79話 霊峰の災厄(中)

「なっ!」

「だがそれは!」

「まあ、話を聞いてくれ」


 シルヴィエが言うには、この転移スフィアの先、<偽りの迷宮>内部がどうなっているかは嫌な予感しかないし、考えたくもない。どれだけの数の死蟲がひしめいているか、この先どれだけの数がこの転移スフィアから出てこようとしているか、分かったものではない、と。


 が、一歩引いて落ち着いて考えてみれば、その<偽りの迷宮>内部とこの世界を繋いでいるのは眼前の転移スフィアだけなのだ。そのスフィアを破壊すれば、奈落の手に落ちた<偽りの迷宮>をこの世界から切り離してしまえば、それで先兵の流入は止められるのではないか。


「な、なるほど。さすがシルヴィエ」

「話は最後まで聞けサシャ。もしそうして転移スフィアを破壊することで、奈落の手に落ちたラビリンスを確実にこの世界から切り離せるのであれば」


 そうなれば心置きなく他のラビリンスの救援に行けるし、何ならそれらの入口にある転移スフィアも全て壊して回ればいい。そうすれば、この霊峰チェカルからザヴジェル領内に先兵が溢れ出す事態は確実に止められる――


「――もちろん賭けではあるし、相応の覚悟が必要だ。入口のスフィアを破壊するということは、将来的に二度とそのラビリンスを利用することができなくなってしまう、そういうことでもあるのだからな。貴重なラビリンス資源を永遠に放棄することになるし、それで生計を立てている人々も困ったことになる」

「……いえ、やりましょう。悩んでいる時間も惜しいですし、現状では間違いなくそれが最善です。経済的な損失よりも、今ザヴジェルに暮らす民の命と安全を。将来的なことに関しては、いざとなったらわたくしが責めを負います。これでもこのザヴジェル独立領の、継承順位第三位を持っている身ですから」

「ふむ。その即断即決、さすがは武のザヴジェル本家の血筋だな。いや、ヴィオラだけに責任を負わせるつもりはないぞ。やるとなったら一蓮托生だ」


 シルヴィエの言葉に、サシャが、イグナーツが、そしてエリシュカまでもが深々と頷く。真っ先に口を開いたのはエリシュカだ。


「ラビリンス内部にある貴重な霊草類は実に、実に惜しいが、ザヴジェルに奈落の先兵を入れる訳にはいかないだろう! 霊草類は名残り惜しいが、ザヴジェルの防衛を優先するというその判断を私は支持するぞ!」

「うむ、それしかないだろうな」

「ヴィオラだけに責任を負わせるなんてしないよ! みんなでやろう!」

「皆さま……」


 ヴィオラがその金に近い琥珀色の瞳を大きく見開いて、震える手で胸を押さえた。全員の心がひとつになった瞬間である。


「よし! じゃあイグナーツさん、そのぐるぐる巻きを外しちゃって! 一気に片を付けよう!」


 サシャの言葉に、全員がスフィアに向けてそれぞれの武器を一斉に構えた。


「ならば行くぞ。五、四、三――」


 イグナーツが秒読みを始める。

 前置きは不要。一刻でも早くこの<偽りの迷宮>にカタをつけ、他のラビリンスに駆けつけたい気持ちは皆同じなのだ。


 半身で腰を落とし、緑白光に煌めく神剣を脇構えに引き絞るヴィオラ。


 そのしなやかな馬体の上で、青光に包まれた愛槍を油断なく構えるシルヴィエ。


 エリシュカの周りには人の目に見えない精霊が集いはじめ、サシャは【ゾーン】を展開した上で溢れんばかりの青の力を全身に行き巡らせている。


「――今だッ!」

「やっぱり出てきた! うおおおお!」

「はああ!」

「やああっ!」

「ヒャッハー!」


 イグナーツの灰白色の神盾が解除されると同時に、空間が破裂したかのように無数の死蟲が飛び出してくる。それに即座に迎え撃つ緑白と青の閃光。一拍遅れて氷塊の雨と、イグナーツの剛剣が死蟲の奔流を的確に削っていく。


