第5話 第12代天皇「景行天皇」 西暦235年~


【西暦235年】


〈庚牛7〉


 垂仁39年、10月、「五十瓊敷命(イニシキノミコト、景行天皇の兄)」は1000の剣を作っては「石上神宮」へと納め遣る。 垂仁天皇はこの後、「五十瓊敷命」に対してコレの管理を任せている。 

※(これは「五十瓊敷命」を〝「石上神宮」の神主に任命した〟という意味なのかも知れない。)


〈辛未8〉


 景行1年、7月3日~8日、景行天皇、即位。21歳。 辛未(かのとひつじ)。

 この時、「元号を改めた」とあるので、垂仁天皇は〝生前退位を行った〟という事になる。 ちなみに垂仁天皇は現在43歳である。

※(「生前退位」は〝イザナギの存命中にアマテラスが一族の長となっていた〟前例があるように、〝それほど特別な事ではなかったのではないか〟と考えている。)



【西暦236年】


〈壬申9〉


 景行2年、3月2日~3日、景行天皇は「播磨稲日大郎姫(ハリマノイナビノオオイラツメ)」を皇后とする。 「播磨稲日大郎姫」は「大碓(オオウス)」と「小碓(オウス)」の双子を産んだ。 

※(ちなみに私は播磨稲日大郎姫は〝皇后になる前に既にこの2人を産んでいた〟と考えている。 その場合、大碓と小碓は現在4歳である。)


〈癸酉10〉


 景行3年、2月14日、景行天皇は「紀伊国(和歌山と三重の南部)」へと行って諸々の神様を祭ろうかしらと考えたものの、占いで「不吉」と出た為に向かう事を諦めた。 そこで景行天皇は代わりに「屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)」を遣っては諸々の神様を祭らせた。 

※(ちなみにこの「屋主忍男武雄心命」の子供が「武内宿禰(たけのうちのすくね)」である。)



【西暦237年】


〈甲戌11〉


 景行4年、2月26日~3月1日、景行天皇は「美濃(岐阜)」へと行くと一人の娘と出会う。 なんやかんやあった後、娘は姉である「八坂入媛(ヤサカイリビメ)」を紹介してくる。 八坂入媛はこの後、成務天皇を産む事になる。 また、『この月』に〝美濃に美人姉妹が居る〟という話を耳にした景行天皇は息子の「大碓(オオウス)」を送ってはその容姿を調べさせようとした。 しかし、大碓は便りを送る事を怠ったが為に景行天皇は大碓の事を恨みに思う事になる。 

※(この「大碓の話」はオカシイ。 大碓はこの時「5歳」である。 恐らく『この月』では無く、後の時代の話であろうと思われる。)  


 11月、景行天皇は「纏向(マキムク)」にて「日代宮(ヒシロノミヤ)」を造る。

※(これもまた垂仁天皇の「珠城宮(タマキノミヤ)」と同じくに「奈良県」にある「纏向遺跡」の一部である可能性がある。)



【西暦238年】


☆238年、「大陸国(魏)」、半島国にあった「楽浪郡」と「帯方郡」を接収する。

※(私は「楽浪郡」は「平壌・ピョンヤン」、「帯方郡」は「漢城」の事だと予想をしている。)



【西暦240年】


☆明帝景初三年(239年)六月、倭女王(卑弥呼)が「大陸国(魏)」と通ず。

※(「女王国」・・・、つまりは「邪馬台国」はこの頃より以前に「帯方郡(漢城?)」と関係を持っており、故に「邪馬台国」は「大陸国(魏)」と〝関係を持つようになった〟と考えている。)



【西暦241年】


〈壬牛19〉


 景行12年、7月、九州の「熊襲(くまそ)」が朝貢をして来なかったので、8月16日~23日に景行天皇は九州へと向けて出発した(出兵した)。

※(今まで特に〝「熊襲」と「ヤマト朝廷」との関係性〟は記されてはいないのであるのだが、景行天皇は〝朝貢をして来なかった〟という理由で九州へと向けて出発している。 これはむしろ〝ヤマト朝廷へと朝貢をして来なかった〟と言うよりも、〝「熊襲」が「大陸国」へと朝貢をした〟と考え遣る方が適当であるかも知れない。 つまり、〝「邪馬台国」が動いたから「ヤマト朝廷」もまた応じた〟という事だと考えている。 そしてこのような関係を〝呼応(関係)〟と私は呼んでいる。)  


 9月1日~18日、景行天皇、「周防(すおう・山口)」の「防府(ほうふ)」へと到着。 南に「煙(九重山の煙?)」が上がっていたので「賊が居るだろう」と考えて、「先遣隊」を送り遣る。 

※(この「南」は九州のどの方角を指しているのかは判断しかねる。) 


 先遣隊らは「その土地」へと入っては〝賊に困らせられている〟という女と出会う。 女の事情を理解した先遣隊員らは「赤い衣」等の珍しい物を用意して、4本の川上に居る賊を誘き寄せてはみせ遣ると、それらを倒してみせ遣った。 景行天皇はこの後、「京(ミヤコ・福岡県京都郡)」へと入っては「行宮(カリミヤ・こうきゅう・行幸の地に設ける仮の御殿)」を建ててみせていた。 

※(これは「行橋(ゆくはし)」辺りの「長狭川水系」、「江尻川水系」での話であろうと考えている。)  


