第7話 第14代天皇「仲哀天皇」&神功皇后 西暦296年~


【西暦296年】


〈壬申9〉


 仲哀1年、1月14日~19日、仲哀天皇(ヤマトタケルの子供)、即位。39歳。 壬申(みずのえさる)。 

※(注釈にある「時年卅一」は間違いであると思われる。)


 11月11日、仲哀天皇は亡き父(ヤマトタケル)が白鳥となって空へと飛び立って行ったので、父を偲ぶ為に白鳥を捕まえてくるよう命令を下す。  


 閏(うるう)11月26日~27日、「越国(コシノクニorエツノクニ)」が白鳥を4羽献上して来る。 その道中、「蒲見別王(カマミワケノミコ)」という者が「白鳥も焼いたら黒かろう」と言っては白鳥を奪い去ってしまう。 この事を「越人」が仲哀天皇へと報告すると、仲哀天皇は怒っては「蒲見別王」を倒してみせ遣る。

※(「日本書紀」の編纂者達は当時の暦が「パクシャ(1年を24ヶ月とした暦)」であった事に気付けていなかった。 しかしこの「パクシャ」には「閏月」があったらしい。 「閏月」に関する細かい事は分からない。)


〈癸酉10〉


 仲哀2年、2月10日~13日、仲哀天皇は「角鹿(ツヌガ・福井県敦賀市、つるが市)」へと行って、「笥飯宮(ケヒノミヤ・氣比神宮)」を建てる。 また、「淡路屯倉(アワジノミヤケ)」を定めた。  

※(一般的な「日本書紀」の翻訳文によると、原文の「定淡路屯倉」は〝淡路に屯倉を定めた〟である。 しかし私は〝「淡路屯倉」が正しい〟と思っている。)


 3月25日~4月2日、仲哀天皇は嫁さんである神功皇后を置いて南へと向かって「紀伊国(キノクニ・和歌山)」へと到ると、「熊襲(九州)」の不朝貢を知る。 仲哀天皇は「穴門(アナト・関門海峡)」へと向けて出発しては、嫁さんへと人を遣っては事情を知らせる。 すると神功皇后もまた「穴門」へと向けて出発をした。 

※(ここの「熊襲(叛之)不朝貢」は先の「邪馬台国」の例に倣うと〝「ヤマト朝廷」とは別の国家に対して朝貢を行った〟という意味である可能性がある。 この後の流れからその「国」というのは「新羅」である可能性が存在してくる。)


 6月9日~14日、仲哀天皇、「豊浦(山口県下関市豊浦町?)」へと到着。 


 7月24日~26日、神功皇后もまた「豊浦」へと到着。 神功皇后は海の中から「如意球」を得る。

※(この「如意球」は日本神話の「山幸彦と海幸彦」のお話に出て来る『潮満珠(しおみつたま)』と『潮干珠(しおひたま)』と関係があるのかどうかは不明である。)


 9月、仲哀天皇は「穴門」に「豊浦宮(トユラノミヤ)」を造る。 

※(これより「3年後」に仲哀天皇一行は「遠賀川(おんが川)河口」へと移動をする事になるのだが、恐らく遠賀川一帯で「戦闘状況」が発生している。 これの制圧に〝3年掛かった〟のか〝戦闘準備に3年要した〟のかは分からないが、とにかく「3年後」に移動をする事になる。 また、この時までに「東西南北」が現在の概念(太陽は東から昇る)へと変わっているのは確実であろうと思われる。)



【西暦297年~298年頃】


(時期不明:状況的には仲哀2年~仲哀8年までの間・ただし事績は「仲哀8年」の項にある)


 ある日、「伊覩縣主(イトノアガタヌシ)」の祖である「五十迹手(イソテ)」という人物が「穴門(アナト・山口県)」の「引嶋(?)」にて仲哀天皇を出迎えた。 この時「五十迹手」は仲哀天皇の事を褒め揚して(ほめそやして)みせ遣ると、仲哀天皇は「伊蘇志!(その意気や良し!)」と、そう言った。 それ故、「五十迹手」の国の名前を「伊蘇国(いそこく)」と言うようになり、今では訛って「伊覩国(いとこく)」と呼ばれている。 

※(「伊蘇志」は「伊:その」「蘇:良く現れている」「志:こころざし」より。) 

※※(この「伊覩国」、現在の「福岡県糸島(イトシマ)市」の事であると考えられているらしい。 そしてこの地が「いとこく」と呼ばれていたという事を根拠として「魏志倭人伝」に出て来る「伊都国(イトコク)」に比定をしている者がある。 断言するがこの「伊都国」が「福岡県糸島市」である可能性はゼロである。)



