86話 ゼレナの巫女と空駆ける天馬(前)
眼前の空間を埋め尽くさんばかりに襲いくる、<罪深き黒>の無数の槍。
「ふん! はっ! やあ!」
右に突き、左を払い、身を翻してイグナーツの神盾を経由し。
サシャは無我夢中で戦い続ける。【ゾーン】の空間把握に全神経を集中し、双剣で黒槍をまとめて叩き斬っては僅かな活路をこじ開け、好機と見れば強引にでも踏み込んで<罪深き黒>の本体に痛撃を与える。
周囲には深手を負った異界の化け物のおぞましい咆哮がこだまし、サシャたちの背後には、息の根が止まったそれら<罪深き黒>の残骸が穢れた汚泥となって悪臭を放っている。
「使徒殿、管理小屋は跡形もないぞ! だが小奈落が確かにあそこに見えた! もうひと踏ん張りだ!」
「了解っ! さすがに! 手強い! イグナーツさんも! 油断は、禁物で!」
けれども、さすがは太古の神話にすら出てくる化け物というべきか。
サシャの青の双剣で斬れることは斬れるし、その
けれども、サシャが渾身の青の力を込めた一撃でも、死蟲や飛行蟲にお見舞いした時のように爆散するがごとくに燃え上がることはなく。せいぜいが切断面から蒼焔が噴き上がる程度だ。
つまり、無数の黒槍に対処しながら一体一体を手数をかけて斃す必要があり、お陰でサシャたちの歩みはひどく遅い。極度の集中を続けているお陰で早くも疲労は溜まりつつあり、更に言えば、大量の青の力を右から左に消費しているせいで、サシャの視界の端で星が瞬きはじめてもいる。
際限なき猛攻を仕掛けてくる<罪深き黒>の群れの向こう、垣間見えはじめた管理小屋は瓦礫の山と化している。左と奥に僅かに残った壁の残骸が、そこに建物があったと推察させる程度。
だがその瓦礫の中央、石材が山と積み重なっているその上に、予想以上に大きく成長しつつある小奈落が鎮座している。一体また一体と新たな<罪深き黒>を生みだし、その度に少しずつ大きくなっていて――
「くっ、こうまで! 進めないとか! キリがないといえば、ないんだけど!」
大元がスライムのような<罪深き黒>の、一体一体の歩みは遅い。
サシャたちが突入してから、ほとんどその場から動いていないようにすら感じられるほどだ。
だが、その粘液のような体を伸ばして打ち出してくる黒槍。遠くにいても易々と攻撃してくるそれら怒涛の攻撃が、サシャたちの前進を大いに阻んでいるのだ。
しかも。
初めにこの化け物を目にした時は、三十から四十体ほどがいた。
突入して叩きのめされ、イグナーツの神盾に護られていた時には、四十体は確実にいたと思われる。
そして、その後の再突入で前を塞ぐものだけを倒してきたとはいえ、二十近くは屠っている。いるのだが、垣間見えてきた小奈落から同等以上の数が出てきてしまっているのだ。
それらは当然、小奈落に襲撃をかけたいサシャたちの進路を塞ぐ場所に密集している。状況は前進しているのかいないのか、よく分からない状況であった。
そんな状況への焦りがサシャを苛立たせ始めた、その時。
「サシャさま、避けて!」
それは、ここにはいないと思っていた人物の声。
サシャとイグナーツが反射的に飛び退いた、そのすぐ前を。
見覚えのある緑白光の軌跡が、唸りを上げて二人の鼻先を通り過ぎた。
「ヴィオラ姫!?」
「ヴィオラ!?」
それは紛うことなく、神剣レデンヴィートルによる遠距離攻撃だ。
底冷えするような一瞬の静寂。そして緑白の死の大鎌の軌道上にいた<罪深き黒>が、断末魔すらなく軒並み崩れ落ちて汚泥と化していく。
ヴィオラが持つ神剣に宿るのは、古の翠の女神、麗しの
もしかしたらそれは、サシャのヴラヌス由来の青の力が死蟲ら通常の奈落の先兵を容易く葬り去るように、この<罪深き黒>という存在には無類の強さを持っているのかもしれない――
思わずそんなことが疲弊したサシャの脳裏を掠めるほどの、文字どおり圧倒的な威力だった。
それら高次元の存在の間で相性のようなものがあるのかは知らないが、サシャがあれだけ苦労して屠ってきた化け物、それを一撃で十以上も融解せしめたのだから。
