4

 クリスが帰ったあとも、しばらくカトリーナの興奮はおさまらなかった。


 アリッサ相手に運命について熱く語り、気がつけばすっかり夜になっていて、カトリーナは幸せな気持ちのまま眠りにつこうとした。


 しかし、カトリーナがそろそろベッドに横になろうかとした矢先、カトリーナの寝室の扉が叩かれて、困惑した表情のアリッサがあらわれた。


「どうかしたの?」


「それが……、こんな時間ですが、お客様がいらしています」


「え?」


 こんな夜中にいったい誰だろうかとカトリーナが首を傾げると、アリッサは相当混乱しているのか、客の名前も告げずに、とにかく居間に降りてくれとカトリーナを急かす。


(アリッサがこんなに混乱しているなんて……、いったいどなたかしら?)


 シルクのネグリジェの上に薄手のガウンを羽織って、カトリーナは首を傾げながら居間に降りた。


 すると、ソファに座って、出された紅茶に口をつけていた客人の姿を見たカトリーナの顔が驚愕にひきつる。


「王太子殿下……!?」


 目を丸くして、あり得ない来客の存在に、カトリーナは居間の入口で茫然と立ち尽くした。


 ソファで優雅に紅茶を飲んでいたのは、ついこの前まで婚約関係にあった、この国の王太子その人だったのだ。


 王太子レオンハルトはカトリーナの姿を見つけると、勢いよく立ち上がった。


「カトリーナ! 夜分遅くにすまない」


 まったくだ、とカトリーナは思ったが口には出さなかった。


 カトリーナは驚いている心臓の上をおさえながら、レオンハルトが座りなおすのを待って、彼の真向かいのソファに腰を下ろす。


 聞けば、来る途中の道が土砂崩れで塞がっていて、迂回した結果、到着がこの時間になったらしい。


 しかし、カトリーナの知りたいことはそのことではなく、どうして王太子がカトリーナを訪れたのかということだった。


 婚約していた時も、数か月に一度会うか会わないかというくらい、滅多に顔を合わせることがなかった王太子である。しかも会えば決まってむっつりと不機嫌そうな顔をしていて、会話もろくに成立しなかった。


 そんな元婚約者が、婚約していたときとは違い、なぜかカトリーナに笑顔を向けている。


(何をしに来たのかしら……?)


 人前で取り繕うための作り笑いは見たことがあるが、それ以外のレオンハルトの笑顔を見たことのないカトリーナは動揺した。


 何を考えているのかさっぱりわからなくて――、さわやかでどこか照れたようなその微笑みが、逆に怖い。


 アリッサはまだ混乱から立ち直っていないようなので、カトリーナは彼女に休むように告げ、王太子に向き合った。


「今日は……、どうなさったのですか?」


 いろいろ問い詰めたいことはたくさんあるが、一番聞きたいことはこれだった。カントリーハウスに下がった元婚約者に何の用事があると言うのだ。


 レオンハルトは表情を引き締めると、組んだ足の上に指を組んだ。


「カトリーナ、君に話があってきたんだ」


「わたしに?」


 王太子自らやってくるほどの話とはいったい何だろうかとカトリーナは表情を硬くする。


(まさか、お父様の身になにか!? いえいえ、それなら家令が早馬でやってくるのが先のはずだわ。じゃあ一体……?)


 正直言って、何が起こったとしても王太子自らやってくるようなことがあるとは思えなかった。なぜなら、婚約を解消した瞬間、レオンハルトとカトリーナの関係はほとんど「無」となったはずだからだ。関係があったとしても、せいぜい、父親が仕えている国王の息子というだけの関係だ。


 よほど何か大変なことが起こったのでは、とカトリーナが心配になっている目の前で、レオンハルトは突然もじもじしはじめた。視線が泳ぎ、何やら落ち着かない様子である。


 カトリーナはますますわからなくなって訝しそうな顔をしたが、レオンハルトが次に言った言葉に顔を真っ赤に染め上げた。


「その……、目のやり場に困るな」


 レオンハルトの視線が胸元に注がれているのに気づき、カトリーナは自らを見下ろしたあとで、慌ててガウンの襟元を掻き合わせる。


 初夏用に薄いネグリジェを着用しているのだが、このネグリジェは胸元が大きく開いており、さらに体の線がうっすらと透けて見えるほど薄いのだ。ガウンを肩から軽く羽織っただけだと、きわどい部分は見えないが、なかなか露出度が高いのである。


(わたしの馬鹿! どうしてきっちり着てこなかったの?)


 カトリーナは顔を赤くしたまま、ぎゅっとガウンのあわせを握りしめて、レオンハルトを小さく睨んだ。


「ご用件は何でしょうか?」


 早く話して早く帰ってくれと言いたそうなカトリーナに、レオンハルトはうっと言葉を詰まらせると、もごもごと歯切れが悪そうに口を動かした。


「その……、話と言うのは、今回の婚約破棄について……、いや、それよりももっと、その……」


「はい?」


「だから、今回のことで、少し話があってだな……」


(いまさら?)


 カトリーナは唖然とした。


 一方的に婚約破棄を告げられて――しかも本人の口からではなくエドガーの言葉と新聞記事で知らされた――、いまさら何を言いに来たというのだろうか。


 もちろん、カトリーナは婚約破棄されたことについて恨んではいない。しかし、カトリーナの中ではすでに過去のことになっているのだ。弁明も必要なければ、その件に関して王太子と話すことは何もない。


(しかも、長くなりそうよね……)


 今まで、カトリーナに対して端的に用件以外を告げたことがなかった王太子なのに、ずいぶんと歯切れが悪い。


 こんな遅い時間から長話をするのも疲れるし、何よりアリッサをはじめ、この邸で働いている人が落ち着かないだろう。


(迂回してきてこの時間になったってことは、宿も取っていないのよね、きっと……)


 カトリーナは王太子に気づかれないように小さく嘆息する。


「殿下、今日はもう遅いので、お話は明日にしませんか? お泊りになられるのでしたら部屋を用意させますが」


 レオンハルトはハッと顔をあげた。


「そ、そうだな。……それではお言葉に甘えて、部屋を貸してもらえるか」


 カトリーナはメイドを呼んでレオンハルトのために部屋を用意させる。


 レオンハルトを客室に押し込んで「おやすみなさい」と告げたあと、カトリーナはふと、彼が護衛もつけずに一人でふらりとやってきたことに気がついて首をひねった。


(変な殿下)


 婚約していたとき、彼はいつも威圧感たっぷりで、にこりともせず、生まれながらの為政者のようだった。彼の周りにはいつも護衛がいたし、護衛がいなくても側近のエドガーが必ずそばにいた。


 それなのに、先ほどの王太子はたった一人でやってきて、どこか落ち着かなそうで、少しおどおどしていて――威圧感なんてどこにもなかった。


 カトリーナは夢を見ているんじゃないかしらと自分の頬をつねってみる。


(痛いわ。……ということは、本物?)


 どうしてこうなっているのかまったくわからなかったが、カトリーナは、先ほどの王太子の方が今までの彼よりもちょっとだけ好感が持てるなと思いながら、ベッドにもぐった。

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