第三部 胎動する神々とヴラヌスの戦士
61話 異変
翌朝。
……とは言っても最近はまた更に日の出が遅れており、未だ外は薄暗い状態なのだが。
昨夜は結局、他の面々との話し合いに戻らなかったサシャは――正確には、顔を出した時にはもう終わっていた――、朝一番でヴィオラやシルヴィエの祝福を受けていた。
「良かったなサシャ。まあそのなんだ、姉の座はダーシャ殿に譲るが、これからも友人として頼むぞ」
ふんだんに魔石灯が点された兵士食堂で、朝からさすがの健啖ぶりを見せるシルヴィエがそう微笑みかけてきたかと思えば。
「うふふ、本当にここ何年もなかったほどの慶事ですわね! サシャさまがようやく家族の元に帰れたのはもちろん、ザヴジェルとしても新たな天人族の方をお迎えできたんですもの! しかも流石は天人族だという素晴らしいお力の持ち主! わたくし、昨夜あれから通信魔法で実家に連絡したのです。向こうも大変な喜びようで――」
「あーヴィオラ、その天人族っていうのなんだけど」
側仕えのラダを従えて品良く朝食を口に運びつつ、大・興・奮といった具合でまくし立てるヴィオラ。そのヴィオラから零れた思わぬひと言に、サシャは及び腰で口を濁らせた。
サシャがダーシャの弟だというのはいいとして、それで即座にサシャが天人族となるのはどうなのだろう。世間向けの単なる欺瞞だと天人族の真実を聞いてはいたが、今後サシャの背中に翼が生える可能性は全くないのだ。
「ふふっ、そのあたりはフーゴさまから聞いていますわ。ダーシャさまも幼き頃は翼がなかったといいますし、サシャさまはあのシェダの<ケイオスの巫女>のご子息でもあるのですもの。
「フ、フーゴさんがそんなことを?」
「ええ! ヤーヒムさまやダーシャさまのご家族というだけでもすごいのに、ザヴジェルと縁の深いシェダの直系でもあるなんて! まさに英雄天人族とザヴジェルをより結びつけてくれる奇跡の存在ではありませんか! ああ、運命の方というクラールの神託のなんと的確なことか!」
「えええ…………」
なんだかヴィオラがあらぬ方向に暴走していってしまっているが、ひょっとすると、世間一般の反応はそういうものなのかもしれない。サシャはあたかも背後から土砂崩れが襲ってくるような、未知の恐ろしさが背筋を這い上がってくるのを感じた。
「使徒殿、私は深く納得した。それだけ神に愛されているのは、やはり故あってのことだったのか、と」
「ええ、それは違――」
「サシャ、あたいはどうすりゃいいんだい? 天人族の御曹司を<幻灯弧>なんて一介のハンタークランで雇ってていいもんかね?」
「ちょ、オルガそこは見捨てないで……」
同席しているイグナーツもオルガも口々にそんなことを言い出し、なんだかもうてんやわんやである。
イグナーツはサシャがクラールに愛されているというが、昨夜の話ではそのクラールこそがサシャを神隠しで家族から引き離した張本人だというし、姉ダーシャが悪感情を隠していないどころか、彼らの父親に至っては老いたクラールの後釜を狙っていたという。
クラールが理解しがたい神の
そしてオルガからのクラン解任打診。
このところ軍の宿舎にいるのですっかり忘れていたが、考えてみればサシャは未だに無収入である。へそくり魔鉱石を司令官のヘルベルトに金貨で買い取ってはもらったが、それがなくなってしまった後の事を考えれば、<幻灯弧>の顧問という好待遇の職を逃す訳にはいかない。
あれやこれやが一斉にサシャに押し寄せ、もうどうしていいやら、というのが正直なところだ。そんな時は。
「シ、シルヴィエ…………」
困った時の同志シルヴィエ頼り、サシャは救いを求める眼差しを心の友に向けた。
「ふむ。サシャが件の赤子だったことは、昨夜の我々の話し合いが終わった後すぐに私からヘルベルト殿たちに伝えておいてあるからな。沸き立つような大騒ぎになっていたぞ。お前のことだ、自分の口からは言いづらかろう。そこの心配は無用だ」
「ちょ、シルヴィエ何してくれてんのさ!?」
「む?」