【西暦299年】


〈己卯16〉


 仲哀8年、1月8日~10日、仲哀天皇と神功皇后は「穴門(山口県)」から「筑紫(九州・福岡)」へと向けて船を出す。 この時、「岡縣主(オカノアガタヌシ)」の祖である「熊鰐(クマワニ)」が現れては先導し、「山鹿岬(ヤマカノミサキ)」を廻ってから「岡浦(オカノウラ・岡の入り江)」へと入り入る。 

※(この「熊鰐」は「海神宮殿」から「山幸彦(ホーリ)」を送り届けてくれた「鰐鮫(ワニザメ)」と関係している可能性がある。) 


 仲哀天皇は「岡水門(オカノミナト・福岡県遠賀郡、遠賀川の河口)」から先へと進もうかと思いはするが、急に船は進まなくなり、「熊鰐」が言うには「これはとある男女の神様の思惑によるものです。」との事だった。 そこで仲哀天皇はヤマトから連れて来た「伊賀彦(イガヒコ)」に祝詞を上げさせてみせ遣ると、船を進ませる事が出来ていた。 一方、「洞海湾(クキノウミ・どうかい湾)」からの進入を試みた神功皇后の船もまた、足止めを食らわされてしまっていた。 「熊鰐」は引き返しては駆けつけ遣ると、そこには「鳥」と「魚」に屯(たむろ)われている神功皇后の船が見えていた。 やがて潮が満ちてはその後に、船は進んで「岡津(オカノツ・岡の港)」へと寄港した。 

※(討伐が終了したので〝仲哀天皇達がやって来た〟のか、この後に「遠賀川周辺の熊襲」を討伐したのかは分からない。)


 8月18日、仲哀天皇達は「儺縣(ナダノアガタ・福岡市ら辺?)」の「橿日宮(カシイノミヤ・香椎宮)」へと到る。 


 9月6日~8日、仲哀天皇達が「熊襲」を討つ会議をしていたその時、神の神託を受けた神功皇后は言う。 「どうして熊襲の不服従を憂うのか? 熊襲とは『膂宍之空国(ソシシノムナクニ:阿蘇・九州)』である。 向けるべき目は海の向こう、新羅である。 もしも私を祭ればこれ以上血を流す事なくその地を服せて、熊襲もまた服する事が出来るであろう。」と。 

※(この神様は「自国内の不満分子はほっといて新羅を攻めろ。 そうすれば九州の騒乱は治まるぞ。」と言っている。 つまりはこの「九州騒乱」の大元の原因が「新羅」にあった可能性が存在している。) 

※※(「九州」という言葉はこの当時は存在しておらず、それに代わる言葉として「筑紫」「葦原の中津国」「膂宍之空国」等が存在していた。 しかし、「筑紫」は「福岡県北側」の意味となり、「葦原の中津国」は「神話の時代の呼称」であるがその為に、「九州」の事を「膂宍之空国」と呼称をしている。 ちなみに「膂宍之空国」とは本来「熊本県」の「阿蘇」の事である。) 


 仲哀天皇は高い山に登って海を見遣るが「国(新羅)」を確認する事は出来なかった。 そこで仲哀天皇は神の言葉を疑った。 すると神は「お前が私の言葉を信じないというのであれば、お前は国(熊襲の国)を得られない(掌握出来ない)。 ただお前の嫁さんの腹の中に居る子供がそれを成し得る事が出来るであろう。」と、そう言った。 仲哀天皇はその言葉を信じなかった。 後日、仲哀天皇は「熊襲」の国を攻め遣るが、勝利を得る事は出来ないでいた。



【西暦300年】


〈庚辰17〉


 仲哀9年、2月20日~22日、仲哀天皇は「橿日宮(カシイノミヤ・香椎宮)」にて崩御。42歳。 

※(「日本書紀」には「52歳で崩御」と書いてある。) 


 仲哀天皇が倒れた理由は〝神様の言葉に従わなかった為〟であり、「熊襲」との戦いの後、忽ちの内に全身が痛みに襲われては、その翌日に没してしまったらしい。 この時、神功皇后は天皇が没した事を隠しては「武内宿禰(たけのうちのすくね)」に遺体を「穴門「(アナト・関門海峡)」へと運ばせて、「豊浦(山口県下関市豊浦町?)」にて「火を焚かない殯(もがり)」を行わせた。 

