74話 ラビリンスの異変(中)

「ひええ……やっぱりこの道は苦手だよ……」


 幅は五メートルばかり、何の支えもなく虚空に浮かぶ一本の道。

 管理小屋の石室からサシャの転移先指定によってあっけなく<神罰の迷宮>の最下層に到達した一行は、全未踏破ラビリンスに共通で存在するという恒例の<深淵に架かる道>を静々と進んでいた。


「サシャ、こういう時は前だけを見るのだ」

「そうは言ってもシルヴィエ、ちゃんと真ん中を歩かないと危ないよ?」


 そう口を尖らせるサシャの艶やかな黒髪は、道の脇から押し寄せてくる生暖かい空気に不気味になぶられ続けている。


 それはどこまでも深く落ち込んでいる深淵の底から、とめどなくゆっくりと吹き上げてくるもの。この深淵はどこに続いていて、この風はどこから吹いてきているのか。妙に湿り気のあるその粘っこい微風が、サシャの背筋に嫌な緊張感を与え続けているのだ。


「ではサシャさま、守護魔獣の門をくぐった後のことをおさらいしませんか? まずはどう転んでもいいように、戦いの準備だけは整えておいて――」


 ヴィオラがその金に近い琥珀色の瞳を若干泳がせつつ、普段より少しだけ固い口調で話しはじめた。やっぱりこの道が苦手なのは自分だけじゃないんだねえ、サシャはそんなことを考えながらも折角の会話に飛びついていく。


「ええと、まずは一気に突入して、召喚される魔獣やら守護魔獣が襲ってくるようだったら迎撃。この間のように動きを止めるようだったら、コアが青の力を譲ってくれるかもしれないから、空の魔鉱石を用意して少しずつ前進」

「それでだいたい合っているな。ただ、気をつけなければいけないのは――」


 満足げに頷いたシルヴィエが、細かい注意点を捕捉しはじめた。


 まず、召喚が予測される魔獣はラプトル――二足歩行の獰猛な巨大トカゲ――もしくはその上位種。サシャたちは<裁きの原野>の階層以外は足を踏み入れることなくここまで来てしまっているが、そもそもこの<神罰の迷宮>は全四十四層、ラプトルを筆頭とした爬虫類型魔獣がひしめく高難度ラビリンスなのだ。


「ラプトル系は足が速いからな。いつぞやの<深緑の迷宮>の時のように迂回して一気にコアを、という訳にはいかないぞ。仮にも竜種の末席にある魔獣だ、気を抜かずに相手をすること」

「了解! 隊列はどうする? そんな相手だったらシルヴィエが前で槍をふるって、イグナーツさんにはそんなシルヴィエの後ろを守ってもらった方がいいかも」


 サシャが来たる戦いをイメージしつつ、全員の顔を見ながら提案する。これで経験豊富な傭兵でもあったのだ。魔獣との戦いに対する嗅覚には磨きぬかれたものがある。


 ちなみに、サシャの癒しの聖光を流し込まれ、聖槍となったシルヴィエの槍だが。


 当初危惧されていた、通常の魔獣相手では攻撃した相手を癒してしまうのでは、という懸念は杞憂だったことが判明している。ファルタへの凱旋道中に行われた試験戦闘では癒すどころか、むしろ謎の切れ味をもって魔獣を片端から串刺しにしてしまったのである。


 その時の戦女神のようなシルヴィエの姿が脳裏に浮かび、あれならばとサシャは今回のシルヴィエ先頭案を推してみたのだが。


「ふむ、サシャとヴィオラで左右を遊撃する形か……。悪くなさそうだが、イグナーツ殿はどうだ?」

「それが良かろう。囲まれた後の継戦能力を考えれば、死角は少ない方が良い」

「わたくしもそれが一番だと思います。そしてエリシュカさまには、サシャさまの側に入っていただいて」

「……左右両側に遠距離戦力を置く、か。良いのではないか?」

「わはは、大船に乗ったつもりで頼ってくれたまえサシャ君!」


 よ、よろしくね、と曖昧に言葉を濁すサシャ。

 エリシュカのことを忘れていたとはとても言い出せない雰囲気である。しかも彼女は魔法使いだ。古代魔法だけを使ってくれれば良いが――


「そ、そうだエリシュカ。新世代の神々の魔法はあんまり使わないでね。身近な人に魔狂いになってほしくないし」

「もちろんだともサシャ君! あんな話を聞いた後で現代魔法なんか使うものか。まあ見ていてくれたまえ、私は水の精霊と相性が良いのだ。それにクランメンバーの間で、サシャ君が近くにいると精霊が張り切るという噂が出てきていてな。今回の遠征はその検証も兼ねているのだ」

