第8話 第15代天皇「応神天皇」 西暦335年~
【西暦335年】
〈庚寅27〉
応神1年、1月12日、応神天皇、即位。35歳。 庚寅(かのえとら)。
〈辛卯28〉
応神2年、3月24日~25日、応神天皇、「仲姫(ナカツヒメ)」を皇后にする。
【西暦336年】
〈壬辰29〉
応神3年、10月4日~5日、東の「蝦夷」が朝貢して来た。
11月、あちこちの「海人(アマ)」が(朝廷に)従わなかった。 そこで応神天皇は「阿曇連(アズミノムラジ)」の祖である「大濱宿禰(オオハマノスクネ)」を派遣して平らげさせた。
※(「海人」とは〝海産物を朝廷に貢納していた者達〟、つまりは「漁師(漁業関係者)」の事であると言われている。 けれどもこれは日本へとやって来ていた「謎の海洋民族」である可能性が・・・?)
この年、百済の王「辰斯(シンシ)」が応神天皇に対して礼を失したので、応神天皇は「紀角宿禰(キノツノスクネ)」達を遣わして叱責しやると、百済国は「辰斯」を処する事で謝辞とした。 この後、「紀角宿禰」達は新たに「阿花(アカ?)」を百済の王と為して後、日本へと帰国した。
【西暦337年】
〈甲牛31〉
応神5年、8月14日~20日、応神天皇は全国に令を出しては「海人(アマ)」及び「山守部(ヤマモリベ)」を定めた。
※(「山守部」とは〝「林業従事者」及び「それを管理監督する者達」〟の事である考えられている。 「海人」が〝海の専門家〟であるなら〝山の専門家〟であると言う事か? この事績は〝「漁業」と「林業」を設けた〟という意味であるのか、それとも〝「海人」や「山守部」を「賊の類」などではなくて「交易相手(交渉相手)」として見做した(みなした)〟という意味なのであろうかしら?)
10月、応神天皇は「伊豆国(イズノクニ・静岡)」に命じては長さ「十丈(30メートル?)」の船を造らせた。 この船は〝軽やかに海原を走った〟が為に「枯野(カレノ?)」と名前が付けられた。
※(「注釈」によると、「輕野(カルノ?)」が元々の名前だったのだが、訛って「枯野」になったらしい。)
※※(どうも古代日本には「伊豆半島」ら辺に「巨大な造船施設」があったっぽい。 半島国の歴史書の『海東諸国紀』には「崇神14年(西暦188年)」に「伊豆国、船を献ず」と書いてあるらしい。 であれば神武天皇の時代に「駿河」が『国造』へと定められたのは〝造船技術があったから〟と言う事なのか? なお、「海人」との関係は不明である。)
〈乙未32〉
応神6年、応神天皇は「近江国(オウミノクニ・滋賀)」へと行き、「菟道(ウジ・京都府宇治市)」の「野上(のがみ)」にて詩を歌う。
※(現在「京都府」に当たる「宇治市」が「近江(滋賀県)」になっている事は注目すべき点であるかも?)
★西暦337年、大陸国、「慕容?(ぼようこう)」、「前燕(ぜんえん・東側東北部)」を建てる。
【西暦338年】
〈丙申33〉
応神7年、9月、高麗、百済、任那、新羅の人々が、揃って日本へとやって来た。 この時「武内宿禰(たけのうちのすくね)」は彼らに池を造らせた。 故にその池は「韓人池(カラヒトノイケ)」と名が付いた。
※(この「武内宿禰」が〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟である場合、現在96歳になる。 さすがに〝別人であろう〟と思われる。)
※※(この時より日本は「高麗(高麗満州)」と国交を持つようになったと考えている。)
〈丁酉34〉
応神8年、3月、とある百済人が日本に来た。
※(「注釈」によると「百済記」には〝百済の王である「阿花(アカ?)」が日本に対して礼を失してしまったが為に、幾らかの土地を日本に没収されてしまって後、関係修復を図る為に(人質として?)息子の「直支(トキ)」をヤマト朝廷に対して派遣した。〟と書いてあると言っている。 これは「応神16年」の事績にある話と矛盾しない。 つまり「阿花」の息子である「直支」はこの時に来日した可能性が高い。)
※※(それにしても【西暦327年】に「肖古王(近肖古王?)」が没し、次いでその息子の「貴須(クルス)」が、続いて息子の「枕流(トムル)」が没し、その息子の「阿花(アカ?)」が王となり、息子の「直支(トキ)」が現在までに産まれている。 中々に生殖サイクルが短い気が・・・する。 それとも「肖古王(近肖古王?)」がやたらと長命だったのか?)
