第10話 《 邪馬台国(筑紫後国)の歴史 》

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《 邪馬台国(筑紫後国)の歴史 》


 最後にいわゆる「邪馬台国」、別名「筑紫後国(ちくしのみちのしりのくに)」、古くは「奴国(なこく)」や「葦原の中つ国」と呼ばれた国の概要(歴史)を記しておいておこうと思う。


 昔、「大陸国」北部から「日本(九州北部)」へと渡って来た一団があった。彼らは現在の「福岡県」「佐賀県」あたりに国を造った。 その国の名前は「奴国」と言った。

 彼らは普通に暮らしていたが【西暦0年~20年】位の頃に変化があった。

 イザナギ率いる「古墳族(天津神)」の一団が九州の「鹿児島県」へとやって来たのである。


 【西暦53年】の3月9日、「皆既日食(天の岩戸隠れ)」を切っ掛けとしてアマテラス達は九州制圧へと乗り出した。

 「奴国」の王は自分達の後ろ楯を得る為に「大陸国(漢)」へと出向いては「金印(漢委奴国王印)」を手に入れる事が出来ていた。 しかしアマテラス達はそれに臆する事など無いでいた。

 困った「奴国」の王はアマテラス達に対して〝土地の一部を移譲する〟代わりに「桟橋を備えた大きくて立派な建物」と「立派な船」を造って貰い、また「白楯(私兵・自治権)」を持つ事を求めてみせた。

 するとアマテラスはこれを承諾し、アマテラス達は「奴国の一部(福岡県筑紫地方)」を手に入れた。

 以上が「日本神話」で言う所の「葦原中国の国譲り」である。


 時は流れて【西暦150年頃】、九州の北部地域を震源とした「倭国大乱」という争いが起こった。

 その原因は不明であるが「異常気象」「飢饉」「新羅からの侵略」等が考えられる。

 これに対して神武天皇は【西暦156年】、「美地(うましとち)」を求めては「宮崎県」から「奈良県」へと遷都をしようと考えた。いわゆる「神武東征」の事である。

 そして【西暦160年】、神武天皇は初代天皇として即位した。

 その一方で九州での混乱は続いたものだと思われる。

 けれども【西暦230年】頃であろうかしら、70~80年続いていた争いは〝卑弥呼を女王とする事〟で終結した。

 女王「卑弥呼」を頂点とした「邪馬台国」の誕生である。



 【西暦238年】「邪馬台国」と取引のあった朝鮮半島西側の都市、「帯方郡」が「大陸国(魏)」に接収された。

 【西暦240年(239年)】女王卑弥呼は「大陸国(魏)」へと使者を送る。 恐らくこれは「朝貢」である。

 【西暦241年(240年)】その事を知った景行天皇(12)は「熊襲不朝貢」と理由をつけて九州へと向けて出陣をした。 応じて卑弥呼は「大陸国(魏)」へと使者を送った。

 【西暦244年(243年)】景行天皇は宮崎から熊本→長崎→福岡を経由して奈良へと戻る。 景行天皇が九州の地を去った後、卑弥呼は「大陸国(魏)」へと使者を送った。

 【西暦248年】熊襲が再び反旗を翻した為、景行天皇は息子のヤマトタケル(オウスノミコト)を九州へと派遣した。 卑弥呼、没す。 卑弥呼の没後、「男」が王となるのだが国はまとまらず、最終的に卑弥呼の近縁であった「臺与(イヨ・トヨ?)」という者が女王となる。

※(この「邪馬台国」が混乱していた時に「女王の都(首都)」の場所は何度か変化した可能性があると考えている。)


 【西暦265年】、「大陸国」の司馬炎が「魏」に代わって「西晋」を建てた。

 【西暦267年(266年)】、成務天皇(13)は「邪馬台国」が再び「大陸国」へと朝貢をしないように考えては令を出す。 それは「山河」を「郡(国郡)」の境とし、「道」をもっては「村」と成し、全国の広い範囲に「稲置(≒国造)」を置いては「その土地に詳しい者」を「土地の主」へと任命するというものだった。 その結果「邪馬台国」は再び自治権を認められ遣る事になる

※(この時女王「臺与」は手切れ金として使者へと金銀財宝を持たせては「大陸国(西晋)」へと派遣して、「大陸国(魏)」から卑弥呼へと送られたとされる「金印(親魏倭王印)」を返したものだと考えている。)