「え、何それ。初めて聞いたよ?」

「ほう、それはまた興味深い噂だな。違いがあるのなら確かめなければ」


 エリシュカが口にした噂とは、昨日の午後一杯サシャの前で古代魔法を磨き続けたクランメンバーたちが口々に言っていたものである。


 サシャからしてみれば精霊は共に世界を形作るパートナーのようなイメージを勝手に持っているのだが、向こうも同じように思ってくれているのかもしれない。そんな風に感じるだけなのだが、理論派のシルヴィエは違ったようだ。検証好きの血が騒いだのか、エリシュカと目と目で頷きあっている。


「とと、とりあえずそれは置いておいて。ええと、陣形はそれでいいとして、じゃあ守護魔獣の予測とかはあるの?」

「うむ、それは難しくてな……」


 サシャの咄嗟の話題そらしは、見事にシルヴィエにヒットしたらしい。視線がエリシュカからするりと外れ、サシャの元へと戻ってきた。


「守護魔獣は、だいたいがそのラビリンスの格に応じたものになるのだがな。この<神罰の迷宮>は高過ぎず低過ぎず、やや高めぐらいの位置取りなのだ。つまり結論を言えば、何が出てきてもおかしくない、というところだ」

「そうなんだ?」

「そう。ドラゴンからナイトウォーカーまで、何が出ても」

「うわぁ、ナイトウォーカーか。あれも苦手なんだよねえ」


 ナイトウォーカーとは、万単位の生者の怨念が実体化したといわれる災害級の危険アンデッドだ。その漆黒の腕で触れた相手を片端から呪い殺すという性質を持ち、不死身の復讐者との異名がある厄介な化け物である。


「まあ、またこの間と同じアイランドスライムという可能性もあるがな」

「おお是非ぜひそれがいい! そしたらまた、召喚魔獣は置き去りにしてコアまで走っちゃってもいいし」

「それは召喚される魔獣の配置と数次第だな。ただ、甘い期待はしない方がいいぞ。この間の<密緑の迷宮>のケースは珍しい部類だからな」


 はーい、とサシャが答えようとしたその時。


 暗闇でも昼間のように物が見えるサシャのヴァンパイアの瞳が、妙な事態を捉えた。


「……あれ?」

「どうしたサシャ、何かあったか?」


 何も存在しない虚空に浮かぶ道、その遥か向こう。

 そこに静かにそびえ立つそれは、前回と少し様子が違っていて。






「……ねえ、あの守護魔獣の門、少しだけ開いてない?」






 サシャには見える。

 道の彼方にそびえる、両開きの巨大な門。その精巧な装飾を施された巨大な門扉が、間違いなく開いているのだ。


「なんだと!? 先行者などいるはずがないぞ、あの<裁きの原野>を抜けられる者など」

「そうだサシャ君! <裁きの原野>最多挑戦者の私が断言する、あれを抜けるのは不可能だ!」

「エリシュカさまが言うとすごく説得力が……。でもあそこを抜けるのは、それこそイグナーツさまの神盾でもないと無理ですよね。あの、暗いですし見間違いとかでは」

「でも、実際開いてるよ? たぶん、このくらい」


 両手を広げ、三人が横に並んで通れるぐらいの幅を示すサシャ。

 この場所からだと細い隙間にしか見えないが、門自体が巨大である。前回の記憶を思い起こし、ざっとイメージするとそのぐらいの幅は開いているのだ。


「それは少しではないだろう! ……だがそうなると、本当に先行者が?」

「誰も開けなければ、守護魔獣の門は永遠に閉ざされたままなのですよね……」

「使徒殿、とりあえず私の後ろへ。皆、何が起きても良いように戦闘準備だけは抜かりなきよう」

「はい!」

「応!」


 イグナーツの言葉に気合いの乗った返事が戻り、全員が一斉に武器を抜き放つ。


 緑白光を放つヴィオラのエストック型の神剣レデンヴィートル、青の光をまとったシルヴィエの聖槍とイグナーツ自身の長大な大地神ゼーメの神剣がそれぞれ油断なく掲げられ、一拍遅れてエリシュカの霊木ヴォダでしつらえられた短杖、そしてサシャの双剣が構えられた。



 ――もし先行者でなければ、何が守護魔獣の間に?