「斬撃、行きますっ! ――煌めく翠の女王よ、平等なる死をその糧とせよ! デスサイズTulzschaッ!」


 至近距離から放たれたヴィオラの死の鎌が、氾濫する死蟲の大波の中へ唸りを上げて吸い込まれ、その先にあるスフィアへと一直線に――




「……えっ!?」




 ――緑白の死の鎌はしかし、今や暗黒の瘴気の渦へと変わり果てた転移スフィアをすり抜けて飛び去った。


 その軌道上にいた、絡み合う無数の死蟲は刹那に分断されて崩れ落ちていく。

 が、肝心のスフィアだけは何事もなかったかのように、そのまま死蟲を吐き出し続けているのだ。


「どういうことだ!?」

「わたしにも分かりませんっ! 何の手応えもなく、まるで霞を斬ったかのように――」

「いかん、出てくる死蟲が一気に増えたぞ!」


 イグナーツの叫びにシルヴィエとヴィオラが慌てて振り向けば、それまでに倍する量の死蟲がスフィアの暗黒の渦からなだれ出てきている。


「くっ! もしやあのスフィアは実体のない瘴気だけなのかもしれんな!」

「なんてこと! 死蟲を産み出す実体なき暗黒なんて! それではまるで小さな奈落ではありませんか!」


 必死に死蟲迎撃を再開する二人。

 今やスフィアの石室は死蟲に埋め尽くされ、八面六臂の奮闘をする彼らはしかし、出入り口の扉を背中に徐々に追い詰められている。


 近づく死蟲をサシャが片端から蒼の焔で燃やし尽くしているからいいものの、そうでなければこの石室自体が死蟲とその残骸で埋め尽くされてしまうだろう。


 想定以上の先兵の勢い、想定外のスフィアの変化。


 一番の問題はヴィオラの言のとおり、まるで<小さな奈落>と化したかのようなスフィアだ。全てを糧とする古の破壊神の斬撃も素通りするとなると、もはやそれを破壊する手立ては――



「わははは! 私に任せろ! 唸れ精霊、チビ奈落の背筋ごと凍らせてやるのだ!」



 エリシュカが高笑いと共に両手を広げ、とおりゃっ!と前に突き出した。

 そう、相手が霞のような掴みどころのないものでも、古代魔法ならば確かに可能性はある。古代魔法の源は四大元素を司る精霊、古の破壊神を源とするヴィオラの斬撃とはまた違った特性を持っているのだ。


 勢いよく突き出したエリシュカの両手から生み出されたのは、螺旋を描く絶対零度の吹雪。凍てつく大蛇のようなうねりが瞬く間に死蟲の大群を氷漬けにし、貪欲にスフィア目がけて突き進んでいく。


「――やったか!?」


 だが、エリシュカ渾身のその一撃も、スフィアであった暗黒の瘴気を素通りしていった。背後で天井近くまでぎっしりと絡み合った死蟲群がそのまま凍りついているが、それだけだ。


「な、なんだと――」

「じゃあ次は任せて!」


 間髪を入れずに飛び出したのは、まばゆいほどに双剣を青く輝かせたサシャだ。

 ヴィオラの斬撃で切り裂かれ、エリシュカの吹雪で凍りついた死蟲の大群の上を身軽に走り抜けていく。


 エリシュカの攻撃でさらに出現量が増えた死蟲を片端から両手の双剣で斬り飛ばし、蒼く燃え上がらせ、くぐり抜け、止められるものなどないかの如きその突撃。先ほど進化した【ゾーン】の空間把握能力のお陰で、どんなに密集した敵中でもサシャには全てが“見えて”いるのだ。


 あっという間に暗黒渦巻くスフィアの前までサシャは侵入し、そして。


「やあああああ!」


 裂帛の気合いと共に、青い残像を曳いた双剣が十文字に振り抜かれた。

 同時に爆発したかのような青光が周囲を飲み込む。おびただしい数の死蟲が次々に蒼い焔を上げて連鎖的に燃え上がりはじめ、石室の全てが青一色に染まって――














「よしっ!」


 視界が戻った一同の前にあったのは、全てが跡形もなく燃え尽きてガランとした石室と、背中に交差させた鞘に双剣をパチン、と戻したサシャの姿だった。


「うんうん、後先を考えず、全力で燃やせば綺麗になるもんだねえ」

「サ、サシャ! 今言うことはそれか!」

「サシャさま……」

「奈落の存在は許さぬという、天空神クラールの怒りを垣間見た気がする」

「目がああ、目があああああ」


 仲間の元に戻り、ちょっと派手だったねえ、と笑いながら全員に癒しをかけていくサシャ。幸いなことに、戦闘時間自体も短かったこともあって大きな怪我を負った者はいなかったようだ。


