第6話 第13代天皇「成務天皇」 西暦265年~


【西暦265年】


〈庚牛7〉


 垂仁99年、7月28日、垂仁天皇、「纏向宮(マキムクノミヤ?)」にて崩御。73歳。 

※(景行天皇の項では2月に亡くなった事になっている。) 


 12月20日~25日、垂仁天皇を「菅原伏見陵(スガワラノフシミノミササギ)」へと陵葬。


〈庚牛7〉


 景行60年、11月11日~14日、景行天皇、「高穴穗宮(タカアナホノミヤ)」にて崩御。50歳。


〈辛未8〉


 成務1年、1月11日~13日、成務天皇、即位。24歳。 辛未(かのとひつじ)。


〈辛未8〉

(垂仁100年?:垂仁天皇崩御の翌年って事になっている)、3月4日~10日、「田道間守(タジマノモリ)」、「常世の国」から「橘(ミカン?)」を手に帰って来る。 「橘(ミカン?)」を探しに旅立ってから「10年(現在換算で5年)」経っており、既に垂仁天皇が没してしまっていた為に、「田道間守」は〝仕事が遅くなった事〟を垂仁天皇の墓所の前にて慟哭しては、自ら命を捨て遣った。

※(垂仁天皇と景行天皇が〝同じ年に没してしまっていた〟とは意外であった。 垂仁天皇はもしかしたら息子の景行天皇の為に「田道間守」に「橘」を探させに行かせていたのかも知れない。 墓の前にて自尽を行うとは大げさな話のようにも思えるが、しかし自ら仕える主が立て続けに亡くなってしまっていたのなら、その行いも大げさというワケでもないのかもしれない。)


★西暦265年、大陸国、司馬炎、「魏(東側北部)」に代わり「西晋」を建てる。



【西暦266年】


〈壬申9〉


 成務2年、11月5日~10日、成務天皇は景行天皇を大和の「山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)」へと陵葬する。


〈癸酉10〉


 成務3年、1月5日~8日、成務天皇は「武内宿禰(たけのうちのすくね)」を大臣とする。 

※(この「武内宿禰」が〝どの「武内宿禰」〟なのかは分からない。 けれども状況的には〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟であると考える事が出来遣るが、その「武内宿禰」はこの6年前には「棟梁大臣」に指名をされており、イマイチ良く分からない。 「大臣」は「棟梁大臣」よりも〝立場が上〟なのか? 他の「武内宿禰」の話であるのか・・・? ちなみに〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟は現在「25歳」である。)



【西暦267年】


〈甲戌11〉


 成務4年、2月2日、成務天皇は一見日本が平和であるよう思いはするが、けれども〝反乱分子が機を窺っている〟という現状を鑑みて、「その土地に詳しい者」を「その土地の主」として任命しようかと考えた。 

※(この「その土地に詳しい者」は「その土地の者(土着民)」であるのか「朝廷より派遣された者」であるかは不明であるが、恐らく「その土地の者」の事であろうと思われる。)


〈乙亥12〉


 成務5年、9月、成務天皇は「山河」を「郡(国郡)」の境とし、「道」をもっては「村」と成し、「稲置(いなき)」と兵の配置(配備)をする事で、百姓の安全は確保され、天下は無事に治まった。

※(ここの事績は「中央集権的国家」から「地方分権的国家」へと舵を切ったという事であろうと思われる。)


 また、成務天皇はこの時、「東西南北」の概念と「山陰・山陽」の概念を全国へと伝えている。 

※(ここで言う「山陰」は「山の北側(ほぼほぼ日本海側)」の事であり、「山陽」とは「山の南側(ほぼほぼ太平洋側)」の事を指しているものだと思われる。)


☆泰始二年(266年)、「倭の女王(臺与・イヨ?)」の使者が「西晋」の都である「洛陽」へと〝赴いた〟という記述があるらしい。 

※(つまり、【西暦265年】に司馬炎が「魏(東側北部)」に代わり「西晋」を建てた事で、成務天皇は嘗て女王卑弥呼が「魏」に対して朝貢をしたように「邪馬台国」が再び朝貢をしないよう先手を打ったものだと考えている。 その結果〝自治権〟を認められた「邪馬台国」の「臺与」は「西晋」に対して「貢物」を送り遣る事になるのだが、これは〝手切れ金〟であったと考えている。 故にこれより約150年にわたり「倭国」は「大陸国」の歴史からその姿を消す事になったと考えている。 そして卑弥呼の時代に贈られたとされる「親魏倭王印」はこの時に「西晋」へと送り返されたものだと考えている。)



【西暦280年】


★280年、大陸国、「呉(東側南部)」が「西晋(東側北部)」により滅びる。 「西晋」が大陸国を統一。 

※(この時に「呉」の人達が日本(九州・有明海周辺?)へと渡って来た可能性は〝低くは無い〟と考えている。)



【西暦289年】


〈戊牛55〉


 成務48年、3月9日、成務天皇は甥である「仲哀天皇(ヤマトタケルの子供)」を皇太子へと指名する。 

※(この時の成務天皇は「47歳」、仲哀天皇は「31歳」。 仲哀天皇はまだ誕生日を迎えていないものだと思われる。)



【西暦295年】


〈庚牛7〉


 成務60年、6月3日~8日、成務天皇、崩御。53歳。


〈辛未8〉


(成務61年?)、9月15日~17日、成務天皇を「大和(奈良)」の「狭城盾列陵(サキノタタナミノミササギ)」へと陵葬する。


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