 10月、景行天皇は「速見邑(ハヤミムラ・別府)」へと入る。 そして「鼠石窟(ネズミのいわや)」に居た2つの「土蜘蛛(つちぐも)」を倒し遣る。 

※(これは「大分川水系」での話であろうと考えており、それ故「鼠石窟」は「由布岳」周辺にあったと考えている。 また、この時に「別府」→「大分」→「由布」→「九重」→「日田」ルートが開通した可能性が存在している。 ちなみにこの「日田」は「日本神話」で言う所の「天の八衢(あまのやちまた)」に該当する。 加えてこの場所が「ヤマタノオロチの棲家」であった場合、「古墳族(宮家の祖先)」は〝神武東征〟の時に〝九州の支配権を放棄した〟可能性が生まれて来る。 それと余談ではあるが「日本神話」にはアマテラスの「ひ孫」の一人が「隼人(鹿児島)」の祖になったと記してある。) 


 続いて景行天皇は「禰疑野(ネギノ)」に居た3つの「土蜘蛛(つちぐも)」を征伐する。 

※(「禰疑野」は「大野川上流」にある「竹田」ら辺であるらしく、つまりはこれは「大野川水系」での話であろうと考えている。 そしてこの時に「別府」→「大分」→「豊後大野」→「竹田」→「阿蘇(or小国)」ルートが開通したかもしれないと考えている。)  


 11月、景行天皇は「日向(ひゅうが・日向市)」へと到っては「高屋宮(タカヤノミヤ)」を建てる。 

※(ここでの「日向」は「日向市(ひゅうが市)」の事であると考えている。 「大分」から〝海岸線を南下するルート〟で到ったものだと考えている。)  


 12月15日~17日、景行天皇はここら辺にいた「熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)」を倒す為の話し合いをする。 すると家臣の一人が「熊襲八十梟帥には二人の娘が居るそうなので、プレゼントを与えては機嫌を取って、敵の居所を明らかにすれば楽して勝てるでしょう。」とそう言った。 景行天皇はこの案を採用し、「熊襲八十梟帥」の「二人の娘」を呼び寄せた。 

 すると「姉」は景行天皇へと〝兵士と酒を用意する〟よう求めてみせると、「父」へと酒を飲ませては酔い潰し、兵を呼んでは「父」に対してトドメを刺させてみせていた。 

 景行天皇は〝この事〟を「悪である」と考え遣ると、「姉」を誅して、「妹」を「火国造(ヒノクニノミヤツコ)」へと与えてみせてくれていた。 

※(これは「五ヶ瀬川水系」での話であろうと考えている。 けれども「日向」→「高千穂」→「阿蘇」へのルートは「天孫降臨」の際にニニギが通った道であり、つまりは延岡(日向)へと流れ込む「北川」を遡る、「延岡」→「豊後大野」ルートの話ではないかとも考えている。)


〈癸未20〉


 景行13年、5月、景行天皇は「襲国(そこく)」を(悉く)平定してみせた。 そして幾らかの「時」が過ぎ去った。

※(ここで原文には「高屋宮(タカヤノミヤ)に居して6年になった」とあるが、これは「6ヶ月」の間違いである。) 


 景行天皇は(その間に)「御刀媛(ミハカシヒメ)」と出会い、子供を産ませては「御刀媛」を「日向国造(ヒムカノクニノミヤツコ)」の祖と成した。 


☆計算上、成務天皇(13)はこの年に生まれている。 母親は「八坂入媛(ヤサカイリビメ)」。 また、成務天皇の項によると、「武内宿禰(たけのうちのすくね)」もまた成務天皇と同じ日に生まれているらしい。


☆正始元年?(240年?)、卑弥呼、「魏」へと使者を送る。

※(卑弥呼はこの時、「大陸国(魏)」へと「ヤマト朝廷」の動向を伝えていた可能性がある。)


【西暦243年】


〈丁亥24〉


 景行17年、3月18日~23日、景行天皇、宮崎県「西都市(さいと市)」へと行く。 この時、景行天皇は東を臨みながらに「この国は日の出の方を向いている。」と言った事から「日向(ヒムカ)」と土地に名前が付いた。 

※(この時点で「東」は「日の昇る方角」という「東西南北」の概念が出来上がっている。 しかし「南北」に関しては、「南」は「鹿児島方面」であり、「北」は「下関(北九州)」という向きがある。 また、ここで言う「日向(ヒムカ)」とは「日向(延岡)~西都」らへんの「宮崎県東海岸〝全部〟」であると考えている。)



【西暦244年】


〈戊子25〉


 景行18年、3月、景行天皇は「筑紫国(九州・福岡?)」を巡ってから「京(奈良? もしくはミヤコ?:福岡県京都郡)」へと向かおうかしらと考えて、「夷守(ヒナモリ・宮崎県小林市)」へと向かい遣る。


 4月30日~5月1日、景行天皇は「熊縣(クマノアガタ・熊本県球磨郡人吉市OR球磨村)」へと到着する。 この時、「兄熊(エクマ)」の弟の「弟熊(オトクマ)」が従わなかったがその為に「弟熊」の事を討ち取った。  


 5月5日、景行天皇は「球磨川」を道なりに下りながらに(佐敷川へと移動をしては)「葦北(佐敷)」の「小島」へと到り遣る。 

※(この「小島」の名前は「水嶋」と言うのだが、その場所は不明であり、「水島」という地名は現在も「球磨川」を下って行った先にある「八代市」にあるのだが、残念ながらにその場所は「島」では無い。 であれば「天草諸島」のいずれかの島か、近くの名も無い「小島」であるか?) 


