第9話 第16代天皇「仁徳天皇」 西暦356年~


【西暦356年?】


〈壬申9?〉


(応神43年?)、天皇は未だ定まらず、「皇位」は「3年」空いていた。 

※(「十干十二支」換算では「皇位が空いていた」のは「2年(現在換算1年間)」である。つまり、「十干十二支」が〝後付け〟である場合、これは「誤差(記述ミス)」という事になり、これ以前の実際の「事績」は〝半年過去へと遡る〟事になる。 私が主張をしている所の「誤差の範囲は〝半年~1年くらい〟」の〝半年〟は、ここの記述に拠っている。)


〈癸酉10〉


 仁徳1年、1月7~8日、仁徳天皇、即位。38歳。 癸酉(みずのととり)。

 仁徳天皇が即位する事になった理由は「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」が(後継者争いを嫌い)自ら命を絶ち遣った事によっている。 「菟道稚郎子」は「菟道」の山の上にて陵葬された。 仁徳天皇は「難波(大阪?)」に「高津宮(タカツノミヤ)」を造り遣る。 


☆計算上、履中天皇(17)はこの年に生まれている。



【西暦358年】


〈丙子13〉


 仁徳4年、2月28日~3月1日、仁徳天皇は百姓が火を焚いて自炊をしていない様子から、自炊が出来ぬほどの貧困にあえいでいる事を知る。 


 3月13日~23日、仁徳天皇は3年間の徴税を百姓に対して免除する事を決め、自らは質素な暮らしをする事にする。 その結果、3年後(西暦359年)には百姓の貧困は解消される事となる。 

※(唐突に〝百姓が貧乏である〟という話が出てきたような気がしてる。 その原因は何なのだろう? 先の応神天皇が渡来人(帰化人)を多く受け入れた事が原因か? それとも天候不良か重税か?)



【西暦359年】


〈己卯16〉


 仁徳7年、4月4日、仁徳天皇は百姓の家々から家事での煙が昇っているのを見て「国が豊かになった。」と言う。 すると嫁さんが「家も服もボロボロで、一体何が豊かであると言うのです?」と言って来た。 そこで仁徳天皇は「〝百姓が豊かである〟という事は〝私も豊かである〟という事だ。 〝百姓が豊かである〟のだけれども〝君主が貧しい〟という事は、未だに有り得ぬ事である。」と言い遣った。  


 8月3日~7日、仁徳天皇は息子の履中天皇(現在3歳)の為に「壬生部(ミブベ)」を定める。 また皇后の為に「葛城部(カツラギベ)」を定めた。  

※(ここの「壬生部」は〝育児係〟みたいなものだと考えられている。 また「葛城部」は〝いまいち良く分かっていない〟ようであるのだが、恐らく〝植物を使っての編み物工作をする部署〟に似たものであると考えている。)


 9月、〝未だに徴税をしない〟仁徳天皇に対して、さすがに「徴税をするように」諸国の悉くから言われてしまうが、仁徳天皇が聞き入れる事は無いでいた。



【西暦361年】


〈壬牛19〉


 仁徳10年、10月、仁徳天皇はようやく〝役〟を課しては「宮」を造り遣る事を決め遣った。 すると老いも若きも百姓達は命令されたワケでもないままに、昼夜を問わずに労働力を傾け遣っては短い時間で宮を造ってみせていた。 この様な人徳により仁徳天皇は「聖帝(ヒジリノミカド)」と呼ばれる事になるのである。


〈癸未20〉


 仁徳11年、4月8日~16日、(この当時、「大阪平野」には「河内湖」という名の内海が存在していた。またその北側には「淀川」が西へと向かって流れており、長雨が降ると、そこらはグッチャグチャになってしまってみせていた。 そんなある日の事である・・・。)  

仁徳天皇はその日、「治水事業」を行う事を決意した。 


 10月、仁徳天皇は大阪にて大規模な「治水事業(土木工事)」を行っては「茨田堤(まんだのつつみ)」を造ってみせた。 この時、新羅から朝貢に訪れていた者があったので、ついでにこの事業を手伝わせてみせてくれていた。 

