第4話 第11代天皇「垂仁天皇」 西暦216年~



【西暦216年】


〈壬辰29〉


 垂仁1年、1月7日~8日、垂仁天皇、即位。24歳。 壬辰(みずのえたつ)。


 8月21日~26日、崇神天皇が「大和」の「山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)」にて陵葬される。


〈癸巳30〉


 垂仁2年、2月、垂仁天皇は「狭穂姫(サホビメ)」を皇后とする。 


 10月、垂仁天皇は都を「纏向(マキムク)」に遷し、「珠城宮(タマキノミヤ)」を造る。 

 また、「任那(ミマナ・加羅国)」の「ソナカシチ」が国へと帰ると言い出したので、垂仁天皇は「赤絹100匹」をプレゼントとして与えるが、その道中、新羅の人間がこれを奪ってしまい、この二国の憎しみはこの時に始まったものらしい。 

※(ここにある「匹」は〝反物の単位〟の事である。 しかし「蚕の数」という事も考えられる。 いずれにせよ驚きなのは、この時点で日本には〝養蚕が存在していた〟という事実である。)

※※(また、「ソナカシチ」と〝同一人物〟と考えられている「ツヌガアラシト」の一伝によると、「任那」は元々「加羅国」という名前の国であったが、垂仁天皇と別れる際に、「アナタの国の名前を崇神天皇の本名である〝御間城(みまき)〟から取って付けるが良いだろう。」と言われて、そこから「御間城(みまき)」→「任那(ミマナ)」へと変わったという事が書かれてある。)

※※※(ここにある「纏向」とは「奈良県」の「纏向遺跡」の事であろうと思われる。 ちなみに垂仁天皇の子供である景行天皇の居所もまた「纏向」である。)



【西暦217年】


〈甲牛31〉


 垂仁3年、3月、新羅の王子、「アメノヒボコ」が日本へと帰化する為に色んな物を持って来て、「但馬国(たじまのくに・兵庫)」はそれらを「神宝」として蔵の中へと仕舞い遣る。 

※(一伝によると「但馬国(兵庫)」では無くて「播磨国(はりまのくに・兵庫)」へと献上したとされている。)

※※(ちなみにこれより42年後、アメノヒボコの「ひ孫」に当たる「清彦(キヨヒコ)」に垂仁天皇は「神宝(神物)」を持って来るよう命令し、43年後には、「清彦」の子供である「田道間守(タジマノモリ)」に「常世の国」へと「橘(ミカン?)」を探しに行かせる事になる。)


〈乙未32〉


 垂仁4年、9月12日~23日、垂仁天皇の「嫁さん(狭穂姫・サホビメ)」の兄である「狭穂彦(サホビコ)」が、天皇の暗殺話を妹に対して持ち掛けた。



【西暦218年】


〈丙申33〉


 垂仁5年、10月8日、垂仁天皇は「嫁さん(狭穂姫)」の告白により自身の暗殺計画を知った。 垂仁天皇は謀反者である「狭穂彦(サホビコ)」の城を攻め遣ると、「嫁さん(狭穂姫・サホビメ)」は火を掛けられたその城へと自ら入って行っては垂仁天皇へとこう言った。 「私の罪は許されない。 私はアナタの恩を忘れない。 出来る事ならば『丹波(兵庫・京都)』の『五女』をアナタの『后宮(こうぐう・次の嫁さん)』として下さい。」と。 そしてその直後、城は崩れ落ちてみせていた。

※(状況的に「丹波の五女」は既に「奈良」へと呼んでいたものだと思われる。 また、「五女」の一人である「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」と垂仁天皇との間の子供である景行天皇はこの時「3歳くらい」であると考えている。)



【西暦219年】


〈戊戌35〉


 垂仁7年、7月3日~6日、「當麻邑(タギマノムラ)」に住む「當摩蹶速(タギマノクエハヤ)」という人物が〝力比べをしたがっている〟という話を垂仁天皇は耳にした。 すると臣下の一人が「出雲には野見宿禰(ノミノスクネ)という勇士(イサミビト)がいる。」と話すので、垂仁天皇は「倭大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)」の司祭である「長尾市(ナガオチ)」を送っては、「野見宿禰」を呼び寄せた。 両者、「?力(スマヒ・すもう)」を取っては戦ってみ遣ったその結果、「野見宿禰」が勝利をしては、「野見宿禰」は「當摩蹶速」の土地(「當麻邑」)を手に入れた。



【西暦220年】


★西暦220年、大陸国、曹操没す。 「魏(東側北部)」が建つ。 首都は洛陽。



【西暦221年】


★西暦221年、大陸国、劉備、「蜀(西側中央部)」を建てる。



【西暦222年】


★西暦222年、大陸国、孫権、「呉(東側南部)」を建てる。



【西暦223年】


〈丙牛43〉


 垂仁15年、2月26日~3月1日、垂仁天皇は「丹波(兵庫・京都)」の「五女(5人の女)」を呼び寄せる。 


 8月10日、垂仁天皇は「五女」の一人、「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」を皇后(后宮)とする。 

