第57話:四つの手
呼吸がひどく乱れていた。顔に、腕や肩に、衣服に隠れた胸や腹、脚部にも、打撃による痣が幾つも出来ていた。
端的に表現するなら――シズは、劣勢だった。
「随分と……余裕そうじゃないですか……!」
「……そうですね。ここまで来れた事は称賛に値しますが……あなたでは、ティラノどころか、私にも勝てない。残念です」
「っ……この、舐めるなッ!」
シズが闘気を昂ぶらせて、地を蹴った。音の半分ほどの素早さでマグノリアへと肉薄。無防備なその顔面を殴りつけるべく正拳を放つ。
「――無駄です」
果たして――その一撃は、届かなかった。シズの拳は、マグノリアの眼前で制止されていた。手足による防御ではない。目に見えない力場。だが『
シズの第六感は、そこに何があるのかを的確に捉えていた。
手だ。目に見えない大きな神気の手が、シズの打拳を受け止めていた。
「私には『
鋼鉄をも砕くシズの打拳に瞬き一つせず、マグノリアは涼しげに呟いた。
「あなたでは、私には指一本、触れられない」
瞬間、風切り音――シズの頭上、その死角からメイスが降り注ぐ。
それを躱しざまの後ろ上段回し蹴り。鉄鎚を振り下ろす神の御手を蹴り砕く。主を失ったメイスが宙を舞う。その直後に、シズの体も宙に浮いた。先ほど彼女の打撃を受け止めた神の御手に、殴り飛ばされたのだ。
「ぐっ……!」
宙空に跳ね上げられたシズに、更に追撃が迫る。空を裂くように迫る不可視の正拳。空を蹴り、その踏ん張りを利用した足刀で迎撃。撃ち落とした。
そうして着地を果たしたシズの眼の前に、既にマグノリアが迫っていた。右手にはメイスが握られている。弾き飛ばされたそれを神の御手が掴んで、彼女に手渡したのだ。ただの
シズは石ころのように跳ね飛ばされた。
それから二度ほど地を跳ねて――なんとか、受け身を取って立ち上がる。
これだ。破壊しても再生、或いは再出現する『神の御手』。更に『
いかに守勢に長けるシズと言えども、対手の手が四つ。しかもその内二つは自由自在に空中を動き回るのだ。攻勢を捌き切る事も、逆に押し切る事も出来ない。
「まだまだ……勝負はこれからです……」
それが虚勢である事は、明白だった。
「もう、諦めてはいかがでしょうか。あのお方は……あなたをいたぶり尽くして殺すおつもりです」
マグノリアがその小さな足で一歩、また一歩とシズへ歩み寄っていく。
「ですが、本音を言えば……私はもう、あのお方に業を積んで欲しくないのですよ……」
慈しみとも、悲嘆とも取れる静かな語調。
「ですから……そう、これはお互いの為なのです。あのお方が、あの黒き剣士を殺してしまう前に、私に殺されて下さい」
不意に、シズの足元に神気が集まる。瞬間、地面から鋼鉄の槍が生えた。
ゴブリンは土の属性に類する精霊、悪霊。故にその神は大地を操る権能を持つ。
シズは、咄嗟にその場を飛び退いた。
頭上から神の御手が拳を振り下ろそうとしている。分かっている。手刀を振り上げ、気刃で撃墜した。再び地面から突き出す槍。飛び退く。後方から襲い来る神の御手。分かっている。左の裏拳、その遠当てで迎撃。
正面でメイスを振りかぶるマグノリア。打撃の間合いではない。投げつけるつもりだ。右の手刀で払いのける。そのメイスを追うように殴りかかる神の御手。分かっている。分かっていた。だが――手が足りない。
前蹴りで迎え撃とうとしたが、間に合わなかった。シズが殴り飛ばされる。
「がっ……は……」
シズが地面を転がる。受け身すら取れていなかった。なんとか転がりながら跳ね起きる。だが、ダメージの蓄積が彼女の動きを鈍らせつつあった。
「まだ、諦めないのですか。あなたの実力では――」
「――オォ……オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
不意に、叫び声が辺りに響いた。
絶叫、咆哮、慟哭。そのどれとも付かない、どれでもあるかのような――ティラノの叫び声だった。マグノリアの表情が、強張った。
「彼が、押されている? ……やむを得ません。あなたには、速やかに死んで頂かなくては……」
そうして、先ほどよりも遥かに速い歩調でシズへと距離を詰めていく。
同時に神の御手がシズの左右から急速に迫る。
形状は拳ではない。
要するに――神の御手で取り押さえ、滅多打ちにするつもりなのだ。
ティラノが手傷を負ったのは、マグノリアにとって大きな誤算だった。
早くシズを排除して、彼の加勢に加わる必要があった。
「……拳法家こそ…………せば……強くなれる……」
対するシズは――うわ言のように、何かを呟いた。その双眸は迫りくるマグノリアを見つめながら、しかし違うもの、違う場所を見ていた。
「……あの時、師匠は……なんて言って……いましたっけ……」
シズは、七年前を――まだ故郷の森で、修行を積んでいた頃を、思い出していた。
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