※(天皇崩御の知らせを隠した理由は「知れば百姓は怠けるから」という事らしい。 また、ここに出て来る「武内宿禰」が〝成務天皇と同じ日に生まれた人と同じ存在〟であるとするならば、現在「58歳」という事になり、別の(息子か何かの)「武内宿禰」である可能性もまた存在している。 けれど「お話」としては〝同一人物〟の方が面白い。)  

※※(ここの殯(もがり)の記述より、殯は基本的には〝火を焚いて行う〟という事が伺える。)


 3月1日、「武内宿禰」が神功皇后のもとへと戻って来る。 


 3月5日、神功皇后は仲哀天皇が亡くなったのは「神様の言葉に従わなかった事が原因だったのではなかろうか?」と考えた。 そこで「小山田邑(オヤマダノムラ)」に「齊宮(イワイノミヤ)」を造らせて、新羅を求める「この神」に「何者であるか?」と尋ねてみせた。 すると7日7晩経った時(3月12日?)、「神風伊勢国の撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)である。」と答えてくれた。 そして他にも複数の神様が居るらしく、その神様とは「伊勢→アマテラス」「吾田→九州の地名(複数ある)」「事代主→福岡の大国主(大国土主)」「日向の住吉三神」の事だった。

※(つまりは「女王アマテラス~天孫ニニギ」時代の神様達を〝祭れ〟と言っている。 現実的な言い方をするならば「嘗て『古墳族(宮家)』に協力した者達を、優遇しろ。」という類の話であると思われる。)  


 神功皇后はこれらの神様を祭ってみせ遣ると、吉備臣の祖である「鴨別(カモノワケ)」を熊襲討伐へと派遣して、見事に服してみせ遣った。 

※(ここの「熊襲」の位置は不明。 状況的には「大宰府」らへん?)  


 3月13日、神功皇后は「橿日宮」から「松峽宮(マツオノミヤ)」へと移動をすると、「荷持田村(ノトリノタノフレ・にもちだ村?)」に「羽白熊鷲(ハシロクマワシ)」という名の〝翼を生やしては空を飛び、盗みを働く者が居る〟という話を耳にする。  


 3月14日、神功皇后は兵を出し、「羽白熊鷲」を倒してみせ遣ると、人々は「心安くなりました。」と、そう言った。 故に「安(ヤス)」とこの地に名が付いた。 

※(現在の「夜須(ヤス)郡」は「福岡県朝倉郡」と「甘木市」になっている。)  


 3月17日、神功皇后は「山門縣(ヤマトノアガタ・福岡県柳川市、みやま市)」にて「土蜘蛛」の「田油津媛(タブラツヒメ)」を倒す。 この時、田油津媛の兄の「夏羽(ナツハ)」が軍を興して迎え撃とうとするのだが、妹が倒されてしまった事を知り、逃亡する。 

※(これは成務天皇が「全国に稲置を置いた」年(西暦267年)、言い換えるなら「邪馬台国」が「大陸国」と〝最後の交流〟を行った「秦始2年(266年)」から数えて約33年後の事である。 そしてこの「田油津媛」、「邪馬台国」の女王「臺与(イヨ・トヨ)」であった可能性がある。 また〝女王「卑弥呼」が居た場所〟は兎も角として、「魏志倭人伝」に記されている「女王の都」の場所は、この「山門(ヤマト)」、現在の「福岡県柳川市」であったと考えている。)              

※※(この頃の事績では、「西」を「朝鮮半島」、「東」を「日本」とした特殊な「東西南北」表記がされている為、今回の一連の事柄は神武天皇の「神武東征」に対して「神功征西」と呼ぶべきか?)         


 4月20日~21日、神功皇后は「火前国」を北に行き、「松浦縣(マツラノアガタ)」へと到る。 「松浦」の名前の由来は神功皇后がこの地(川)で魚を釣った時、「奇見物也!(メズラシ・これは珍しいものだ!)」と言った事に因っている。 最初は「梅豆羅国(メズラ国)」と名が付いたのであるのだが、それが訛って今では「松浦」になっている。 

※(このエピソードの場所は「佐賀県唐津市or長崎県松浦市」であると考えられているらしい。)  


 神功皇后は自らに「神の驗(しるし)がある事」を理解すると、神へと祭を捧げては、自らも「西征(新羅の征伐)」を願うようになる。 そして「神田(ミトシロ)」を定めては「儺(ナ)の河水(かすい)」を引いてみようかとするのだが、「迹驚岡(トドロキノオカ)」の大磐(岩)が邪魔をして溝を掘る事ができなかった。 そこで神功皇后は「武内宿禰」に剣と鏡を神へと捧げさせ、神へと祈ってみせ遣ると、突然「雷電」が顕れては岩を裂き転がして、水を通す事が出来ていた。 故にこの溝に「裂田溝(サクタノウナデ)」と名が付いた。

※(このエピソードの舞台は「福岡県筑紫郡那珂川町安岡」であるらしい。 しかし、「松浦」へと移動をして「福岡県」へと戻って来たのは何故だろう? 「松浦」には「賊」を倒しにでも行っていたのか、「仲間」を増やしにでも行ったのか、単なる偵察であったのか?)

