だ。
「本当に器用ね。初級魔法を重ねて自分の周囲を守るなら、普通は四つの……いえ真上も防ぐなら五つの魔法陣が必要ね。それを、明壁を三角形にすることで四つの魔法で三角錐を作り、前後左右上下の全ての方向をカバーするなんて素晴らしい発想よ。学生レベルで上下の攻撃も意識するなんて中々だわ。学校でこんなこと実践的なこと教えてくれないでしょうに。自分で考えたのならすごいわ」
微笑みながら、章は麗菜の魔法を褒める。
「だけどそんな工夫をしなくても中級魔法なら二つ、上級魔法以上なら一つの魔法で同じ結果を生み出すことができる。でもあなたは無理よね? 最適属性が『皆無』のあなたは、どの属性であっても中級以上の魔法を使うことができない。乏しい才能でも必死に工夫しようとするその姿勢、とってもけなげで泣けてきちゃいそうだわ」
章の軽口に答えることなく、麗菜は口を引き結んで無言を貫いた。
「あら、おしゃべりする余裕もないかしら」
楽し気に笑う章と対照的に、麗菜は冷や汗を垂らしながら頭を回転させる。
――多分イセルさんなら、逃げろって言うと思う。
内心で自身に言い聞かせる。まだ長い日にちを重ねたわけではないが、麗菜はイセルに実践に即した魔法や戦い方、考え方を学んでいた。麗菜が今発動している魔法の使い方もその一つだ。
イセルから得られた知識、そして彼が言った言葉を反芻する。
――『自身よりも上の者と相対したときは、離脱することに全力を尽くす』。今私がしなければならないことは、ここから逃げること。
ミリタリースーツに身を包む装い、使用する魔法のレベルの高さ、魔法を行使する姿は、章が魔法戦闘に慣れている実力者であることを物語っている。
――悔しいけど今の私じゃ絶対に勝てない。分かってる、でも……!
――ごめんなさいイセルさん。私は、この人を許せない!
麗菜と章とでは実力に圧倒的な隔たりがある。本来であれば全力で逃げの一手を打つべきだと理解していても、麗菜はその場に留まることを選んだ。
――助けられなくてごめんなさい。この人には必ず、報いを受けさせるから。
無念のうちに倒れた親子を思い、麗菜は胸を痛ませる。二人への哀悼と、章への怒り。この二つを忘れるのではなく胸の奥底に仕舞いこみ、麗菜は再び状況を把握する。
「あなたがどれだけ魔法陣を同時展開できるか知らないけど、今そうやって四つも使っているならストックはもうないんじゃない? あったとしても一~二個でしょ? 初級魔法を一つ二つ使ってわたしに攻撃しても、意味があるとあまり思えないけど」
小さく笑い声を零して余裕を見せつける章。だが麗菜は、その油断にこそ好機があると考えた。
――この人がどうして私を狙っているのか分からないけど、私のことは調べられてる。私の最適属性のことも。でも、魔法が使えるようになっているのをこの人は知らなかった。
麗菜が魔法を使用した際に見せた章の困惑した様子は、決して大きなものではなかった。だがそれでも、その驚愕は演技ではなく本物だったことを麗菜は見逃さなかった。
――だとしたら、
麗菜の同時展開できる魔法陣は五つ。つまりもう一つ魔法を発動させる余地がある。
麗菜が考えている策は、章の眼前に魔法陣を展開し光属性補助魔法『
初級魔法とはいえ生身の相手に当てれば、相当なダメージを見込める。そうして弱らせた上で『鎖縛』の魔法を用いれば、章を拘束することも不可能ではない。
とはいえこの方法はあくまで子供騙しの域を出ない。失敗は許されず、成功したとしても二度とは使えない手だろう。
――チャンスは一回だけ……!
生唾を飲み込み、章を油断なく観察する。確実に成功するためのタイミングを麗菜は待つ。
「それにしても随分と魔力がこめられた明壁ねぇ。困ったわ、初級魔法じゃ突破できなさそう。かといって中級魔法で破るのは簡単だけど、そうしたらあなたに大怪我させてしまう。加減するのも難しいし、うーん……」
緊張している麗菜を他所に、章は悠長な構えを崩さず首を捻っている。
――今なら、いける。
『鎖縛』の魔法陣は展開されたままだが追撃がくることもなく、章自身も明らかに気もそぞろな様子だ。
二人の距離は10メートル弱。今の麗菜ならば、章の眼前にピンポイントに展開するのは可能な距離。
――落ち着いて。私なら出来る……!
意識を研ぎ澄ませ、麗菜が覚悟を決めたときだった。
「しょうがない。あれを使いましょうか」
手を軽く叩いた章は、展開させていた魔法陣を霧散させる。思いもしなかった行動に、麗菜は出鼻を挫かれる格好となった。
「こちら章。連れてきてちょうだい」
麗菜が呆気にとられた僅かな合間に、章は胸元の小さな無線機に声を飛ばす。
――なに、を……?