 5月30日、景行天皇は船を出しては「葦北(天草葦北)」を立ち去ると、日は没しては岸が見えなくなっていた。 しかしこの時、遠くに「火の光」が見えていて、景行天皇はその方へと進むよう言い遣った。 暫くすると岸へと着き、「ここは何処か?」と尋ねると、「ここは八代である。」と地元の人はそう言った。 続けて「さっきの火の光は誰の仕業か?」と尋ねるが、けれどもそれを知る者は唯の一人も居なかった。 このエピソードが切っ掛けで、この地に「火国」と名が付いた。 

※(この「火」はいわゆる「不知火(しらぬい)」であるのだが、「不知火」は「蜃気楼」であるらしく、「5月」に発生した可能性はとても低いと思われる(季節が合わない)。 これも「年表の誤差」による影響であろうと思われる。)


 6月29日~30日、景行天皇は「高來縣(タカクノアガタ・長崎県諫早市)」から「玉杵邑(タマキナノムラ・熊本県玉名市)」へと船で渡り、そこに居た「土蜘蛛」の「土蜘蛛津頬(ツチグモツツラ)」を倒し遣る。

※(この後、景行天皇は「阿蘇」へと向かって行くのだが、私は〝「玉名」へと注ぐ「菊地川」を遡り、「和水(なごみ)」→「山鹿」→「(支流である合志川を遡りながらに南下)」→「合志」→「(陸地を南下して白川水系へと入る)」→「(白川を東へと遡る)」→「阿蘇」という順路〟で移動をしたものだと考えている。)  


 7月7日、景行天皇は「阿蘇」へと入る。 この時、人の姿が見えなかったので「ここには誰も人は居ないのか?」と景行天皇が尋ねたところ、「阿蘇山(阿蘇都彦神)」と「根子岳(阿蘇都媛神)」が人の姿へと変じては「何を言っている? 人ならココに二人居るだろう?」と冗談めかして言い遣った。 ・・・つまり、「阿(山・岳)」が「蘇した(人へと姿を再生した)」事から「阿蘇」とこの地に名が付いた。  

※(もしくは「人ならココに二人居るだろう?」という言葉に対して「あっそう(あ、そうですか)・・・」と呆れ気味に言い遣った景行天皇の言葉から「阿蘇」と名前が付けられた? ちなみにこの「阿蘇」は「日本神話」では「膂宍之空国(ソシシノムナクニ)」と表現してある。 「膂宍之空」の意味は「中身が詰まっていない」という意味であり、これは「阿蘇のカルデラ」から付けられた呼称である。 また「筑紫」には「福岡」の他に「九州」の意味があるように、この「膂宍之空国」もまた「阿蘇」以外に「九州」を指す場合がある。)


 7月14日~16日、景行天皇は「筑紫後国(ちくしのみちのしりのくに)」の「御木(ミケ・福岡県三池郡大牟田市)」へと入る。 「御木」の名前の由来は〝この地に大きな御神木が立っていた〟事による。  


 7月17日、景行天皇は「八女縣(ヤメノアガタ・八女市)」へと到る。 この後、景行天皇は(「星野川」を遡って)「藤山(八女市星野村藤山)」を越えて「粟岬(アワノミサキ・鷹取山?)」から南を臨んだ。 

※(この「岬(みさき)」は「陸地が海へと突き出た所」の意味ではなくて「山(やま)の甲(かぶと)」、つまりは「山頂」や「山峰(やまお)」「岫(みね)」の意味だと考えられる。 ちなみに「陸地が海へと突き出た所」を意味する漢字は「碕(サキ)」であり、天孫降臨の際には「笠狭之碕(かささのみさき)」という表現を持って登場している。) 


 「南」を見遣った景行天皇は広がるパノラマを見ながらに「この山に居る神様の名前は何と言う?」と尋ねると、「水沼縣(ミヌマノアガタ・場所不明)」の「猿大海(サルオオミ)」という人物が「八女津媛(ヤメツヒメ)です。」と答えてみせた。 これが「八女国」の名前の由来となっている。 

※(この時点で「東西南北」の方角は「今と同じ概念」へと変化をしている可能性がある。 但し「緯度経度」の概念は無かったものだと考えている。)  

※※(ここに出て来る「猿大海(サルオオミ)」は、かつて「天孫降臨」の際にニニギを案内した「サルタヒコ」と関係があると一般的には考えられているらしい。 ちなみに近くにある「大分県日田市」は「日本神話」で言う所の「天の八衢(あまのやちまた)」である。)


 8月、景行天皇は(巨瀬川を下って行って?)「的邑(イクハノムラ・福岡県うきは市)」へと到着する。 その日、食事係が「盞(うくは・杯の古語)」を〝遺忘(いぼう・忘れる)してしまう〟という事件が起きた。 そこでこの土地に「ウクハ」と名前が付いたのであるのだが、「筑紫俗(福岡弁)」の影響により言葉が訛ってしまっては、今では「イクハ」となっている。  


〈己丑26〉


 景行19年、9月11日~20日、景行天皇は「九州の東海岸部(日向?)」へと到る。 記述は特に無いものの、景行天皇はこの後「奈良」へと帰って行っている。

※(状況的に「うきは」→「日田」→「九重」→「由布」→「大分」→「豊後大野」→「延岡(or日向)」のルートか、「うきは」→「日田」→「南小国」→「阿蘇」→「高千穂」→「延岡(or日向)」の「天孫降臨逆順ルート」であろうと考えている。 また、景行天皇は「うきは」から〝「福岡(筑紫)」へと行ったかどうか〟は不明であり、「日向(ヒムカ)」へと戻って後に、「奈良」へと帰って行ったものだと考えている。しかし、景行天皇が〝立ち寄ったとされる場所〟は「佐賀」や「長崎」、「福岡」に幾つも存在しており、その順路は正しくは分からない。)


☆正始四年(243年)十二月、卑弥呼、「魏」へと再び使者を送る。

※(景行天皇が「奈良」へと戻って直後、卑弥呼は「魏」へと使者を送っている。)