※※(また、一般的(?)にはここに出て来た「儺(ナ)」こそが「漢委奴国王印(金印)」や「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」であると考えられているらしいのだが、私は「奴国」は現在の「佐賀県佐賀市」を中心とした国であったのだろうと考えている。)  


 9月4日~8日、神功皇后は新羅に対しての戦闘準備を行う。 そして「西の海」へと発った先遣隊は「そこには国は有りませんでした。」と報告し、「西北」へと発った先遣隊は「山が帯状になっている国が有りました。」と報告して来た。 神功皇后は出発する日を占いによって決め遣ると、「斧鉞(ふえつ:オノとマサカリ)」を持っては令を下した。  


 10月18日~19日、神功皇后は「和珥津(ワニノツ・長崎県対馬市上対馬町鰐浦?)」より船を出し遣ると、新羅を服してみせていた。 

※(ここに出てくる「和珥(ワニ)」という言葉より、「熊鰐」の本拠地は「対馬」であるのか?)  


 新羅王は「東には神の国、『日本』が有ると聞いた事がある。 そしてそこには聖王が、『天皇』が居ると聞いている。 (我々ごときが)その国に居る神兵をどうして防ぐ事が出来ようか。」と言い遣ると、頭を地面へと叩き付けては「絶える事の無い朝貢」を神功皇后へと約束した。 

※(いわゆる「土下座」は朝鮮半島由来の行為であるかもしれない。)


 一方、新羅の降服を聞いた高麗(満州)と百済の王様は、「日本国」の軍勢がどれ程のものなのかと密かに窺い、それを見ては〝勝てない事〟を察すると、頭を地面へと叩き付けては「私達はこれより未来永劫『西蕃(せいばん・西の未開な種族)』であると自称をし、絶えず朝貢を行う事を誓います。」と、そう言った。

※(ここの高麗と百済のくだりは「事実とは違う」と考えている。 理由は〝これ以降の事績〟を見て貰えば解ると思う。)  


 神功皇后はこの地(新羅)に「内官家屯倉(ウチツミヤケ)」を定めてみては、日本に対して帰国した。  


 12月18~24日、神功皇后は「筑紫(福岡)」の「蚊田(カダ)」にて応神天皇(仲哀天皇の第4子)を出産し、故にこの地に「宇瀰(ウミ・福岡県糟屋郡宇美町)」と名前が付けられた。 

※(この「産んだ場所」には他にも色んな「候補地」があるらしい。)  


 この後、「住吉三神」は神功皇后へと「我の荒魂(アラミタマ)を穴門の山田邑へと祭るが良い。」と言ったので、神宮皇后はその言葉に従った。   


〈辛巳18〉


 仲哀10年、2月、神功皇后は「穴門(アナト・関門海峡)」の「豊浦宮(トユラノミヤ)」へと移動をすると、そこで仲哀天皇の「喪(もがり)」を収容して後に、船にて「都(京)」へと向かって行った。 


 そんな時、神功皇后が「西征(三韓征伐)」を行い、子供(応神天皇)を儲けたという話を、応神天皇の腹違いの兄である「?坂王(カゴサカノミコ)」と「忍熊王(オシクマノミコ)」は耳にした。 二人は「大臣達は皆、幼い王子に従うだろう。 けれどもどうして我々兄が弟に従う事など出来ようか。」と言い遣ると、〝天皇陵を造る〟という名目で「淡路島」から石を切り出させては船を連ならせ、「播磨(兵庫)」の「赤石(明石市)」へと運ばせてみては、その者達を「東国兵」と成して後、神功皇后を迎え撃たんと準備した。 次いで「もし事を成せるのなら、必ず良い獣を得られるだろう。」と「祈狩(ウケイガリ)」を行ったところ、突如「赤い猪」に襲われてみては「?坂王」は倒された。 そこで「忍熊王」は「この地で敵を待つべきでは無い。」と言い遣ると、「住吉(スミノエ・大阪府大阪市住吉区?)」へと移動した。 


