第3話:夢

 西田勇樹は夢を見ていた。自分がこの世界に転移してきたばかりの頃の夢だった。


 ある日、目を覚ますと西田勇樹は空を見上げていた。

 昨夜はきちんと自室のベッドの上で眠ったはずなのに、空が見えていた。

 加えるなら背中に鈍い痛みも感じていた。固いのだ。自分が今背中を預けている何かが、ベッドとは比べ物にならないほどに。


 体を起こして見てみれば、西田は石畳の上にいた。

 着衣も寝間着のスウェットから、何故か学ランに変わっている。

 顔を上げて周りを見回してみると、周囲には石造りの建物が幾つも並んでいた。


 往来の人々は西田を避けながら歩いている。

 皆、中世めいた、古めかしい衣服に身を包んでいた。


 しかし西田は、その現状に殆ど動揺を感じていなかった。

 代わりに感じていたのは高揚だった。

 心臓が高鳴り、口元には気づかない内に笑みが浮かんでいた。


 右手で頬をつねり、そして理解する――夢ではない。

 西田は確信を得た。自分は異世界に転移してきたのだと。


「……おい兄ちゃん。こんな往来のど真ん中で寝てちゃいけねえよ」


 ふと、三人の男達が西田の正面に立って、彼を見下ろした。


「市民の皆様のご迷惑になっちまうだろ?」


 威圧的な声音と視線。腰に吊るした剣の柄を、これ見よがしに撫でる右手。

 彼らは明らかに、衛兵や巡邏――いわゆる警察官の類ではなかった。


「迷惑料だ。痛い目に遭いたくなけりゃ財布出しな、兄ちゃん」


 西田の身長はさほど高くない。

 当時はまだ16歳で成長途上ではあるが、それでも163センチメートル。

 同学年における平均身長をやや下回るくらいだ。


 一方で、この世界においても白色人種は体格に恵まれているようだった。

 男達は全員、西田よりも遥かに背が高く、腕も足も太い。


 しかし――西田は臆してはいなかった。

 むしろ口元の笑みには、一層強く喜色が浮かんですらいた。


「……なに笑ってやがんだ、コイツ」


 男の一人が苛立った様子で剣を抜いた。

 彼らはごろつき――もう少し風情のある呼び方をするなら、やくざ者だ。

 要するに、衛兵の警邏が甘い区域を縄張りとする、自警団気取りの連中だ。道のど真ん中で寝ている浮浪者一人を脅しつけられないなど、あってはならない事だった。


「さっさと財布出せよ。それとも言葉が通じてねーのか?」


 西田の首筋に刃が突きつけられた。

 それでも西田は笑みを崩さず――右手の指先のみで、ゆっくりと、その剣を掴んだ。そんな事をすれば男達が逆上して、首を斬り裂かれるかもしれない――などとは、考えもしなかった。異世界に転移してきたなら、自分には当然『力』が与えられていると信じていたからだ。