【西暦245年】


〈庚寅27〉


 景行20年、2月9日~11日、景行天皇は娘の「五百野皇女(イオノノヒメミコ・大碓、小碓の妹)」に「天照大神(アマテラスオオミカミ)」を祭らせる。 

※(祭らせた理由は〝九州から無事に帰って来られた〟からであり、「九州」と言えば「アマテラス」であるからか? この〝「九州」と言えば「アマテラス」〟という概念(?)は、後の仲哀天皇・神功皇后の時にも現れている。)



【西暦247年】


〈乙未32〉


 景行25年、7月19日~25日、景行天皇は「武内宿禰(たけのうちのすくね)」を「北陸」および「関東」へと視察に行かせ、百姓の消息を調べさせる。 

※(この「武内宿禰」が成務天皇と同じ日に〝生まれていた〟とするならば、現在「6歳」という事になる。 これでは視察をするなど無理であり、つまりは「武内宿禰」とは「個人」でもあり「血族」でもあり、今回派遣されたのは「武内宿禰(個人)」の「父(屋主忍男武雄心命:ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)」や「祖父」の類であろうと想像する事が出来る。)



【西暦248年】


〈丁酉34〉


 景行27年、2月19日~25日、「武内宿禰(たけのうちのすくね)≒屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)?」が帰還。 東の「日高見国(ヒダカミノクニ)」には勇敢な「蝦夷(えみし)」という存在が居る事を報告して来た。 

※(「蝦夷」はその体に「刺青(いれずみ)」を入れているらしい。 しかしこの「刺青」、実際は〝ボディペインティングの類〟である可能性がある。 また、私はこの「蝦夷」とは〝東日本に居る「ヤマト朝廷に叛く者達」〟の総称であると考えている。 その実態は「縄文人(ヒスイ族)」であると考えているが、けれども「南方から船に乗って関東平野へとやって来た者達」であろうとも考えている。)  

※※(ここにある「日高見国」は「関東平野~東北地方」辺りであろうと考えられている。 けれども〝ある書〟によると「日高見国」は「飛騨(岐阜県)」であるとされている。 しかし私は「日高見国」は「茨城県」の「霞ヶ浦周辺地域」であると考えている。)


 8月、(九州の)「熊襲」が再び(ヤマト朝廷へと)反旗を翻す。  


 10月17日~23日、景行天皇はそんな「熊襲」に対して息子の「小碓命(オウスノミコト)」を派遣する。 

※(この時「小碓命」は「16歳」であり、「古事記」によると叔母に当たる「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」により「女物の服?」を授けられている。)  


 12月、(九州の)「熊襲国」へと辿り着いた「小碓命」は髪を解いては〝女装〟をし、酒の席にて「川上梟帥(カワカミタケル)」、別名「取石鹿文(トロシカヤ)」を刺し倒す。 すると今わの際に「川上梟帥」は「小碓命」へと「お前は強い。 故にタケルと名乗るが良い。」と言い遣った。 これ以来、「小碓命」はその名前を「ヤマトタケル」と改めた。 

※(この戦いの舞台は「熊本県」の「玉名」へと流れ込む「菊地川」の上流、「江田船山古墳」「トンカラリン」「チブサン古墳」辺りであったであろうと考えている。 その根拠は「江田船山古墳」から出土した『銀錯銘鉄剣(ぎんさくめいてっけん)』に拠っている。 これには「獲加 多支鹵」と書いてあり、一般的には〝「ワカタケル」と書かれてある〟とされている。 しかしここにある「獲加(カクカ?)」は、その読み方は兎も角としてその意味は〝獲得して加える〟という「動詞」であり、つまりは「獲加 多支鹵」とは〝「多支鹵(タケル)」を獲得して加えた〟という意味である。 つまり、この『銀錯銘鉄剣』は〝「小碓命」が敵を倒して名をヤマトタケルと改めた事〟を「記念して作られた物」ではないかと考えている。 それは「埼玉県」の「行田(ぎょうだ)市」にある「稲荷山古墳」から出土した『金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)』に関しても同じであり、これもまた「ヤマトタケルの事績を記念して作られた物」ではないかと考えている。 ただしこれらは〝後年に作られた物である可能性〟がある。 例えば「景行天皇がヤマトタケルの功績を後世に残そうと思って作らせた」・・・等である。)

※※(仮に私の主張の通りにヤマトタケルが女王「卑弥呼」を倒していたのだとした場合、ヤマトタケルが「九州」へと立ち寄る前に伊勢に居た叔母の「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」から「女物の服」を事前に手に入れていた事にも説明がつく。 「魏志倭人伝」には女王「卑弥呼」は1000人の女官の居る男子禁制の宮殿に居たとされている。 つまり、ヤマトタケルが〝女装をした〟のは〝宮殿へと侵入するのに必要な行為であった〟という事になるのである。 〝髪の毛の長い美少年(16歳)が女装をして女王「卑弥呼」を倒した〟とか、なかなかに滾るお話である。)


 この後、ヤマトタケルは海路にて「ヤマト(奈良)」へと帰りがてらに「吉備の穴海(あなうみ・岡山)」と「難波(大阪?)」へと立ち寄って、「悪神」を倒してみせている。 

※(ちなみに「古事記」では九州を発ったヤマトタケルは「出雲(島根)」へと立ち寄って、〝剣を取り替えてはその後に、相手を倒す〟という事をやっている。 【西暦211年】の項も参考に。)

※※(今回の一連のヤマトタケルの事績は〈丁酉34〉の項にはあるものの、当然「奈良」から「九州」へと向かい「奈良」へと戻るには〝それなりの日数〟が必要になる。 つまりこれらのイベントは父親である景行天皇へと報告をする〝「翌年の2月1日」までに起きた出来事である〟という事を認識しておく必要がある。)