※(第12代天皇である景行天皇は「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」の第2子であるのだが、このタイミングでは既に景行天皇は生まれている(現在8歳)と考えている。 つまり、ここの「垂仁即位15年」は「垂仁15歳」か「垂仁立太子15年」の間違いであろうと考えている。 但し日葉酢媛を〝皇后とした〟のはこのタイミングであるかも知れない。)



【西暦227年】


〈甲寅51〉


 垂仁23年、9月2日、燃え盛る城の中へと身を投じて没した前皇后である「狭穂姫(サホビメ)」の息子、「誉津別命(ホムツワケノミコト)」は、顎鬚が鎖骨まで伸びて、歳は30にもなるのだが一切言葉を話さなかった。 しかし〝知らない鳥〟を見たある日の事、「あれは何や?」とクチにした。 

※(この時の垂仁天皇は「35歳」であったと考えている。 なので誉津別命が「30歳」というのはオカシイ。 ちなみに狭穂姫を皇后とした216年から、まだ「11年」しか経っていない。 実際には「10歳」であり、〝顎鬚〟ではなくて〝髪の毛が肩まで伸びた〟であるかもしれない?)



【西暦228年】


〈丙辰53〉


 垂仁25年、2月27日~3月1日、垂仁天皇は〝人を豊かに天下太平を成していた〟先代の崇神天皇に倣っては、〝神を敬う事〟を心得た。  


 3月12日~17日、垂仁天皇は「倭姫命(ヤマトヒメノミコト)」に命じて「アマテラス(天照大神)」を祭るに〝最適な場所〟を探させた。 

※(結果的に「伊勢」にて祭る事になるのだが、その理由は「常世の浪」、つまりは南からの〝「黒潮(日本海流)」が打ち寄せる場所であるから〟であるらしく、この事より当時は〝当たり前のように台湾やフィリピンあたりまで海上貿易を行っていた〟と考えるのが妥当であるように思われる。 また、伊勢にて祭るまでは紆余曲折あっては転々としており、故に「一時的にせよ祭られていた場所」の事を「元伊勢」と後年呼んでいる。)


〈丁巳54〉


 垂仁26年、8月8日~9日、垂仁天皇はこう言った。 「何度も出雲へと人を遣ってはみたものの、『出雲の神宝(神事)』がどの様なモノであるのかをハッキリと分かる者は誰もいない。 そこで『物部十千根(モノノベノトオチネ)』よ、お前は出雲に対して向かっては『神宝(神事)』を検めて(あらためて)みせて来い。」と。 


 この後、出雲へと向かった「物部十千根」は垂仁天皇のもとへと帰って来ると、その詳細を伝えてみてはその後に、垂仁天皇は令を出しては『神宝(神事)』の掌握をしてみせた。 

※(この項は「垂仁天皇が出雲の宝を(物理的に)手に入れた」と訳せるが、けれども〝翌年の事績と繋がっている〟場合、「出雲式神事を掌握した(理解した)」である可能性はあると思う。)



【西暦229年】


〈戊牛55〉


 垂仁27年、8月5日~8日、その日、「祠宮(カムヅカサ・神官?)」が〝「兵器(武器)」を「神幣(かみぬさ・神への捧げ物)」として良いか〟を占ったところ、「吉」と出た。 そこで弓矢や「横刀(鉄剣?)」を「神の社」へと納めては、「神地(しんち・境内)」と「神戸(じんこ:社殿?・かんべ:神職?)」を定めてみせた。 〝兵器を神へと祭る〟というやり方は、この時生まれたものである。 

※(この話、なんとも唐突な話であるよな気がしてる。 〝武器を神への捧げ物とする事の良し悪し〟を急に占ったりはしないだろう、と。 けれどももし、「前年の事績」と今回の話とが〝連続している〟のであったのならば、『出雲の神宝』とは『出雲式神事』の事であり、〝垂仁天皇は「出雲式神事」がどの様なものであるのか知りたがり、「物部十千根(モノノベノトオチネ)」にそれを調べさせた〟という事であり、今回、既存の「神事」に〝「出雲式様式」を取り入れた〟という話になる? もしくは単純に〝出雲の「神宝(武器)」を捧げ物としてみせた〟のか?)

※※(「神社」の〝ひながた〟が確立したのはこの時分より44年前の【西暦185年】、「崇神7年」の事であろうと考えている。 そしてここに来て「神の社」という言葉が出て来てる故、一般的に言われているように「神戸」は「かんべ・神職」である可能性が高い? ・・・となると、そもそも「神社」とは〝「御神体」+「境内」+「神職」〟で構成されたモノであり、このタイミングにて〝「御神体」+「境内」+「神職」+「神幣(かみぬさ・神への捧げ物)ⅰN本殿」〟となったと考えてみるのが適当か?)