眼前で展開した刹那の破壊、それは一瞬で悪臭を放つ汚泥と化した怪物のなれの果てを、さらにじゅうじゅうと泡立たせていく。その中に浮き沈みする無数の目や口が、みるみる歪んで融けているのが分かる。
それはあたかも死という名の破壊が、異質なるものを跡形もなく滅している光景のようで――
「わたくしも戦えと、ゼレナが!」
眼前の破壊の爪痕を呆然と見守るサシャとイグナーツに、勇ましい声が近づいてきた。
それはもちろん、その破壊をもたらした張本人。史上最も神剣レデンヴィートルに愛された、ザヴジェル本家の可憐な姫君だ。
「ヴィオラ?」
「ヴィオラ姫?」
が、振り返ったサシャとイグナーツが二人同時に固まった。
緑白に輝く神剣を振るいながら駆け寄ってくるのが、ヴィオラであってヴィオラでなかったからだ。
小柄で嫋やかな容姿に大きな変化はない。抜けるような白磁の肌に、可憐で控え目な顔立ちも同じだ。
だが、その目が。
ヴィオラの瞳は虎人族の血を濃厚に受け継いだ、金に近い琥珀色だったはず。けれども今のヴィオラの瞳は。
「ヴィオラ、その目は!? 色が――」
そう。
今のヴィオラの瞳は人ならざる、萌えいずる若葉のような色彩に変わってしまっているのだ。それはまさに、彼女が手にしている神剣と瓜ふたつの色合い。
ヴィオラの瞳は、今この瞬間も圧倒的破壊力で周囲を滅し続けている、古の破壊神ゼレナが宿った神剣レデンヴィートルがまとう緑白光と同じ色なのだ。
「麗しのゼレナが! 私の傍に降臨し、力をくださったのです!」
「へ? 力をって――」
「今のわたくしはゼレナの巫女! サシャさま、いえ<ヴラヌスの聖騎士>さま! 共にこの
「え、ヴィオラ何言って――」
「穢らわしい太古の下僕め!
ヴィオラの言うことはサシャにはさっぱり分からないが、強いていえば何だかヴィオラの神さま理論が実を伴ってさらに進化してしまったような気がしないでもないが、戦闘面で凄まじい進化を遂げているのは事実だ。
サシャとイグナーツがあれだけ苦労をして一体一体屠っていた<罪深き黒>を、ヴィオラは予測不能な無拍子の動きで次々と汚泥に変えていく。
残った<罪深き黒>が狂ったように黒槍を乱出してくるが、それらが殺到するその場所にヴィオラは既にいない。距離でいえばわずか数歩の位置なのだが、予想外の死角へとするりとその身を移動させているのだ。
そして間髪を入れずに振るわれる、緑白に輝く神剣レデンヴィートル。
それは元々ヴィオラが持っていた天賦の武の才が、古の破壊神の力を得て大きく開花したかのような、華やかながらも鮮やかな戦いぶりだった。
そして、結果としてそうやって戦力の均衡が破れれば、サシャとイグナーツも俄然動きやすくなる。今が好機とばかりに自らを奮い立たせて、一気に狂気の化け物を圧倒していく。
「使徒殿、今だっ! 小奈落に突撃するぞ!」
「サシャさま、お供します!」
あれほど猛攻を仕掛けてきていた周辺の化け物群は、ほんの一時の間にほぼ制圧されている。僅かに残った数体の向こうにはシルヴィエが、いつの間にか戻ってきていたエリシュカと合流している姿も見えた。
「よし! 行くぞっ!」
サシャは双剣を斜に構え、猛然とその場から駆け出した。
……今、ここでアレを壊してしまえれば。
何やらエリシュカがシルヴィエに説明していたような身振りからすると、ヴィオラが復活してここに戻ってきた経緯でも伝えているのかもしれない。
……皆、今のところは無事なんだね。
サシャはそのことに胸が疼くような安堵を感じながら、滅するべき小奈落へと流星のように加速していく。そこに至る道筋は、伴走するヴィオラが遠距離攻撃の死の大鎌で滞りなく拓いてくれている。
今は幸いなことに、その不気味な“穴”から新たな化け物が出てきてはいない。<罪深き黒>が出尽くしたのか、次の波の補充をしているのか、襲撃するなら今こそ千載一遇の好機――
「――うわ! そう来るんだ!?」
疾走するサシャが更にその足を速めた。
未だ少し距離のある小奈落から、見覚えのある羽根つき巨大蟻――飛行蟲が堰を切ったかのようになだれ出てきたのだ。