【西暦249年】


〈戊戌35〉


 景行28年、2月1日、「ヤマト(奈良)」へと帰還した「ヤマトタケル(小碓命)」は、事の顛末を「景行天皇(父親)」へと報告した。


☆卑弥呼の没年はこの年(248年)であるらしい。

※(「邪馬台国」の女王、卑弥呼は「ヤマトタケル(小碓命)」に倒された可能性がある。 根拠は3つ。 一つは〝年表が一致している〟事。 二つ目は〝ヤマトタケルが九州へと向かう前に叔母から「女物の服」を手に入れている〟事。 この行動、まるで最初から〝女装する事〟を前提としていたかのようである。 三つ目は〝卑弥呼の墓の大きさ〟である。 「魏志倭人伝」によると卑弥呼の墓の大きさは「周囲を歩いて百歩」だそうである。 墓の形に関する特別な表現が無い事から、この墓は「円墳」か「方墳」であろうと推察出来る。 そしてそのような「大きさ」と「形」に該当する「古墳」は「菊池川流域」に幾つか存在しており、それのどれかが「卑弥呼の墓」ではなかろうかと予想をしている。)

※※(しかし注意をするべき事は〝女王「卑弥呼」の居た場所〟が「魏志倭人伝」に記してある「女王の都」と同じ場所とは限らないという点である。 古代天皇は即位をするたびにその「都」の場所を変えていた。 女王「卑弥呼」が没した後「邪馬台国」は乱れてしまったと「魏志倭人伝」には書いてある。 つまり、よりより女王「卑弥呼」の居た場所が「魏志倭人伝」に記されている「女王の都」のあった場所とは限らない、という話である。)



【西暦255年】


〈庚戌47〉


 景行40年、6月、東の「夷(蝦夷)」が騒がしくなる。


 7月10日~18日、景行天皇はヤマトタケルを蝦夷討伐へと遣わし遣ろうかと考える。 しかしヤマトタケルは「西の征伐で疲れているので兄の大碓命(オオウスノミコト)を遣わしてくれ。」と言う。 景行天皇は納得するが、「大碓命」は怖がってしまい、そこで景行天皇は「大碓命」を「美濃国(岐阜)」へと避難をさせた。 

※(この段階で「東日本・西日本」の概念は出来上がっていたものだと考えている。)  


 10月25日、ヤマトタケルは東へと蝦夷退治の旅に出る。 

※(この時、景行天皇は「吉備武彦(キビノタケヒコ)」と「大伴武日連(オオトモノタケヒノムラジ)」の二人をヤマトタケルの部下として随行させている。)  


 10月27日、ヤマトタケルは「伊勢神宮(三重県)」へと立ち寄って、叔母の「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」より「草薙の剣」を手に入れる。 

※(伊勢までのルートは「宇陀」→「名張」→「(名張川を遡っては出雲川水系へと入り、出雲川を下る?)」→「伊勢」というルートか「(吉野郡吉野町から紀の川水系を遡る)」→「(櫛田川水系もしくは宮川水系へと入る)」→「伊勢」というルートがあると考えている。 いやいや「船」を使って海路にて向かった可能性もあるかも知れない。) 


 ヤマトタケルはこの後、「駿河(静岡)」の「焼津(やいづ)」へと立ち寄って、「相模(さがみ:神奈川県の三浦か横須賀市浦賀辺り?)」へと辿り着く。 

※(この「焼津」の話の時、ヤマトタケルは「王」と表記(表現)されている。 ちなみに「王」とは「天皇ほどではないがそれなりに身分の高い者」に対して付けられている敬称であり、「地方の王」や「王子」等がそれに当たる。 故に「天皇」に対して「王」と称する行為は〝不敬〟に当たり、後の時代の「雄略天皇」が「獲加多支鹵大王」である事などは決して有り得ない事であるのである。) 

※※(また、「相模」までの移動は〝陸路〟では無く「船」である可能性が少なからず存在している。 少なくとも「相模」にてヤマトタケルは「船」を入手している。)


 ヤマトタケルは「船」で対岸の「上総(カミフサ・千葉県房総半島)」へと移動をすると、そいつをグルリと廻っては「陸奥国(ミチノクノクニ・場所不明)」へと入り入る。 

※(「陸奥」はこの当時は「房総半島より東側」であるのか、はたまた「上総・下総を含めた地域(千葉県)」の事を言っているのか分からない。)  


 やがてヤマトタケルは「葦浦・玉浦(千葉県勝浦、九十九里浜?)」を越え遣ると、「竹水門(タケノミナト・利根川の河口にある銚子市?)」にて「蝦夷」の人々と遭遇する。 

※(ここで言う「蝦夷」とは「霞ヶ浦」周辺に住んでいた人々の事だと考えている。 いわゆる「縄文人」、私の言う所の『ヒスイ族』に該当すると考えている一方で、『南方から海を渡って新たに日本へとやって来た人々』であろうとも考えている。 そしてこの「霞ヶ浦」周辺地域こそが「日高見国(ヒダカミノクニ)」であると予想をしている。

 またこの当時、「川の位置」が大きく異なっていては今の姿とは異なっており、この当時の〝ここいら辺〟は「大湿地帯」であった可能性が存在している。)


 ヤマトタケルの乗る船の荘厳さ(?)を見た「蝦夷」の人々は「勝てない」と悟ってみせると、ヤマトタケルに従う事を承諾した。 

※(ヤマトタケルの乗る船には「大きな鏡」が掛けてあったと「日本書紀」には書いてある。 この「鏡」、いわゆる「三角縁神獣鏡」であった可能性が存在している。)

