第3話 第10代天皇「崇神天皇」 西暦181年~




【西暦181年】


〈癸未20〉(神武己卯16)=(綏靖己卯16)


 神武天皇の九州で出来た子供である「手研耳(タギシミミ)」と奈良にて産まれた子供である「崇神天皇(綏靖天皇?)」との間で後継者争いが起こる(起きる)。 

※(〝神武天皇が皇太子へと指名された翌年(143年)に手研耳が生まれていた〟とした場合、「手研耳」は現在38歳という事になる。 ちなみに「崇神天皇(綏靖天皇?)」はこの時19歳である。 この争いは翌年(半年後)には決着している。)



【西暦182年】


〈甲申21〉(綏靖庚辰17)=(崇神甲申21)


 崇神1年、1月10日~16日(1月5日~8日)、崇神天皇(綏靖天皇?)、即位。19歳。 甲申(きのえさる)。

※(ちなみに「崇神天皇(10)」の先代である「開化天皇(9)」は即位前年の4月に亡くなった事になっている。 開化天皇は〝母方の系譜〟である可能性がある? その場合、「綏靖天皇(2)」の即位年は「西暦マイナス60年」となる。)

※※(「綏靖庚辰17」と「崇神甲申21」とで「十干十二支」が〝ズレている〟のは「十干十二支」が〝『日本書紀』編纂時に後付けされた年号〟であり、〝欠史八代が実在していた〟という〝前提による「差」〟故であろうと考えている。)



【西暦183年】


〈丙戌23〉


 崇神3年、9月、崇神天皇、「磯城(シキ)」の「瑞籬宮(ミズカキノミヤ)」へと遷都。



【西暦184年】


〈戊子25〉


 崇神5年、疫病が流行り、多くの人が亡くなる。


〈己丑26〉


 崇神6年、疫病を治したいと考えた崇神天皇は娘の一人に「アマテラス(天照大神)」を祭らせて、もう一人の娘に「倭大国魂神(日本大国魂神・ヤマトノオオクニタマノカミ)」を祭らせようとするのだが、娘の髪の毛は抜け落ちては痩せ細り、その神を祭る事は叶わなかった。 

※(この「倭大国魂神」は「銅鐸族」の最高神であり、西の最高神「アマテラス」と〝対になる存在である〟と考えている。 それ故「ヤマト」とは「奈良もしくは本州全土」という意味であったのだろうと考えている。)

※※(と言うかこの時の崇神天皇の年齢から考えて、〝娘に神を祭らせた〟というのは〝難しいものだ〟と考えている。 これは「娘」では無くて「妹」とかではないのだろうか?)


★西暦184年、「大陸国(後漢)」、張角を首領として「黄巾の乱」が起こる。



【西暦185年】


〈庚寅27〉


 崇神7年、2月7日~14日、崇神天皇は「私の治世に災いが起こるのは何故だろう?」と考えて、「神淺茅原(カムアサジハラ)」の八百万の神へと問うてみた。 すると崇神天皇の親戚である「倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」の体に神が降りては「何を憂いている? 私を祭れば自ずと国が治まるぞ?」とそう言った。 そこで崇神天皇は「あなたは何者だ?」と尋ねると、「私は大物主(大物具主)の神である。」と答えてみせた。 後日、崇神天皇は言われた通りに「大物主神(大物具主)」を祭ってみせた。 けれども状況は変わらずで、そんなある日に崇神天皇は夢を見た。 そこには「大物主(大物具主)神」を自称する神が現れていて、「上手く行かないのは私の意思に因るものだ。 もしも私の子供の『大田々根子(オオタタネコ)』に私の事を祭らせたれば、全ては収まり、また海外の国々が自ら伏して来るだろう。」とそう言った。 


 8月20日~23日、崇神天皇の知り合いの3人が崇神天皇に対して「3人とも同じ夢を見た」と言って来た。 その夢の内容はというと「『大田々根子』に『大物主(大物具主)神』を祭らせて、『長尾市(ナガオチ)』には『倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)』を祭らせれば天下は太平になる。」というものだった。 そこで崇神天皇は「大物主(大物具主)神」の子供であるという「大田々根子」と「長尾市」を探してみせる事にした。 