【西暦339年】
〈戊戌35〉
応神9年、4月、応神天皇は「武内宿禰(たけのうちのすくね)」を「筑紫(福岡?)」へと派遣をしては百姓達の視察をさせた。 すると「武内宿禰」の弟の「甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)」は兄を陥れようと考えて、応神天皇に対して「兄には逆心がある。 筑紫にて三韓を招いては天下を取るつもりでいるのです。」と伝えてみせた。 この話を聞いた応神天皇は「武内宿禰」を誅さんと使者を送ってみるのだが、逆心の無い「武内宿禰」はこの事を嘆いてみせた。 すると「武内宿禰」に〝見た目の良く似た〟人物で、「壹伎直(壱岐値・イキノアタイ)」の祖である「眞根子(マネコ)」が「武内宿禰」へとこう言った。 「あなたに逆心が無い事は天下の皆が知っている。 叶うのならば逃げる事無く朝廷へと赴いて自らの無実を示して下さい。 私はアナタと見た目が良く似通っている。 故に私は自らを〝アナタの身代わり〟とする事と致しましょう。」と。 そして「眞根子」はそう言い終えて後、自ら命を絶ち遣った。 「武内宿禰」は大いに大いに悲しんだ。 故に「武内宿禰」は密かに船を出しては「筑紫」を脱し、「南海ルート」で「紀水門(キノミナト:紀伊水門?・和歌山?)」へと辿り着いては、どうにかこうにか応神天皇と会ってみせては、己の無実を主張した。 それから激論が交わされたりしてはその後に、「武内宿禰」の無実は認められる事となり、逆に「甘美内宿禰」には死刑が言い渡されていた。
※(ここの翻訳は大いに間違っている可能性がある。 この話は「この国(日本)」での「最初の裁判」の話であると思われる。)
【西暦340年】
〈庚子37〉
応神11年、10月、応神天皇は「劒池(ツルギノイケ)」「輕池(カルノイケ)」「鹿垣池(カノカキノイケ)」「厩坂池(ウマヤサカノイケ)」を造る。 また、応神天皇は「日向国」に「髪長媛(カミナガヒメ)」という美人が居るという話を耳にして、それを手に入れたいと思うようになる。
【西暦341年】
〈壬寅39〉
応神13年、3月、応神天皇は「日向国」の「髪長媛(カミナガヒメ)」を連れて来るよう使者を出す。
9月、「髪長媛」が「日向国」からやって来た。 すると応神天皇の息子の仁徳天皇が「髪長媛」の事を気に入ったので、応神天皇は仁徳天皇へと「髪長媛」を譲る事にした。
※(現在、応神天皇は「41歳」、仁徳天皇は「22歳」。)
〈癸卯40〉
応神14年、2月、百済の王が「來目衣縫(クメノキヌヌイ)」の祖である「縫衣工女(キヌヌイメ)」の「眞毛津(マケツ)」を応神天皇へと献上して来た。
※(この類のお話は〝文化人・技術者・百姓等の輸出、もしくは帰化させる為の行為〟なのだと考えている。 そしてこの「百済の縫衣工女」を応神天皇はとても気に入って、その結果「他の国の縫衣工女」も欲しくなり、【西暦353年】に「呉国」という国の「縫工女」を求めたものだと考えている。)
この年、「弓月君(ユヅキノキミ)」が百済より来ては応神天皇へとこう言った。 「我が領民、120縣(あがた)をこの国へと帰化させたいと思っているのですが、新羅にそれを阻まれて、現在『加羅国』にて足止めをされてしまっています。」と。 この話を聞いた応神天皇は「葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)」を派遣して「加羅国」から民を連れて来るよう命令を下した。 しかしこれから「3年」経っても「葛城襲津彦」が日本へと帰国する事は無いでいた・・・。
※(ここに「3年」とあるが「2年後(現在換算で1年後)」の「応神16年」には〝「葛城襲津彦」が帰国した〟と書いてある。 けれどももし本当に〝3年間帰国しなかった〟のであるならば、「葛城襲津彦」が帰国したのは「4年後」の「応神18年」である可能性がある。 と言うか、「葛城襲津彦」は〝複数存在している可能性がある〟ので、何とも言えない。)