※※(ちなみに『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、景行天皇期に「栃木県の那須(なす)」が『国造』へと定められている。 故にヤマトタケルは栃木県南部や、那珂川水系流域まで立ち寄った可能性が存在している。 その場合、「日高見国」は「那須」であった可能性が存在してくる。)

※※※(ヤマトタケルが「伊勢神宮(三重県)」を出発(10月27日)してからだいぶ経つので、「私の年表」では便宜上、このタイミングにて〝年を越した(現在換算で出発から32日が経過した)〟事になっている。)


〈辛亥48〉


(景行41年?)、「蝦夷」を平定し終えたヤマトタケルは「日高見国(ヒダカミノクニ・茨城県?)」から(陸路にて)帰る事に決め遣ると、「常陸(ひたち・茨城県つくば市)」から「西南ルート」で「甲斐国(カイノクニ・山梨県)」の「酒折宮(サカオリミヤ・甲府市)」へと辿り着く。 

※(この段階で「東西南北」の概念は今とほぼほぼ同じになっていたと考えられる。 「太陽が出て来る方」が「東」であり、「太陽が沈む方」が「西」である。)  


 この時、「越国(コシノクニorエツコク)」と「信濃国(シナノノクニ)」とが未だに〝自分達に従ってはいない〟事を思い出したヤマトタケルは、それらの国の内情を調べてみようかと思い立つ。 

※(『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によると、崇神天皇の時代(西暦182年~215年)に『越国』と『信濃国』は『国造』へと定められている。 けれども今回〝自分達に従っていない〟とあるので、この時点での『国造』とは〝交易関係ではあるものの完全な主従関係というワケではなかった〟と考えた方が良いのかも知れない。 もしくは〝状況が変化した〟という可能性もある。)

※※(また、この「越国」であるのだが、これが「コシノクニ」であったのか「エツコク」であったのかは分からない。 そもそも「コシノクニ」とは〝「近江(琵琶湖)」を越えた(越した)先にある事〟から名前が付けられた「北陸地方」の事であり、一方「エツコク」とは「上越・中越・下越」と今もあるように現在の「新潟県」の事である。 しかし状況的にはこの「越国」、「コシノクニ」である可能性の方が高いと思われる。)


 ヤマトタケルはこの後「相模湖」経由か「奥多摩湖」経由か「駿河」経由なのかは分からないが「武蔵(東京)」へと向かって行っては、そこに流れる「荒川(水系)」を遡って行っては「さいたま」→「行田(ぎょうだ)」辺りへと辿り着く。 

※(この「行田」にある「稲荷山古墳」からは「獲加 多支鹵(カクカタケル・ワカタケル?)」と書かれた『金錯銘鉄剣』が出土をしている。 そしてこの錯銘鉄剣には「十干十二支」表記で「辛亥(しんがい)」年と刻み込んである。 またこの剣には「カクカタケル大王がシキに居た頃・・・」と刻んであるが、「シキ」とはヤマトタケルの曾おじいさんに当たる「崇神天皇」の居所のあった場所である。) 


 ヤマトタケルは「行田」を更に〝陸路〟で北上して「利根川水系」へと辿り着くと、そのまま川を遡り、支流である「烏川(からすがわ)」→「群馬県高橋市(毛野)」→「碓氷川(うすい川)」を遡り、「碓氷峠(うすいとうげ)」を越えてみせては「湯川」を下り、「長野県佐久市」辺りへと辿り着く。 

※(「糸魚川(いといがわ)」産のヒスイの分布を考えるに、想像以上に「碓氷峠」での往来はあったっぽい。)


 そして随伴していた部下の「吉備武彦(キビノタケヒコ)」に「越国(北陸地方or新潟)」の調査を任せると、自らは「信濃(長野)」の調査を開始した。 

※(ここでの「越国」は〝「糸魚川(いといがわ)」周辺〟の事である可能性もあるが、「北陸地方」の可能性の方が高いと思っている。 ちなみに「糸魚川」は「ヒスイの産地」として有名な場所である。) 


 ヤマトタケルは長野市を流れる「犀川(さいがわ)」を遡って「安曇野(あづみの)or松本」へと入っては、恐らく「奈良井川」を南下しては山を超え、「木曽川水系(木曽川)」へと入り入る。 そして、「木曽山脈(中央アルプス)」の西側を流れる「木曽川」を下って行っては「中津川」を経由して、最終的には「美濃(岐阜)」へと辿り着いてみせている。 

※(一般的にはこの〝「安曇野or松本」から「中津川」へのルート〟は、〝「安曇野or松本」から南下して「天竜川水系」へと入って後、川を下っては「伊那」を過ぎ、「飯田」辺りから西へと向かって山(「神坂峠」)を越えて「中津川」へと到った〟という事になっている。)  

※※(「美濃(岐阜)」へと辿り着いたヤマトタケルは、直後に「越国(北陸地方or新潟)」の調査に出向いていた「吉備武彦」と再会を果たす。)


 この後ヤマトタケルは「尾張(愛知)」へと移動をすると、その地にて嫁さんを娶ってみせていた。  

※(「日高見国(茨城?)」を去って「美濃(岐阜)」へと到り、「尾張(愛知)」にて〝嫁さんを娶る〟まで、〝「半年」位は時間が経過しているのではないか?〟と思うので、「私の年表」では便宜上、このタイミングにて「年を越した」事になっている。)