 その問いがサシャはもちろん、全員の頭に渦巻いている。

 特にサシャは嫌な予感に加え、妙な切迫感のようなものまで感じ始めている。


「……急いだ方が、いいかもしれない」


 サシャのその呟きに、全員が即座に足を早めた。

 誰一人質問もせず、申し合わせたように足音を忍ばせ、息をも殺して。


 底知れない虚空に浮かぶ一本の道の上を、一行はじわじわと守護魔獣の間に近づいていく。



 ◇



「――っ!」

「今のは何だ!?」

「何かが門の中へ入っていったように見えたぞ!」


 守護魔獣の門まで、叫べば声が届くぐらいの距離まで一行がじわじわと接近した、その時に。


「ひとつだけではない! ほらまたもうひとつ!」

「何か黒い影のようなモノが! 虚空から道の上に!」


 それまで静止画のようにそびえ立っていた半開きの門、そこに動きが生じた。

 足を止めて一斉に警戒の囁きを交わすシルヴィエやヴィオラたちに、紫水晶の瞳を大きく見開いたサシャが正解を告げた。





「――――飛行蟲」





「なっ! 何だって!?」

「なぜ奈落の先兵がここに!?」


 弾かれたように振り向いたシルヴィエやヴィオラに、サシャは見間違えではないと頷いた。


 なんで奈落の先兵がここにいるかは分からない。

 旧キリアーン領の奈落はどこへともなく消えたのではなかったか。


 けれどもサシャのヴァンパイアの瞳にははっきりと見えた。両腕に禍々しい鎌を持つ、巨大な空飛ぶ蟻のような化け物が。


 それは間違いようもなく、つい先日南領境で散々相手をした飛行蟲だった。


 差し渡し十メートルはあるだろうドラゴンのような皮翼を羽ばたかせ、道の下に広がる虚空からふわりと守護魔獣の門の前に飛び上がってきて――



「間違いない、今のは飛行蟲だよ。なんだか嫌な予感がする」



 ――そして素早く皮翼を畳んで、門の隙間から迷いもなく中へと侵入していったのだ。


「どうする、使徒殿?」

「行こう。早くしないと取り返しのつかないことになる気がする」

「なら行くぞ! 私に続け、さっき話していた隊列だ!」


 シルヴィエがしなやかな四本の馬脚で道を蹴り、馬蹄の音も勇ましく急加速する。

 サシャが即座に追随し、ヴィオラ、エリシュカ、イグナーツもそれに続いて一斉に走りはじめた。


「私にも見えた! 飛行蟲は道下の虚空から飛んできているぞ!」

「私には見えない! 皆、道の左右からの襲撃に注意! 使徒殿、もう少し下がってくれ!」

「ご、ごめん!」


 イグナーツの指摘にサシャは慌てて足を緩め、隊形を確認した。

 シルヴィエを挟んだ向こう側にヴィオラが軽やかに走っており、エリシュカはサシャの後ろを少し遅れてついてきている。最後尾のイグナーツとほぼ並ぶ形だ。


「どうするサシャ、このまま一気に守護魔獣の間に突っ込むか!?」

「――そうしよう! みんな、何が起きているか分からないから気をつけて!」

「よし、奈落は世界の敵だ! ここで先兵が何をしてようと、良からぬことに決まっている! 皆、気合を入れろ! 先兵を殲滅するぞ!」

「はいっ! ここにいるのは幸いにも先兵と戦える者ばかり、これも神の御導きですっ!」

「わははは、私の古代魔法で一網打尽にしてやるぞ!」

「いざ、参る!」


 一気に戦闘モードに切り替わった五人が、半開きの門までの残りを全速力で駆け抜ける。幸い、道下の虚空から現れた飛行蟲は先ほどものでまた途絶えているようだ。守護魔獣の門の、中途半端に押し開かれたその奥で何が起きているのか。


「――中から戦闘音が聞こえる! 何かが戦ってるよ!」

「迷うなサシャ! この先における我らの敵は常に奈落だ! 攻撃対象は飛行蟲ないし他の先兵! その殲滅を最優先とするぞ!」

「シルヴィエ殿の言うとおりだ! もし先兵と戦っているものがいた場合、それは暫定的に友軍と見做せばよい!」

「さあ、突入するぞ――」


 それぞれの武器を振りかざした五人が、一団となって半開きの門へと殺到する。

 一瞬のうちに門をくぐり抜け、内部の円形闘技場コロセウムに飛び込んだ彼らの前に広がっていたのは――――







 おそらくは守護魔獣であろう獰猛な暴竜ズメイと、数千匹は召喚されているであろうカイザーラプトルが。







 こちらも数百はいる禍々しい飛行蟲と、血みどろの激戦を繰り広げている光景だった。





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