「む、じゃないよもう! こっそり伝えておいてくれたことは確かにありがたいけどさあ! 何て言うの、こう、同志ならではのほっこりとした心の癒しみたいのを――」
もはや逆ギレである。
サシャはぎゃあぎゃあと普段どおりといえば普段どおりの猛抗議をシルヴィエにぶつけ、そこでやっと少し落ち着いた気分になって……
「皆さま、ここにいらっしゃいましたか! 奈落に不自然な動きあり、大至急作戦会議室へお越しくださいっ!」
サシャたちが座る兵士食堂の一角に、世話役の上級兵士が駆け込んできた。
その大声に食堂は一気に色めき立ち、即座に立ち上がって駆け出す者、残りの食事を大急ぎでかき込む者、全てが騒然と動き始めた。
「<神槍>殿、<月姫>様は既に偵察に出られました! ただし状況偵察のみとし、すぐに作戦会議室に合流するとのことです!」
きびきびと情報を伝達する世話役の兵士に、いの一番に対応を返したのはオルガだ。
「分かったすぐ行くよ。ほらサシャ、あんたが何にも変わってないのは分かったから、馬鹿みたいに口開けてるんじゃないよ。ほら」
「もあ!? もっともるがあいする――」
「口の中に物がある時は喋るんじゃない。さあ行くよ」
食べかけのサンドイッチを開いていた口に丸ごと突っ込まれたサシャが、涙目になりながらも立ち上がる。他の面々も手早く食事を片付け、次々に動き出していく。奈落の新たな動き、それはここにいる者全員のみならずザヴジェル全土における、緊急喫緊の大問題なのだ。
◇
「おお、これは皆さん方! どうぞ席に――」
「ここは軍議の場、気遣いは無用ですわ。どうぞお話をお続けになって」
サシャたちが会議室に入るなり立ち上がって出迎えようとした騎士団の重鎮たちを、ヴィオラが領主の一族らしき毅然とした態度で押し止めた。軽い目礼と共に銘々がばらばらと空席に向かう中、緊迫した沈黙がそれぞれの肌を刺激する。
心なしかサシャに注目が集まっているようだが、それはおそらくは天人族絡みのこと。ただしそれを今口に出すような者はこの場にはおらず、皆が我に返ったように厳しい表情に戻っていく。
「……それでいったい何があったのですか?」
着席したヴィオラが、中断させてしまった議論に水を向けた。
それに答えるのはザヴジェル騎士団の南方駐留部隊最高責任者、ヘルベルトだ。その彫りの深い実直な顔に浮かべた憂慮の色を隠さず、彼は淡々と状況を説明しはじめた。
「実は、夜の間に奈落が不可解な動きを見せていたことが判明しまして――」
最初に異変に気づいたのは、物見櫓で夜明け前の歩哨に立っていた当番兵らしい。
長い夜がようやく終わり、東の空が白みはじめ。
連日おびただしい死蟲が押し寄せてきた旧キリアーノ領側の荒野の輪郭が、徐々に曙光に浮かび上がりはじめて――
「――あれだけたなびいていた瘴気が、きれいさっぱり消え失せているのです。瘴気は奈落の暗黒の前腕、濃くなることはあっても消えた例など」
「まさか、昨日のわたくしたちの勝利で実は奈落を討ち果たした、なんてことはないですわよね」
「ええ、あれは奈落から湧き出してきた先兵を撃退しただけ、奈落そのものには未だ指一本触れられてないのです。様々な可能性が想定されますが、まず悪質な事態として考えられるものは」
……この場を攻め難しとみた奈落が、手薄な場所に移動してしまった可能性です。
ヘルベルトはそう言って重々しくかぶりを振った。
もしそれが事実だとすると、非常に厄介なこととなる。誰もが意識から外していた、寝耳に水の手痛い事態だ。過去にそんな例など一度もなかったが故に、眼前に押し寄せる死蟲の大攻勢をとにかく防がなくてはならなかったが故に、皆がその可能性を頭の片隅に追いやっていたのだ。
結果として。
官民問わずに多数の魔法使いを動員した境壁の大増築。予算に糸目をつけずに大型魔獣の魔鉱石を投入して構築した多重結界。続々と送り込まれてくる数多の増援――いざ奈落を水際で食い止めんと、この地にはザヴジェルの総力が注ぎ込まれているといっても過言ではない。
それが、攻め難しと判断されて、呆気なく攻め口を変えられてしまったら。