【西暦342年】
〈甲辰41〉
応神15年、8月30日~9月2日、百済の王が「阿直伎(阿直岐:アチキ)」を遣わして良い馬を2頭寄越して来た。 その馬は「輕(カル・奈良県橿原市大軽)」の坂上にある「厩(うまや)」にて飼われる事になり、「阿直伎(阿直岐)」は馬の飼育を命じられてみていては、その場所の事を「厩坂(ウマヤサカ)」と名を付けられてみせていた。
また、この「阿直伎(阿直岐)」は「経典」を読む事が出来た為、応神天皇の息子の「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」の(経典の?)先生となっていた。 そんなある日に応神天皇が「阿直伎(阿直岐)」に対して「汝は博識であるのだが、それを超えやる者が他には有るや?」と尋ねた所、「阿直伎(阿直岐)」は「王仁(ワニ)という者が居ます。」と答えてみせた。
そこで応神天皇は「上毛野君(カミツケノキミ)」の祖である「荒田別(アラタワケ)」と「巫別(カムナキワケ)」とを百済に対して派遣をしては「王仁」とやらに日本に来るよう伝えてみせた。 ちなみにこの「阿直伎(阿直岐)」という人物は「阿直岐史(アチキノフビト)」の始祖である。
※(ここにある「経典」が何の経典なのかは分からない。 しかし【西暦348年】、〈丁巳54〉「応神28年」の事績から、この「経典」は〝漢字で書かれていた〟可能性が高いと思う。 もしかしたら「漢字を勉強する為の本」であったのかも知れない。)
※※(「荒田別」は今回が初登場というワケではなくて、「神功49年(西暦324年)」に「鹿我別(カガワケ)」、百済とともに新羅を攻撃した事がある人物である。)
〈乙巳42〉
応神16年、2月、「王仁(ワニ)」が百済より来日した。 応神天皇は「王仁」を幾つかの「経典」の師(先生)へと任命すると、応神天皇の息子の「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」に対してはそれらを学ばせ遣ってみせていた。 ちなみにこの「王仁」は「書首(フミノオビト)」の始祖である。
※(ここの〝幾つかの「経典」〟という表現がとても気になる。 今で言う「専門書」程度のものなのか?)
この年、百済の王様である「阿花(アカ?)」が没してしまった。 そこで応神天皇は「阿花」の息子である「直支(トキ)」に対して「東韓」の土地を与えては、「国に帰って王位に就くよう」命じてみせた。
※(「阿花(アカ?)」の息子である「直支(トキ)」は、〝「応神8年」に来日したと「百済記」には書いてある〟と「日本書紀」の編纂者は「注釈」にて説明している。 恐らくこのエピソードは「正しい」。)
8月、応神天皇は「『(葛城)襲津彦』が未だに日本へと帰って来ないのは、恐らく新羅によりこれを阻まれている為のものであろう。 故に汝ら新羅を討って、急ぎ難路を切り開け!」と言い遣ると、「平群木菟宿禰(ヘグリノツクノスクネ)」と「的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)」に精鋭を与えてみ遣っては(留まっているとされる)「加羅国」へと派遣した。
※(「的戸田宿禰(イクハノトダノスクネ)」はこの当時は「盾人宿禰(タテヒトノスクネ)」と呼ばれていたようである。 「盾人宿禰」は後の【西暦362年】〈甲申21〉「仁徳12年」の時に「盾人宿禰」から「的戸田宿禰」へと改められたとの記述がある。)
この後、新羅の王は国境沿いに現れた「平群木菟宿禰」達の姿を見ては驚くと、己の罪に服された。 そして「(葛城)襲津彦」は「弓月(ユヅキ・国?)」の民ら(120縣)を引き連れて、ようやく日本への帰国を果たした。
※(「応神14年」では〝(葛城)襲津彦は「3年経っても帰国する事はなかった」〟とあるが、実際「2年後(現在換算で1年後)」には帰って来ている。このエピソード、本当は「応神18年」のものなのかもしれない?)