※(「淀川」沿いに造られたこの堤防は、長さが20kmをも越えるらしいのであるのだが、この短い期間に〝完全に完成した〟のかは定かではない。)



【西暦362年】


〈甲申21〉


 仁徳12年、7月4日~5日、高麗から「鐡の盾的(クロガネのたてまと)」が仁徳天皇へと献上される。 

※(これは「盾(シールド)」を「的」として用いた為に便宜的に付けられた名前であると考えている。 ちなみに「盾」はこれより以前は「軍隊・部隊・兵士」の意味として使われていたものだと考えている。) 


 8月19日~23日、高麗から客が来たので仁徳天皇は酒宴を設けてみせていた。 この時、多くの大臣と役人達の見守る中で、先の「鐡の盾的」を「的」として〝射付け〟を行っていたのだが、「盾人宿禰(タテヒトノスクネ)」を除いては射抜けた者は無いでいた。 そしてそれを見た高麗から来ていた客人はその妙技に驚いて、頭を下げて(拝んで)みせていた。 

※(「盾人宿禰」は「的臣(イクハノオミ)」の祖となる者である。)


 翌日、「盾人宿禰」は仁徳天皇より「的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)」の名前が与えられた。 また同じ日に「小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)」の祖である「宿禰臣(スクネノオミ)」に対しても「賢遺臣(サカノコリノオミ)」という名前が仁徳天皇より与えられていた。  

※(この「的戸田宿禰」は今回が初登場というワケでは無く、【西暦342年】に〝「弓月(ユヅキ・国?)」の民の日本への帰化を妨げた新羅〟に対して征伐へと赴いている。)


 11月、仁徳天皇は「栗隈縣(クリクマノアガタ・京都府宇治市~木津川市ら辺?)」の「山背(ヤマシロ)」に大きな溝を掘るよう命を出す。 すると田が潤っては百姓達は豊かになった。


〈乙酉22〉


 仁徳13年、9月、仁徳天皇は「茨田屯倉(マンダノミヤケ)」を立てて、「舂米部(ツキシネベ・お米をつく人)」を定めてみせた。  


 10月、仁徳天皇は「和珥池(ワニノイケ)」を造ってみせた。 仁徳天皇は「筑横野堤(ヨコノツツミ)」も造ってみせた。

※(仁徳天皇は「土木」の天皇。 今年も何かを造っている。)



【西暦363年】


〈丙戌23〉


 仁徳14年、11月、仁徳天皇は「猪甘津(イカヒノツ・大阪市生野区猪飼野町)」に「小橋」を架けてみせ遣った。 またこの年、仁徳天皇は京中(難波にある「高津宮」)から南にある「丹比村(タジヒノムラ・大阪府南河内郡)」まで真っ直ぐに延びる大きな道を造ってみせた。 この他にも仁徳天皇は「感玖(コムク・場所不明)」に大きな溝を掘ってみせては、「石河」から水を引っぱって、「上鈴鹿」「下鈴鹿」「上豊浦」「下豊浦」の4ヶ所を見事に潤し遣ってみせていた。 この開墾(土木)事業により4万「頃(ケイ・広さの単位)」もの田を成す事に成功し、その土地の百姓達は凶作による患いを無くす事が出来ていた。

※(仁徳天皇は「土木」の王。 今年もやります「公共事業」。)



【西暦364年】


〈己丑26〉


 仁徳17年、新羅が朝貢して来なかった。  


 9月、仁徳天皇は「的臣(イクハオミ)」の祖である「砥田宿禰(トダノスクネ)」と「小泊瀬造(オハツセノミヤツコ)」の祖である「賢遺臣(サカノコリノオミ)」を派遣して新羅の事を責め遣った。 すると新羅は「調絹」を「1460匹」と諸々の雑物を船「80艘」に載せ遣って仁徳天皇へと朝貢した。 