 またこの年、(橿原の)「來目邑(クメノムラ)」に「屯倉(みやけ・天皇直轄領及びそこで働く労働者、今で言う『国家施設』?)」が出来た。 

※(この時代の「屯倉」は「神社」と関係している可能性が存在している・・・・?)


〈己未56〉


 垂仁28年10月2日~4日、(垂仁天皇が37歳の時、)垂仁天皇の弟の「倭彦命(ヤマトヒコノミコト)」、没する。 


 11月17日~17日、「倭彦命」、「身狭桃花鳥坂(ムサノツキサカ)」へと陵葬される。 この時、倭彦命の「近習(きんじゅ・仕える者)」の悉くを陵域へと埋め遣るが、数日生き続けては昼も夜をも泣き喚く。 やがて朽ちては鳥獣集いてソレを食う。 これに対して垂仁天皇は心を痛めて、「古い習慣だからといって生前仕えていた者を共に葬る事は悲しい事だ。 故に今よりこれを改めて、代わる手段を模索せよ。」と部下に対して伝えてみせた。  

※(〝埋める〟という行為が、〝(対象へと)捧げる〟という行為であった場合、「殉葬」もまた〝(対象へと)捧げる〟という行為であったのかもしれない。 この風習が「東南アジア」か「大陸国」から来たのか等は分からない。)



【西暦230年】


〈辛酉58〉


 垂仁30年、1月28日~2月1日、垂仁天皇は子供達に「欲しいもの」を尋ねた。 「五十瓊敷命(イニシキノミコト、景行天皇の兄)」は〝弓矢が欲しい〟と答え、「弟(景行天皇)」は〝皇位が欲しい〟と答えてみせた。



【西暦231年】


〈癸亥60〉


 垂仁32年、7月6日~8日、垂仁天皇の嫁さんの「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」、没する。 「殉葬(生前仕えていた者も一緒に埋める事)」を嫌う垂仁天皇に対して、出雲出身の「野見宿禰(ノミノスクネ)」は「人の代わりに人型や馬型等の埴輪を埋葬する事」を進言してみせて来た。 このアイディアを聞いて垂仁天皇は喜んだ。 


 後日、垂仁天皇は「出雲(島根)」の「土部(ハジベ)」100人に埴輪を作らせて、野見宿禰は「土部連(ハジベムラジ)」の祖となった。

※(野見宿禰は「當摩蹶速(タギマノクエハヤ)」という力自慢と「?力(スマヒ・すもう)」を取った人物である。 文武両道を極めし者? 出世し過ぎ。)

※※(この項には「人型や馬型等の埴輪」の話が出て来るが、注意すべきは〝この時に埴輪が生まれたワケでは無い〟という点(事)である。 少なくとも「円筒埴輪は既に存在していた」、「人型や馬型等の埴輪は既に存在していたが、人の代わりとして埋葬したのは今回が初めてである」という可能性を留意すべきである。)



【西暦232年】


〈乙丑2〉


 垂仁34年、3月1日~2日、垂仁天皇が「山背(ヤマシロ)」へと行くと、その地で美人と会ったので、その人を妻へと加えてみせた。

※(「小碓命(オウスノミコト)」、つまりは「ヤマトタケル」が【西暦248年】に「16歳」であるとするならば、このタイミング(景行天皇17~18歳)に生まれた事になる。)



【西暦233年】


〈丙寅3〉


 垂仁35年、9月、垂仁天皇は「五十瓊敷命(イニシキノミコト、景行天皇の兄)」を「河内国(大阪)」へと派遣して2つの「農業用溜め池」を造らせた。 


 10月、垂仁天皇は「倭(奈良)」に2つの「農業用溜め池」を造る。 また諸国に命じては800もの「池溝(ウナテ・田に引く用水用の溝)」を作らせてみる事で、百姓は富んでは天下太平となっていた。



【西暦234年】


〈戊辰5〉


 垂仁37年、1月8日、垂仁天皇は景行天皇(12)を皇太子へと指名する。19歳。 

※(注釈にある「時年廿一」は間違い。)



【西暦235年】


〈庚牛7〉


 垂仁39年、10月、「五十瓊敷命(イニシキノミコト、景行天皇の兄)」は1000の剣を作っては「石上神宮」へと納め遣る。 垂仁天皇はこの後、「五十瓊敷命」に対してコレの管理を任せている。 

※(これは「五十瓊敷命」を〝「石上神宮」の神主に任命した〟という意味なのかも知れない。)


〈辛未8〉


 景行1年、7月3日~8日、景行天皇、即位。21歳。 辛未(かのとひつじ)。

 この時、「元号を改めた」とあるので、垂仁天皇は〝生前退位を行った〟という事になる。 ちなみに垂仁天皇は現在43歳である。

※(「生前退位」は〝イザナギの存命中にアマテラスが一族の長となっていた〟前例があるように、〝それほど特別な事ではなかったのではないか〟と考えている。)


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