 一方、神功皇后は「忍熊王」が待ち構えているという話を耳にし遣ると、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」に応神天皇を抱かせて「紀伊水門(和歌山市?)」へと移動をさせると、自らは「難波(大阪?)」へと向かって行った。 しかし神功皇后の船は海流の影響で進めなくなり、仕方なく「務古水門(ムコノミナト・兵庫県尼崎市武庫川)」へと引き返しては占い事をしてみせた。 すると「天照大神(アマテラス)」は「我が魂は今汝には近寄れない。 『廣田国(ヒロタノクニ・摂津国武庫郡広田神社:兵庫県西宮市大社町)』へと行き我が魂を祭るが良い。(そうすれば加護を得られるだろう。)」と言い、「稚日女尊(ワカヒルメノミコト)」は「私は『長峽国(ナガオノクニ・摂津国:神戸市)』の『活田(イクタ・八部郡生田神社:生田区下山手通)』にて祭られたい。(居たい。)」と言い、事代主は「我を『長田国(ナガタノクニ・摂津国八部郡長田神社:神戸市長田区長田町)』にて祭るべし。」と言い、住吉三神は「私の事は『長峽国(ナガオノクニ・摂津国:神戸市)』の『大津渟(おおつつづ?・おおつぬ?)の中倉(?)』にて祭るべき。 さすれば船の往来を見守ってやろうぞ。」と、そう言った。 神功皇后はその言葉に従って神様達を祭り遣ると、海の波は鎮まっては、先へと進む事が出来ていた。 

※(これは〝「一つの神様」を複数の箇所で祭るようになった〟という流れであろうか? つまりは「分社(分霊)」の始まりであるとか?)  


 この後、「忍熊王」が「菟道(ウジ・山城国宇治郡:京都府宇治市)」まで軍を後退させると、神功皇后は「紀伊国(和歌山)」へと南下をしては、我が子(応神天皇)と「日高(ヒダカ・紀伊国日高郡:和歌山県日高郡)」で再会した。 その後、「忍熊王」を攻め遣る会議を開いては、「小竹宮(シノのミヤ・紀伊国那珂郡志野村:和歌山県那賀郡粉河町長田)」へと移動をせんとしていたところ、突然空が夜の様に暗くなってしまっていては、それは数日もの間、続いてみせていたのであった。 

※(この間の〝薄暗い中での移動〟の事を「常夜行(トコヤミコウ・トコヨコウ?)」と言う。) 


 神功皇后はこの不思議な現象を前にして、「紀直(キノアタイ)」の祖である「豊耳(トヨミミ)」に、その理由を尋ねてみせた。 すると一人の老父がこう言った。 「伝え聞いた所によりますと、この怪異は『阿豆那比の罪(アズナイの罪)』であると言われています。」と。 神功皇后は「それは何だ?」と尋ねると、一人の者がこう言った。 「昔、小竹(シノ)という人物が天野という人物と親友関係になりました。 けれど、小竹は病に倒れて没してしまい、天野は血の涙を流しながらにこう言ったというのです。 『オレ達は親友だったというのに、どうしてお前は先に逝ってしまったんだ!』と。 この後、天野は小竹の屍の側に伏せってみせては、自らの命を絶ち遣って、小竹と同じお墓の中へと埋葬されたと言うのです。」と。 神功皇后が実際に墓を開いて見てみると、言われた通りのものであり、そこで棺を改めては別々の所に埋め遣ると、日の輝きは戻って来ては、昼と夜とが分かたれていた。 

※(つまりは〝男同士の美しい友情〟がノンケである神功皇后により〝別けられた〟というお話だ。)


 3月17日~19日、神功皇后は「武内宿禰」と「和珥臣(ワニオミ)」の祖である「武振熊(タケフルクマ)」へと数万の兵を与えては「忍熊王」を撃つよう命令を下した。 「武内宿禰」は精鋭を率いて「菟道」へと到り、川の北側にて陣取ると、「忍熊王」は戦う事を決意した。 すると彼の部下である「熊之凝(クマノコリ)が仲間を励ます為に歌を歌ってみせていた。 一方「武内宿禰」は兵に対して髪を結わせては予備の「弓弦(ゆづる)」を髪の中へと潜ませて、木刀を佩くよう命令を下してみせ遣ると、川を挟んで「忍熊王」へと対面してみせているのであった。 

※(この時の兵士達は、手には「弓」を装備して、腰には〝「木刀」を佩いている〟という格好である。)  