※(ここにある「匹」は〝反物の単位〟の事である。 しかし「蚕の数」という事も考えられる。 ちなみにこれより遡る事約150年前の【西暦216年】に、〝垂仁天皇は「任那(ミマナ・加羅国)」の「ソナカシチ」が国へと帰ると言い出したので、「赤絹100匹」をプレゼントとして与えた〟という事績がある。)



【西暦370年】


★西暦370年、大陸国、「前燕(ぜんえん・東側東北部)」、「前秦(ぜんしん・大陸国北部)」により滅亡。



【西暦371年】


〈癸卯40〉


 仁徳31年、1月25日~2月2日、履中天皇、皇太子に指名される。15歳。



【西暦373年】


〈丁未44〉


 仁徳35年、6月、仁徳天皇の皇后の「磐之媛命(イワノヒメノミコト)」が「筒城宮(ツツキノミヤ)」にて没する。



【西暦374年】


〈己酉46〉


 仁徳37年、11月6日~11日、仁徳天皇は、皇后の「磐之媛命(イワノヒメノミコト)」を「乃羅山(ナラヤマ・奈良県奈良市奈良坂付近らしい)」にて陵葬する。



【西暦375年】


〈庚戌47〉


 仁徳38年、1月5日~8日、仁徳天皇は「八田皇女(ヤタヒメノミコ)」を皇后に指名する。



【西暦376年】


〈癸丑50〉


 仁徳41年、3月、仁徳天皇は「紀角宿禰(キノツノスクネ)」を百済に派遣して「国土調査(国税調査)」をさせた。 

※(この「紀角宿禰」、今から40年前の【応神3年(西暦336年)】に百済の王「辰斯(シンシ)」が〝天皇に対して無礼を働いた事〟を叱責する為に百済へと出向いている。 なので「紀角宿禰」は「武内宿禰」と同じく「個人」でもあり「血族」でもある存在である可能性があるのだが、その名前が記されているのはこれらの事績だけであり、「個人」という可能性も無くは無い。)  


 この時、百済の王族の一人「酒君(サケノキミ)」が無礼を働いてみせたので、「紀角宿禰」は百済の王を責め遣った。 すると百済の王は「酒君」を鎖で縛っては「(葛城)襲津彦(カツラギノソツヒコ)」へと差し出した。 その後「酒君」は日本へと連れて来られては石川の「錦織首(ニシコリノオビト)」である「許呂斯(コロシ)」の家にて匿われる事になったのであるのだが、そこで「酒君」は「天皇は既に私の罪をお許しになっている。 故に私を自由にしろ。」とウソをついた。 「酒君」はこの時ウソをついたのではあるけれど、後日、仁徳天皇は本当に「酒君」の無礼を許してみせてくれていた。

※(この「酒君」、恐らく〝本名では無いんじゃないか〟と考えている。)



【西暦377年】


〈乙卯52〉


 仁徳43年、9月19日、その日、「依網屯倉(ヨサミノミヤケ)」の「阿弭古(アビコ)」が仁徳天皇へと「奇妙な鳥」を献上して来た。 「阿弭古」によると〝今まで捕まえた事の無い鳥〟であるらしく、そこで仁徳天皇は「酒君(サケノキミ)」を呼んでみては「この鳥は何だ?」と尋ねてみせた。 すると「酒君」は「これは百済には多く存在している鳥であり、飼い馴らす事も可能であり、鳥を捉える事も出来まする。 それとこの鳥、百済では『具知(クチ)』と名が付いています。」と、そう言った。  「注釈」によるとこの鳥は「鷹(たか)」の事であると言う。 後日、「酒君」はこの鳥を飼い馴らしてから仁徳天皇へと献上した。 その後、仁徳天皇は「百舌鳥野(モズノ)」へと行ってこの鳥を使っての「狩り」を行ってみせ遣ると、キジを10羽(数十羽?)捕らえる事が出来ていた。 

この月、仁徳天皇は「鷹甘部(タカカイベ)」を定め、鷹を養うその場所に「鷹甘邑(タカカイムラ)」と名を付けた。

※(鷹匠の話であると思われる。)



