第五話:外出④ ~郷愁と感傷、悪意はすぐそこに~
星を見に行きましょう――。
耳にしたときは少女の言葉の意味を図りかねていたイセルだったが、疑問の答えは目の前に、言葉以上に雄弁に示されていた。
「この世界は、星空さえ作り出せるのか……!」
視界いっぱいに広がる満天の星空を前に、胸の中に留めることのできなかった感動が、イセルの口から溢れ出た。
ダイナミックに展開される星々の煌き。
室内を満たす上質な音楽。
それらが織りなす神秘的な空間に、ナビゲーターの紡ぐ星の物語が花を添え、場に居る全ての者を至上の感動へと誘う。少しでも気を抜こうものなら、イセルは間違いなく衆目を憚ることなく喝采を上げていただろう。
昼食を楽しんだあと、麗菜が次に案内したのはプラネタリウムだった。連休中ということもあってこの施設も混雑は相当なものだったが、水族館とは違い一人一人がリクライニングシートで分けられるため、窮屈さやそれに伴う不快さとは無縁であった。
さらに上映中はほぼ仰向けの楽な姿勢を取るため、体を休めることのできる願ってもない場所だった。
「綺麗……」
隣から聞こえた控えめな感嘆に、イセルは思わず視線を向ける。麗菜も同じように満天の星空に見入っていたが、イセルはその横顔からしばらく目を離せなかった。
星々を映す瞳は、金紗のようにいくつもの小さな光を散りばめている。普段の空色とは違う、儚く幻想的な輝きを見せていた。
うっすらと浮かぶ静かな笑みは少女の感動を表しているが、星の煌きと、会場の暗さが織りなす陰影が、その表情をどこか蠱惑的に彩る。
場の雰囲気とも相まって、麗菜の表情はイセルが初めて見る艶を放っていた。
「イセルさん……?」
どれくらいその横顔を眺めていたのか。イセルの視線に気付いた麗菜が、不思議そうにイセルの名を口にする。
「え……あ、すまない」
麗菜の声で我を取り戻したイセルは、気恥ずかしさに襲われてすぐに視線を上へと戻す。
「レイナは何回か、ここに来たことがあるのか?」
自身の胸に生じたいたたまれなさの理由がまだ分からず、それを誤魔化すように、イセルが取り留めのない問いをかける。
「いえ、初めてですよ。このプラネタリウムもつい最近できたばかりなので、一度行ってみたかったんです。こんな機会じゃなかったら中々来ませんからね」
施設内はBGMが流れており、他の客も思い思いに声を潜めて会話をしているため、二人も声を落として言葉を交わしている。そのお陰で麗菜の声も少し掠れた、穏やかな調子となっており、そんな変化にさえイセルは緊張を覚えてしまう。
「やっぱり向こうの世界の星空とは違いますか?」
隣からかけられた問いを聞き、再び麗菜を見やる。空色の双眸がイセルを見つめ、言葉を待っていた。
「そう、だな。星の輝きも、位置も、流れも。何もかも違う。
ただそれでも……世界を隔てていたとしても、人間の考えることは一緒みたいだ」
「え?」
自身の緊張を悟らせないように、イセルは努めて平静な調子を保ったまま天井を指差す。疑問に思った麗菜も視線を上げれば、スクリーンには星座と、それにまつわる物語をナビゲーターが解説しているところだった。
「星と星を結んで、そこに意味を見出そうとする……俺の元居た世界でも、この世界でも、そうやって人は同じように物語を築いてきたんだって思うと、なんだか感慨深いなってさ」
「そちらの世界には、どんな星座があったんですか?」
「色々あったよ。神牛座、松明座、水晶座。俺の先祖でファルザー王国開国の祖と言われる、英雄ファルゼリウスをモチーフにした勇者座。そのファルゼリウスの使い魔であった、銀翼の聖鳥アルバソールを象った銀鳳座――」
麗菜に教えているうちに、幼少期のことを思い出したイセルは穏やかに微笑む。
「小さいときは星に込められた神話とか、伝承を聞くのは、割と好きだった。妹と二人、よく寝る前に母上の寝物語聞いていたよ。
王宮の庭園で、レーナと一緒に何回も星空を見たりしたな。小さいときは二人して、星を手に入れるんだって思いっきり背伸びしたり、高い椅子持ってきて手を伸ばしてみて、そしたら足元見てない俺が盛大にこけて、レーナは泣き出すし親には怒られるし。