【西暦343年】
(応神18年?)、「(葛城)襲津彦(カツラギノソツヒコ)」が「弓月(ユヅキ・弓月国?)」の民らと共に日本へと帰国した(やって来た)のはこの年の事なのかもしれない。
【西暦344年】
〈戊申45〉
応神19年、10月18日、応神天皇、「吉野宮(ヨシノノミヤ・奈良県吉野郡吉野町)」へと行く。 この時(現地民である)「國樔人(クズヒト)」が挨拶をしに来ていては、酒を差し出し、歌を歌ってみせていた。
〈己酉46〉
応神20年、9月、「倭漢直(ヤマトノアヤノアタイ)」の祖である「阿知使主(アチノオミ)」とその息子の「都加使主(ツカノオミ)」が、同胞「17縣」を引き連れて日本に対して帰化して来た。
※(後の「応神37年」の事績から、この者達は〝百済もしくは高麗国出身であろう〟と推察出来る。)
【西暦345年】
〈辛亥48〉
応神22年、3月11日~13日、応神天皇は嫁さんの「兄媛(エヒメ)」と一緒に「難波(大阪?)」の「大隅宮(オオスミノミヤ)」へと行く。
3月17日、応神天皇は嫁さんと二人で「高殿(たかどの)」から遠くの景色を眺めていると、嫁さんが「長い事、父と母に会ってないから久し振りに実家に帰りたいな~。」と物思いに耽り遣る。 嫁さんの事情を酌んでみた応神天皇は「海人(アマ)」80人を水夫として、嫁さんを実家のある「吉備(岡山)」へと送ってみせる事にした。
4月、応神天皇の嫁さんは「大津(オオツ)」から船に乗っては出発すると「吉備」へと向かって進んで行った。
9月9日~12日、応神天皇は「淡路島」にて狩りをする。 その後「小豆島(しょうどしま)」を経由しては「吉備」へと到る。
9月14日、応神天皇は「葉田(ハダ・岡山県総社市?)」にある「葦守宮(アシモリノミヤ)」へと移動した。 そして応神天皇はこの地にて「多くの知り合い(友達)」を手に入れた。
【西暦347年】
〈甲寅51〉
応神25年、百済王、「直支(トキ)」が没し、その息子である「久爾辛(クニシン)」が王位を継いだ。 しかし「久爾辛」はまだ幼くて、「木滿致(モクマンチ)」が国政を執り遣るが、「木滿致」は不埒であって無礼であって、やがてはその悪行は応神天皇の耳へと届き、応神天皇は「木滿致」を呼び寄せた。
※(「注釈」には「百済記」にもこの「木滿致」なる人物の事が書いてあると言っている。 また、呼び付けられた「久爾辛」がこの後どうなったのかは書かれていない。)
※※(【西暦327年】に「肖古王(近肖古王?)」が没し、次いで息子の「貴須(クルス)」が、続いて息子の「枕流(トムル)」が没し、更に「阿花(アカ?)」が没しては、息子の「直支(トキ)」も没してしまい、現在の王は幼い「久爾辛(クニシン)」である。 やはりは生殖サイクルがとても短いものだと思われる。)
【西暦348年】
〈丁巳54〉
応神28年、9月、その日、高麗の王様から遣わされた使者が書状を持って現れた。 しかしその書状には「高麗王教日本國也」と書かれてあった。 すると応神天皇の息子である「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」は〝無礼〟を怒って高麗からの使者を怒鳴り付け、書状を破り捨ててみせていた。
※(これが「どの様な状況だったのか」は分からないが、「菟道稚郎子」は〝勘違い〟をしていた可能性がある。 そもそも「菟道稚郎子」は百済からやって来た「阿直伎(阿直岐:アチキ)」と「王仁(ワニ)」を先生(師)として「経典」等を教わっていた。 この頃の高麗は百済よりも「上位」の存在であった為、高麗は「我々は百済よりももっと色んな事を教える事が出来る」と考えて〝交友関係を築く事を目的〟としてアプローチを掛けて来ていたのかもしれない。 けれども「菟道稚郎子」には〝上から目線である〟と感じられ、それを〝無礼であると感じ取った〟という可能性も無くはない。 むしろ、「高麗王教日本國也」は実は「高麗王〝欲〟教日本國也」が正しくあり、「高麗に日本国の事を教えて欲しいな」という意味であり、やはりは「菟道稚郎子」が〝勘違いをしていた〟可能性が高い気がしている。 ちなみにこのイベントが原因で、これ以降〝不仲になった〟というワケでもない。)
【西暦350年】
〈庚申57〉