【西暦381年】


〈壬戌59〉


 仁徳50年、3月15日~17日、「河内(大阪)」の人が仁徳天皇へと言って来た。 「『茨田堤(まんだのつつみ)』にて雁(ガン)が子供を産みました。」と。 仁徳天皇はそれを聞いて即日使者を派遣しては確認させてみせ遣ると「本当の事だ」という事が分かった。 

※(「茨田堤」を造り始めたのが【仁徳11年(西暦361年)】の事なので今は「19.5年後」という事になる。 ようやく雁が子育てを出来るくらいに〝環境が回復した(工事が終了してからだいぶ時間が経った)〟という事なのか、それともそもそも「冬の渡り鳥」である雁が〝始めてシベリアからこの地域(大阪)に渡って来た〟という意味なのかは分からない。 しかし何れにせよ「雁」が吉兆を齎す鳥であると考えられていたという事だけは間違いの無いように思われる。)



【西暦382年】


〈乙丑2〉


 仁徳53年、新羅が朝貢して来なかった。  


 5月、仁徳天皇は「上毛野君(カミツケノキミ)」の祖である「竹葉瀬(タカハセ)」に対し、何故朝貢しなかったのかを問いに行かせた。 

 すると「竹葉瀬」はその道中で「白い鹿」を見つけてはそれを捕らえ、引き返しては仁徳天皇へと献上して来た。 


 後日、日を改めて「竹葉瀬」は新羅へと再び向かって行ったのであるのだが、仁徳天皇は「竹葉瀬」の弟である「田道(タジ)」に幾らかの「精鋭(兵士)」を与えては、「新羅が朝貢を拒む様であるならば、それを撃つべし(討つべし)。」と続けて派遣してみせてくれていた。 すると仁徳天皇が予想した通りに新羅は兵を起こしては挑んでくれてみせており、「田道」は陣を敷き遣ってはこれに応じてみせていた。 


 ・・・と、戦いの続いたある日の事、新羅の兵士が一人「営外(兵営の外)」へと出ていたので、それを捕らえてみせて後、新羅軍の内情を問うてみた。 すると「新羅軍には『百衝(モモツキ)』という名の猛将がいるのだが、彼は常に右翼に居り、故に左から攻められたのならば新羅軍は敗れてしまう事だろう。」と答えてくれた。 


 後日、新羅軍が右翼の左側を〝空ける〟時がやってきた。 「田道」はこのタイミングを勝機と見るや精鋭を左側から攻めさせ遣って、新羅の軍を潰していった。 

 結果として百人(数百人?)の人を倒しては、「4つの村」から捕虜を幾らか取って後、「田道」は日本へと帰国した。

※(この件で「竹葉瀬」がどうなったのかは不明である。 ここの事績にしか「竹葉瀬」の名前は存在していない。)


★西暦382年、大陸国、「ヒ水の戦い」。 「前秦(ぜんしん・大陸国北部)」と「東晋(とうしん・大陸国南部)」とが戦う。



【西暦383年】


〈丁卯4〉


 仁徳55年、「蝦夷」が謀反を起こした(治安を乱した)。 仁徳天皇は「田道(タジ)」を派遣して蝦夷討伐を命令するが、「田道」は敗北しては「伊峙水門(イシノミト)」にて没してしまう。  

 後日、「蝦夷」は以前と同じ様に人民を襲っては略奪をするようになっており、しかも「田道」の墓を暴いて(あばいて)みせてくれていた。 


・・・と、この時、突如「大蛇」が墓の中から出て来ては「蝦夷」の悉くに噛み付いて、多くの者を毒で死に到らせて、僅かに二人の者だけが〝兎耳を得る事(免れる事)〟が出来ていた。 故に人々はこの一件に関してこう言った。 「田道、既に亡して雖も(いえども)、遂には〝讎(アダ)〟に報い遣る。 いずくんぞ人は之の死を、知らざる事が出来ようか?」と。