懐かしいな。二人して懲りずに、『もっと背が伸びたら星に手が届くかな』なんて話したりもして――」
星空を眺めながら滔々と語るイセル。穏やかな笑みを浮かべていた彼は、やがてハッと表情を強張らせる。
「……すまない、邪魔をしてしまった」
表向きは、麗菜の星空鑑賞を妨げたことへの謝罪だ。だがイセルにとっては、思わず幼少期のプライベートな話までしてしまったことに対する、如何ともしがたい気恥ずかしさを隠すための言い訳だった。
「元々私が先に聞いたことですし、謝らなくても大丈夫ですよ」
そんなイセルの真意を知ってか知らずか、麗菜も穏やかな笑みを零す。
その直後だった。周囲から静かな歓声が上がる。意識を天井に戻したイセルが目にしたのは、幾筋も夜空を
「わぁ……!」
ナビゲーターの語る流星群の説明など耳に入っている様子などなく、麗菜も幼い声を漏らした。
「
だがイセルは、先ほどまでの星座を見ていたときとは違い、表情を僅かに翳らせる。
「イセルさん?」
「ん? ああすまない、あまり流れ星ってやつに、いい思い出がなくて」
「……昔は流れ星が不吉の前触れだって信じられていた時代や地域が、この世界でもあります。向こうの世界でも、その、あまりいい意味はなかったですか?」
恐る恐る尋ねる麗菜に、イセルは大したことないと頭を振る。
「いや、そんな悪い意味合いはなかったよ。ただ……」
麗菜を見ることなく天井を見つめ続けるイセルは、けれど彗星ではない別の、遠い何かを見つめる視線で言葉を探す。
「俺たち兄妹はよく、
『白銀の煌剣、其は天翔ける一筋の
『灯火の聖女、其は万象を照らす希望の日輪。柔らかな光は全ての傷を温め癒し、諸人を守る聖なる乙女なり』。
「彗星と、太陽……」
「うん。レーナは本当にその通りだった。あいつは太陽みたいに眩しい、誰からも愛されるやつだった」
レーナ=ヴィルテスク=フォレス=ファルザー。
イセルの妹である彼女の魔法は、どんな傷でも癒し、どんな攻撃も防いで、力のない弱い者を守る。ただそれは、彼女が『灯火の聖女』と謳われる一番の理由ではない。
どんな苦境でも笑顔を絶やさず、最前線から逃げずに勇気を奮って戦場に立ち続ける強さ。
自分の辛さや苦しさを表に出すことはなくても、傷つき悲しみに暮れる人々に寄り添って、涙を流せる優しさ。
「それがレーナの本質だった。どんなに絶望や悲しみで凍てついた心も、あいつは全部融かした。あいつが居るだけで、兵士も民も、男も女も、子供も老人も関係なく、みんなが笑顔になった。
眩しいくらいに明るくて、そして温かいあいつの心に。俺も、俺以外の人間も、何度救われたか分からない」
黒い瞳に懐古と親愛を湛えながら、誇らしげに語るイセル。けれど再び、表情も瞳も曇らせる。
「だけど、俺は……」
魔獣を狩り、魔王の軍勢を屠り続けた己自身は、確かに人々を奮い立たせたのかもしれない。
だが彗星の輝きはただの刹那のみ。その輝きは、戦場でしか真価を発揮しない。
そして闇を裂く閃光に、諸人を癒す温もりなどない。
人々が真の意味で希望を抱き、生きるために必要だったのは。
――そしてあいつを守れなかった俺に残されたのは、ただの憎しみだけで。
湧きあがる苦い感情を抑え込むように、イセルが握り拳を作る。
「イセルさん……」
掠れた呟きに、イセルは再度隣に目をやる。空色の瞳は、心配するようにイセルを見つめ返していた。
「……すまない、こんな場所で話す内容じゃなかったな。
ほら、あれだ。故郷からこんなにも遠く離れた場所に来てしまったからな。郷愁というか、柄にもなく感傷的になってるのかもしれない。忘れてくれ」
小さく苦笑しながら、イセルは視線を天井に戻す。だが星々の輝きは、もうイセルの心に届かない。
――本当に、遠いところに来てしまったんだな。
成長すれば星にも手が届くだろうか。幼いころに妹と交わした、そんな幼いやり取りが脳裏を過ぎる。
己が知る星空と何一つ重なることのない、この世界の星空へとイセルが手を伸ばす。
思い出の中の自分よりもずっと背丈は伸び、そして魔王を討ち果たし世界を救った大英雄になった今。
それでも己の手が――守るべきものを最後まで握り続けられなかった手が、星に届く気はしなかった。