 11月2日~8日、崇神天皇は「大田々根子」に「大物主(大物具主)神」を祭らせて、「長尾市」には「倭大国魂神」を祭らせた。 更にこの後、八百万の神様を祭っては、「天社(あまつやしろ)」「国社(くにつやしろ)」及び「神地(しんち)」「神戸(じんこ)」を定める事で、病は収まっては五穀は実り、百姓達は豊かになった。 

※(ここにある「天社」「国社」は「天津神の社であるか国津神の社であるかの種類の別」、もしくは「上下関係の別」であろうと考えている。 また、「神地」は「境内(境界)」を、「神戸」は「社殿(神の家)」の事ではないかと私は考えている。 つまり、この頃に今で言う「神社」の〝雛形のようなもの〟が成立したものだと考えている。 しかし一般的に「神戸(かんべ)」は「神職(またはその従事者)」の事であるらしい。 うぬぬ・・・。)

※※(ちなみに奈良県にある『東大寺山古墳』から『中平銘鉄刀(ちゅうへいめいてっとう)』と呼ばれている「象嵌刀(ぞうがんとう)」が見つかっているのであるのだが、ここに刻まれている『中平』というのは〝「後漢(大陸国)」の「霊帝(れいてい)」〟の元号であり、その期間は【西暦184年~189年】である。 またこの象嵌刀には銘文が刻まれているのであるが、それは『天上では神の御意に叶い、下界では災いを避ける事が出来た。』という内容である。 記述の細かな違いはあれど「言っている事は同じ」である。 私はこれは〝崇神天皇が色んな神様を祭っては疫病を治した〟事を記念して造られた物であろうと考えている。 そしてこの『中平銘鉄刀』の存在が「私の年表」が正しいという〝物質的な根拠〟となっている。)


〈辛卯28〉


 崇神8年、4月19日~26日、崇神天皇は「高橋村」の「活日(イクヒ)」という名の人物を「大神(オオミワ)」の「掌酒(サカビト)」とする。 

※(ここにある「大神」は「アマテラス(天照大神)」の事であるのか?)


 12月17日~26日、崇神天皇は「大田々根子(オオタタネコ)」に「大神(オオミワ)」を祭らせて「三輪君(ミワノキミ)」等の祖と成した。 

※(ここに出て来た「大神」は「アマテラス(天照大神)」ではなくて「大物主(大物具主)」の事であるのか? であれば「大物主」は「天照大神」、「倭大国魂神」と並ぶ存在なのか?)



【西暦186年】


〈壬辰29〉


 崇神9年、3月1日~8日、崇神天皇の夢の中に神様が現れる。 


 4月16日~23日、崇神天皇は夢のお告げ通りに「墨坂神(スミサカノカミ)」と「大阪神(オオサカノカミ)」を祭る。


〈癸巳30〉


 崇神10年、9月12日~16日、崇神天皇は〝神様を祭れば幸せになれる事〟を皆へと知らせようと、「大彦命(オオビコノミコト)」ら「四道将軍(しどうしょうぐん)」を北陸・東海・西道(山陽)・丹波(兵庫・山陰)へと派遣する。 

※(ここの「東海」は「東山」・・・つまりは「東山道(秩父・上毛野・信濃)」の間違いであろうと考えている。 その根拠は『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』には崇神天皇の時世の頃に『国造(くにのみやつこ)』へと指定をされた地域が「東海」ではなくて「東山道」である事によっている。)


 9月25日、大彦命は北陸から奈良へと戻る際、不思議な童女と遭遇する。 童女は「崇神天皇は命を狙われているとも知らずに姫と遊んでいるばかり。」と歌を詠む。 大彦命は何事かしらと尋ねるが、童女は「私は歌を歌っていただけです。」と答えて後に姿を消した。 大彦命はこの事を崇神天皇へと伝えると、未来を見通す事の出来る「倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」の助言もあって、崇神天皇は即座に準備をしてみせた。 


 後日、「武埴安彦(タケハニヤスヒコ)」と妻の「吾田媛(アタヒメ)」が崇神天皇へと謀反を起こすが、崇神天皇はこれを即座に鎮圧してみせていた。


 それから幾らか経って後、「倭迹々日百襲姫命」は「大物主(大物具主)」と結婚した。 

※(神様と〝結婚出来た〟という点は意味不明であるが、〝後に祭られる事になった偉い人〟の事であろうかと解釈している。)