人は移動できても、境壁や結界は動かせない。次の攻め口にも、同様のものを迅速に構築する必要がある。いくら豊かなザヴジェルとはいえ、はたして何度それに耐えられるものか。
過去に奈落が移動したなど例がなかったとはいえ、先兵を大量に屠った昨日の大勝利も史上初めてのこと。その勝利を掴むため、この地に総力を結集したのが間違いだとは言えない。言えないのだが、そうも鮮やかに打つ手を変えてくる相手となると、この先の見通しが非常に厳しいものとなってしまうのだ。
「今、動かせる偵察部隊の全てとフーゴ殿率いる青光傭兵団、そして月姫様が確認に動いています。青光傭兵団は全員が機動力に並ぶものなしのケンタウロスですし、月姫様は言わずと知れた天空の支配者、空から広域を偵察するにはもってこいの逸材。間もなく続報が入ってくるでしょう」
「……何か、わたくしたちに出来ることはありますか?」
ヴィオラの問いに、ヘルベルトはもどかしそうに首を振った。
「いえ、今のところは。痛手を受けた奈落が仕切り直しをしているだけかもしれませんし、もし移動をしてしまったとしても、その移動先ですら分かっていないのです。御呼び立てした身で恐れ入りますが、我々同様、何が判明してもすぐに対処ができるようにこの場所で待機を――」
「お話中失礼致します! 南方より天人族月姫様と思われる飛影を確認、間もなく帰還されると思われます!」
作戦会議室に駆け込んできた上級兵が口早に叫んだのは、ヘルベルトらがじりじりと待ち構えていた報せだ。場の緊張は一気に高まり、そして。
全員が一斉に眺めたサシャの席の後ろにある窓、その彼方にたしかに飛行する何かの姿があった。それは早朝の空に漆黒の翼を大きく羽ばたかせ、みるみる接近してくる。
サシャにも見覚えのあるその姿は、間違いなく昨夜遅くまで話し合っていたダーシャだ。そもそも羽ばたく翼の中央に少女の姿がある時点で、彼女以外の可能性はなくなる訳なのだが。
思わず立ち上がって窓に駆け寄ったサシャが、その窓を大きく押し開けて「おおーい!」と叫ぶ。早朝の引き締まった空気がさあっと流れ込んでくる中、一同の視線の先にある彼女は確かにその進路を変えた。
サシャが手を振るこちらへとまっすぐ向きを変え、ぐんぐんと近づいてくる。そして直前で翼を大きく広げて急制動をかけ――
「戻ったわ!」
「おわっ」
――翼を畳んで矢のように窓をくぐり抜け、サシャを巻き込むように華麗に着地した。
「おはようサシャ、あれからよく眠れた? 貴方が手を振っているのが見えたから、お姉ちゃん思わずまっすぐ来ちゃったわ。でも、普段は窓から出入りするような行儀の悪いことはしないんだからね?」
サシャの首に両腕を絡め、そこを支点に空中でくるりと一回転して床に降り立ったダーシャ。その小柄な天人族の少女が、動転するサシャを見上げながら楽しそうに微笑んだ。
が、すぐにその微笑みを英雄然とした真面目な表情に置き換え、呆然と見守るお歴々に向かって一礼をする。
「……失礼したわ。報告、聞く?」
「…………お願いします」
これが普段ならば、微笑ましいものを見たとしてお歴々の顔には笑みが浮かんでいたかもしれない。
いくら百年以上を生きる英雄とはいえ、見た目は七歳か八歳ぐらいの少女なのだ。それがついに巡り合えた肉親に英雄という重圧を忘れ、外見相応の振舞いが顔を覗かせた――月姫もやはり一人の人間なのか、と皆が内心で親しみを覚えるなり祝福なりをするような場面だ。
が、事は予想外の動きがあった奈落についてである。
ザヴジェルの精神的支柱ともいえる稀少な天人族、その神隠しにあった赤子が成長して無事に戻ってきた慶事とはいえ、まずは奈落の動向が最優先事項。ヘルベルトら南方防衛部隊の首脳陣は固唾を飲んでダーシャを見つめた。
「結論から言うわ。キリアーノ領のかなり奥まで飛んできたのだけれど――」
ごくり、と誰かが生唾を飲み込んだ。
「――キリアーン渓谷に出現したという今回の奈落は、消滅している可能性が高いわ」
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