 そして「武内宿禰」は川向かいにいる「忍熊王」に対して「もう戦うのは止めようではないか。」と言い遣ると、部下に弓の弦を切らせては、「木刀」を川の中へと投げ入れさせた。 すると「忍熊王」もまたそれに倣ってみたのだが、「武内宿禰」は部下へと合図を出し遣ると、部下は(髪の中へと潜ませていた弓弦を取り出して)弓に弦を張っては、「真剣」を佩き、一気に川を渡ってみせた。 「忍熊王」は欺かれた事に気が付くと、ゆっくり部隊を後退させた。 この後「武内宿禰」は精鋭達を遣わせては「逢坂(アウサカ)」にて敵を破ると、続いて「狹々浪(ササナミ・滋賀県大津市膳所)の栗林」にて多くの敵を斬り伏せた。 

※(この「逢坂」という場所は今回「敵と遭遇した事」によりこの時に付けられた地名である。 一般的にその場所は「大阪」であると考えられているのだが、〝地理的・戦略的状況〟を考えると、この場所は「宇治→奈良」間であると考えている。 この場所は地形的に「上り坂」になっており、その坂の上では〝神功皇后が待ち受けていた(坂で遭った→遭う坂)〟と考えている。  また、ここにある「血塗れになった栗林」で取れた諸々は、御所へと献上してはいけない事になっている。)  


 そして追い詰められてしまった「忍熊王」と側近の「五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)」は、「嘆きの詩(うた)」を歌っては、共に「瀬田濟(セタノワタリ?)」にて没してしまってみせていた。  


〈辛巳18〉


 神功1年、10月30日~11月1日、神功皇后、即位(摂政)。 神功皇后の年齢は不明だが〝仲哀天皇と同い年〟なら現在43歳である。 辛巳(かのとみ)。



【西暦301年】


〈壬牛19〉


 神功2年、11月12日~16日、神功皇后は仲哀天皇を「河内(大阪)」の「長野陵(ナガノノミサザキ)」にて陵葬する。


〈癸未20〉


 神功3年、1月12日~13日、応神天皇が皇太子に指名される。 1歳。

※(「日本書紀」の注釈にある「時年三」は編纂者の誤記である。)  


 神功皇后は「磐余(イワレ・奈良県桜井市南部)」に都を遷す。 「若櫻宮(ワカサクラノミヤ?)」を建てる?



【西暦302年】


〈乙酉22〉


 神功5年、3月20日~23日、新羅が朝貢して来た。



【西暦304年】


★西暦304年、大陸国、「劉淵(りゅうえん)」が「前趙(ぜんちょう・大陸国北部)」を建てる。



【西暦306年】


〈癸巳30〉


 神功13年、2月27日~3月1日、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」は応神天皇を連れて「角鹿(ツヌガ・福井県敦賀市、つるが市)」の「笥飯宮(ケヒノミヤ・氣比神宮)」へと参拝しに行く。

※(これが〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟だとした場合、現在65歳である。)



【西暦313年】


■西暦313年、高麗(高麗満州)が南下して楽浪郡(帯方郡も?)を攻め落としたらしい。



【西暦316年】


★西暦316年、大陸国、「永嘉の乱(えいかのらん)」により「西晋(大陸国全域)」が滅ぶ。



【西暦317年】


★西暦317年、大陸国、「司馬睿(しばえい)」が「東晋(大陸国南部)」を再建。



【西暦318年】


☆計算上、仁徳天皇(16)はこの年に生まれている。 ちなみに応神天皇の第4子。 応神天皇はこの時18歳。



【西暦319年】


★西暦319年、大陸国、奴隷出身の「石勒(せきろく)」が「後趙(こうちょう・大陸国北部)」を建てる。

▲神功39年、魏志伝「明帝景初三年六月、なんてらかんてら~」。

※(これは「日本書紀」の編纂者達が〝こうであろう〟という考えから自ら書き加え入れたものである。 ここの記述から「日本書紀」の編纂者達は〝昔から日本では「太陰暦」が使われていた〟と考えていたという事が良く分かる。)



【西暦320年】


▲神功40年、魏志伝「正始元年、なんたらかんたら~」。 

※(これは「日本書紀」の編纂者達が〝こうであろう〟という考えから自ら書き加え入れたものである。)



【西暦321年】


▲神功43年、魏志伝「正始四年、なんたらかんたら~」。

※(これは「日本書紀」の編纂者達が〝こうであろう〟という考えから自ら書き加え入れたものである。)