「でもさ、あの蒼い焔が熱くなくて良かったよね。そうじゃなかったら全員丸焼けだったかも」

「……私は今、オルガがこの場にいてくれたら、と心から願っているぞ」

「サシャ君! 次からはやる前に言ってくれたまえ! 目が焼き切れたかと思ったぞ!」


 猛然と抗議するエリシュカに、ごめんごめん、と謝るサシャ。自分でもあそこまでになるとは思っていなかったのだ。そこにヴィオラが、心配そうにサシャの様子を見つめながら声をかけてきた。


「サシャさま、あの、あれだけの神力を一時に使ってしまって、お体は大丈夫なのですか?」

「うん、大丈夫みたい。ありがとヴィオラ。さすがに連発は出来ないけど、<神罰の迷宮>のコアから力を譲ってもらって、その辺りの自由度?もかなり上がった気がする」

「確かに神罰という響きに相応しい光景であったな。……それはそうと、さすがにもう先兵が出てくることはないと思うのだが」


 イグナーツの言葉に全員がハッと石室を見回した。


 そこにはもはや何もなく、石床の上にうっすらと灰が残っているだけだ。先ほどの激戦が嘘のように物音ひとつしない。強いて挙げれば、春の薫風のような爽やかな香りが仄かに漂っている程度か。


 かつての転移スフィアであった暗黒の渦などかけらもないし、次なる死蟲が出現する気配もない。奈落の手に落ちたであろう<偽りの迷宮>との接点は、跡形もなく消し去れたとみてほぼ間違いないだろう。


 で、あるならば。


 次に全員の頭に浮かんだのは、あの死蟲の奔流、それが他のラビリンスでも発生している光景だ。数匹程度の死蟲なら、居合わせた採掘者で抑えきれるかもしれないが――


「行こう。エリシュカのリストによると次は確か、<湖底の迷宮>だったな」

「あと四カ所! それを急いでまわって、念のためにさっきの<神罰の迷宮>にも行かなきゃ」

「はい、急ぎましょう!」

「待て、ここはこれで放置していくのか? ほぼ問題ないとは思うが、万が一という可能性もある。せめて要請した増援が来るまで、誰かが残って様子を見た方がいいのではないか?」

「なら私が残るぞ!」

「……エリシュカ?」


 シルヴィエを始め全員が一斉にエリシュカを振り返れば、彼女は床にしゃがみ込み、そこに残った微かな灰を指に掬い取って満面の笑みを浮かべていた。


「本当はザヴジェルの危機に全力を尽くすべきなのだがな! 本当にそうするべきだし本心からそうしたいのだが、ちょっとこの灰が凄いのだ。なんだかいい匂いがするし、指に取っただけで古代魔法が発動しそうなほど精霊が集まってくる気がするのだ。きっとさっきのサシャ君の聖光が焼き付いているというか結晶化しているというかこれを集めて研究すれば間違いなくもの凄いことに――」


 目をキラキラと輝かせて一気にまくし立て始めたエリシュカの熱弁を、ズバリと切って止めたのはイグナーツだった。


「――ならばこの場は任せる。増援が来たら我々の後を追ってくるのだぞ」

「もちろんだイグナーツ殿! この灰を集め終えたらちゃんと後を追うとも!」

「……まあ、貴女が残っていれば多少の死蟲が出たところで問題はなかろう。だがこの先は既に流出している大量の死蟲と戦うことになる可能性が高い。そうなればエリシュカ殿の古代魔法が必要とされるのだぞ? そこは分かっているな?」

「もちろんだ! この不肖エリシュカ、灰さえ集め終えたら精霊の恵みにかけて最速で馳せ参じるとも!」

「……時間が惜しい。待ち時間の間に、ここのユニオン職員にも委細を説明しておいてくれるか? 我々はこのまま<湖底の迷宮>に急行し、その処理を終えたら速やかに次に向かう。いざ落ち合えなかった場合、我々が辿る順路は分かっているな?」

「そんなこと当たり前ではないか! 誰がそのリストを作ったと思っているのだ。それに――」


 エリシュカはやおら立ち上がり、つかつかと石室の扉に歩み寄っていきなりそれを開いた。




「――これだけの人数が聞き耳を立てているのだ。説明は不要!」




 唐突に開かれた扉の向こうには、ハンターやディガーなどの大勢のラビリンス採掘者が武器を手に待ち構えていた。

 確かについ今まで、死蟲の大群を相手にあれだけの大立ち回りを演じていたのだ。腕に覚えのあるラビリンス採掘者たちが何にも気づかず、何もせずに座しているはずもない。


 一様に目を丸くした彼らを背に、エリシュカは滔々と弁じたてる。


「そして今確認できたところでは、明日の古代魔法の講習会に参加する予定だった知り合いの魔法使いが、あの中に何人かいるようだ! ならば待機時間の間、私は彼らに古代魔法の手ほどきをしよう! なに、最低限の攻撃をするだけならすぐに教えられるぞ。そうすればこの場は彼らに任せ、増援が来るより早く皆の後を追いかけられる――どうだ、私が残るのが一番いいだろう、違うか!」


