7

 翌朝。


 カトリーナはクリームイエローの飾りの少ないシンプルなドレスを着て、目立たないように髪を一つに編み込むと、アリッサとともに隣町へとやってきていた。


 カトリーナが王太子から婚約破棄されたと言う噂はこのあたりまで広まっていないと思うが、念のため目立つのは避けた方がいいだろうというアリッサの案だった。


 アリッサはハーブティー買うと言っていたので、その間、カトリーナはこの町唯一の本屋に足を運んだ。アリッサの買い物が終われば本屋まで迎えに来てくれることになっている。


(素敵な本はないかしら?)


 恋愛小説はたくさん持って来たが、どれも一度は目を通したことのある本なので、よさそうな本があれば買う予定だ。


(身分違い、幼馴染……、ああ、年の差も素敵よね。ふふっ)


 母から禁止令を出されていたため、しばらく自ら本屋に足を運んでいなかったカトリーナは、並んでいる本をうっとりと見つめた。


 そして、めぼしいものを片っ端から店主に預けていく。


「あれも、これも、ああっ、あの本も!」


 品のいい格好のお嬢様が恋愛小説を爆買いして行く様に、店主のみならず、本屋にいた客たちも何事かとカトリーナに視線を投げる。


 しかし、当のカトリーナは注目されていることには露とも気づかず、ご機嫌で狭い本屋の端から端までを時間をかけて確認して、最終的に十七冊の本を店主に頼んだ。


(ああっ、幸せ……)


 そして、店主が本を包んでいる間、昨日までの退屈はどこへやら、明日から新しいしい本を読めるという喜びをかみしめていると、近くからクスクスという笑い声が聞こえてきた。


 何かしら、と顔をあげると、カトリーナよりも頭一つ分は背の高い青年が、カトリーナの方を見て笑っている。


(まあ……)


 だが、カトリーナは笑われたことを怒るよりも、彼の外見に驚いた。


 サラサラの金髪に、空のような青い瞳。すらりと高い長身は白いシャツと細身の黒のトラウザースに包まれている。とてもさわやかな青年だった。


「失礼、あまりに嬉しそうな顔をしていたから」


 カトリーナが目を丸くしているのに気がついたのだろう、彼はそう言うと謝罪するように軽く頭を下げた。


(……王子様!)


 カトリーナは思わずそう思った。


 カトリーナの初恋の王子様の顔ははっきりとは覚えていないが、当時の印象から、あの少年が大きくなったらきっと彼のようなさわやかで素敵な青年になっているに違いない。


 カトリーナがぼーっと彼を見上げていると、彼は不思議そうな顔をして近寄ってきた。


「どうかしたのかな? 顔が赤いよ?」


 そう言って遠慮がちに頬に触れられたので、カトリーナは心臓が口から飛び出すほど驚いた。


「あ、あ、あの」


「ん?」


 彼が優しそうに目を細める。


(ああっ、どうしましょう……!)


 ドキドキする。


 それはもう、心臓が壊れそうなほど。


(……素敵な出会い、あったわ……)


 カントリーハウスに来てよかった。


 カトリーナははじめて母に感謝した。


「あのっ、わたし、カトリーナですわ!」


 お名前をお伺いしても、と少し上ずった声で訊ねれば、彼は微笑みを浮かべたまま「クリスだよ」と答えてくれる。


(まあ、クリス様……。なんて素敵なお名前)