 そして西田は左腕に力を込めた。

 左手で掴んだ刃が持ち上げられていく――その柄を握る男もろとも。

 威圧的だった男達の目つきと表情が、瞬く間に恐怖と戦慄によって歪んだ。


「おい」


 西田は男達を睨み上げると、そう声をかけた。


「この国で仕事がしたい。この力を存分に活かせるような仕事をな。案内しろ」


 異世界に転移したならば、まずは、いわゆる冒険者ギルドを探さなくては。

 この世界は、ごろつきですら帯剣して、そこらを歩き回っている世界。

 武器が社会に広く流通している――それを使う機会が頻繁にあるからこそだ。

 ならば自分のこの力を活かせる職業も、必ずある――西田は確信していた。


 西田は、冷静だった。

 冷静に、この世界で生きていく段取りを考えていた。

 より正確には、この世界で富と名声を得て、華々しい人生を歩む為の段取りを。


 そして――西田の目論見は成功した。

 彼は無事に冒険者協会へと案内され、すぐに期待の新星として知られるようになった。短躯に見合わぬ怪力と、どこの民族のものか誰にも分からない漆黒の衣装。

 話題性は十分だった。

 金、名声、己を讃え尊敬する人々、欲しかったものはなにもかもが手に入った。


 だが――西田の異世界転移からおよそ一年が経ったある日の事だった。

 西田は、とある昔話を耳にした。

 百年前、大陸に出現した魔王を討滅した勇者の言い伝えだ。


 剣技、弓術、魔術、格闘術、暗技――あらゆる技術スキルを操るとされた勇者。その来歴は一切が不明。一説には彼はある日、王宮の王座の間に突然現れた、とも言われている。


 もちろんそんな話は誰も信じない。

 吟遊詩人が誇張した作り話だと、誰もが笑い飛ばす。


 けれども西田には、それが誰かの妄想などではないとすぐに分かった。

 異世界からの転移――それが現実に起こり得る事だと知っていたからだ。


 かつてこの世界に現れた、自分と同じ異世界転移者。

 その存在を知った時に西田が感じたのは――途方もない敗北感だった。


 百年前の異世界転移者は王座の間に前触れもなく現れ、恐らくはそこで王宮の騎士を遥かに上回る力を示した。

 そしてそれをきっかけに勇者として任命されて、魔王を討滅したのだ。

 それに比べたら自分はどうだ、と。


 往来のど真ん中に眠ったまま投げ出され、ごろつき相手に力自慢をして。

 俗欲に塗れるばかりで――この世界に名を残すような事など、何もしていない。


 今の世界に転移してくる前、西田勇樹は――なんでもないような人間だった。

 勉強もスポーツも人並み。顔が特別いい訳でも、背が高い訳でもない。


 異世界転移を経て、西田は自分が特別な人間になれたのだと思っていた。

 だが――そうではなかった。

 百年前、この世界には自分よりもずっと華々しい物語を残した異世界転移者がいた。記録に残っていないだけでそれ以前にも、もっと多くの、優れた転移者、転生者がいたかもしれない。異世界に転移してきても、自分は凡庸な、なんでもない人間に過ぎないのかもしれない。