 【西暦296年】仲哀天皇(14)は嫁さんの神功皇后と共に熊襲征伐の為に「山口県」へと向かう。

 【西暦300年】仲哀天皇が崩御。 しかし嫁さんである神功皇后はそのまま進軍を続けては「山門(ヤマト・福岡県柳川市辺り)」の「田油津媛(タブラツヒメ)」を倒す。 この後、神功皇后は海を渡って「新羅」を服してみせ遣ると「内官家屯倉(ウチツミヤケ)」を定めては、日本に対して帰国をした。

※(この「田油津媛」が「邪馬台国」の女王「臺与」であった可能性がある。)


 【西暦313年】「高麗満州(高句麗)」が南下をしては「楽浪郡(帯方郡も?)」を攻め落とす。

 【西暦323年】かねてより日本と国交を結びたがっていた「百済」が日本へと貢物を送って来る。

 【西暦324年】百済王は「千熊長彦」に対して「西藩(服従)の誓い」を立てる。 「百済」が日本へと阿った(おもねった)理由は〝「高麗満州」に対抗する為〟であったと考えている。 日本にとっても朝鮮半島西側に足場が出来るので都合の良い申し出であったと思われる。


 【西暦353年】応神天皇(15)は「呉国(中国東部の江蘇省?)」の「縫工女(キヌヌイメ)」を求め遣る。 使者は「高麗満州人」の案内を受けながらに「呉国」へと向かう。

 【西暦355年】「呉国」の「縫工女」が日本へと到着。

 【西暦385年】「呉国」と「高麗満州」が日本に対して朝貢をして来た。 つまりは日本が本格的に「大陸国」側と交流を持ち出したという事である。

 【西暦400年】履中天皇(17)、即位。

※(このタイミングをもって今までの日本の暦であった「パクシャ」を廃し、「呉国」の使っていた「太陰暦」へと改めたものだと考えている。)


 【西暦413年】「倭の五王」の一人、「讃」、登場。

 【西暦438年】「倭の五王」の一人、「珍」、登場。

 【西暦443年】「倭の五王」の一人、「済」、登場。

 【西暦462年】「倭の五王」の一人、「興」、登場。

 【西暦478年】「倭の五王」の一人、「武」、登場。

※(この「倭の五王」の登場は、日本が〝 「大陸国(呉)」と国交を持つようになった事が切っ掛け(大和朝廷に対抗する為)であったのではないかしら 〟と考えている。 つまりはこの「倭の五王」こそが〝「邪馬台国」の流れを汲む者達であったのではないかしら〟と考えている。)


 【西暦507年】継体天皇(26)、即位。

 【西暦527年】「福岡(筑後?)」にて、「新羅」に味方する「磐井(イワイ)」により「磐井の乱」が起こる。 継体天皇はこれに対して「物部麁鹿火(もののべのあらかび)」を派遣してみせては鎮圧す。

※(この磐井は「邪馬台国」の流れを汲む者だった可能性がある。)


 【西暦600年】推古天皇(33)の頃、「遣隋使」が「大陸国(隋)」へと派遣をされたらしい。

 【西暦630年】舒明(じょめい)天皇(34)の頃、「遣唐使」が「大陸国(唐)」へと派遣されたらしい。

 【西暦660年】「百済」が「大陸国(唐)」(新羅も従軍)により敗れ、滅ぶ。

 【西暦663年】日本は「百済」を復興させるために「白村江の戦い」を仕掛けるが、敗北。

※(この頃、福岡には「大宰府」が、熊本には「鞠智城(菊池城・きくちじょう)」が築かれたものだと考えられているらしい。 私はこの立地、〝有明海側からの敵の進攻を防ぐ為の物 〟であったのではないかしら、と考えている。 つまりは(恐らく「大陸国」との交流のあった)「邪馬台国」の後継が「白村江の戦い」の際「大陸国(唐)」側へと付いて、筑後地方を拠点として各地に攻め入ったのではないかしらと予想をしている。)


 【西暦701年】「大宝律令」が制定(発行)される。

※(このタイミングにて「奴国(芦原中国)」→「邪馬台国(筑紫後国)」と神話の時代より続いてきた〝 自治権 〟は終わりを告げて、以降〝 筑後として収まった 〟ものであろうと考えている。 そうなってしまった原因は(証拠こそは無いものの)〝「白村江の戦い」の時「大陸国(唐)」側へと付いたから 〟では無かろうかしらと予想をしている。)


 【西暦710年】奈良にて「平城京」が開かれる。

 【西暦712年】「古事記」が編纂される。

 【西暦720年】「日本書紀」が編纂される。


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