「遠い、な」
感傷に耽るイセル。そんなイセルを見つめ続ける少女が居たが、プラネタリウムの上映が終わるまで、イセルは空色の視線に気付くことはなかった。
都会の高層ビル群の一角。その屋上に、女は一人佇んでいた。タイトスーツを身に纏い、ビル風に髪を靡かせながら、女は従順な態度を電話越しの相手に向ける。
「『
――はい。燃料は混乱に乗じて奪取し、『
――もうすぐに
通話を終了させ、女は髪をかき上げながら空を見上げる。
「夕方から雨って話だったけど……降り出すのはもう少し先かしら?」
独り言のように呟かれた問い。本来なら誰に拾われることもなく溶けて消えるはずだった声だが。
「さっき天気予報更新されて、降り出すのは19:00以降になるみたいだよ。すっごい土砂降りになるって。姉さん、ニュースはちゃんと最新のものを見なきゃ」
後ろからかけられた黄色い声に、女は落ち着いた様子で振り返る。
「そう。雨でびしょ濡れになるの覚悟していたけど、その心配はなさそうね。良いニュースありがとう、メリー」
浅黒いぼろきれを纏う小さな陰に、穏やかな笑みを見せながら女が言った。
「でも、メリー? 今回の任務中は、わたしのことは
「あ、いけないいけない」
幼い反応を見せるメリーに、女は苦笑しながらその頭を撫でた。
「今回のこの作戦、ボクらの仕業ってことにされるんだっけ?」
「そうね。少なくとも作戦立案者は、それで誤魔化せると思ってるみたいよ。犯行声明も作って流すんだって」
「うーん、でもこのおもちゃ、将来自分たちが使おうって思ってるんでしょ? 今回は誤魔化せたとしても、後々使ったときに、やっぱり
「筋書きとしては、『イノセント』の工作員を捕まえて製造方法を聞き出したってことにするみたいよ?」
「えー。それで上手く行くと思ってるのかな、あのおじさん」
メリーの辟易とした声に、女はクスクスと笑い声を零す。
「それにひどい話だよね、自分たちの悪いことを全部ボクたちのせいにしようだなんて。大人は汚いなぁ」
「そうね。でも強ち嘘じゃないわよ? だってこうして、『
「それもそっか!」
あっけらかんと声音を明るくするメリーに、女は増々笑い声を大きくした。
「ねえねえ姉さ……じゃなくて、章さん! 今日だけで一杯死んじゃうかなあ? どれくらい人が死んじゃうかなあ!?」
まるでピアノの発表会にどれだけ客が来るのか楽しみにする、あどけない子供のように、メリーは無邪気な様子で女に問う。
「そうね……それなりに被害は出ると思うけど、この国の魔導士は優秀だからなぁ。それに例の彼も居るし、もしかしたら思ったより効果は薄いのかも」
「えー!? そんなのつまんないよぉ!」
黄色い声で駄々を捏ねるメリー。そのとき、女の端末が振動する。すぐに端末を耳に当てる。
「はい……そう。それじゃ引き続き、監視をお願い。くれぐれも向こうに察知されないよう――」
どうやら通話相手に電話を叩き切られたようだ。すぐに端末から耳を離し、表情を顰める。
「さて、と。それじゃメリー? わたしたちはあくまで先生の子ども。先生から与えられた今回のお使いを忘れずに行動するのよ? 自分の楽しみを優先させて、うっかり足元を掬われるなんてないように」
「分かってるよー! もう、姉さんはすぐボクを子ども扱い――」
「メリー?」
「……じゃなかった、章さん」
表情は見せないものの、所作や動作で感情を伝える小さな影に、女はにこやかに目を細めた。
「それじゃまたあとで」
「うん! 姉――章さんも気を付けて」
そうしてメリーは、音もなく姿を消した。
一人残された女は、地上を眼下に収めながら妖しく微笑む。
「メリーにはああ言ったけど、正直わたしも気をつけなきゃ。ああでも、あんな純粋そうな娘が、苦しんで泣いて縋る様を想像しただけで、もう……」
恍惚の笑みを浮かべ、豊満な肉体を惜しげもなく震わせる。性別を問わず劣情を催させるような様を見せる女は、けれど、その目に底なしの狂気と残虐さを映している。
悪意に彩られた狂乱の一幕が、その始まりを待ち構えていた。
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