【西暦256年】


〈壬子49〉


(景行42年?)、ヤマトタケルが「尾張(愛知)」にて数ヶ月を過ごしていた頃、「近江(オウミ・滋賀)」の「伊吹山」に〝「荒神」が居る〟という話を耳にした。 ヤマトタケルはこの時、何故かしら「草薙の剣」を嫁さんの家に置いたまま「伊吹山」へと向かって行くと、そこには「大蛇」へと姿を変えた「荒神」がヤマトタケルの事を待ち構えてみせていた。 けれどもヤマトタケルはそれが「荒神」であると気付けずに、「山神」によって起こされた「氷雨」や「濃霧」にやられては「伊吹山」を後にした。 この時ヤマトタケルの体は謎の「痛み」により蝕まれ始めてしまっていては、嫁さんの待つ「尾張(愛知)」へと向かう事なく「伊勢(三重)」へと向かって歩いて行った。 

※(状況的には「伊勢」ではなくて父親の居る「奈良」へと向かう途中にある「伊賀」へと向かったという可能性も存在している。)


 そしてその道中、ヤマトタケルを蝕む謎の「痛み」は甚だしくて、「伊勢or伊賀」へと辿り着く事が出来ないと悟ったヤマトタケルは、父親である景行天皇へのメッセージを「吉備武彦(キビノタケヒコ)」へと託してみせると、静かに息を引き取っていた。 

※(ヤマトタケルの没年齢は「日本書紀」には「30歳」と書いてある。 しかしそれは間違いで、実際には「23~24歳」である。 また「日本書紀」の編纂者達はこのイベントの発生タイミングが〈辛亥48〉であったと考えていたようである。 故にヤマトタケルは「熊襲退治」の時に「十干十二支」が〈丁酉34〉で、その時の年齢が「16歳」であった事から現在の年齢を「16+14(辛亥48-丁酉34)=30歳」と計算をしている。 しかし実際には「14年」ではなくて「7年~7年半」しか経っておらず、故に正しい年齢は「23~24歳」という事になるのである。)


〈癸丑50〉


 景行43年、景行天皇はヤマトタケルが生きて戻らなかった事を悲しんで、その亡骸を墓の中へと葬ると、ヤマトタケルは「白鳥」へと姿を変えては、空へと向かって飛び去って行った。

※(この〝遺体紛失〟は、〝埋葬直後に盗掘にあった〟という事なのかも知れない。)



【西暦257年】


 恐らくこの年の3月10日以降に「仲哀天皇(14)」は誕生している。 ちなみに仲哀天皇はヤマトタケルの最初の嫁さんの2番目の子供である。

※(タイミング的には「伊吹山」へと向かう直前に〝仕込んだ〟ものと考えている。)



【西暦258年】


〈丙辰53〉


 景行46年、8月23日~25日、景行天皇は第二皇后である「八坂入媛(ヤサカイリビメ)」の子供である成務天皇を皇太子に指名する?

※(景行天皇の事績の項では「景行51年」となっており記述が異なっているのだが、恐らくこちらが間違いである。)



【西暦259年】


〈戊牛55〉


 垂仁87年、2月12日~14日、「五十瓊敷命(イニシキノミコト、景行天皇の兄)」は「自分は年を取り過ぎたので神宝(神事)の管理はもうムリだ。」と考えた。 

※(この時、弟の景行天皇は44歳。 父親の垂仁天皇は67歳。) 


 そこで「五十瓊敷命」は妹(オオナカツヒメノミコト)へと仕事を頼もうかとしたのだが、妹は「〝私は手弱女(たおやめ・か弱い)〟だからムリです。」と断った。 仕方がないので「五十瓊敷命」は「物部十千根(モノノベノトオチネ)」へと仕事を任せた。 

※(この「物部十千根」は、以前(31年前)に垂仁天皇の命により「出雲(島根)」へと「神宝(神事)」を調べに行った人物である。 これは「武内宿禰(たけのうちのすくね)」と同じで、「物部十千根」もまた〝「個人」でもあり「血族」でもある〟と考えた方が〝正しい〟のかも知れない。)


〈己未56〉


 垂仁88年、7月23日~28日、垂仁天皇は新羅の王子、「アメノヒボコ」が(42年前に)持って来たという「神宝」を見たがった。 そこでアメノヒボコの「ひ孫」に当たる「清彦(キヨヒコ)」を「但馬(兵庫)」へと派遣をしては、それを持って来させた。

※(【西暦217年】の年表の「※ コメント」には、〝一伝によると「但馬国(兵庫)」では無くて「播磨国(兵庫)」へと献上した〟とあるが、どうやらその「神宝」は「但馬(兵庫)」に存在していたっぽい。)



【西暦260年】


〈辛酉58〉


 垂仁90年、2月19日、垂仁天皇は「田道間守(タジマノモリ)」を「常世の国」へと「橘(たちばな:ミカン?)」を探させに派遣した。 

※(ちなみにこの「田道間守」は「アメノホビコ」の「ひ孫」である「清彦(キヨヒコ)」の子供であるらしい。 ・・・年齢オカシクない?) 