笑みを絶やさない章の意図が読めず、麗菜はただ明壁の魔法を維持させることしか出来ない。
答えはすぐに示された。
今二人が居る部屋には出入口が二つあり、一つは麗菜の背後に位置している。それ以外には向かい側――章の背後にある。
章の背後にある入口。そこにまず警官服姿の男が入り、その男が無理矢理小さな二人の子供を部屋に入れる。
「
思わず叫ぶ麗菜。その二人は、先ほどまで麗菜と一緒に過ごしていた二人の兄妹だった。
「「んー! んむー!」」
二人は猿轡を噛まされており、くぐもった悲鳴を上げている。後ろ手に縛られており、懸命にもがいているが外れるわけもなく、二人の後ろに控える男が無慈悲に押さえつけている。目隠しまでされていたが、無残な親子の死体を目にせずに済んでいるだけまだマシだった。
「そんな、なんで……!?」
「さっきの婦警さんがここに来る前に言ってなかった? 別の警官に預けたって。それが実はわたしの部下でした~ってだけのオチよ」
青褪めた表情の麗菜に、章が楽し気に回答を示す。
「おい。俺はお前の部下になった覚えなんてない。調子にのるな」
「やぁねぇ、言葉のあやってやつよ。十分弁えているわよ、部下じゃなくてメンバー、同僚?」
不機嫌に言う男に対し、章は変わらずにこやかに、白々しい口調で返す。
「こいつらはどうする?」
「とりあえずそこらへんに転がしておいて」
憮然とした面持ちの男は、兄妹を章の近くへと乱暴に突き飛ばし、床に倒す。
「「んぐっ!」」
「陽人くん! 由美ちゃん!」
麗菜の悲鳴が響くが、章と男は反応しない。章が『鎖縛』を発動させ、兄妹の身を縛る。
「「んんっ! んううう……!」」
二人からくぐもった悲鳴が漏れる。
「俺の役割はこれで終わりだ。先に合流地点に向かう」
「ええ。ご苦労さま。わたしは燃料と一緒に向かうから。ああでもあなたは下から行くのか。上から行くわたしたちの方が先に着いちゃうわね、できるだけ急いでね?」
「……調子に乗るな、中校に股を開いて取り入った売女が」
品の無い罵倒を吐き捨て、男は部屋をあとにする。
「さてと。じゃあ芳麻さん、お話の続きをしましょうか」
そうして章は倒れ伏している陽人と由美へと立ち位置を移す。すでに章の《鎖縛》によって兄妹は拘束されており、麗菜は下手な行動を起こせなかった。
「あなたがその魔法を解除して大人しく言うことを聞いてくれたら、この子たちを傷つけないと約束するわ。でもその三角帽子の中に居続けるというなら、そうね。この『鎖縛』の強度を上げれば、こんな小さな子の骨を折っていくのは容易いでしょうね」
ジャランっと、硬質な音がわざとらしく鳴る。章の言葉も相まって、陽人と由美は怯えたように身を竦ませる。
「やめて!」
麗菜の絶叫に答えず、章は微笑んだまま麗菜を観察するのみだ。
硬く瞑目し俯く麗菜。決して短くない時間を逡巡した彼女は、やがて発動させていた魔法を消し去った。
「……約束、してください。この子たちにひどいことはしないって。この子たちを傷つけるような真似はしないって」
「いいわよー? わたしは可愛い女の子との約束は、できる限り守るようにはしているから。安心しなさいな」
満面の笑みを浮かべる章の言葉には、相変わらず白々しさやわざとらしさが滲み出ている。だが麗菜は、章に従う他なかった。
軽い足取りで歩み寄る章。全身を強張らせ、麗菜は精一杯の抵抗のように睨みつけるのみだ。
麗菜の正面に立った章は、切なげに吐息を漏らす。
「綺麗な瞳ねぇ。日本人ではまず居ない色、欧米人でもここまで澄み切った
まるで品定めでもしているかのように評価する章。不快感に思わず目を背ける麗菜だったが。
「駄目よ、もっとよく見せて」
「っ!」
無遠慮に頬に手を伸ばされ、再び章に向かされる。
「ああ、とっても綺麗。控えめだけど芯の強さが表れた輝き。まるであなたの心を映したような、恐怖に震えながらも前を見つめようとする眼差し。とても素敵よ」
艶めかしく表情を歪ませる章。そして形のいい赤唇が割れて、桃色の舌が吐息と共に見え隠れする。
「あなたの瞳が痛みや絶望で濡れるときは、この世にあるどんな宝石よりも美しく、そしてどんな
見る者全てを蕩かすような微笑み。けれど瞳は底なしの闇を孕んでおり、麗菜は背筋に冷たいものが駆ける心地を覚える。
――この人、何考えて……!?
理解の及ばない事象に対する不気味さが、より一層麗菜の肉体を緊張させる。そんな麗菜を眼前に収める章は、麗菜の頬に当てていた両手をゆっくりと首筋まで落とす。そしてその直後に、麗菜の左首筋に鋭い痛みが走る。
「痛っ……!?」
程度としては小さかったが、緊張状態のせいで過敏に反応してしまい、麗菜は反射的に半歩後退る。
「何、を……!?」
戸惑いを露わにする麗菜は、左の首筋に触れていた章の右手を見る。その手元にはいつの間にか、小さな注射器が握られていた。
その注射器を中心に、麗菜の視界が捻じれて溶けていく。
薬物を注射されたことを理解する前に、麗菜の意識は闇へと落ちた。
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