閑話:燃え盛る野心と、裏で色濃く揺らめく思惑
横浜港は東京湾岸に連なる港湾であり、東アジアの大規模港に対抗するために設立された国際戦略港湾の一つ、京浜湾の一翼を担う大港湾である。
横浜を国際港都と言わしめる中心的施設であり、人、物資の流通量は国内港湾の中でもトップクラスを誇る。そこを中心とした町の発展は目覚ましく、町の煌びやかさは宵闇においても、曇るどころか輝きを増すばかりだ。
そんな光景を眼下におさめながら、男はワイングラスを片手にほくそ笑んでいた。
短く刈り込まれた髪。揃えられた口元の髭。顔の輪郭の、岩を思わせる固さを見るならば、武人と呼ぶに相応しい。だが細めの目尻から覗く高慢な光が、男の野心と自尊心に満ちた胸の中を隠し切れず、男を勇猛という言葉から遠ざけている。
スーツに包まれた男の身は、筋骨隆々とまではいかぬもののそれなりに鍛えられた肉体だ。広い胸板や太い腕は服の上からも分かる。しかしながら足はお世辞にも長いと言えず。
「
ホテル最上階のスイーツルームの扉が、ノックの後に開かれると共に、聞き心地の良い女声が男に届けられる。
「
男が尊大な声で応じる。野太い声が聞こえるや、女は――章は短く返答して男へと歩みを進める。
ぶれない姿勢で歩く姿は美しく、抜群のプロポーションが歩く度に揺れる様は異性の注意を惹きつけるのに十分だ。顔立ちも申し分なく、薄い化粧が清楚な見た目にあまりにも合致し、そして瞳はどこか蠱惑的な、妖しげな光を宿している。
「『
「ハッ、間抜けな
そうして嘲笑の声を上げる。章はそれに対して積極的な肯定を示すことなく、穏やかに微笑むのみだ。
「材料を混ぜたコンクリートは三日後、作戦予定地点へと現地入りする手筈になっております」
「そうか。それは素晴らしい」
淀みなく紡がれる報告に、男は満足そうに頷いて見せる。
「『巨号鬼』の燃料はどうなっている」
「現在も魔導士学校内に居ります。作戦決行日はこの国における大型連休であり、大多数の生徒は帰省するため学校内の人員は大きく減るものと考えられます。『
「いいだろう。対象の確保は任せよう。だが未だに信じられん……」
そう言って周は懐から一枚の写真を取り出す。遠距離から撮影されたそこに映るのは、日本魔導士学校の制服を着た一人の女生徒。
「『
忌々しげに呟きながら、写真を握りつぶす。
「ですがそのおかげで、『
「なるほど、確かに……」
野太い喉から、昏い笑い声が絞り出される。
「――しかし、我ながら恐ろしいものを作りあげたものだ。この作戦が成功し、私の発明の性能が評価された暁には、私は半島方面軍最高指揮官の椅子に間違いなく座れるだろう!」
「大変喜ばしいことです。周中校の発明された『
得意気に語り続ける周に、章は称賛を贈る。だがその声はどこか事務的で、虚ろさを伴っている。
「当然だ。だが私の……ひいては周家の狙いは、そこで終わりではない」
顔に差す赤味の理由は興奮によるものか、それとも手に取るワイングラスの中身によるものか。章の声に宿る無機質な響きに気付いた様子もなく、周は己が裡に秘める野心を語り続ける。
「我らが故郷……半島は現在、中華大陸連邦の支配下に甘んじている。そして中大連が半島方面軍の最高責任者として出向させているのは、中国人だ。誇り高き我が民族ではない、下賤な狗が我らの大地を我が物顔でのさばっている。
今回の作戦で私が開発した『
「そして我が祖国は、世界に冠たる列強国として再び、覇を唱える! それを率いるのはこの私!
