第五話:外出⑤ ~隠す本心と、気付き始めた感情。そして日常は終わりを告げる~
時刻は午後5:00過ぎ。高層ビル内に設営されたショッピングモールの、4階フロア。
イセルは何を思うでもなく、漫然と窓の外を眺めていた。
夕方から雨模様になると予測される天気は、午前よりも雲が多くなっている。しかしながら所々夕陽が差し込んでいるのを見る限りでは、降り出すまでにはまだ猶予があるようだ。
眼下では人や自動車が忙しなく移動している。普通の人間であれば特に面白みを覚えるはずもない日常の光景であるが、イセルは飽きる様子もなく視線を送り続けていた。
「すみません、遅くなりました」
意識と視線を、窓の外から声の主に向ける。麗菜が両手で二つのカップが置かれたトレーを持って、イセルの居るテーブル席へと歩み寄るところだった。
「いや、そんなに待っていないよ。むしろすまない、注文を押し付けてしまって」
「初めてのお店ですし、しょうがないですよ。イセルさんも場所取りありがとうございます、いい席が取れましたね」
トレーをテーブルに置き、麗菜もイセルに向き合うように腰を下ろした。
プラネタリウムを後にしたイセルと麗菜は、ショッピングモールを散策して午後を過ごした。麗菜の案内についていくだけであったものの、イセルの目には全て色鮮やかに映り、退屈を覚える暇は決してなかった。
夕方になり、麗菜の提案で休憩がてら、今二人の居るカフェへと足を運んだ。
全国展開される大型チェーン店であり、日本に住んでいれば知らぬ者は居ないが、あいにくイセルはこの国どころかこの世界の住人ではない。
そのため注文は麗菜に任せ、イセルは賑わう店内から二人分の席を確保する役割に回ったのだ。
「注文ありがとう。アイスティー、か。茶を冷やして飲むなんて、向こうじゃ誰も思いつきもしなかったな」
「ほんとに良かったんですか? サニクロはコーヒーがメインのお店ですよ?」
サニクロ――サニークロックス・コーヒーは、太陽と時計が組み合わさったデザインの看板が目印の店だ。店の名前からも分かるように、バリエーション豊富なコーヒーのメニューを売りにしている。
「茶の方がまだ飲み慣れているからな。それにあんなに長ったらしい名前をずらりと並べられても、どれを選べばいいか分からん」
「おじいちゃんみたいなこと言いますね」
憮然とした表情のイセルに、麗菜は苦笑しながら呟いた。
「今日はどうでしたか?」
二人の飲み物が空になりかけたころに、麗菜が微笑みながらイセルに問う。
「あー、うん……我ながら全く捻りのない、気の利かない言葉しか思いつかないんだが……」
カップに残ったアイスティーを一気にストローで啜り、テーブルに置いたイセルは。
「楽しかった! 見るもの触れるもの聞くもの口にするもの、全部が素晴らしかった!」
端正な顔立ちは、持ち主の見た目の齢を数年幼く見せるほどの輝きを見せた。
「それはよかったです。行き先とかスケジュールとか、考えた甲斐がありました。楽しんでもらえたなら何よりです」
輝く表情を前に、麗菜は照れ臭そうにはにかんだ。
「ああ! レイナが連れて行ってくれたところ、見せてくれたもの、どれもが刺激に満ち溢れていた!本当に、本当に心躍る一日だった!」
遊園地に遊びに行ったあとの幼子となんら遜色ない興奮を見せるイセルは、麗菜から視線を外し再び窓の外を見る。
「天を衝かんばかりに
向こうの世界に居たころにそんな話されたとしても、絶対に信じなかったと思う。今だって、今目にしている光景が神によって創造されたって言われても、信じてしまいそうな気がする。
この世界は凄いよ。これ全部、人間の手で作ってしまうんだから。いつかきっと――」
視線を麗菜に戻しながら言うイセルだったが、麗菜を視界に入れた瞬間に口を噤んでしまう。
目の前の少女から微笑みが消えていた。
「イセルさん、あの……」