【西暦322年】


〈甲子1〉


(神功44年?)、7月中頃、「卓淳国(トクジュンのクニ)」に百済からの使者が現れた。 彼らは「日本と国交を結びたいと思うのだけれど、その首都の場所が分からない。」と言って来た。 対して「卓淳国」の王「末錦旱岐(マキムカンキ?)」は「我々もまだ日本と国交を結んではいないし、その首都の場所も分からない。 けれどもそれより何よりも、浪が険しいが為に海を渡れず、場所が分かったとしてもどうする事も出来やしない。」と答えてみせた。 すると百済の使徒は「だったら国へと帰って船の準備をする事にします。 あと、もしもこの国に日本からの使者が来る事があったのならば、私の国(百済)へと伝えてみせて下さいな。」と言い遣った。 甲子(きのえね)。 



【西暦323年】


〈丙寅3〉


 神功46年、3月6日、「斯摩宿禰(しまのすくね)」が「卓淳国(トクジュンの国)」へと派遣される。  「斯摩宿禰」は「卓淳国」の王様から〝「甲子(きのえね)の年(今から一年前)」に百済から使者がやって来て、「日本と国交を結びたいと言っていた」〟という話を耳にする。 そこで「斯摩宿禰」は2人の使者を百済に対して送ってみせると、百済の王「肖古王(しょうこ王)」は使者を持て成してはその後に、「5色の絹」「角弓箭(角の弓矢)」「鐡?(くろがねののべがね)40枚」等を渡してくれた。 

 使者は百済より戻って来ては「斯摩宿禰」へと事の顛末を報告すると、「斯摩宿禰」は「卓淳国」から帰国した。  

※(「卓淳国」は「半島国」南東部の「内陸」に位置する場所にあったらしい。)

※※(この項にある百済の王「肖古王」は「近肖古王(きんしょうこ王)」の間違いであろうと考えられているらしい。)


〈丁卯4〉


 神功47年、4月、百済の王は貢物を持たせて日本へと使者を送り遣る。 その道中、「百済の使者」は「新羅の使者」と遭遇し、連れ立って日本へと行く事に。 

 神功皇后と応神天皇(23歳)はこの来訪に喜ぶが、〝百済からの貢物が新羅に比べてショボい〟のでその理由を問うてみた。 すると「百済の使者」は「私達はここへと来る途中、新羅の連中に捕らえられ、牢の中へと入れられました。 その3ヶ月後に殺されそうになりましたが、私達は〝呪詛(じゅそ)〟の言葉を天へと向かって唱えると、新羅の者は恐れては私達を殺す事はありませんでした。 けれども貢物は新羅の物と取り替えられて、『もしも日本にこの事を言ったらお前を殺す』と言われました。」とそう言った。 そこで「千熊長彦(チクマナガヒコ)」を派遣して真偽を調べさせてみたところ、この事が事実である事が分かりました。 



【西暦324年】


〈己巳6〉


 神功49年、3月、「荒田別(アラタワケ)」、「鹿我別(カガワケ)」を将軍とした日本は、百済とともに「卓淳国(トクジュンの国)」から新羅へと攻め入っては新羅を破り、(狗邪韓国の)7つの国を平定し、更には「西」にある「古爰津(コケイノツ)」を破っては、その地を百済へと提供した。 その後日、百済の「肖古王(近肖古王?)」と息子の「貴須(クルス)」が軍隊を率いて(狗邪韓国へと)訪れた。 


 「荒田別」と百済王は互いに出会えた事を喜び合った。 そして「千熊長彦(チクマナガヒコ)」は百済王に伴うという形で、百済に対して向かって行った。 

 百済へと帰って来た百済王と「千熊長彦」は山へと登っては大きな岩の上へと座り遣り、百済王は「千熊長彦」に対してこう言った。 


 「草の上であるならば火をつけられる事もあるだろう。 木の上に座って(話をして)も水に流される事もあるだろう。 けれど岩(磐)の上での盟約ならば、朽ちる事など無いだろう。 これより千秋万歳、無絶無窮、(我、)常に称するのは『西の藩』、春秋(行うは)朝貢なり。」と。 

※(ここの『西の蕃』とは「西の未開な種族」という「東国:日本」に対しての〝謙った(へりくだった)〟言い方(表現)である。)



【西暦325年】


〈庚牛7〉


 神功50年、2月、「荒田別(アラタワケ)」達が帰国。 


 5月、「千熊長彦(チクマナガヒコ)」達が帰国。


〈辛未8〉


 神功51年、3月、百済が(宣言通り)朝貢しに来てくれたので、神功皇后は喜んだ。

 