血気盛んに口角泡を飛ばしながら、自分に酔い痴れているように気勢が上がる。熱を帯びる彼とは違い、女は変わらず静かな、穏やかな笑みを浮かべている。
「感服致します、周中校。蒼天を衝かんばかりの遥かなる気高さ、その志。本家から遠く離れた枝葉のごとき傍流ではありますが、中校と同じ周家の血がこの身に流れていると思うと、この
そう言って恭しく頭を垂れる。柳を思わせるしなやかな所作に、周も大層満足げに笑みを浮かべる。
「
そう言いながらゆっくりと、章へと歩み寄る。
「周中校、それは……」
戸惑いを露わにする章の声音。周はそんな彼女の腰に手を回し、強引に引き寄せる。
「私の側室となり、本家筋の人間となれ。その才覚、傍家ごときに留めておくには惜しい。そして何より、お前は美しい」
本人は熱を込めて言っているつもりなのだろうが、無遠慮に顔を近づけて言う様は、周の粗野な見た目もあって見苦しい。
「私の隣で、偉大なる祖国が復活する様を共に見るがいい。そして、いずれ半島を統べる覇者の子を授かるという栄誉を、お前にやろう。どうだ、悪い話ではあるまい?」
本気でその言葉を喜ぶと思っているのだろう。声音を低くして言う周の瞳は熱を帯び、章のなめらかな頬に指を這わせて章に問う。
章は驚いたように目を見開かせるが、やがてその瞳を潤ませ、体を小刻みに震わせる。
「我が身に過ぎたる望外の栄誉……言葉になりません。ですが、いえだからこそ、このわたくしに、中校に相応しい女であることを示す機会を頂きたいのです……!」
「なに……?」
訝しげに呟く周の顔を、章の手が包む。岩のように無骨な輪郭を慈しむように、白魚のごとき指が軽やかに走る。
「偉大なる
今回の作戦を成功させ、半島方面軍最高指揮官の地位をあなたが得るための、一助となったのちに。
改めてわたくしから申し込ませていただきたいのです。分不相応にも、あなたの愛情を一身に浴する者になりたいと……」
潤む瞳、そして肉感的な唇から紡がれる言葉は、熱に侵されていた。憂いに曇る美貌を眼前に控え、周は生唾を飲みこむ。
「……よかろう。ならば示してみるがいい。この私に相応しい女となれるかどうか。お前の働き、大いに期待しているぞ」
「周中校……」
唇も触れ合わんばかりに近付いていた両者の顔は、章の方から離れていく。口惜しそうに表情を歪める周だったが、取り繕うように尊大な表情を仮面として被る。
「中校はごゆるりと、お休みください。小官は材料搬入、および工作員の潜入について、連絡作業に戻りたいと思います」
「ふむ、ご苦労。もし貴官の手に余るような事態が生じたのであれば、気兼ねなく私に任せるがよい。もっとも、優秀な貴官にそのようなことが起こるとは思えないがな」
「お心遣い、大変痛み入ります。それでは小官はこれにて」
一分の隙もない敬礼を見せ、章は笑みを浮かべる。世の男ならば誰もが心射抜かれる艶やかな笑みを見て、周は目に妄りがましい感情を乗せるのだった。
部屋の扉を閉めたあと、無人の廊下で章は盛大に溜息を零す。
「何が覇者の子だか。己の領分も弁えきれない豚が」
鈴の鳴る軽やかな声から一転、泥を思わせる淀んだ激情を見せる。
「駄目だよ姉さん。こんな誰が聞いてるか分からないところで、本音を駄々漏れにしちゃ」
章の後ろに、音もなく影が降り立つ。顔は浅黒いぼろきれを深く被っているせいで見えないが、声は黄色く幼い。姿もその声に似つかわしい子供のような背丈だ。
「あなたこそ、こんな場所で不用意に姿を現すのは止めなさい」
周の指になぞられた頬を、乱暴に拭いながら章が言う。
「アハハ、本当に嫌なんだね。でも分かるなぁ、あんなおじさんにべたべた触られるのはボクも嫌だもん。さっきも、姉さんがあのおじさんを殺しちゃうんじゃないかって冷や冷やしちゃった」
自室へと歩む章の後を、影は無邪気な声を上げながらついていく。
「自分でもよく自制できたと褒めてあげたいわ。でもああいう手合いは、相手をするのは骨だけど操るのは楽よ。
自分への溢れんばかりの自信、自尊心。多少魔法の腕が立つから、余計増長してあの醜い体みたいに肥大していく。少しおだてるだけで、簡単に懐に入ることはできる」
「でもそれは、やっぱり姉さんが綺麗だからだよ。あんな奴が姉さんに軽々しく接するなんて、ボクも許せない。ひと思いに殺したくなる。大変だったね、姉さん」
労う声に、章は苦笑を浮かべる。
「ありがと、メリー。でも今は姉さんじゃなくて、
下の兄弟姉妹に向けるように、母性を溢れさせながら章がたしなめる。
「ああそうだった。いけないいけない」
素直に間違いを認めるメリーの姿に、柔らかな笑みを見せる。
「ほんと、無能な男よねえ。いくら遠い末席の子だからって、自分の一族も十全に把握できていないなんて。本当の
可笑しげに微笑みながら、章――女は懐から二枚の紙を取り出す。
一枚は周が所持していたのと同じく、長い黒髪に眼鏡をかけた、空色の瞳を持つ少女。
もう一枚は写真というより、精巧な肖像画と言えるような、生身の写真と言うにはどこか不自然さ持つ画像だ。瞳の色は黒く、髪は目の覚めるような白銀の色。
「これが、先生が《夢見》で見て《念写》で映した人の姿かぁ……でも先生も、なんでこんなまどろっこしいことするのかな? 確証ないにしても、直接会って殺しにいけばいいのにね?」
幼い無邪気な声のまま、メリーがそんなことを言う。
「先生のお考えを、わたしたちのような者が完全に理解しようだなんて身の程知らずもいい所よ。わたしたちはただ、先生から与えられた任務を遂行するだけよ」
諭すように言う女は、その表情に心からの敬意と恍惚を交える。
「はーい。それじゃ、また何かあったら連絡してよ姉さ……じゃなかった、章さん」
そしてメリーの姿は、登場したときと同じように、一切の痕跡も残さず静かに消え去った。
女が再び、二枚の写真に目線を落とす。
「可愛らしい子たちね。任務がなければ、個人的に遊びたくなっちゃうわ……」
浮かべる笑みは艶やかであっても、そこには触れてはいけない劇物を匂わせる昏さが伴っている。
「さてと。それじゃ、私も手筈を整えるとしましょうか」
そう言って女は章に戻り、柔らかな雰囲気を纏い直す。
水面下で蠢く侵攻の影。そしてそんな影の中で、得体の知れない思惑がその牙を研ぐ。
捉えようのない悪意の手が、イセルたちに伸びようとしていた。
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