応神31年、8月、応神天皇は「大臣達(群卿)」を前にしてこう言った。 「『枯野(カレノ?)』は『伊豆国』より献上された船ではあるのだけれども、今では老朽化してしまっており使用に堪えなくなっている。 けれども私はこの船が官用として働いてくれた功績を忘れがたいものだと思っている。 さてさて、そこで大臣達に質問だ。 この船の名前を後世へと伝えてゆく為には一体どうすれば良いのだろうか?」と。
それに対して大臣達は「その船(木造船)」を解体しては「薪(まき)」と成し、「500籠」もの「塩」を作ってみせ遣ると、それを諸国に対して配ってみせてくれていた。
すると諸国はその「塩」の礼として「船」を造ってみせ遣ると、それは集いに集いて集まって、「武庫水門(兵庫県明石市?)」には500をも上回る船々が一堂に会してみせていた。
けれどもこの時この場所(武庫)に、新羅から(来ていた使者達)の船も停めてあり、新羅人の過失から火事が起こり遣ってみていては、集められた船々は見る見るうちに燃えてった。
応神天皇はこの罪を新羅人へと問い遣ると、この話は新羅王のもとまで届き行き、新羅王は「能匠者(職人)」を日本に対して貢いでみせた。 この職人達はこの後に「猪名部(イナベ)」の祖となっている。
・・・そうそう、最初に「枯野」を「薪」へとしてみせたその日の事、不思議な事に「燃えなかったモノ(木片)」が存在していた。 そこで応神天皇へと献上してみたところ、応神天皇は令を出してはそれを素材に「琴」を一張り(一面)作らせた。 出来上がったその「琴」の音色は美しく、遠くまで届いてみせた為、応神天皇はその時に「歌」を歌ってみせていた。
※(この「枯野」、最初に作られたのは今から「13年前」の事である。 この当時の船の寿命は「十数年」であった可能性がある。)
★西暦350年、大陸国、「冉閔(ぜんびん)」、「冉魏(ぜんぎ・東側中北部)」を建てる。
【西暦351年】
★西暦351年、大陸国、「後趙(こうちょう・大陸国北部)」、「冉魏(ぜんぎ・東側中北部)」により滅亡する。 また「苻健(ふけん)」が「前秦(ぜんしん・大陸国北部)」を建てる。
【西暦352年】
★西暦352年、大陸国、「冉魏(ぜんぎ・東側中北部)」、「前燕(ぜんえん・東側東北部)」により滅亡。
【西暦353年】
〈丙寅3〉
応神37年、2月28日、応神天皇は(百済か高麗からの帰化人である?)「阿知使主(アチノオミ)」とその息子の「都加使主(ツカノオミ)」に対して「呉(ご・中国東部の江蘇省?)」の「縫工女(キヌヌイメ)」を求め遣る。 しかし「阿知使主」らは「呉」への順路を知らなかったがその為に、まずは高麗国へと向かって行った。
※(「阿知使主(アチノオミ)」とその息子の「都加使主(ツカノオミ)」は【西暦344年】に同胞「17縣」を引き連れて日本に対して帰化した人物である。)
※※(この「呉国」が〝何処にあったのか〟は分からない。 しかし日本から見て「高麗(満州国)」よりも遠い位置にあった事だけは間違い無い。)
※※※(「縫衣工女(キヌヌイメ)」と言えば【西暦341年】に百済の王が「來目衣縫(クメノキヌヌイ)」の祖であるの「眞毛津(マケツ)」を応神天皇へと献上して来ており、応神天皇は「縫工女」の仕事を高く評価していた可能性がある。)
阿知使主達が高麗国へと辿り着くと、高麗王は道案内として「久禮波(クレハ)」と「久禮志(クレシ)」を同道させた。
※(今から4.5年前の「応神28年」には「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」が〝高麗王からの手紙を破り捨てる〟というイベントが発生してはいるのだが、高麗国とはそこまで不仲にはなっていない可能性が高い。)
阿知使主はこの後「呉国(中国東部の江蘇省?)」へと辿り着く。 すると「呉国」の王は「兄媛(エヒメ)」「弟媛(オトヒメ)」「呉織(クレハトリ)」「穴織(アナハトリ)」の「4婦人」を提供してみせてくれていた。
※(ここに出て来る「兄媛(エヒメ)」は偶然にも〝応神天皇の嫁さんと名前が同じ〟になっているが、別人であると思われる。)
※※(ちなみに「阿知使主」はこれから2年後(「応神41年」)に日本へと戻って来る事になるのだが、その時には既に〝応神天皇が没してしまった後〟だった。)
【西暦354年】
〈戊辰5〉