声もか細く、緊張して震えている。麗菜の変化の理由が分からず、イセルはただ言葉の続きを待つことしかできない。
「帰りたい、ですか? 元居た世界に」
イセルが目を丸くする。会話の流れや自分の発言を鑑みても、麗菜からなぜそのような問いが出てくるのか分からなかった。
「……どうして?」
数舜躊躇うように視線を泳がせていた麗菜は、意を決したように視線をイセルに定める。
「イセルさんは気付いていないかもしれないんですけど、イセルさん時々、ほんの一瞬だけ、凄く寂しそうな顔するんです。目、って言った方がいいかもしれません。目の前の景色や私たちじゃない、どこかすごく遠い場所を眺めてるみたいな。
今日だって何回も、今も……」
麗菜は顔を俯かせ、体を強張らせて語り続ける。
「私がもし逆の立場だったら、イセルさんみたいになれるかなって。自分の知らない別世界で独りぼっちで、知ってる人も居なくて、元の世界に帰る方法も分からなくて。
私なら多分、元居た世界に帰りたいって思って、でもそれができなくて、そうやってなにもできずにずっと取り残されたままだと思います。
イセルさんは凄いです。いつも堂々としていて、自分の知らない世界や物事に飛び込んで、楽しむ余裕だってある。でも……」
そうして再び顔を上げる麗菜の瞳は、緊張を宿していた。その視線は、他者を心から思う心配と配慮に満ちていた。
「本当はイセルさん、ずっと寂しいんじゃないかなって。向こうの世界に帰りたいんじゃないかなって。ずっと、無理してるんじゃないかなって。この世界にイセルさんを呼んだのは私で、私のせいで元の世界に帰れなくて、だから私……!」
必死な表情で言い募る麗菜。だが向けられるイセルは、ふっと口元を緩めて苦笑を零す。
「イセルさん……?」
予測しなかった反応だったのか、麗菜がキョトンと無防備な目を見せる。
「いやすまない。急に真面目な顔になるものだから何かと思ったら、そんな心配してくれてたのかって思って」
麗菜の重苦しい面持ちと対照的に、イセルはあっけらかんとした様子だった。
「寂しい……寂しい、か……」
腕を組み、逡巡するように天井を見上げるイセル。そうして言葉を選び終えた彼は、向き合う少女に本心の一部を伝える。
「『ぷらねたりうむ』のときも言ったけど。なにせ世界跨ぐくらいに故郷から遠いところに来てしまったからな。郷愁とか、この世界で言う『ほおむしっく』……みたいなものは、ないとは言わない。
でも、帰りたいとは思わないんだ。あの世界で俺は、為すべきことを為した。レーナと交わした約束を果たせた――魔王を倒して、あの世界を救った。あの世界での俺の人生は終わったものだし、そこに未練はない。
それから、寂しいかどうかだけど。確かに誰も頼る人間の居ない土地で一人放り出されたなら、そんなこと思ったのかもしれない。けど――」
イセルは穏やかな調子を崩すことなく微笑む。
「キョウカ殿が居る。ヒヨリがいる。そして、レイナが居る。学校でも、少しずつ話せる相手だって増えてきている。俺は決して一人じゃない。頼れる人間が居るんだ、俺は別に困っていない。
俺はこの世界に来れたこと、そんなに悪いものだって思っていないんだ。今日だって君と過ごして、元居た世界だっていつかこの世界のように豊かで平和で、素晴らしい世界になる可能性があるんだって思えたんだ。
だって、世界は違っていても同じ人間だからな。もしかしたらずっと未来では、この世界を超えるくらいに発展するかもしれない。そんな希望だって今は持っている。
だからさ、レイナ。そんなに心配しないでくれ。俺はこの世界に来てよかったって思っている。俺はこの世界をそれなりに楽しんでいるから」
普段と変わりないイセルの笑みを見て、ようやく麗菜も緊張をほどいたように胸を撫でおろした。
他者に嘘を信じさせる一番の方法は、信じさせたい嘘の中に真実や本心の一部を紛れ込ませることである。本心や心の奥底の思いを隠すときもまた然り。