※(「人は死んでも〝その死因〟を忘れてしまうような事は無い。 故に田道は毒蛇となっては復讐を果たす事が出来たのだ。」という話であろうと思われる。)



【西暦385年】


〈庚牛7〉


 仁徳58年、10月、「呉国(謎の国)」と高麗国が日本へと朝貢して来た。 

※(仮にもし、この「呉国(中国東部の江蘇省?)」が【応神37年(西暦353年)】の〝「縫工女(キヌヌイメ)」を求めたイベント〟と同じ「呉国」であったとするならば、「呉国」と日本との関係は〝「32年間」続いていた〟という事になる?)

※※(この時「呉国」は日本に対して色んな事を話してみせたものだと考えている。 そしてその話の中で日本が「パクシャ」を暦としている事を知り、故に〝暦を「太陰暦」へと改めないか?〟と話を持ち掛けたものだと考えている。 仁徳天皇はこれに対して頷くが、しかしその〝暦を「太陰暦」へと変えるタイミング〟に関しては、自分の没後・・・、つまりは次の天皇が即位をしたタイミングをもって変更する事にしたのではなかろうかと予想をしている。 そしてその結果 履中天皇が即位をした【西暦400年】のタイミングをもって「パクシャ」を廃して「太陰暦」へと改め遣ったものだと考えている。)



【西暦386年】


〈壬申9〉


 仁徳60年、10月、仁徳天皇は「白鳥陵(シロトリノミササギ:ヤマトタケルの墓)」へと赴いてみては、そこを守る「役丁(エキチョウ・田舎出身の公務員)」へと目を遣っていた。 そして仁徳天皇はこう言った。 「白鳥陵の中がカラッポだと言うのに何故に陵守が居るのだろうか? 私は居なくても良いと思ってしまうのだけれども。」と。 


 それから暫くの時が過ぎ、今ではそこの陵守は「無動の陵守者(埴輪)」がやっている。 〝陵墓の周りを埴輪が囲む〟という不思議なこの光景はこの時に出来上がったものである。 また、この「埴輪」達は「土師連(ハジノムラジ・埴輪などの土器を作る事を司った人)」により作られ遣った物である。 

※(ここの事績の翻訳は一般的なものとは大きく異なってしまっている点に注意が必要である。)

※※(「埴輪」は【西暦231年】以前にもこの国には存在していた。 しかし【西暦231年】に「殉葬」の代わりとする為に「人型や馬型の埴輪」が作られて〝地面の下〟へと埋められた。 そして今回、墓守として作られた「人型の埴輪」は〝地面の上〟にて並べる事で、「無動の陵守者」としての利用がされ遣る事になったという話である。)



【西暦387年】


〈甲戌11〉


 仁徳62年、5月、「遠江国(トオツオウミノクニ・静岡)」の司が仁徳天皇に対して、〝「大井河」の川の曲がっている所に「巨大な木」が停まっている事〟を告げて来た。 仁徳天皇は「倭値(ヤマトアタイ)」の「吾子籠(アゴコ)」に対してその木で「船」を造るよう命令を下した。 後日、それは「難波(大阪?)」まで運ばれて来ては、仁徳天皇はその船を「御船(ミフネ・天皇の船)」としてみせていた。 

 

この年、仁徳天皇の異母兄に当たる「額田大中彦(ヌカタノオオナカツヒコ)」が「氷室」を発見した。 以後、「額田大中彦」は仁徳天皇へと氷を献上し続ける事になる。

※(この事績には〝「氷室」を造った〟では無く〝「氷室」を発見した〟とあるので、この「氷室」は「洞窟」の類であろうと考えられる。)



【西暦388年】


〈丁丑14〉


 仁徳65年、仁徳天皇は「飛騨国(岐阜)」に居た「四腕二面」の「宿儺(スクナ)」という謎の存在に対して、「和珥臣(ワニノオミ)」の祖である「難波根子武振熊(ナニワノネコタケフルクマ)」を派遣しては倒してみせ遣った。



