第3話 幕間
「あなた、排水管クリーナーはどこにありましたっけ?」
そんな言葉と共に、ノックをすることもなく、汚れた服を着た妻が部屋に入ってきた。
まったく、部屋に入るときはノックをしろ、服が汚れたらすぐに着替えろ、と言いつけていたというのに。
「掃除用具の管理は、お前にまかせていただろう」
溜め息を吐きながら答えると、妻は軽く目を伏せた。
「でも、いつもの場所にあったものは、もうからになっていたので」
妻の答えに、軽い頭痛を覚えた。
なくなったのなら、新しいものを買いに行けば良い。
そんな簡単なことすら、妻は私に聞かないと分からないようだ。
「なら、買い物のお金とメモを渡すから、一度着替えてきなさい」
「はい。分かりました」
妻は軽く頭を下げると、たどたどしい足取りで部屋を出て行った。
妻と出会ったのは、五年ほど前だった。
壊してしまった人形の捨て場所を探し、近所の河川敷を歩いていると、どこかから歌声が聞こえた。
とても微かな声だったが、澄んだ美しい声だった。
私はその歌に惹かれ、声のする方に足を進めた。
すると、橋の下にうずくまりながら、水面を見つめて歌っている女を見つけた。
茶色く汚れた服で着ぶくれ、酷い臭いのする小柄な女だった。
どことなく、ウズラに似ている。そんなことを考えていると、女は歌うのをやめてこちらに顔を向けた。
「何かご用ですか?」
「いや、随分と綺麗な歌声がしたから、少し気になっただけだよ」
私が答えると、女は、そうですか、と呟き、再び水面に視線を戻した。そして、また澄んだ美しい声で歌い始めた。
それまで、私は美しい声を求めて、人形遊びを続けていた。
どの人形も、多少の作り物臭さを感じることもあったが、美しい声で私に愛を伝えたり、甘えたりしていた。
しかし、どの人形も、不意に汚らしい金切り声で喚いたり、吐き気を催すような嬌声をあげたりもした。
私はそれらの声が我慢ならず、最終的にはいつも人形を壊してしまっていた。
壊してきた人形のことを思い出しているうちに、女は歌い終え深い溜め息を吐いた。
「素晴らしい歌声だったよ」
拍手と共に賛辞を送ると、女は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます。家で歌っていると、うるさいと言われて殴られるので」
女は水面を見つめながら、澄んだ声でそう言った。
「君の家は、この近くなのかな?」
近所に住んでいるのなら、またあの歌声を聞くことができるかもしれない。そう思い、私は女に尋ねた。
「さあ、忘れてしまいました。もう帰ってくるな、と言われて、しばらく家には帰っていないので」
「そうだったのか」
私は女の答えに相槌を打ちながら、ポケットにしまったスマートフォンを取り出した。
行方不明者の情報提供を求めるページを調べてみると、今まで壊してしまった人形に似た写真が数件掲載されていた。しかし、女に似た写真はどこの警察のページにも載っていなかった。
「それなら、私の家に来ないかい?」
「え?」
私が提案すると、女は水面から目を離し、目を見開いた顔をこちらに向けた。
「君の歌声が気に入ったし、少し手伝ってもらいたいこともあるから」
この女が家に居れば、好きなときにあの美しい歌声を聴くことができる。
それに、人形の処理に罪悪感を抱くようにも見えないと、直感的に思った。
もしも、人形の処理についてとやかく言うようなら、この女も壊してしまえば良い。
そんなことを考えていると、女は予想外の言葉を口にした。
「それは、あなたの妻になれ、ということですか?」
「まあ、別にそれでも構わない」
私が曖昧に答えると、女は頬を赤らめて頷いた。
「私で良ければ……」
思ってもみない形となってしまったが、交渉は成立した。
それから、私は女を家に連れて帰り、色々なことを教えた。
人形の処理方法を知らないのは仕方ないと思っていたが、女は体の洗い方や歯の磨き方を知らないなど、日常生活に支障を来す程に物を知らなかった。
逐一説明をすることに煩わしさも感じたが、人形の処理に時間と労力を費やさなくてもよくなった、という利点の方が大きく感じた。
それに、人形に幻滅した日も、女の歌声を聴けば、嫌な気分がすぐに晴れる。
そんな日々を続けていくうちに、女にも愛着が湧き、正式に妻として扱うことにした。
とは言っても、書類の手続きは一際せずに安物の指輪を渡しただけで、今まで通り人形の処理をして私のためだけに歌う、という生活が変わるわけではなかったが。
それでも、妻は円らな目を細め、声をあげて喜んでいた。
人形達は何か喜ぶことがあると、キーキーと耳障りな声を立てていたが、妻の声は喜ぶときも美しいままだった。
「あなた。お着替えが終わりました」
昔を懐かしんでいると、澄んだ美しい声が耳に入った。
顔を向けると、外出用の服に身を包んだ妻が、買い物カゴを肩に提げて立っていた。
「じゃあ、お金を渡すから、電車に乗って終点の駅まで行きなさい。電車の乗り方は、もう分かっているね?」
私の問いかけに、妻は疑問を持つ素振りも見せずに頷いた。
「はい。大丈夫です。では、行ってきます」
妻は返事をすると、踵を返して部屋を出ようとした。
「ああ、少し待ちなさい。出掛ける前に、何か一曲歌ってくれないか?」
私が声をかけると、妻は足を止めてこちらに振り返った。
「分かりました。どんな歌が良いでしょうか?」
「そうだな。別れをテーマにした曲なら、何でも構わない」
私の答えに、妻は、分かりました、と言いながら頭を下げた。
そして、澄んだ美しい声で、シャンソンの定番曲を歌い始める。
昨日、人形を壊している姿を人に見られてしまった。
だから、妻の歌声を聴くのは、これが最後になるのだろう。
妻がここに居たという公的な記録はどこにもない。
ならば、遠く離れた街に行ってしまえば、妻が私の関係者だと気づかれることもないはずだ。
妻の行く末に不安がないと言ったら嘘になるが、このままここに居るよりは、いくらかマシだろう。
ただ、もうこの歌を聴くことができない。
そのことだけが、心残りで仕方ない。
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