イセルが麗菜に打ち明けた思いは嘘ではない。だが同時に、イセルは本心の全てを吐き出したわけではなかった。
――レーナの居ないあの世界に、俺の居る意味はもうない。
元の世界に帰りたいと思わない一番の理由を、イセルは心の奥底に仕舞いこむ。
――本当はこんな世界、俺みたいな奴が居ていい場所じゃない。
一人ではない。けれども自身が抱える自虐的な思いと、そこから生じる孤独感を、イセルは決して吐露しようと思わない。麗菜が目にしたというイセルの寂しげな表情は、それが無意識に出てしまった結果だった。
――この
鏡花は、イセルが感情を表に出やすい性質だと言った。この世界に来てからのイセルを見る限りその評価は間違っていないが、それが全て正しいというわけではない。
向こうの世界で戦士として、そして救世の英雄として軍を率いていたイセルは、感情や本心の隠し方を身に付けざるを得なかった。どれほど犠牲を払おうとも表情を変えることなく敵を討ち、魔獣ではなく人を手にかけるときでさえ、眉一つ動かすことなく刃を振るった。
救えなかった命を思う涙も、英雄としての責務の重さに軋む心も、諸人に見せることは許されず。
イセルが想いを――己の弱さを吐露するのは、いつもレーナの前だけだった。
誰もが悟ることのできない、隠しているとすら知ることのないイセルの胸の内を見抜き、そして本当の意味で寄り添ってくれたのは、レーナだけだった。
この時はまだ、イセルの仮面は麗菜に対して十全に働いていた。
「私たちの住んでいる国にも、こことはまた全然違う綺麗な景色があります。他の国に行けば、住む人も、文化も、土地も違っていて、イセルさんが気にいるような美味しいものも沢山あります。まだまだこの世界は、イセルさんの知らないもので溢れています。だから、イセルさん」
麗菜はふわりと柔らかな笑みを浮かべ、柔らかな声音のまま告げる。
「またこうやって、一緒にお出かけしましょうね」
屈託のない、どこまでも透き通った表情を前に、イセルは僅かに息を呑む。
「あ、もちろん今度はひよりも誘ってですよ!? 今日みたいに二人きりなのはやっぱり落ち着かないって言いますか、ああでも決して嫌だったとかそういう意味じゃ……じゃなくって!」
一瞬で頬を赤くし、一人テンパる麗菜は、イセルの変化に気付かないようだ。
――まただ。でも。
この世界に来て幾度となく覚える、温かな胸の切なさ。最初は麗菜を妹と重ねて見ているからだと思っていたそれが、ここに来てやっと、レーナに対して覚える温もりと別なものだと自覚した。
麗菜の表情や仕草に重ね見た妹の姿が、今となっては麗菜から見出せなくなっていた。
――じゃあなんで俺は……そもそも、この感情は?
己の中で問いかけても、胸に抱く想いの正体に、思い当たることはなかった。
「も、もう行きましょうか! 雨が降り出すのは7時くらいからみたいですし、今帰れば降られる前に学校に帰れま……イセルさん?」
早口で捲し立てていた麗菜は、イセルの反応の乏しさにようやく気付いたようだった。
「ん? ああ……そうだな。早く帰って体を休めよう。ここまで楽しませてもらった分、レイナにはちゃんと応えなきゃな。明日からはみっちり稽古つけて、君の役に立たせてもらう」
「はい、望むところです。よろしくお願いします」
自身の戸惑いを完全に押し込め、強気な笑みでイセルは言う。そして麗菜も真直ぐな笑みで答え、二人揃って席を立とうとした。
外から聞こえてきた幾重にも鳴り響くクラクションに、イセルの意識が遮られる。思わず視線を窓の外――眼下の道路に向け、眉を顰める。
先ほどまで滞りなく流れていた車の列が、渋滞を形作っていた。道路を見下ろす位置に居るイセルは、その渋滞の原因をすぐに理解した。
トラックやコンクリートミキサー車、タンクローリーなどの数台の大型車が、車道そのものを塞ぐように動きを止めていた。渋滞に巻き込まれている他の車両からは、運転手が下りて苛立ちを隠すこともなく詰め寄ろうとしている。車道だけでなく歩道でも、連休の影響で普段よりも余計に多い歩行者が歩みを止めているせいで、一気に人の流れが滞る。外がにわかに騒然となる。