 そんな事を認められる訳がなかった。

 西田はどうあっても、自分が特別な人間だと証明したかった。

 だがどうすればそんな事が出来るのか。

 そもそも魔王が再び現れでもしなければ、西田はかつての勇者と同じ土俵に立つ事すら出来ない。


 そうして西田は悩み――そしてある時、思い至ったのだ。

 魔王と戦えなくとも、勇者の資質を示す事は出来る。

 あらゆる強者を打ち負かし、この世界で最も強い男になれたのなら――それは千の技を操ると謳われた勇者にも劣らぬ資質の証明になるはずだ、と。


 その足がかりとして、西田は王国最強の剣士【剣鬼】、スマイリーを選んだ。

 彼女の名は冒険者として活動している間にも、何度も聞いた事があった。

 どこに行けばすぐに戦えるのかも簡単に分かった。

 そして西田はスマイリーに挑み――圧倒的な力量差を見せつけられて、敗れた。


 自分の暗愚な過去をなぞる、その夢を、西田は既に夢だと自覚していた。

 だから夢の中の自分がいつの間にか、気を失う前と同じようにスマイリーと対峙していても、特段驚かなかった。


 スマイリーは左手の鞘を中段の位置に、右手のサーベルを肩に担ぐ形で構えている。昨日と同じ構えだ。


 西田は剣を抜いた。

 先ほどはこの状況から斬撃をいなされ敗北した。

 だがあの時はスマイリーの言葉に酷く取り乱した状態だった。

 今度は冷静に、虎伏――下段横構えを取る。


「……夢とは言え、第二ラウンドがあるのはありがてえ」


 西田には、自分が何故このような夢を見ているのかは分からない。

 敗北のショックが悪夢として現れているのか。

 それとも敗北を認めたくないという気持ちが、夢の中に再戦の場を設けたのか。

 だが理由など西田によってはどうでもいい事だった。


 どんな理由であれ目の前に、自分を完膚なきまでに叩きのめした相手がいるのだ。

 せめて一矢報いたい――西田はそれしか考えていなかった。


 しかし西田が何度斬りかかっても、その剣はスマイリーには届かない。いかなる角度から斬り込もうと斬撃は全ていなされ、生じた隙にとどめを刺される。


 ならば更に一歩深く踏み込めばどうか。

 より近い間合いから腹や胸を狙えば、多少軌道が逸らされても刃は対手に届く。

 そう考え一歩前に飛び出した西田の胸に、サーベルによる刺突が突き刺さっていた。夢の中である為か痛みはない。だが、これが現実ならば致命傷である事は明白。

 元々、手足の長さはスマイリーが上なのだ。

 不用意に間合いを詰めればそうなるのは当然だった。


 長い間合いと鋭い剣閃。

 更には異世界転移者の怪力さえも受け流す技巧。

 スマイリーは剣士として、あまりにも完成されていた。


「……ダメダメ。ダメだよそんなんじゃ。分からないかな。剣だけじゃ、君は私には勝てないんだってば」


 不意に、スマイリーが声を発した。

 自分自身の夢の中でありながら、それは西田にも予想外の事だった。


「どうすればいいか、もう忘れちゃったのかい?」


 続くスマイリーの言葉が、西田の記憶を想起させる。

 首めがけて振り下ろされた刃を死に物狂いで躱し、無我夢中で左手を彼女の足へと伸ばした、あの時。

 その直後にスマイリーは言った。「やれば出来るじゃないか」と。


「……あの時は、咄嗟にただ手が伸びただけだ」


 西田は自分の左手を見つめて、小さく呟く。

 それからスマイリーへと視線を移した。


「あれをもう一度やればいいのか?」


 問いかけに、スマイリーは答えない。

 ただ見せつけるように不敵な笑みを浮かべるだけだった。


「……畜生。どうしろってんだ」


 西田はそうぼやくと、剣を両手で握り直す。

 だが――構えない。どのような構えを取ればいいのか分からないのだ。あの時と同じ事をしようにも、まさか自分から転んで首を差し出す訳にはいかない。


 ならばどうすればいいのか。視線を手元の剣へと落として、西田は考える。

 スマイリー相手に剣技では決して勝てない。

 勝ち目があるとすればそれは異世界転移によって得た怪力以外にない。

 しかし――力任せに打ち込んでも、スマイリーはそれを容易くいなしてしまう。

 かと言って鍔迫り合いに持ち込んでも結局、組討術で捌かれるのが関の山――


「――待てよ」


 だが不意に、西田は何かに気づいたように顔を上げた。

 スマイリーをまっすぐに見据えると、虎伏の構えを取り、呼吸を整える。

 そして――彼女の懐へ一足飛びに踏み込んだ。


 迎え討つように放たれる袈裟懸けの斬撃。

 稲妻の如きその一撃を――西田は、刃をもって受け止めていた。

 そのまま両腕に力を込め、鍔迫り合いへと持ち込む。


 スマイリーの完璧なカウンターを防御出来たのは――元々そのつもりだったからだ。今の踏み込みにおいて、西田は剣を振るう気は一切なかった。

 先手をあえて取らせ、それを防御して鍔迫り合いの形を作る。

 それだけを意識していた。



 だがスマイリーの表情に焦りはない。

 彼女の組討術をもってすれば、力任せな鍔迫り合いなど容易く拒む事が出来る。力で押し込んでくるのなら、それを横にいなし、体勢が崩れたところで首筋を斬る。


 スマイリーはそれを実行に移そうとして――出来なかった。

 西田の左手が剣から離れ、スマイリーの右手首を掴んでいた。

 右腕一本で鍔迫り合いを制する膂力が前提の、西田にしか出来ない組討術だった。


「……こういう事か」


 捕まえた右腕を、西田はそのまま動かさない。

 下手に押し引きすれば、その力を利用して組討術を返される。

 だから動かさないまま――ただ、それを掴む左手に力を込めた。

 異世界転移者の怪力ならば、握力のみで人の腕を骨ごとへし折る事が出来る。



「……やれば出来るじゃないか」


 スマイリーはそう言うと、西田に微笑みかけた。ただの夢に過ぎないはずなのに、その声音と笑みは――まるで本物のように小生意気だった。


「うるせえよ。俺はもっと、まだまだ強くなるぞ。覚悟しとけよ」


 西田が左手を、渾身の力で握り締める。

 ばきん、と暴力的な音が響いて――――西田はそこで目を覚ました。


 目を開けば視界に映ったのは、異世界転移してきた時と同じような、晴れた空。

 いつの間にか握り締めていた右手を開いてみれば――灰色の砂が零れ落ちる。

 無意識の内に石畳を握り砕いて、その音で目を覚ました、という訳だ。

 あまりの間抜けさに西田は自嘲の笑みを零した。


「……とりあえず、ここから離れた方が良さそうだな」


 辺りを見回すと、周囲の石畳には無数の足跡が残っていた。

 泥や土によるものではない。昨夜の戦闘、その際に行われた踏み込みによって石畳が窪んで、足跡となっているのだ。

 言うまでもないが、公共の道路を破壊するのはこの世界においても犯罪行為だ。

 スマイリーに辻切りを仕掛けたという余罪、もとい本罪もある。


 太陽の加減からして、今は早朝。

 だが闘技場の興行は遅くとも昼前には開始される。当然その準備はもっと早くから始まる。人が集まってくれば、市民によって通報され衛兵が駆けつけてくるのは時間の問題。


 西田はすぐに立ち上がろうとして、しかしふと、思い留まったように動きを止めた。代わりに片膝立ちの体勢を取り――すぐ傍にあった二つの足跡を見下ろし、触れる。身長のわりに小さなスマイリーの足跡と、自分の足跡。

 より深いのは――西田の足跡だ。


「……スキルだ。もっと技があれば……次は勝てる」


 自分にそう言い聞かせると、今度こそ西田は立ち上がり、歩き出した。

 この世界の剣技を習得する為――向かうべき場所は既に分かっていた。

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