応神39年、2月、生前、百済の王様であった「直支(トキ)」は、その妹である「新齊都媛(シセツヒメ)」へと応神天皇に対して仕えてみせるよう命令を下していた。 そしてこの年、「新齊都媛」は「7人の婦女」を引き連れて日本へとやって来ていては日本に対して帰化してみせてくれていた。
〈己巳6〉
応神40年、1月19日~23日、応神天皇は二人の息子、「大山守命(オオヤマモリノミコト)」と「仁徳天皇」を呼んでみて、「兄と弟はどちらが優れていると思うか」を問うてみた。 すると「大山守命」は「兄より優れた弟などいない」と答え、その答えに不満そうな父親(応神天皇)の顔を見た仁徳天皇は「兄は色々と経験豊富で今更憂える事は無いでしょう。 けれども弟は知らない事も多くあり、それ故弟を慈しむべきだと思います。」と答えると、応神天皇(父親)は大いに喜んだ。 応神天皇は常々、二人の弟である「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」を〝皇太子として指名しようか〟と考えていた。 故に二人の息子の胸の内を知りたく思い、この質問をしてみせたのだ。
2月1日、応神天皇は「菟道稚郎子」を自分の〝跡取り〟に指名すると、「大山守命」には「山川林野(ヤマカワハヤシノ)」を掌握するよう命を出し、仁徳天皇には「菟道稚郎子」の助けとなってくれるように命令を下してみせていた。
※(実質この時に「菟道稚郎子」は「皇太子」に指名されている。 けれどもこの後に〝ちょっとした事〟がある為に、「菟道稚郎子」を〝太子として指名した〟と書いてしまうと、仁徳天皇が「王位の簒奪者」と言われかねないがその為に「立・太子」ではなく「立・嗣(あとつぎ)」と記述をされているものだと考えている。 ちなみに「山川林野」の意味は分からないが、「大山守命」はこの後、応神天皇に〝捨てられた(見捨てられた)〟と恨みに思う事になる。)
【西暦355年】
〈庚牛7〉
応神41年、2月16日~23日、応神天皇、「明宮(アキラノミヤ・奈良県橿原市らしい)」にて崩御。55歳。
※(「注釈」によると「大隅宮(オオスミノミヤ)」にて崩御したらしい。)
(少し昔の話であるが、)この月、「阿知使主(アチノオミ)」とその息子の「都加使主(ツカノオミ)」は「呉国(中国東部の江蘇省?)」から(高麗・百済を経由して)「筑紫(福岡)」へと向かっていた。
すると「胸形大神(宗像大神・ムナカタノオオカミ)」が「工女(縫工女・キヌヌイメ)」を求めて来た為に、「4婦人」の一人である「兄媛(エヒメ)」はその地に残る事になっては「胸形大神」を祭る事になってしまった。 彼女はこの後「筑紫国御使君(ミツカイノキミ)」の始祖となっている。
※(これは〝現地の権力者に見初められたが為にその地に残らざるを得なかった〟という話なのかも知れない。)
「阿知使主」は「3婦人」を率いては都(奈良)へと向かっていくのだが、「津国(ツノクニ・何処?)」から「武庫(ムコ・兵庫県明石市?)」へと到る間に応神天皇は没してしまい、「阿知使主」は応神天皇が生きている間に帰り得る事は叶わなかった。 ちなみにこの時連れて来た「縫工女」達は、後の「呉衣縫(クレノキヌヌイ)」や「蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)」になっている。
※(この「呉国の縫工女」が後の「呉服」の語源になったとされている。)
〈辛未8?〉
(応神42年?)、応神天皇は「菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)」を〝跡取り〟に指名してみせていたのだが、本人は「私はただ父親に愛されていただけであり、才能が無い。 仁徳天皇がやるべきだ。」と主張して、仁徳天皇もまた「いやいや、父親の言い付けを守ってアナタが天皇になるべきだ。」と主張した。 そんなこんなで「皇位」が空いてしまっていたのであるのだが、そんな時、二人の兄である「大山守命(オオヤマモリノミコト)」はクーデターを決意した。
・・・しかし、「大山守命」の計画を事前に耳にしていた仁徳天皇は〝その事〟を「菟道稚郎子」へと伝えてみせ遣ると、なんやかんやあって後、「大山守命」は「菟道川(宇治川)」にて没してしまってみせていた。
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