【西暦389年】


〈己卯16〉


 仁徳67年、10月9日~11日、仁徳天皇は「河内(大阪)」の「石津原(イシツノハラ・大阪府堺市石津町)」へと行くと、その地を自らの陵墓の場所にしようかと決め遣った。 

※(このお墓は仁徳天皇が陵葬され遣る事になる【西暦399年(今から10年後)】までには完成されていたものと思われる。) 


 10月17日、陵墓の建造を開始すると、一匹の鹿が現れていては作業中の者達の中へと突っ込んで行って、そのまま死んでしまってみせていた。 するとその直後、その鹿の「傷口(耳)」から「百舌鳥(モズ)」が一匹出て来ては、空へと向かって飛び去った。 そこで皆がその「傷口(耳)」へと目を遣ると、そこには「百舌鳥」に食い荒らされた無残な痕を見て取る事が出来ていた。 この事件が切っ掛けで、この地を「百舌鳥耳原(モズノミミハラ)」と言うようになったという。  


 またこの年、「吉備中国(岡山県倉敷市・瀬戸内市ら辺?)」の「川嶋河(カワシマガワ)」の川の分かれ道の所ら辺に、「大きな蛇(ミズチ)」が存在していた。 この「蛇」、そこを行き交う人に対しては毒を吐いては苦しめて、多くの人を亡くならせていた。 そんなある日の事である。 「笠臣(カサノオミ)」の祖である「縣守(アガタモリ)」という名の勇敢で力の有る者がこの川の分かれの淵へと一人で訪れていた。 「縣守」は3つ持っていた「瓢箪(瓠)」を川の中へと投げ遣ると、「蛇」に対してこう言った。 「私はお前を殺しに来た者である。 しかし今投げ入れた瓢箪が川底へと沈むのならば私はここから立ち去ろう。 けれどももし、瓢箪が沈まなかったらその場合、お前は私に斬り捨てられる事になるだろう。」と。 すると「蛇」は「鹿」へと姿を変じて後に、「瓢箪」を水の中へと〝沈めてみよう〟と試みた。 けれど、「瓢箪」が水の中へと沈む事は無いでいて、「縣守」は剣を取っては「蛇」の事を斬り捨ててみせてくれていた。 この後、「縣守」は「蛇」の同類をも始末しようと考えて、淵の底にあった穴の中へと剣先を入れてみせて後、その悉くを斬り捨てた。 すると川の色は変じては、「血の色」へと変わってみせた。 以来、この場所は「縣守淵(アガタノモリノフチ)」と呼ばれる事になったという。  


 またこの当時、仁徳天皇は国内に〝(大和朝廷に)叛く者がある〟気配を感じ取ってみせていた。 そこで仁徳天皇は早寝早起きを心掛け、国民からの税率を引き下げて、生活に困窮する者があったれば施しを与えてみせ遣って、死んだ者があったればその原因を調査して、その時「孤児(みなしご)」や「孀(やもめ・未亡人)」が居た場合にはそれを養ってくれてみせていた。 この政令は全国に広がって行っては天下太平と成りまして、これより20年余り(現在換算で10年)のその間、何事も起き遣る事は無いでいた(反逆行為などは発生しなかった)。



【西暦394年】


★西暦394年、大陸国、「前秦(ぜんしん・大陸国北部)」、「西秦(せいしん・大陸国中央部)」により滅ぶ。



【西暦399年】


〈己亥36〉


 仁徳87年、1月13日~20日、仁徳天皇、崩御。81歳。  


 10月10日~13日、仁徳天皇は「百舌鳥野陵(モズノノミササギ)」にて陵葬された。



【西暦400年】


〈庚子37〉


 履中1年、2月10日、履中天皇、即位。43歳。 庚子(かのえね)。

※(これ以降「年表」が〝正常〟となる。 ただし、この〝正常化〟に伴って〝数か月分の暦の修正(ズレ)〟が発生したものだと思われる。 これ以降「大陸国(呉国)」と同じくに「太陰暦」を暦とするようになったものだと考えている。)


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