〈辛酉58〉


 景行51年、1月10日~13日、景行天皇の息子である成務天皇と「武内宿禰(たけのうちのすくね)」は景行天皇主催の宴会に参加しなかった。 景行天皇がその理由を尋ねると、成務天皇は「非常時に備え、皆が宴会に出るべきでは無いと考えた。」と答え、景行天皇は納得する。  


 8月23日~25日、景行天皇は第二皇后である「八坂入媛(ヤサカイリビメ)」の子供である成務天皇(19歳)を皇太子へと指名する。

※(成務天皇の事績の項では「景行46年」となっているが、恐らくこちらが正しい。) 


 また、「武内宿禰」を「棟梁大臣(とうりょうだいじん)」に指名する。

※(この「武内宿禰」が(父親の)「屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)」であるのか〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟であるのかは不明である。 けれども私は〝成務天皇と同じ日に生まれた「武内宿禰」〟であると考えている。 また、「棟梁大臣」の詳しい役割は不明だが、「武内宿禰」は成務天皇と〝同じ日〟に生まれている。)



【西暦261年】


〈壬戌59〉


 景行52年、5月21日~22日、景行天皇の嫁さんである「播磨太郎姫(ハリマノオオイラツメ・ヤマトタケルの母)」が没する。 


 7月20日~23日、景行天皇は「八坂入媛(ヤサカイリビメ・成務天皇の母)」を皇后とする。 

※(「私の年表」では景行天皇は現在「46歳」である。)


〈癸亥60〉


 景行53年、8月2日、景行天皇は息子のヤマトタケルが平定した場所を「巡ってみようか」と考えた。 そしてその月の内に輿に乗っては「伊勢」へと入った。


 10月、景行天皇は「上総国(カミフサ・千葉県房総半島)」を過ぎては「淡水門」へと到る。 

※(この「淡水門」は「竹水門(タケノミナト・利根川の河口にある銚子市?)」と同じであるかどうかは不明。) 


 12月、景行天皇は「東国(アズマノクニ)」から帰って来ては「伊勢(三重県伊勢市)」へと辿り着く。

※(記述の内容からこの旅は〝「伊勢」から船で向かった〟ものだと思われる。)



【西暦262年】


〈甲子1〉


 景行54年、9月14日~23日、景行天皇は「伊勢(三重県伊勢市)」を発っては「大和」の「纏向(まきむく)宮」へと帰って来る。


〈乙丑2〉


 景行55年、2月13日~15日、その日、景行天皇より「東山道十五国」の総督の任を給わった「彦狹嶋王(ヒコサシマオウ)」は東へと向けて旅立った。 しかしその道中で「彦狹嶋王」は没してしまい、「東国(アズマノクニ)」の百姓達は悲しんで、その屍(かばね)を盗んで後に、「上野国(コウズケノクニ・群馬)」へと葬してみせた。

※(この「東山道十五国」は「滋賀」→「岐阜」→「長野」→「群馬」→「栃木」の〝陸路〟に属する国であるか? 「関東平野」も含んでいる?)



【西暦263年】


〈丙寅3〉


 景行56年、8月、景行天皇は没した「彦狹嶋王(ヒコサシマオウ)」の子供である「御諸別王(ミモロワケノオウ)」に対して、父親の代わりに「東国(アズマノクニ)」を治めるよう東へと向けて派遣した。 「東国」では「御諸別王」に叛く「蝦夷」もあったりしたが、その悉くを鎮圧しては、その地を統べてみせていた。 「御諸別王」の子孫は今でも「東国」にて暮らしている。


〈丁卯4〉


 景行57年、9月、景行天皇は「坂手池(周囲に竹を張り巡らせた人工池?)」を造る。 


 10月、景行天皇は諸国に対して「田部屯倉(タベノミヤケ・天皇直轄領及びそこで働く労働者、今で言う『国家公務員』の様なもの?)」を設置するよう命令を下した。

※(実はこの「屯倉」・・・、〝「屯(たむろ:軍隊)」の「倉(建物)」〟の意味であると考えている。 今で言う「駐屯地」。 景行天皇は「武力」により〝物事を解決する人〟だった。 そこで各地に「駐屯地」を置く事で、〝にらみ〟を利かせていたのでは、とそう思う。 もちろん「屯倉」の〝読み〟が「宮家」と同じである事も〝単なる偶然ではない〟と考えている。 また、この「屯倉」もまた『国造』の〝前身であった〟とも考えている。)


★西暦263年、大陸国、「蜀(西側中央部)」が「魏(東側北部)」により滅亡する。



【西暦264年】


〈戊辰5〉


 景行58年、2月19日~24日、景行天皇は「近江国(滋賀)」へと行き、「高穴穂宮(タカアナホノミヤ)」にて「3年(現在換算で1.5年)」暮らす。



【西暦265年】


〈庚牛7〉


 垂仁99年、7月28日、垂仁天皇、「纏向宮(マキムクノミヤ?)」にて崩御。73歳。 

※(景行天皇の項では2月に亡くなった事になっている。) 


 12月20日~25日、垂仁天皇を「菅原伏見陵(スガワラノフシミノミササギ)」へと陵葬。


〈庚牛7〉


 景行60年、11月11日~14日、景行天皇、「高穴穗宮(タカアナホノミヤ)」にて崩御。50歳。


〈辛未8〉


 成務1年、1月11日~13日、成務天皇、即位。24歳。 辛未(かのとひつじ)。


〈辛未8〉

(垂仁100年?:垂仁天皇崩御の翌年って事になっている)、3月4日~10日、「田道間守(タジマノモリ)」、「常世の国」から「橘(ミカン?)」を手に帰って来る。 「橘(ミカン?)」を探しに旅立ってから「10年(現在換算で5年)」経っており、既に垂仁天皇が没してしまっていた為に、「田道間守」は〝仕事が遅くなった事〟を垂仁天皇の墓所の前にて慟哭しては、自ら命を捨て遣った。

※(垂仁天皇と景行天皇が〝同じ年に没してしまっていた〟とは意外であった。 垂仁天皇はもしかしたら息子の景行天皇の為に「田道間守」に「橘」を探させに行かせていたのかも知れない。 墓の前にて自尽を行うとは大げさな話のようにも思えるが、しかし自ら仕える主が立て続けに亡くなってしまっていたのなら、その行いも大げさというワケでもないのかもしれない。)


★西暦265年、大陸国、司馬炎、「魏(東側北部)」に代わり「西晋」を建てる。



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