襲撃の好機と思った小奈落の活動停止、それはやはり次の波までの準備期間のようなものだったらしい。初めはムカデの化け物のような、細長い体の死蟲。次に仔牛ほどの大きさの<罪深き黒>が出てきて、今はそれより少し大きい体の飛行蟲が続々と小奈落から這い出してきている。
……つまりは、あの空間の“穴”が今なお着々と成長してるってこと。
サシャの焦りはどんどん強くなっていく。
さすがに邪魔なのか翼を畳んで川のように流れ出てきている飛行蟲は、みるみるうちにその流れを太くしているように見える。
それは今この瞬間にも“穴”が拡がっているということだし、先頭集団はその皮翼を広げて今にも飛び立とうとしているのだ。手の届かない空中に逃れたそれらが、もしそのままファルタの街を襲いでもしたら――
「一匹も逃がすもんか!」
サシャがその飛行蟲の先頭集団までの最後の数歩を大きく跳躍して飛び越え、【ゾーン】を再展開しつつ猛烈な勢いで斬り込んだ。
そして、爆発するかのごとく燃え広がる蒼焔。
先ほど<赤の湿地迷宮>の前の広場でやってみせた、サシャの全力攻撃である。世界から一時的に全ての輪郭を奪うほどの白焔が、怒れる暴竜のように吹き荒れて。
幸いなことに、飛行蟲は死蟲と同様、サシャの青の力にはとことん弱いらしい。あわよくば全部一気に燃えてしまえ――そんな祈りにも似たサシャの全力攻撃が、どうやらものの見事に嵌まってくれたようだ。
が。
徐々に戻りつつあるサシャの視界が、小奈落の前から跳び立つ何匹もの飛行蟲を捉えた。サシャの渾身の一撃から距離があった集団が、青の焔の範囲外のところで辛くも難を逃れてしまったのかもしれない。
「エ、エリシュカ! お願い、魔法でアレを撃ち落として!」
サシャが本来の目的である小奈落を目指して駆け出しながらも、必死に頭を回転させて叫んだ。何も言わず伴走してくれているヴィオラの斬撃なら上空の飛行蟲も撃ち落とせるだろうけども、次々と飛び立っていく飛行蟲の数が数だ。
あと少しで辿り着けるとはいえ、何が出てくるのか分からないのが今の小奈落。また<罪深き黒>が出てきた時のことを思えば、出来ればヴィオラは温存しておきたい。そこに電光のごとく閃いたのが、先ほどチラリと見かけたエリシュカの存在。
しかも向き不向きでいえば、ヴィオラよりよほど広域殲滅向きなのがエリシュカの魔法なのだ。咄嗟にそこまで閃いて叫んだサシャの声は、エリシュカの元へ無事に届いたようで――
「むむむ、無理を言うなサシャ君! 精霊はみな逃げてしまっているのだぞ! いったいどうしろと――おおおっ天啓が下りてきた! なるほど、そうすれば!」
サシャたちが鎮火しつつある蒼焔から飛び出し、残った飛行蟲の大群に怒涛の突撃をかけた、その時。
「要は精霊にも新世代の神々にも頼らなければいいのだろう! そんな魔法は生憎ひとつしか知らないが、ここに
息つく間もないほどの高速戦闘、サシャが振るう双剣で再び派手に燃え上がり始めた周囲。その蒼焔の向こうから、そんなエリシュカの捨て鉢な叫び声が聞こえた。
「いいか、絶対に逃げろよ! 行くからな――」
なんだか不穏な響きを含ませつつ、激戦の叫喚を抜けてエリシュカの声は朗々と続く。
「混沌の王よ! 万物のすべての父にして白痴の黒影よ! 闇に囁き忘却に憤るものよ――」
「ま、まさかエリシュカさま、なんてモノをっ! いけませんサシャさまこの場から逃げてっ!」
悲鳴を上げたのはサシャ同様、言葉を発する暇もないほどにめざましく戦っていたヴィオラだ。その一瞬の隙に怒り狂う飛行蟲が前腕の鎌を振り下ろしてくるが、イグナーツの神盾がギリギリでそれを受け止め、何事かとヴィオラに一瞬の視線で問いただす。
「エリシュカさまのあれは禁呪! かつてカラミタ禍の折にローベルト=シェダさまが一度だけ成功させた、混沌と創造の大神を呼びだす極めて危険な――」
「――盲目にして白痴の王よ、我等が父よ! 御身の子らが願う、今こそ超越せよ! 君臨せよ! その飢えと怒りと慈悲を力とし、太古より続く戒めを糧となせ!」
ヴィオラが口早に説明する間にも、エリシュカの独特な抑揚をつけた詠唱はうねるように盛り上がっていく。