 胸を張って持論を展開していくエリシュカだが、サシャは隣にいたシルヴィエに小声で囁いた。


「……ねえ、エリシュカが言うことは確かにそのとおりなんだけど、もしかして本音は残って灰を集めたい、そこの気がするんだけど気のせい?」

「……オルガが嘆いていただろう。エリシュカは研究のためなら不思議なくらいに卒なく立ち回る、と」


 だが、エリシュカがまくし立てていることは事実でもある。

 何より、ザヴジェル領内へ直接的に奈落の先兵が出現している今、即席であっても奈落に通用する古代魔法の使い手を増やせるという利点は計り知れないほど大きい。


 そして、エリシュカの向こうの探索者たちも大きくどよめき始めている。


 エリシュカが振り返って、「聞こえていたかと思うが、今、ここで私は数多の死蟲を古代魔法で屠った! 時間は限られているが、特別にその古代魔法の緊急手ほどきをするぞ!」と宣言したからだ。


 魔法使いからすれば、まさに垂涎の提案である。しかも扉一枚の向こうで死蟲が出現したのを肌で感じていた者ばかり。現代魔法の心得がない一般の戦士たちまでが、我も我もとエリシュカに詰め寄りはじめている。現代魔法の適性はなくとも、古代魔法の適性があれば儲けものだからだ。


「……まあ、悪いことではないし時間が惜しい。この場はエリシュカ殿に任せて我々は先を急ごう」


 イグナーツがそう結論を下し、皆が即座に賛同した。本当に時間が惜しいのだ。


「よし、エリシュカここは任せたぞ!」

「エリシュカさま、お願いしますね」

「出来るだけ早く合流してくれ、嫌な予感がするのだ」

「エリシュカ、後でね!」


 それぞれがエリシュカに手短に言葉をかけ、足早に石室を出ていく。

 若干騒々しいところもあるが、みな基本的にエリシュカのことは信じているのだ。きっとすぐに追いついてきてくれる――そんな信頼が出来上がっている。


 そんなエリシュカはエリシュカで、古代魔法の手ほどきを受けたい者はまずそこの床の上の灰を集めるのだ、それが受講料だぞ!などと叫んでいるが、見方を変えれば一人で集めるよりも断然早いし、総合的に考えて一番時間がかからない流れを彼女なりに作り上げているのだろう。


 この緊急時に古代魔法の使い手を増やし、かつ先行組を最短で追いかけることができ……そして何よりエリシュカ本人の目的も完璧に遂行する。魔法使い系トップクラン<幻灯弧>、そのサブマスターにまで昇り詰めるだけの才覚を、惜しむことなく彼女は発揮したのだ。


「次は<湖底の迷宮>だ。頼むから何事もなくいてくれよ」

「その他のラビリンスの状況はどうなのでしょう。情報だけでも仕入れて行った方が」


 エリシュカに後を託し、足早に管理小屋のホールへと戻っていくサシャたち一行。

 けれども、そんな彼らに。


「皆さま、よくぞご無事で!」


 先ほどアロイスと名乗ったユニオンの職員が、血相を変えて。



「大変です! 死蟲が、奈落の先兵が!」



 そう叫びながら駆け寄ってきて――



「この霊峰チェカルのあちこちで出現していると、緊急通達がひっきりなしに! 出現元は皆さまがここの前にいた、<神罰の迷宮>を除いた全ての未踏破ラビリンス! 騎士団の増援は未だ途上、皆さまだけが頼りなのです! どうか、どうか救援に!」


 ひと息でそこまで説明し、縋りつくようにサシャの両手を握ってきたのだ。


「分かった! 端からそのつもりだから!」


 サシャが力強く頷き、仲間たちと刹那の視線を交わして管理小屋の出入り口へと駆け出した。


「あ、それとここのラビリンスはきっともう大丈夫だから! 詳しいことはエリシュカに聞いて!」


 そんな言葉を残し、一行は全力で走り去っていく。


 とにかく急ぎ向かうべきは、残る四箇所の未踏破ラビリンス。

 初めに目指すは<湖底の迷宮>だ。


 エリシュカのリストによると、それはこの霊峰チェカルの尾根をひとつ横切った先にある。




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