「どうしたんだろ……」
店内でも釣られるように客が騒ぎ始め、麗菜も小さく疑問を呟く。イセルは言葉を発することなく、成り行きを俯瞰し続ける。
イセルが昼に出会ったような帯刀警官を含めた、警察官が十数名姿を現す。帯刀警官や一部の一般警官は大型車両へと近付く。
その他の一般警官は運転手に自分の車へ戻るように促し、歩道に居る歩行者へ声かけをして交通整理を図ろうとする。
帯刀警官の一人が、大型車両のうちの一台の運転席に手をかけたときだった。
停車していた大型車両の荷台が、一斉に破裂した。トラックは荷台の戸が勢いよく開け放たれ、タンクローリーやミキサー車も荷台の一部に人間大の穴が開く。突然の事態に緊張を走らせる警官たちをよそに、『それら』が姿を現す。
『それら』は人の形をしていた。だが服を一切身に纏うことなく、剥き出しの肌は赤黒かった。
腕は左右どちらかが鎌のような刃となっている。刃の色も肌に似た色であるが、真っ赤な血管が幾筋も走っている。
美術用の素体のように、顔には目や鼻といったパーツが一切見受けられなかった。誰かがフェイスマスクを被っているにしては、その表面はあまりもなだらかで凹凸に乏しかった。
一体一体に個体差はほぼ見受けられず、そんな一団が次々に大型車の荷台から身を出す様は、現実感の欠如した光景だった。市民だけでなく、警官も呆気に取られている。
変化はすぐに訪れた。
『それら』の頭部の頂点から顎先に至るまでに、縦一直線に亀裂が入り、大きく開かれる。口だと人々が理解したのは、開かれた亀裂の中で歪に生え散らかる歯が露わになり、耳をつんざくようなおぞましい叫びが上がったときだった。
『それら』が一斉に行動を開始し、人々に襲い掛かった。帯刀警官や一般警官が対応しようとするも、数が圧倒的に足りなかった。
一般市民が一斉にパニックを起こし、我先にと互いを押しのけて場を離れようとする。逃げ遅れた者から一人、また一人と、『それら』の刃と歯に身を晒すことになった。
「え、なにあれ!?」
「ゾンビ? 何かの撮影じゃ……」
「でもあれ、あそこの人、本当に喰われてるんじゃないのか!?」
店内の喧騒も激しさを増し、悲鳴が上がり始める。
「何、あれ……!」
突然の光景に、麗菜は口元を抑えて息を呑んでいる。
「イセルさ――!」
震える声でイセルの名を呼んだ麗菜は、イセルの横顔を見て、目を大きく見開かせる。
「そんな……何で……」
普段の飄々とした、そして力強い面持ちが鳴りを潜め、血の気の失せた表情で眼下を眺め続けていた。
「何でこいつらがここに……何で、どうして……!」
うわごとのように繰り返すイセルは、次第に表情を強張らせ、音が鳴るほどに硬く拳を握りしめる。
「イセル、さん……?」
明らかに様子のおかしいイセルを前に、麗菜が恐る恐る手を伸ばす。だがイセルが麗菜に向き、その表情を見せた時に、麗菜はすぐに手を戻した。
この世界に来てから見せたことのない険しい表情。眼差しは冷たく静かなまま、けれど瞳は狂気と呼ぶに相応しい、烈しい熱があった。
「俺は行く。レイナはここに居ろ」
抑揚なく告げられた端的な言葉。声音に宿る感情は皆無で、けれどそれが逆説的に、イセルの強い意志を表していた。
イセルが意識を切り替え、己自身を戦士として定義した瞬間だった。
「イセル、さ……」
怯えたように声を震わせる麗菜。だがそんな彼女を視界に収めても表情を一切揺らがせることなく、イセルは立ち去る。
「イセルさん、待って……! イセルさん!」
呼び止める少女を無視し、立ち尽くす人の群れを押しのけながら、イセルは駆け足で地上を目指した。
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