 その年、神功皇后は「千熊長彦(チクマナガヒコ)」を百済に対して派遣をしては、自分の言葉を伝えてみせた。 

 「私は神の導きにより西の海を平定し、百済という賜り物を受けました。 今またその親交を厚くして、永遠に慈しみたい(大切にしたい)と思っています。」と。 

 その言葉を聞いた百済王とその子供は額を地面へと当ててみせては「私達は永遠に叛く心など持ちません。 永遠にあなたの国の西藩であり続けます。」と、そう言った。 

※(百済はこの言葉通りに国が滅びるその日まで、日本と蜜月関係を続けてみせた。 ちなみに百済が日本に対して迎合したのは【西暦300年】に〝日本が新羅を破った〟事と【西暦313年】に〝『高麗(満州)』が南下して楽浪郡(帯方郡も?)を攻め落とした〟事が切っ掛けであったと考えている。 日本にしてみれば〝朝鮮半島西側に足場が出来る〟という申し入れであり、百済にとっては〝『高麗(満州)』に対して牽制をする事が出来る〟という取引である。)



【西暦326年】


〈壬申9〉


 神功52年、9月2日~7日、「千熊長彦(チクマナガヒコ)」が百済から「七支刀(しちしとう)」「七子鏡(ななつごのかがみ)」等を手に帰国する。 また「西の方に新しい鉄山を見つけたので、この地より鉄を取っては送ります。」という百済王からの言葉と、孫の「枕流(トムル)」に対して「日本に対して貢ぎ物を絶やしてはいけない。」と言っていたという事を神功皇后へと伝えてみせた。 そしてこの言葉通りに百済は毎年貢ぎ物を日本に対して持って来た。 

※(ここに出て来る「西の方にある鉄山」は、「7日掛けても辿り着けない場所」にあるという。 つまり、この「鉄の山」は〝「大陸国」の「鉄山」であろう〟と想像出来、百済は〝わざわざ海を渡って大陸国から鉄を輸入してくれる〟のだと言っている(のだと思う)。)



【西暦327年】


〈乙亥12〉


 神功55年、百済王、「肖古王(近肖古王?)」、没す。



【西暦328年】


〈丙子13〉


 神功56年、百済王、「肖古王(近肖古王?)」の息子、「貴須(クルス)」が王となる。



【西暦329年】


★西暦329年、大陸国、「前趙(大陸国北部)」、「後趙(こうちょう・大陸国北部)」により滅亡する。



【西暦331年】


〈壬牛19〉


 神功62年、新羅の不朝貢。 神功皇后は「襲津彦(ソツヒコ)」を送って新羅を撃破。 

※(「注釈」によると、これには異伝があるらしく、「百済記」には〝「襲津彦」は新羅の美女二人に誘惑されて寝返ったので、神功皇后は怒って「木羅斤資(モクラコンシ)」を送った。〟と書いてあるらしい。 この時の「十干十二支」は「壬牛(みずのえうま)」であるそうなのだが、実際にこの年のタイミングは「壬牛」である。 ちなみにこの「襲津彦」は正式名称「葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)」と言い、〝新羅・百済に対しての外交を担っている人物である〟と考えられている。 またこの「葛城襲津彦」、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」と同様に〝「個人」でもあり「血族」でもある〟と私は考えている。)



【西暦332年】


〈甲申21〉


 神功64年、百済王、「貴須(クルス)」、没す。 息子の「枕流(トムル)」が王となる。


〈乙酉22〉


 神功65年、百済王、「枕流(トムル)」、没す。 王子の「阿花(アカ?)」は年少であった為、叔父の「辰斯(シンシ)」が簒奪して王となる。 

※(実際に「辰斯」が〝「王」となった〟のはタイムラグがある可能性がある。)



【西暦333年】


〈丙戌23〉

▲神功66年、是年、武帝泰始二年、「倭女王~なんてらかんてら」。 

※(これは「日本書紀」の編纂者達が〝こうであろう〟という考えから自ら書き加え入れたものである。)



【西暦334年】


〈己丑26〉


 神功69年、4月29日~5月7日、神功皇后(摂政)、「稚櫻宮(ワカサクラノミヤ)」にて崩御。没年齢不明。 己丑(つちのとうし)。 

※(仲哀天皇と「同い年」であった場合、現在「77歳」という事になる。)  


 10月28日~11月5日、神功皇后を「狹城盾列陵(サキノタタナミノミササギ)」にて陵葬。



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