「ヴィオラ姫! エリシュカ殿ならきっと大丈夫、仲間を信じるのだ! それより今は!」
「うおおおおおお!」
「サシャさまっ!」
ヴィオラとイグナーツが立ち止まった僅かの間にも、サシャは勇猛果敢に小奈落との距離を縮めていて。
「喰らえええええ!」
サシャが跳躍し、ありったけの青の力を小奈落に叩きつけるのと、
「今こそ降臨せよッ! 禁呪、
エリシュカの詠唱が完成するのは、同時のことだった。
「きゃああああああ!」
「ぬううううううう!」
「うわああああああああ!」
凄まじいばかりの衝撃波がヴィオラとイグナーツを吹き飛ばし、少し離れたところではエリシュカのものらしき悲鳴も上がっている。
視界は暴れ狂う極白に覆い尽くされ、何度も地面に叩きつけられたヴィオラとイグナーツがかろうじて自分の体を守り、ようやく止まった時。なりふり構わず顔を上げ、爆心地である小奈落の方向を見遣った二人が同時に口を開いた。
「成功だ!」
「失敗です! なんてこと!」
イグナーツが言うのは、小奈落があったと思しき場所を、未だ猛威を振るい続ける蒼焔ごしに垣間見てのこと。そこには忌まわしき小奈落の影はなく、双剣を手に一人立つサシャの姿だけがあったのだ。
「さすがは使徒殿だ! 見事小奈落を滅したぞ! ヴィオラ姫、失敗とは何のことだ!?」
「あれを」
端的に答えたヴィオラの視線を辿り、イグナーツが見上げた先には。
爆風で空高く巻き上げられた飛行蟲の群れが、尚も懸命に羽ばたいていたのだった。
つまりエリシュカの魔法は、失敗もしくは不発。
飛び立った飛行蟲の群れは上空高く吹き飛ばされただけで健在。
いくらエリシュカが、実力確かな魔法使いだったとはいえ。そしていくら
サシャの攻撃の激甚ともいえる余波の中、下準備もなしに即興で禁呪を放つのはさすがに無理があったということなのだろう。
「く、次なる難題はアレか! だが、ああも空高く飛ばれては尚のこと打つ手が――」
彼らが第一の目的としていた、奈落の先兵の流出元はとりあえず潰せた。
次なる彼らの仕事は、溢れ出た先兵が他に被害を及ぼす前に少しでも殲滅すること。
「あれではわたくしの斬撃も届きませんっ! どうしましょう、あれだけの数が無防備なザヴジェルの街を襲っ…………」
悲鳴にも似たヴィオラの切実な声が、そこでふつりと途切れた。
飛行蟲らが乱気流から逃れつつあるその背後、早くも夕暮れに染まりつつある空が唐突にぐにゃりと歪んだからだ。
そして姿を現した巨大な暗黒の渦。
それは泡立ちながらもみるみるうちに空の四分の一にまで広がって、その中では形のない何かが踊り狂っているようだ。
ヴィオラにもイグナーツにも分かる、それが途方もなく危険なものだと。
それは、どんな生物でもその根源で危険を察知する、抗いようのない何かだった。
けれども渦の主はそれらではない。踊り狂う無形の暗黒を無造作に押しのけ、悠然とこの世界に近づいてくるものがある。
「……な、何ですかあれは」
「……何かが来るぞ。何か、とてつもないものが」
身じろぎすらできず、異変に視線を釘付けされたまま呟くように言葉を落とすヴィオラとイグナーツ。
まるで世界に存在するすべての物が意思を持ち、こぞって自分たちとその存在とを交互に指さしているような、そんな底知れない不安感がある。
それはけして尋常なものではない。
時間と共にその不安感はどんどん膨れ上がり、二人の全身には既にじっとりと脂汗が滲んでいる。
「ま、ま、まさか。エリシュカさまの禁呪は――」
「間違いない、あれは太古の大神ケイオス――」
際限なく膨張する不安感がいつしか恐怖へと変わり、遂に耐え切れずに二人が幼子のように泣き喚きたくなった時。
夕焼け空に広がった狂気の渦の奥、遥か幽玄の彼方から、正気を捻じ伏せる程に異質な声が何重にも重なって降り注いできた。
『『『よや よや 新しき雑じり子よや』』』
それは紛れもなく、エリシュカが禁呪で降臨を促した最古の大神、混沌と創造の神ケイオスの声だった。
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