3

 カトリーナはおろしたてのライムグリーンのドレスに身を包み、邸の玄関の前でそわそわしていた。


「お嬢様、いい加減中に入ってくださいませ。クリス様がいらっしゃるのはお昼からでしょう? まだ朝でございますよ!?」


「だって、待ちきれないんだもの!」


 カトリーナは朝食をすませて身支度を整えると、何度も玄関先に出ては、クリスの訪れをまだかまだかと待っていた。


 アリッサにぐいぐい腕を引かれて、カトリーナは居間まで連れていかれるが、またすぐに落ち着くことなく玄関まで行ってしまう。


 そして、居間と玄関の往復を十二回くり返した昼すぎ、クリスの乗った馬車が邸の前にとまった。


「いらっしゃいませ! クリス様」


 アリッサが止めるのも聞かずに自ら玄関まで迎えに出たカトリーナは、さわやかな笑顔を浮かべるクリスをうっとりと見上げた。


(はあ……、何度見ても素敵……)


 キラキラと輝く金色の髪に優しそうな青い瞳。すらりと高い身長は、今日は淡いブルーのシャツと白いトラウザースに包まれていた。


「お招きありがとう、カトリーナ。今日のドレスもよく似合っているよ」


 クリスはそう言って、ピンクと白のガーベラの小さなブーケを差し出してくれる。


「まあ……」


 カトリーナはブーケを受け取ると、ぎゅっと胸に抱きしめた。


「素敵なお花をありがとうございます」


 ブーケを抱きしめたまま、カトリーナは事前にお茶の準備をしていた庭にクリスを案内した。


 庭に用意した真っ白いテーブルにつくと、煎れたての紅茶とまだ温かいアップルパイの香りがふわりと広がる。


 料理長自慢のアップルパイは、シナモンのきいたリンゴがたっぷり詰まっており、適度な酸味も残っていて絶品だ。


 クリスは上品な仕草でアップルパイをフォークで口に運びながら、「そういえば」と切り出した。


「王太子との婚約を破棄したって聞いたけど、本当だったんだね。誰かが噂をしているのを聞いたよ」


 このあたりは、王都から少し離れているので、王都の情報の到達が遅い。だが、貴族の避暑地として人気なので、ほかの田舎の地方と比べて、情報は届きやすいところにあった。


「まあ、クリス様。信じていなかったの? わたしは嘘は言いませんわ」


「ごめんごめん。だってあまりにけろりとした顔で言うものだから、半分冗談なのかと思っていたんだ。それで、どうして婚約破棄ってことになったのかな? あ、ごめん、言いにくかったらいいんだ」


「言いにくいことなんてありませんわ。殿下は別の女性を好きになったんですって。だから婚約を破棄されたのだとエドガー様が教えてくれましたわ」


 にこにことカトリーナは告げたが、クリスは渋面を作った。


「ほかの女性を好きになった? それはいくらなんでも……」


 あんまりだろう、とクリスは言うが、婚約を破棄されたことについてカトリーナはショックを受けなかったし、むしろ喜んだくらいだったので、どうしてクリスがそれほど難しい顔をしているのかがわからずにキョトンとする。


 クリスはしばらく考え込むように眉をひそめていたが、やがてこの話題には触れない方がいいと思ったのか、庭の奥にあるブランコに目を止めた。


「素敵なブランコがあるね」


 クリスに言われて、カトリーナは嬉しくなった。


「わたしのお気に入りの場所ですの! 小さい頃はいつもブランコで遊びましたのよ」


「そうなの? カトリーナの子供のころの話を聞かせてよ」


 クリスは皿にとりわけたアップルパイを食べ終えると、テーブルの上に頬杖をついた。


「子供のころですか? ずいぶんおてんばな子供だったとお父様に言われましたわ」


 カトリーナはブランコを見つめて、ふふっと微笑む。


「あのブランコが大好きで、晴れた日の午後はいつも座っていましたの。そうそう、一度だけあのブランコから落ちてしまったことがあって……。そのとき、ちょうど庭にいた男の子に助けていただいたのですわ。男の子と言っても、当時のわたしより何歳も年上の方でしたけれど……」


 男の子とはそれっきりお会いしたことはありませんが、素敵な方でしたのよ――、カトリーナがうっとりとそう告げると、クリスは目を丸くした。


「それって……、もしかして、十二年前くらいのことかな?」


 今度はカトリーナが驚く番だった。


「まあ! どうしてわかりましたの?」


「それは……」


 クリスは困ったように眉を落としたが、カトリーナにじっと見つめられて、苦笑を浮かべた。


「……カトリーナ。もしも、僕が十二年前に君を助けた男の子だったら、どうする?」


「えっ?」


 カトリーナは息を呑んだ。


(うそ!?)


 カトリーナは瞠目したままクリスを見つめる。心臓の音が、ドキドキと、徐々に大きくなっていくのを感じた。


(あの時の王子様は、クリス様なの!?)


 こんな偶然はあるだろうか。


 心の隅に、そうだったらいいなと願望めいた想いはあった。だが、十二年間まったく見つからなかったのだ。さすがにそう簡単に見つかるものではないと思っていたカトリーナは、思ってもみなかった展開に茫然とするしかない。


 頭の中は真っ白で、それなのに心臓だけが壊れそうなほどうるさかった。


 カトリーナは心臓の上をおさえて、冷静になるために深呼吸をくり返しながら、まじまじとクリスの顔を見た。


 金色の髪に青い瞳は確かに思い出の中の少年と同じだが、ほかにも頭の片隅で微かに覚えている彼の特徴と似通った部分はあるだろうか。


(駄目だわ……、はっきりと思い出せない)


 子供のころの初恋で、しかも時間にすれば一時間もない僅かな邂逅かいこうだ。助けられたあと、少し話をした気がするのだが、正直、助けられたその瞬間しか覚えていない。


「ほ、本当に……、あの時わたしを助けてくれたのはクリス様ですの?」


「え、あ……」


「どうしましょう、信じられないくらいドキドキしますわ。わたし、ずっと会いたかったんですの。嬉しくて……」


 やはり運命だったのだ。アリッサは小説の中のような赤い糸で結び付けられた二人なんて存在しないと言っていたが、こうして出会えた。再会できた!


 カトリーナは身を乗り出すと、テーブルの上に投げ出されていたクリスの左手をぎゅっと握りしめた。


「クリス様。わたし、もっともっとクリス様のことが知りたいですわ!」


 十二年前に出会ったこと。王太子に婚約破棄されたこと。そして、本屋での再会。すべて神の采配さいはいのような気さえしてくる。


 感動に瞳を潤ませて見つめてくるカトリーナに、クリスはたじろいだような顔をしたが、やがて目を細めて微笑んだ。


「僕も、君に会いたかったよ。カトリーナ」

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