 この「倭迹々日百襲姫命」は没後、「箸墓(ハシハカ)」へと埋葬された。

※(「倭迹々日百襲姫命」は〝没した〟とあるが、〝このタイミングで没した〟というワケではないと思われる。) 


 10月26日~11月7日、崇神天皇は畿内に反逆者が居なくなった事から、今度は「海外」へと「四道将軍」を派遣した。 

※(ここでの「海外」は「四国」と「九州」であると思われる。 ちなみにこの「四道将軍」が派遣をされた先々は『先代旧事本紀』によると〝崇神天皇の時世(御世)に『国造』となった〟とされている場所々々である。 この当時、『国造』という言葉自体は無かったものと思われ遣るが、しかし呼称は兎も角その先々が〝特別な場所〟として認識されていたであろう事は間違い無い様に思われる。) 



【西暦187年】


〈甲牛31〉


 崇神11年、4月25日~5月8日、各地に派遣されていた「四道将軍」は各地の敵を平らげて帰還、国内に安寧をもたらした。


〈乙未32〉


 崇神12年、3月7日~12日、崇神天皇は天皇に即位してから今まで起こった事を振り返る。 


 9月21日~10月13日、崇神天皇は初めて「国税調査」を行っては国力を調べ、(税を取る等して)災害の備えとしてみては天下太平をもたらした。 この事業から崇神天皇は「御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)」と称えられ遣る事になる。 

※(ちなみに崇神天皇はこの時25歳。 う~ん、若いっ!)



【西暦188年】


〈丁酉34〉


 崇神14年、伊豆国、船を献ず。

※(この内容は「日本書紀」には書かれておらず、「半島国」の歴史書『海東諸国紀』の中に書いてある。 「半島国」の人間は「日本書紀の元になった書物(記紀前文書)」を参考にしてこの事績を書いた可能性がある。)



【西暦189年】


★西暦189年、「大陸国(後漢)」、「十常侍(じゅうじょうじ)」、「董卓(とうたく)」、相次いで「乱」を起こす。



【西暦190年】


〈庚子37〉


 崇神17年、7月22日、崇神天皇は「天下を治めるには船を用いる必要がある。 けれども海辺の者達は船を持ってはいないが為に陸路で物品を運ぶ事を強いられている。 故に諸国に令を出し、直ちに船を作らせろ。」と言い遣った。 


 10月、(全国規模での)「造船(造船業)」が開始される。



【西暦192年】


☆計算上、垂仁天皇(11)はこの年に生まれている。 ちなみに崇神天皇の第3子である。



【西暦200年】


★西暦200年、「大陸国(後漢)」、「官渡の戦(かんとのたたかい)」。 曹操が袁紹を破る。



【西暦205年】


〈辛未8〉


 崇神48年、1月8日~13日、崇神天皇は二人の息子の内どちらを皇太子に指名しようか考えあぐねていた。 そこで二人の息子に「夢」を見させて、その内容から判断する事を考えた。 


 4月23日~5月2日、「夢占い」の結果、崇神天皇は垂仁天皇(弟の方)を皇太子へと指名した。 垂仁天皇はこの時13歳。 崇神天皇は43歳。 

また、垂仁天皇の兄の「豊城命(トヨキノミコト)」はこの後「上毛野(かみつけの・群馬)」「下毛野(しもつけの・栃木)」の祖となっている。



【西暦207年】


☆「垂仁天皇15歳(207年)」の時に、垂仁天皇は「五女(5人の女)」を丹波(兵庫・京都)から呼び寄せている可能性がある? 五女の一人、「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」は後に垂仁天皇と結婚して「景行天皇(12代目天皇)」の母親となる。



【西暦208年】


★西暦208年、「大陸国(後漢)」、「赤壁の戦い」。 「蜀」の劉備と「呉」の孫権の連合軍が「魏」の曹操の水軍を破る。



【西暦211年】


〈癸未20〉


 崇神60年、7月17日~23日、崇神天皇は「出雲(島根?)」の「神宝」を求めては、人を遣ってはそれを手に入れた。 この時「神宝」を管理していた「出雲振根(イズモノフルネ)」は「筑紫(九州・福岡?)」に出向いていて不在であった為、自分の不在中に〝宝を渡してしまった〟「弟」の事を恨みに思う。 