 カトリーナがうっとりしていると、「お嬢ちゃん包んだよー」という店主の声がしてハッとする。


「まあ、ありがとうございます」


 カトリーナは本の包みを受け取ろうとしたが、十七冊は重かった。受け取った途端によろめいて、後ろに倒れそうになったところを、クリスが慌てて支えてくれる。


「危ないよ! 君みたいな細い人がこんな重たいものを持てるわけがないだろう?」


 背中を支えられたと同時に、ひょいっと手の中の本の包みを持ち上げられた。


 あんなに重かった十七冊分の本の包みを軽々と片手で持ち上げる様子にカトリーナは瞠目する。


「力持ちですのね」


 感心したように言えば、クリスはおかしそうに笑った。


「こんなの、男なら誰でも持てるよ。それで、どこまで持って帰るの? 君には持てないだろうから、ついでだし持ってあげるよ」


 クリスが本を抱えて店を出て行ってしまいそうになったので、カトリーナは焦って彼の腕を引っ張った。


「いえ、ここに迎えが来るんですの。だから……」


「そうなの? ああ、上等なドレスを着ていると思ったけど、君はどこかのお嬢様なのかな? お嬢様が一人でうろうろしていたら危ないよ?」


「えっと……、侍女はすぐそこの店で茶葉を買っているだけですので……」


「あれ、本当にお嬢様だったのか」


 素直に答えちゃうねー、と笑われて、カトリーナはどうしたらいいのかわからなくなって眉を下げる。


 すると彼の方が慌てた様子でカトリーナの頭をポンポンと撫でた。


「ごめん、困らせるつもりじゃなかったんだ。ただ、あんまり素直だったから、つい……」


 素直だからなんだというのだろう。カトリーナはわからなかったが、彼の慌てた顔がおかしくてくすくすと笑い声をあげた。


「面白い方。わたしはアッシュレイン侯爵家のものですわ」


 クリスはギョッとした。


「……カトリーナって、まさか、王太子の婚約者の……?」


 周囲をはばかってか声を落とすクリスに、カトリーナは小さく首を振った。


「婚約はなかったことになりましたの。だからわたしは、ただのカトリーナですわ」


「え? 婚約はなかったことに……? そんな馬鹿な……」


「本当ですわ。新聞にも載りましたのよ?」


「いや、そこは自慢するところじゃないから」


「確かにそうですわね」


 胸を張って答えたカトリーナだったが、クリスに指摘されてしまったと両手で頬を抑える。


 クリスは肩を揺らして笑い出した。


「ははっ、君、面白いね」


 カトリーナは何が面白かったのかがわからずに首をひねる。


 そこへ、茶葉の買い出しを終えたアリッサがやってきて、カトリーナと知らない男が談笑しているのを見て目を丸くした。


「お嬢様、何をしていらっしゃるんですか?」


 アリッサが警戒するような視線をクリスに送るが、彼は飄々とした態度でその視線を受け止める。


「君が侍女さんかな? それで、この本はどこに運べばいい? 君でも持てないよね?」


「本……? まあああ! お嬢様! 何ですかこの大量の本は!」


 アリッサは訝しげに男の抱える包みを見て、カトリーナが買いあさった本だと理解すると目をつり上げた。


「買うにしても限度があるでしょう!」


「だ、だって……、見ていたらほしくなったんですもの」


 カトリーナはこそこそとクリスの背に隠れる。


 アリッサはため息をついて、クリスに向かって頭を下げた。


「どこのどなたか存じませんが、お嬢様が大変ご迷惑をおかけしたようで……」


「僕はぜんぜんかまわないよ。暇つぶしに町を歩いていただけだし、彼女と話をするのは面白かったから、むしろ役得かな」


「まあ、クリス様ったら」


 ぽっと頬を染めるカトリーナをアリッサは白い目で見つめたあと、もう一度息を吐いて、クリスを申し訳なさそうに見上げた。


「ご迷惑をおかけしたところ大変申し訳ございませんが、おっしゃる通り、お嬢様にもわたしにもその大量の本は持てませんので、馬車まで運んでいただけないでしょうか?」


 クリスは「かまわないよ」と言って、カトリーナとアリッサとともに、町の大通りの入口に停めてある馬車まで歩いていく。


 馬車までは徒歩で十分ほどだったが、クリスはカトリーナが退屈しないように話しかけてくれた。


 馬車の中に本の大きな包みを積み込むと、優しい微笑みをたたえた顔で「それじゃあね、カトリーナ」と頭を撫でてくれる。


 カトリーナはなぜかここでクリスと別れてはいけない気がして、その手をぎゅっと握りしめると、家まで送らせてくださいと申し出た。


 アリッサが隣でギョッとした顔をするが、カトリーナは無視を決め込む。


 クリスは「うーん」と少し考えて、ゆっくりと首を横に振った。


「やめておくよ。もう少し散策しようと思っていたし」


「そう……ですか」


 しゅん、とカトリーナが肩を落とす。


 クリスは落ち込んだカトリーナの顔を覗き込んで、片目をつむった。


「この町にマカロンがおいしい店があるんだ。今度ゆっくりとお茶をしないか?」


「いいんですの?」


 カトリーナはパッと顔をあげた。


 クリスは頷くと、


「そうだな……、三日後はどうだろう? ちょうどあいているんだ」


「はい、ぜひ!」


「お嬢様!」


 カトリーナが即答すると、はーっと隣のアリッサがため息をつく。


 クリスがアリッサに視線を向け、「ちゃんと日が高いうちには送り届けるよ」告げると、アリッサは渋々ながらに頷いた。


「それじゃあ三日後。そうだな……、広場の噴水前で、昼の二つ目の鐘が鳴るころでどうだろう?」


 カトリーナは「はい!」と元気よく返事をして、アリッサに急かされて馬車に乗ると、クリスが見えなくなるまで馬車の窓から手を振った。


 そして、クリスの姿が見えなくなり、馬車が町の外に出ると、両手で頬を抑えて「えへっ」と笑み崩れる。


「アリッサ、どうしましょう? ドキドキが止まらないわ! これが恋かしら?」


 花でもまき散らしそうなカトリーナの様子に、アリッサは頭痛を覚えてこめかみをもんだのだった。

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