 後日、本物そっくりの「木剣」を佩いた「出雲振根」は「弟」を沐浴へと誘い出しては、裸になった所で弟の剣へと手を伸ばす。 弟は兄の剣を手にするが、それは「木剣」であったがその為に、兄に斬り倒されてみせていた。 

※(これとよく似た話が「古事記」の「ヤマトタケル」の項にも存在しており、それは「九州の熊襲を倒したヤマトタケルが奈良へと帰るついでに出雲へと寄った際、そこに居た〝敵〟に対して剣を取り替えっこしては偽の剣を渡して後、相手を叩き斬った」という内容である。)


 この後、「出雲振根」のこの振る舞いが朝廷の耳へと届くと、崇神天皇は「四道将軍(しどうしょうぐん)」の二人である「武淳川別(タケヌナカワワケ)」と「吉備津彦(キビツヒコ)」の派遣をしては「出雲振根」を討伐し遣った。 


 すると(重要な司祭が居なくなったがその為か)出雲の高官(神官?)達は怯えては、暫くの間「大神(アマテラス・天照大神?)」を祭る事を疎かにしてしまっている様だった。 


 そんな時、「丹波(兵庫・京都)」の「氷上」に住む「氷香戸邊(ヒカトベ)」という人物が垂仁天皇(この頃は皇太子)のもとを訪ねては、「私には小さな子供が居るのですが、まるで神託でも受けたかのように、こういう事を言ったのです。」と、そう言った。


 子供の言葉を訳してみせると、何でも出雲の人達は「甘美鏡(ウマシカガミ)」を使っては「大神では無い別の神」を祭っていると言うのである。 


 この話を聞いた垂仁天皇(皇太子)は父親の崇神天皇へとこの事を報告すると、崇神天皇は「その鏡」を使っては「大神(アマテラス?)」を祭るよう命令を下してみせ遣った。

※(ここの「大神」は「大物主神」であるという主張を見た事がある。 正確な事は分からない。)



【西暦212年】


〈乙酉22〉


 崇神62年、7月26日~27日、崇神天皇は「天下とは民を頼りとするものである。 しかし『河内(大阪)』には田んぼが少ないがその為に百姓は農業が充分に出来てはいない。 そこで農業用の溜め池を造ってみようと思う。」とそう言った。 


 10月、崇神天皇は「河内(大阪)」に1つ、「溜め池」を造る。


 11月、崇神天皇は「河内(大阪)」に2つ、「溜め池」を造る。


☆「垂仁立太子15年(212年)」の時に、垂仁天皇は「五女(5人の女)」を丹波(兵庫・京都)から呼び寄せている可能性がある? 五女の一人、「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」は後に垂仁天皇と結婚して「景行天皇(12代目天皇)」の母親となる。 ちなみに現在「垂仁天皇(皇太子)」は20歳。



【西暦214年】


〈戊子25〉


 崇神65年、7月、「任那(ミマナ・加羅国)」が朝貢の為に「ソナカシチ」を派遣する。 

※(この「ソナカシチ」は「加羅国」の王子で「頭から角の生えた人」である「ツヌガアラシト」と〝同一人物である〟と言われたりしているが、〝同一人物〟だと「細かい矛盾」が生じる為、「ツヌガアラシト」に関しては深くは触れないで置いている。 また、ここでは「任那が鶏林(新羅の別称)の南西にある」と書いてはあるが、しかしこの書き方からでは「東西南北」が今の意味での「東西南北」なのかは判断しかねる。)


☆計算上、景行天皇(12)はこの年に生まれている。 

※(ちなみに景行天皇は「日葉酢媛(ヒバスヒメ)」の第2子であるのだが景行天皇の出自によると「3番目の子」となっている。 これは垂仁天皇の最初の皇后である「狭穂姫(サホビメ)」の子供である「誉津別命(ホムツワケノミコト)」が「1番目の子」に指定されている為であると考えている。 また景行天皇は80人をも超える子供を作った人物であったらしい。)



【西暦215年】


〈辛卯28〉


 崇神68年、12月23日~25日、崇神天皇、崩御。53歳。


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